内 輪 第403回
大野万紀
3月のSFファン交流会は3月16日、みんなで藤子・F・不二雄ミュージアムへ出かけるおでかけ例会となり、オンライン(Zoom)はありませんでした。
なお来月よりTHATTAのSFファン交流会レポートは専用のページに移し、「内輪」とは別ページとする予定です。どうぞよろしくお願いいたします。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします。
直木賞候補となった長編である。著者が子どものころから夢中になったという8ビットパソコン、MSXのプログラミングを巡る青春小説であり、ソ連邦から独立を果たし現在はIT先進国となったエストニアでの、政治に翻弄される若者たちを描いた歴史小説であり、非凡な才を持ちながら有名になることはなくごく普通の人生を歩んだ主人公の歩みを探る伝記小説であり、またこの文章を書いたわたしとは一体誰なのかというミステリでもある。そして個人で扱えるパーソナルなコンピュータが突然出現し、それに魅入られた人々がプログラミング技術にのめり込み、探求し、発見していく、そしてそれが社会を世界を人々を変えていくというサイエンス・フィクションでもあるのだ。
食い入るように読んだ。ぼく自身、そんな一人だったから。この小説の主人公、ラウリ・クースクが生まれたのは1977年。その数年前、ぼくは大学の研究室で初めてワンボードマイコンというものを知った。コンピュータセンターに鎮座まします大型コンピュータではなく、個人が触れて自由に発展させられる小さなボードの上に乗ったコンピュータ。本書で描かれているMSXより遥かに原始的なものだが、それに魅入られたおかげで、ぼくは物理の研究よりコンピュータプログラムの方にのめり込んでいくことになる。
いや、コンピュータおたくじいさんの昔話じゃなくて、小説の方に戻ろう。
本書はジャーナリストであるわたしがエストニア語の通訳と共に、様々な資料や証言からラウリ・クースクの実像を取材しつつその伝記を執筆していくという体裁で、判明した過去の部分と、取材調査している現在の部分が交互に描かれる形式となっている。
ラウリはソ連に併合されていたエストニアの片田舎に生まれ、小さい頃から人になじめず、一人で数字を書くことの好きな孤独な少年だった。それが父が職場から持ち帰った壊れかけた8ビットパソコンを得てプログラミングの才能に目覚める。学校の先生が当時ヤマハがソ連に輸出していたMSXパソコン(КУВТという名で学校教育用に採用されていたYIS
503Ⅲ。宮内さんが実機を入手してツイッターに載せている)を教室に持って来たところ、ラウリはいきなりゲームを作ってみせ、先生を驚かせる。彼は将来情報科学のエリートになると見込んだ先生の後押しもあって、ラウリは10歳でプログラムのコンペティションに応募し、3等に輝く。1等は同じ10歳のロシア人の少年、イヴァンだった。やがて都会の中等学校へ進学し、寮生活を始めたラウリの前にイヴァンが現れる。彼もラウリを慕ってこの中学へ入学したのだ。もう一人、カーチャという女子が加わり、いわばコンピュータおたく3人の蜜月時代が始まる。それは友情というよりほとんど男女を超えた恋愛感情だ。第一部の終わりに向かうこの部分は本当に輝くような若々しい喜びに溢れていて読むのがとても楽しい。
だがその輝きもエストニアの独立、そしてソ連邦の崩壊によって終わりを迎える。ロシア系の学校に通っていた三人も民族と政治の奔流に巻き込まれる。イヴァンはロシア人だし、ラウリもどちらかといえばソ連寄り、カーチャはエストニアのパルチザンにシンパシーを感じている。純粋にプログラムの楽しさを追い求めていればいい時代ではなくなっていた。ぼくなんかはソ連の崩壊、民主化、民族の自由独立といえば単純にいいことのように感じてしまっていたが、当事者にはそんな簡単な話じゃなかったことがよくわかる。今のウクライナとロシアの問題もこのあたりまで遡って考えなければならないのだろう。ソ連のプログラムコンペティションもなくなり、14歳にしてラウリはまた孤独になる。
第二部ではその後のラウリ、もはやあの輝きを失ったラウリをわたしが取材で追っていく。プログラムをやめ、紡績工場の平凡な労働者となったラウリ。子どものころにラウリを苛めていたアーロンとの再会。新たなガールフレンドもできた。そしてラウリに目をかけコンピュータを使わせてくれたライライ教授が彼に会いに来る。彼女はエストニアを将来情報処理の先進国とする夢を語る。だが今のラウリにはそれは遠い夜空の星のようだった。そしてまた哀しい事件があり、それから……。
第三部は現代。ここに来て「わたし」の正体がわかり、ラウリが今何をしているかもわかる。彼はふたたびコンピュータの世界に戻り、歴史に名を残すような人物でこそないが、IT先進国としてのエストニアを引っ張る技術者の一人となっている。中年になった現代のみんなが出会うラストはとても美しい。心に強い余韻の残る物語だった。
アメリカの作家、ジェフリー・フォードの幻想小説を中心とした『言葉人形』に続く日本独自編集の短篇集。SFやミステリ、ホラーなど、よりジャンル寄りの小説を中心とした短編14編が収録されている。
「アイスクリーム帝国」は共感覚をテーマにした作品で、ネビュラ賞ノベレット部門受賞作。生まれつき共感覚をもつ少年が主人公で、彼は音を聞くと色彩が見え、匂いを嗅ぐと音楽が聞こえる。その他にも様々な感覚が同時に派生するのだ。両親はそんな彼を異常だと思い、学校には通わせず勉強も家で勉強させた。彼には音楽の才能があり、ピアノを弾くと様々な色彩が見えるのでそれを絵に描いて作曲するようになった。13歳になってすぐ、親に反抗して「アイスクリーム帝国」というアイスクリーム屋に一人で入る。これまで一度も食べたことのないコーヒー味のアイスクリームを一口食べたとき、それまでの抽象的な色や音の感覚ではなく、一人の少女の姿が眼前に現れたのだ。感覚的ではない、認識的(ノエティック)な共感覚の現れだった。その時はすぐに消えてしまったが、これが幻想ではない、アンナという名の実在する少女との出会いだった。何年か後、彼を理解してくれるセラピストの先生に自分は正常だと告げられ、思い切って彼女を再発見しようと再びアイスクリーム帝国に入る。コーヒー味のアイスを食べると今度もまた彼女の姿が見えた。彼女の持っているスケッチブックからアンナという名前だとわかった。その後も彼は何度も彼女を見るようになる。音楽大学に進んだ彼が「きみが見える」とアンナにささやきかけたとき、「わたしにもあなたが見えるわ」という言葉が返ってきた……。共感覚は現実に存在するものだが、ここに至ってそれがファンタジーやSFと接続する。共感覚が結びつけた少年と少女は、しかしボーイ・ミーツ・ガールの甘酸っぱいハッピーエンドではなく、芸術家同士の自我のぶつかりあい、そしてある種の悲劇(かどうかは本人しだいだが)へと転じていくのだ。
「マルシュージアンのゾンビ」もSFでありホラーでもある作品。文学部教授の主人公は同じ通りに引っ越してきたマルシュージアンという変わった老人と知り合いになる。マルシュージアンは一人暮らしの行動心理学者で、かつて政府の重要な機密事項と関わっていたらしい。人付き合いの悪い男だが、主人公の娘のライダとは心が通じ合うようで、ライダに「マルシュージアンのゾンビ」という自筆の怪しげな肖像画をプレゼントする。彼は自宅で主人公に少しずつ過去を明らかにしていく。人間の意識を強制的にコントロールして意のままに操るような研究をしていたらしい。被験者はまさにゾンビとなるのだ。だがマルシュージアンは自分が死にかけていることを打ち明ける。そしてこの家に処分せずに生かしている一人のゾンビがおり、彼を主人公に託したいと言うのだ。やがてマルシュージアンは心臓発作で亡くなり、その翌日、主人公の家の裏口をノックする者がいた……。結末にはちょっと驚かされた。SFがホラーとなり、それが何とも切ない人情話となって終わるのだから。
「トレンティーノさんの息子」はホラーといっていいだろう。その一方で海で貝を獲る漁師たちの力強いお仕事小説でもある。主人公はロングアイランド沖の砂州で食用二枚貝(クラム)を獲る漁師。大学を中退して新米漁師となり、海で死にかけるようなこともあったが、先輩漁師たちから様々な教えを受け、ようやく独り立ちできる漁師となった。クラムは大漁だった。トレンティーノさんの息子で、昔主人公と公園でバスケットをしたことのある5つ下の少年ジミーは、それを見て簡単に金儲けできると思ったのだろうが、嵐の海で遭難した。死体は見つからなかった。その数ヶ月後、天気の急変で危険な状況に陥った主人公は水中に立っている男を目にする。ジミーだった。明らかに死んでいるのに、数ヶ月もたった水死体には見えずまるで生きているようだった。何とか彼を船に引き上げたが……。典型的な海のホラーなのだが、恐怖や不気味さ以上に、海ならそんなこともあるだろうという、人知を超えた深みの感覚がある。
「タイムマニア」はミステリの要素もあるホラー。タイトルだけ見るとSFかと思うが、このタイムは時間じゃなくてハーブのタイム。主人公のエメットは幼いころから恐ろしい夢に悩まされ、そのたびにタイムのハーブ茶を飲んで夢を抑えていた。そんな彼がある時廃屋の井戸で骸骨となった死体を発見する。それは鍛冶屋見習いのジミーの死体だった。外傷があって殺人事件の可能性があるのに、酔っ払って井戸に落ちたのだろうということになる。彼の葬儀で、エメットは骸骨のジミーが席に座っているのを目にする。エメット以外の誰にも見えていない。恐ろしさのあまりタイムをむさぼるように食べて幻覚(?)を追い払うが、その後も幽霊は彼につきまとうようになる。恐怖から狂ったようにタイムにすがりつくエメットをみんなはタイムマニアと呼ぶようになる。しかしジミーの幽霊は彼に何かを伝えようとしており、エメットはついに殺人事件のヒントを得るのだが、そのことが彼と友人の少女に危険をもたらす……。ジミーが二人を連れて行く幻想の世界には奇怪な魅力があるが、結末はどこか煙に巻かれたような感覚がある。ミステリとして一応の解決はあるもののどこかおさまりが悪く、作者は謎解きや事件のもつ物語性にはあまり興味がないように思える。
「恐怖譚」はアメリカの詩人エミリー・ディキンスンを主人公にした幻想的な死神物語。エミリーの前に死神が現れ、彼女に取引を持ち掛ける。すでに死んでいる少年をその母親である魔女が生かし続けている。それをエミリーの詩の力によって解放して欲しいというのだ。エミリー・ディキンスンにも、そもそも詩というものにも全く造詣のないぼくだが、この物語が醸し出す不思議な闇の雰囲気にはどこか懐かしいものがある。それはブラッドベリの十月の雰囲気であり、死者と生者の関わりあうたそがれ時の感覚である。詩の言葉によってそれを断ち切ることができるのか。実際にできたのだろう。だがどのような言葉によってなのか。いやそんな具体的な文字列が気になってしまうことこそ、ぼくの関心がこの物語からずれているところなのだろう。
「本棚遠征隊」は短いがとても面白かった。主人公の作家の書斎に小さな妖精たちが現れる。少し前から彼には家の中にいる妖精たちの姿が見えるようになったのだ。そして一人一人の名前や生活についてもある程度わかるようになっていた。しかし妖精たちと彼は直接のコミュニケーションはできない。妖精たちが机の上のコップを落とすとコップは割れるし、物理的に存在していることは間違いないのだが。そして今、妖精たちは長い黒髪の勇敢な女性リーダーの元に、雑然と本が詰め込まれた本棚の上に向かって遠征を始めたのだ。主人公は見ているだけだがその勇気ある行動に関心する。矢を射てザイルを留め、よじ登っていく。時には事故が起こり、また蜘蛛や敵との戦いで命を落とす者もいる。彼らに同情した主人公が手助けをしようとした時……。結末での彼の妻の存在が鮮やかで印象的だ。
「最後の三角形」はミステリタッチのオカルトもの。ドラッグ中毒でホームレスの主人公が体が弱っているところをとある老婦人に助けられ、彼女の家に連れてこられる。彼女は夫を亡くして一人暮らしだ。主人公はいつしか彼女の家に居候として暮らし始め、しだいに更生していく。だが彼女はただ親切なだけではなく彼にあることをさせようとしていた。街にある魔術的な印を探し出し、それらが地図の上に描き出す「最後の三角形」を見つけようとしていたのだ。彼女の持つ魔術書によれば、三角形の中に閉じこもった術者はどんな外敵からも身を守ることができるが、そこから外に出るには三角形の中心で殺人を犯さないといけないのだという。主人公は彼女の言うままに街の中に印を見つけるのだが……。他の作品と違って、わりとストレートな展開となっていて、超常現象も直接には描かれていない。それだけ読みやすいといえる。
「ナイト・ウィスキー」は田舎町の奇妙な風習が描かれる。不可思議で奇妙ではあるが特に恐ろしいというものではない。動物の死体から生える死苺から作られる特別な酒、ナイト・ウィスキー。年に1度、くじに当たった数人がその酒を飲めるという催しが開かれる。酒は美味らしいが、奇妙なのは飲んだ者は夜中に酔っ払って店の外へさまよい出し、それぞれが木の上に登ってそこで寝てしまうということだ。そうして見る夢の中では死者が現れて、様々な話をしてくれるらしい。そして〈酔っ払いの収穫〉という仕事がある。朝になって荷台にマットを敷いたトラックを運転し、木の上で寝ている連中を棒でマットの上に落として目覚めさせるという仕事だ。主人公はベテランの師匠の下でこの仕事を始めたばかりの若者。この町では、この仕事をするのは名誉なことなのだ。お仕事小説よろしくその仕事の細かい手順や師匠に見込まれた主人公のがんばりが描かれ、そのまま順調に進むかと思っていると、あり得ない事態が起こる。奇妙な風習はねじれたホラーへと様変わりするが、その全容は不明なまま、謎は解決することなく余韻をもって終わる。
「星椋鳥(ほしむくどり)の群翔」はちょっとタッチが違い、猟奇殺人事件を追うミステリ。帝国ののどかな観光都市〈ペレグランの結び目〉では数年に1度、猟奇的な殺人事件が起こる。被害者は体を切り刻まれ脾臓を取り去られるのだ。仮の名で〈野獣〉と呼ばれる犯人の手がかりはほとんどない。植民地出身の警部は50歳にしてこの事件の専任捜査を命じられる。彼が目をつけたのは最後の被害者である科学者の、言葉を発しない13歳の娘ヴィエナである。彼女はそのペットの星椋鳥と共に事件を目撃したと思われるのだ。オウムのように繰返し言葉を話すのは星椋鳥の方だが、その意味はわからない。警部は同じ植民地出身の部下と共に、彼女とペットの行動を追っていく。そして人気の無い公園で、数千羽の星椋鳥の群れが一糸乱れぬ飛翔をし、ある図形を描き出すのを見る。そしてヴィエナの家族の隠された秘密が明らかになっていく。まるで空中に絵を描くドローンの集団のような星椋鳥の行動に目を奪われるが、物語そのものはクライマックスを経てミステリとして真っ当な(でもSFやファンタジーの風味がある)結末を迎える。にもかかわらず、これで本当に終わったのだろうかという思いが後に尾を引くのだ。
ここからSF味の強い作品が続く。
「ダルサリー」はまるで往年の「フェッセンデンの宇宙」を思わせるショートショートだ。マッドサイエンティストが微小な人間たちを創造し、ガラスの牛乳瓶の中に作った小世界の中に住まわせる。微小な人々は外の世界を知らず、ここが寒冷な氷山の上の世界だと考えてドーム都市ダルサリーを建設した。外部の科学者は特殊な装置で彼らの言葉を聞く。だがそこから話はストレートに進まず、ねじれ、増殖し、フラクタル的なループを形成する。最後に描かれる奇想的なイメージは不気味で、美しい。
「エクソスケルトン・タウン」は宇宙もので映画ものである恋愛SFだ。様々な昆虫に似た外見の知的生物がエクソスケルトン・タウンと名付けられた町に住んでいる惑星。そこは超高圧の世界で、人間はエクソスキンという外骨格を身につけないと生きていられない。商魂高い昆虫人とそこを訪れた地球人との間では相互の交易が進んでいる。地球人側の売り物は古い地球のフィルム映画。芸術的な作品よりもB級映画の方が人気があって高く売れる。一方昆虫人が売るのはフレセンスと呼ばれる大きめなミートボールくらいの糞球。それは地球人にはとてつもない媚薬として作用するのだ。この取引は大成功だった。主人公はここで一儲けしようと父親の所有物だった古いモノクロ映画(何とロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」)を盗みだしこの惑星にやってくる。体にぴったりのエクソスキンは外観を自由に成形できるので、彼は虫たちに受けるよう、映画俳優のジョゼフ・コットン(「市民ケーン」などオーソン・ウェルズ作品で有名)の姿にしていた。だが商売はうまくいかず、この町の「煙」と呼ばれるドラッグに入り浸り依存症になってしまう。そんな落ちぶれた彼に、この町の昆虫人の町長が取引を持ちかける。郊外に住む地球人の大使未亡人が持つ映画を何とか手に入れろというのだ。彼女の家に入り込んだ主人公は彼女を騙して暮らすうち、次第にこの女性に愛情を抱くようになる。だが映画の入手期限が近づいて……。結末には苦い哀しみがあるが、面白かった。あちらのSFやファンタジーには(いや日本にもあるが)映画ものというジャンルがあるといっていい。名作が多いが、この作品はノスタルジーに頼らずにそれを描いた点で印象的な一作である。
「ロボット将軍の第七の表情」はショートショート。異星人との悲惨な戦争を指揮した残酷で非情なロボット将軍は、戦場でバラバラになった後組み立て直され、戦後は軍の広報に使われたのだが、彼の指揮下で戦死した兵士の遺族からは憎悪の対象となった。軍は彼をお荷物と見なし、彼は小さなアパートをあてがわれて暮らすことになった。ロボット将軍には戦場で兵士を鼓舞するための決意を示す6つの表情と、戦闘そのもののための7つ目の表情があった。戦後、将軍はその表情を一人の少女の前で使うことになる……。AIが人間性の特定の面を模倣するものだとすれば、このあわれなロボット将軍のむなしさはこの作品が書かれたイラク戦争後に作者の感じたむなしさと同じものだったのかも知れない。
「ばらばらになった運命機械」は訳者後書きによればヤングアダルト向けのSFアンソロジーに書かれた作品だというが、そんなわかりやすさは少しもなく、短いが非常に込み入った構成の幻想的なSFである。以下はネタバレ(ぼくの解釈ではあるが)を含む。宇宙を渡り歩いた老宇宙飛行士ジョン・ガーンは今ある山の頂上に一人で暮らしている。彼にはザディーズという、かつて愛し合い共に暮らし、そして宇宙に旅立って失った異星人の女性がいた。ザディーズの惑星で冒険をした彼は金属製の歯車を手に入れ、それをペンダントにして彼女に贈った。二人は幸せに暮らしたが、ガーンは一つ所にじっとしていることができない性格だった。再び旅しようと、彼は彼女を伴い宇宙船に乗り込む。だが冷凍睡眠からザディーズは目覚めなかった。彼は彼女の亡骸を森の惑星に安置し、ペンダントを持って宇宙へと飛び立つ。だがいつしかこのペンダントは失われていた。この歯車こそ、偉大な科学者オンスィンが発明した運命機械の失われた欠片だったのだ。今老いたガーンを翼ある謎の怪物が訪れ、彼を殺害して飛び去る。一方ザディーズは死んでおらず森の惑星で蘇り、ここに住む者たちの女王となっていた。そこにも翼ある怪物が現れる。怪物を見て彼女は、オンスィンが派遣したロボットの1台、49(ダグラス・アダムズによれば宇宙の秘密の答えは42だったが、ちょっと近いかも)のことを思い出す。49は夢の中で彼女に破壊された運命機械の歯車を探していることを告げた。だが歯車はすでに彼女の首にはなかったのだ。そして今彼女の前に現れた怪物はあのペンダントを手にしていた。怪物は彼女を殺して飛び去る。それから歯車は49の手に渡り、運命機械が復活する。そして翼ある怪物は真の姿を現す……。ここで円環が結ばれ、過去と未来が正しくつながることになるのだ。だがどうして、という疑問は解決されないままに残る。
「イーリン=オク年代記」もヤングアダルト向けの妖精物語アンソロジーに書かれた作品だという。親指の爪くらいのトゥイルミッシュという小さな妖精族が登場する。初めに人間の研究者による説明があり、その後に妖精が書いた手記が続く。説明によれば巻き貝の中に小さな書物を発見し、それを電子顕微鏡で見て翻訳ソフトで解読したのだそうだ。この妖精は人間の子どもが作った海辺の砂の城に住み着く妖精だ。普段は実体がなく姿も見えないが、適当な砂の城を見つけるとそこに住み着き、潮が満ちて崩壊するまでそこで暮らす。とても短い時間だが、妖精の時間ではそれは一生に近いものなのだ。そして後半はそんな妖精が書いた手記の翻訳である。イーリン=オクという名の妖精が砂の城に生まれ、ハマトビムシのファーゴを相棒にし、砂丘ネズミと戦い、日が暮れて満ち潮が来るまでの長い夜に月が昇るのを目にし、砂浜にコルク栓のはまった瓶を見つけ、その中に船に住む別の種の妖精、メイワと息子のマグテルを発見する物語。だがメイワたちは船に住む種族なのでここに長くいるわけにはいかない。やがて訪れる別れ。そして砂丘ネズミたちの猛攻撃。そして満ちてくる潮……。こちらは確かに少年少女向けの物語だろう。だがそこには確かな小世界が描かれ、小さな者たちへの愛がある。それは「本棚遠征隊」や「ダルサリー」にもつながるものだろう。
22年に出た『播磨国妖綺譚』の続編。室町時代の播磨国を舞台に地域の陰陽師が主人公となる連作短篇集である。今度は桃太郎物語に連なる備中の鬼、温羅(うら)の伝説と播磨に伝わる巨大な鹿の王、伊佐々王の伝説が背景にある。さらに歴史的には、播磨・備前・美作の守護だった赤松氏と室町幕府との戦い、嘉吉の乱が物語に影を落とすことになる。
第一話「突き飛ばし法師」の発端は、砂鉄集めの村人たちが川で砂鉄を獲ろうとすると物の怪に突き飛ばされるという、どことなく牧歌的な事件である。村人たちは困り果てて呂秀と律秀の兄弟に相談に来る。呂秀の式神であるあきつ鬼と共に現場を訪れてみると確かに怪しい気配があり、あきつ鬼の活躍で物の怪の正体も知れる。それは砂鉄獲りで川を汚し、製鉄のため炉で燃やす木々を森から切り出す人々をこの地から追い出そうとする、か弱き山のものたちの仕業だった。だがその背後にかれらをけしかけた存在があった。その者はあきつ鬼に呂秀のもとを去り自分のところに来いと誘う。そうすれば遥かに強大な力をふるえるようになると。彼は自らをガモウダイゴと名乗り、あきつ鬼が蘆屋道満の式神になる前のことを知っているようだった。あきつ鬼がはるか昔に吉備国に生まれたものだと言ったのだ。彼は呂秀たちの弱々しい呪術を嘲笑い、何処へか去って行った。
第二話「縁(ゆかり)」。吉備の国の鬼といえば備中の温羅に関わりがあるのではということから、呂秀たちも備中へ行ってみることになる。だがその前にダイゴなる強力な敵に立ち向かうため、備中国の刀鍛冶に守り刀を作ってもらうこととなった。人を斬る刀ではなく、破邪の力を持つ刀である。ダイゴに会ってからあきつ鬼も自らの出自に悩むようになっていた。道満に会う前のことを何も覚えていないのだ。これから旅立とうという時、呂秀は雷に撃たれてケガをし、また刀を作るには時間がかかるので、呂秀は書をしたためてあきつ鬼に備中の刀匠のところへ先行してもらうことにする。
第三話「遣いの猫」では猫の姿をした神様が登場する。名前は瑞雲。備中の刀匠から言付けを預かってきたのだ。呂秀にはその言葉が聞こえるが、律秀にはただの猫にしか見えない。瑞雲は二人に十分な徳があるか見極めるためにしばらく逗留するといい、二人の邪魔にならぬよう、都から来て近くの寺で星を見ている陰陽寮の天文生のところで飼ってもらうという。神様だけど、なかなか可愛い。その後、村の井戸が汚染されるという騒ぎがあり、呂秀たちは奮闘して問題を解決する。瑞雲はそれを見て二人が守り刀に相応しい人物だと納得し、備中国へ知らせを送る。しかしこの騒ぎにも怪しげな呪いが関わっているらしい。
第四話「伊佐々王」でいよいよ伊佐々王の物語が語られる。この章の主役はダイゴと伊佐々王である。呂秀たちから去ったダイゴは播磨の山道を進み、古代の鹿の王、伊佐々王が倒れた淵に来て目覚めるよう呼びかける。かつてお前とお前の仲間たちを殺した者の子孫に復讐するが良いと。復活した伊佐々王の記憶。はるか昔、この地で人間と巨鹿の激しい戦いがあった。兵士たちの無数の矢を受けて倒れた伊佐々王だが、その姿は消えていた。それから数百年。以前よりもずっと大きな力を得て復活した伊佐々王にダイゴが語りかける。近々この国で騒乱が起こる。その時に好きほうだいに大暴れせよと。そして呂秀たちの前に伊佐々王が現れる。瑞雲が伊佐々王の怒りを抑えようとするがダイゴの与えた力が強くて押され気味となる。そこへあきつ鬼が備中から帰ってきて加勢するが、力は拮抗し決着がつかない。そのとき「もうそれぐらいにしておけ」との声。ダイゴだ。ダイゴは伊佐々王の背に乗り、笑いながら去って行く。そして一行が備中へと出発する日が来る。
第五話「鵜飼と童子」はこれまでの物語とは別の話となっている。前巻でも描かれていた猿楽の一座の挿話である。呂秀たちとガモウダイゴの物語とは直接の関係はないが、同じ時期の人と野の生き物の不思議で美しい触れあいを語り、幽玄で雅(みやび)な楽の音が聞こえるような情景が描かれる。若い猿楽師の竹葉は猿楽「鵜飼」で抜擢され前半のシテを演じることとなった。一生懸命に舞い、演じようとするがどうしてもあと一歩足りない。苦闘する竹葉の前に神秘的な童子が現れる……。前巻で描かれた花の精の舞の別バージョンのように、静かで美しい物語である。
第六話「浄衣(じょうえ)姿の男」で呂秀たち一行は備中の刀匠のもとを訪れ、二人の守り刀を手に入れる。浄衣姿の男ガモウダイゴは「蒲生醍醐」という、百年近く昔の南北朝時代に宮中に勤めていた陰陽師だったこともわかる。彼は謀反の罪で断首されたが、封印が解かれ怨霊となって室町幕府をずっと呪っているというのだ。そしてついに京都で室町幕府6代将軍・足利義教が播磨・備前・美作の守護赤松満祐に殺害される嘉吉の乱が勃発する……。
本書で物語は終わっていない。終わっていないどころか始まったばかりでほとんどプロローグだといってもいい。これから幕府方の守護大名、山名や細川の軍が播磨に進軍し、赤松の軍と数ヶ月にわたる激しい戦いが始まる。その裏で怨霊や神々、鬼や物の怪の戦いが繰り広げられることになるのだろう。ドロドロした戦いの中で、正しい人である呂秀たち、そしてあきつ鬼はいったいどうなるのだろうか。早く続きが読みたい。