続・サンタロガ・バリア  (第254回)
津田文夫


 明けましておめでとうございます、とはじめようと思ったら、正月早々能登半島が大地震で正月番組が全部吹っ飛んでいた。長岡市在住の山岸真さんがミクシで、新潟でもそれなりに揺れて蔵書が落下したと書いておられた。能登の方に直接の知り合いはいないけれど、真冬に向けて心配なことではあります。

 とはいえ、なんとも云えないニュースを横目に、正月には映画でもと、なぜか県内ではトップ切って1日4回上映を始めた地元オンボロ映画館にヴィム・ヴェンダース『パーフェクト・デイズ』を見に行く。
 まあ設定については、既に主人公の役所広司がカンヌの男優賞を取ったと云うこともあり、前情報が入っていたので、そういう話を見ると思っていたのだけれど、ヤラれたのは主人公が車のカセットデッキで聴く音楽。いきなり始まるアニマルズの「朝日の当たる家」とその後も延々と流れる半世紀前の懐メロ洋楽(ルー・リード「パーフェクト・デイ」にヴァン・モリソンにニーナ・シモン!)、おまけに唯一の邦楽が、先月刊の『SFマガジン』2024年2月号にそのインタビューが掲載されたディックの全短編集を編集したポール・ウィリアムズの元妻金延幸子の曲なんだから、これはヤリ過ぎというものだろう(あの頃の『ニュー・ミュージック・マガジン』を思い出すよ)。
 で、最後に延々と続く役所広司の顔芸を見終わって、エンドタイトルを見ている内に浮かんできた感想は、これって超高度資本主義後の超キツいサタイアじゃないのかということ。
 出資したのがユニクロで、舞台となる東京のトイレは有名建築家たちのスーパー・デザイン。その清掃を請け負う会社の現場作業員として働く主人公には、運転手付の高級車でやってくる妹がいる。都会の安アパートで寝起きする「パーフェクト・デイ」な生活を送る主人公の映画を、セレブな監督がセレブな企業の出資を受けてセレブな俳優を集めて撮って、「金が無きゃ恋愛も出来ないのかよ」とチャラい若者役に言わせるサタイアをコケにするサタイア。これぞリアリズムがSF化してしまう原因なんじゃないだろうか、もはや当たり前のフィクションがSF化しているとしか思えん。

 映画館から帰ったら羽田で旅客機炎上のニュースが・・・。

 話は変わって、個人的には年末に青木さん主催のSF忘年会に2019年以来4年ぶりに参加できて嬉しうございました。ホテルの受付で青木さんに挨拶したら、いきなり「あれキミも来たの?」といわれ、参加申込メールが届いていないことが判明。ガビーンとなったけれど、そこは青木さんがホテルと交渉してくださって、シングルを確保していただいた。お陰で気兼ねナシに部屋を使えました。外国の観光客で賑わう京都の、それも烏丸御池と三条の間にあるホテルで空きがあるとはラッキー。
 その日は昼過ぎに京都に着く予定だったので、前日、同志社大学SF研で1年後輩の江口氏に連絡したら、ちょうど名古屋の実家から京都へ戻る日だったということで京都駅で待ち合わせすることにした。京都駅はますます迷宮化しており、利用客の大群衆と相俟って、スマホで互いの位置を確認しながらも江口氏と巡り会うまで少々時間がかかった。
 ではメシでもと混雑のなさそうな所を探したけれど、結局ホテルのラウンジでサンドイッチとコーヒーというパターンに落ち着いた。セット料金で1人前が2700円というお値段には驚いたけれど、味は良かったので文句は云うまい。
 江口氏は哲学専攻で、大学院卒業以来現在まで、大学高校の非常勤講師を続けているという奇特な学者さん。最近は教え子が中国人だったり、台湾人だったりすることが多く、東アジアのリアルな政治状況が伝わってくるとのこと。長年学会にいてそれなりの肩書きもあるようだけど、当方と2人でやるのはただのバカ話である。2時間ほどしゃべっていたけれど、補聴器が必要になったところが半世紀近くの時間作用ですね。
 江口氏と別れた後は、四条河原町へ。新しくできたというテクニクスのオーディオサロンを探そうかと思ったが、相変わらずの混雑ぶりに、丸善に逃げこむ。音楽の棚にグレッグ・レイクの自叙伝が面陳されていたが、結局買わずに出た。烏丸御池まで歩いたあとまだ少し時間があるので、烏丸三条のスタバに入ろうとしたら超満員。なので少し下って六角堂前のスタバに行くと六角堂が見える大ガラスの前の席が空いていた。そういえば2019年もここでコーヒーを飲んでいたのだった。
 そうしてSF忘年会のホテルに着いて、上記のハプニングとなったわけですね。忘年会の方の話は特にしないけれど、同年代のSFファンのバカ話ができるのはやはり楽しい。青木さんを初め主催者参加者の皆さんにはお世話になりました。今年もぜひ開催されますように。

 オマケ話
 翌日昼に解散後、帰りの新幹線まで時間があったので再び河原町をうろついてからまた六角堂前スタバまで行き同じような席で一休み。さて地下鉄で京都駅に向かおうとして、昼飯を食っていなかったので、京都駅では食えないだろうと思い、四条烏丸へ下る途中で見かけた「チキンカレー850円」と書かれた看板につられて地下へおり、店の扉を開けた。途端に目と耳に飛び込んできたのは、天吊り100インチスクリーンに映るディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」。YouTubeでも見られる72、3年頃の有名な映像だった。当然客は一人もいなくて、しかし開けた手前Uターンするわけにもいかず、スクリーン前に陣取って、炎上するホテルの映像がついた「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を見ながら出て来たカレーを食べたのであった。味が分からなかったなあ。

 今回の前置きが長くなったのは取り上げる本の数が少ないせいもあります。

 『最後のユニコーン』を読んだのは、いつもの通り大昔でほとんど覚えてないけれど、ビーター・S・ビーグル『最後のユニコーン 旅立ちのスーズ』を読んでみた。中編「二つの心臓」と長中編「スーズ」の2編を収めた薄い1冊。訳者は鉄板ともいうべき井辻朱美。
 スーズは両方の作品のヒロインの名前。「二つの心臓」の方では来月10歳になる9歳児として自己紹介しているけれど、「スーズ」では、17歳の誕生日を迎えたと始めている。
 ヒューゴー・ネビュラ受賞作の「二つの心臓」は、スーズが村人を食べてしまうグリフォンを退治してもらおうと、勇者だった王様のところへ、家族の眼を盗んで旅立つところから始まる、いかにも物語の掉尾を飾る1編。「スーズ」の方は自分の素性に疑いを持つことになったヒロインが、自分が生まれる前に森の妖精たちに連れ去られたという姉を探すトラヴェローグ。妖精の森で不思議な仲間を得て話は進む。こちらは「ユニコーン」と独立した形のシリアスなファンタジー。
 なんで「スーズ」というヒロインの物語なのかという疑問はあるけれど、この作者の物語づくりには何の文句もない。

 村山早紀『さやかに星はきらめき』は、人類が地球以外に住むようになった時代の月で、コードウェイナー・スミスのアンダーピープルが元になったような猫族犬族その他がメインの出版社の編集部で最高のクリスマス・ストーリー集を作ろうする話が外枠。そして編集部がいろいろな語り手から集めた話が各挿話として本編をなし5編を収める。
 この作者の作品を読むのは初めてだったけれど、昔懐かしいSFの設定を借りていわゆる「心温まるストーリー」を紡いでいて、読んでいるとSFとしての評価はともかく、それもアリかと思えてくる。造本も紙の本が作りたいという中身に合わせて、(早川書房の本にしては値段に対して)凝ったつくりをしてあるところも好感度を高めている。
 ただし、この時代でも現代の国家が月にそれぞれの都市を築いているというのは、あまりこの手のSFっぽくないかな。

 しかし昨年読んだSFの中でもっとも強烈な読後感(読中感?)をもたらしたのは、酉島伝法『奏で手のヌフレツン』であるのは仕方ないところ。
 処女長編(今や死語か)『宿借りの星』を更に濃くしたような酉島伝法文体が読み手を圧倒しながら、太陽が歩いている異様な世界の人情小話で泣かせる。
 第一部「解き手のジラァンゼ」のクライマックスの目も眩むよう描写と通俗といえば通俗な宗教的法悦への傾きが頂点をなして泣けてしまう驚きは、このタイプの酉島伝法の小説からしか味わえないだろう。第二部「奏で手のヌフレツン」は第一部で慣らされたおかげで大分読みやすくなる。
 こういう作品が直木賞で評価されることはないだろうが、SFとしては最大の評価が与えられるところにまだSFのジャンル性にこだわる意味が残っているのだろう。

 目次を見てさすがにオオッとなったのが、中村融編『星、はるか遠く 宇宙探査SF傑作選』。本国で1970年頃までに書かれ前世紀中に訳されたものの、今世紀に入ってからは入手しがたくなった英米の宇宙探査に関連した(という触れ込みで主に異星が舞台の)SF中短篇に、同様の趣旨の未訳の2編を加えた、年寄りには(多分若い人にも)お買い得なアンソロジー。
 取りあえず収録作品名を挙げておくと、フレッド・セイバーヘーゲン「故郷への長い道」(初訳)、マリオン・ジマー・ブラッドリー「風の民」(新訳)、コリン・キャップ「タズー惑星の地下鉄」(新訳)、デイヴィッド・I・マッスン「地獄の口」(初訳)、マーガレット・セント・クレア「鉄壁の砦」(新訳)、ハリー・ハリスン「異星の十字架」ゴードン・R・ディクスン「ジャン・デュプレ」(新訳)、キース・ローマー「総花的解決」ジェイムズ・ブリッシュ「表面張力」(新訳)の9編。
 初訳では、結末よりも後の世界が気になるセイバーヘーゲンも楽しいけれど、なんと云ってもマッスンがスゴい。そりゃ「旅人の憩い」以上ということはないけれど、なんであの当時ここまで迫力のある短篇が書けたんだろう。
 新訳ものは再読が多いけれど、長い間にすっかり忘れていたものも多い。ブラッドリーなんて50年代に女性の狂気を描いたホラーSF/ファンタジーだったことに驚かされるし、セント・クレアの作品も忘れていたけれど、女性作家を感じさせない男どものハードな物語づくりが強烈。キャップはSFとしては少し古くなったけれど、地下鉄の壮大さやはみ出し技術部隊の活躍は面白い。古いという点では集中一番長いブリッシュ「表面張力」もある意味原初的なというか、科学的な背景をもって人類が宇宙に広がる最初のパターンを作ったSFと云って良いかもしれない。まあタイトルと内容が語呂合わせにもなっているローマーのレティーフものは古くても面白さは変わりません。酒井昭伸さんの訳がノリノリ。
 しかしなんと云ってもこのアンソロジーでこの1作と指を折るのは、ディクスン「ジャン・デュプレ」だ。これは1977年にSFマガジンで読んだときも印象的だったけれど、今回読んでその緊張感の緩みの無さに圧倒されてしまった。この作品には時間的な風化が感じられず、現代においてもリアリティが失われていない。ディクスンはユーモアものは好きだけれどドルセイものはほとんど読まなかった。でも「ジャン・デュプレ」だけはSFの意匠で書かれた普遍的な寓話になっていると思う(ただの西部劇じゃん、というヒトもいそうではありますが)。

 第11回ハヤカワSFコンテスト受賞作が刊行されるのに合わせて、特別賞受賞の間宮改衣「ここはすべての夜明けまえ」が『SFマガジン』2024年2月号に掲載されたので読んでみた。50ページ(400字詰原稿用紙約180枚)の長中編。さすがに単行本にはならないか。
 設定は、裕福な家庭で自分が生まれたときに母が死亡、母の面影を残した語り手は母を溺愛していた父に幼い頃からアビューズされて育つ。父と語り手の関係に嫌悪感を抱いた兄姉は家を出て行き、常に吐き気に襲われ死を願う語り手は、家に父と二人だけとなる。体調の悪さから死期を迎えた時、語り手は父親に騙されて、父の知り合いの研究者の手でアンドロイドの体を得る。そして世紀をまたいで生きて、アンドロイドとしても死期を迎えた語り手の回想記として物語はつくられている。
 文章的仕掛けは、まるでアルジャーノンみたいに、ひらがな多用の文章で始まって途中で通常文の章に移り、最後はひらがな多用の文章となって終わるが、内容の方はアルジャーノンではなく、昔の「純文学」的な心情の吐露として読めるようになっている。
 その意味では、「SFの浸透と拡散」はついに「純文学」的な物語に意匠としてのSFを纏わせて創作されるところまで来たといえるが、例えば中村融編のSFアンソロジーに集められた短篇群から得られるSFの感触は、この作品に使われているものとは異なっているように見える。年寄り視点では20世紀の文学や音楽はすべてプログレッシブとして捉えられたけれど、21世紀は成熟したバリエーションの時代になったように感じられるということだな。
 リアリズムがSF化しているなら、「純文学」のリアルな心情がSFとして作品化されることも当然あるだろう。

 続けて読んだのが、大賞受賞作の矢野アロウ『ホライズン・ゲート 事象の狩人』。こちらも180ページの短い長編で特別賞受賞作と併せて4日もかからず読み終えた。
 両作品に共通しているのは語り手が女性というだけで、SFとしては正反対のつくりになっている。
 こちらはタイトルにもあるように、超巨大ながらほとんど回転していないブラックホールが宇宙に進出した人類/宇宙連邦に発見され、それが人工物である可能性が高かったため、ブラックホール近傍に巨大基地ホライズン・スケープを置き、膨大な費用をかけて技術開発を行いながら、調査が何世紀も続いているという設定で進められる物語。
 物語の方は、それぞれ別の惑星から連れてこられた、時間を空間的に捉えられる特殊な脳を持つ一族の少年と、異形の生物たちを狩る狙撃手として大成するためにこちらも特殊な脳を持つことになる一族の娘がコンビを組まされて、ブラックホール調査することがメインになっている。少年がブラックホールの周辺の深い場所へ下りるダイバーで、少女が障害となるものを打ち落とす援護者を務める。
 視点人物は少女に置かれるが、ブラックホールへの距離の違いにより時間進行が極端に異なるので、基地での日常時間と調査中の少女と少年の時間も極端に異なり、1度の調査でも、最深部にいる少年の時間は僅かでもその上の空間に待機する少女は数年間を過ごし、遙か離れた基地においては短くて十年長ければ1世紀が経過する。
 ということで、これは形式的には、巨大ブラックホールが今はもう居ない銀河宇宙の先住種族によって作られた別宇宙への脱出ゲートだという設定の典型的な現代的ハードSFだけれど、物語としては最後まで少女の視点なので、ガール・ミーツ・ボーイものとしてややラノベ的になる結末までくると、語り手の時間的位置が怪しくなる。
 古くはマッスンの「旅人の憩い」、少し前なら、塩澤前SFマガジン編集長の選評にもあるように、小林泰三の「海を見る人」を思わせるが、構成的には長編ということもあって、こちらの方が物語としてはややユルいかも知れない。

 11月中に出ていたものと思っていたら、奥付が12月だった立原透耶編『宇宙の果ての本屋 現代中華SF傑作選』は、この編者による中華SF傑作選第2弾。正味450ページに15編収録の・ハードカバーで2500円(税別)はそれでもまだ安い。
 巻頭に編者による前書きと簡潔な収録作家の紹介があり、先に出したアンソロジー『時のきざはし』よりもSF味の勝った作品を選んだとある。
 冒頭の顧適(グーシー)「生命のための詩と遠方」は不思議な題だけれど、「詩と遠方」は語り手の名前に由来する。
 2025年、語り手はAI技術に長けていたので、海洋環境汚染対策用の機器を開発する会社にいる女性の先輩研究者に誘われて、開発中の機器にAI技術で群生生物を模した構成をするように改変を加えたが、自分の興味を優先したため技術コンテストでは落選してしまった。10年後のある日、昔の仕事に思いを馳せた語り手は、海に放った試作機たちがその後どうなったかをインターネットで調べてみると世界中の海から反応があることを知った・・・。
 物語の骨組みはいわゆる50年代SFに使われていたものだけれど、50年代アメリカSFと違うのは、これが現代中国の感覚で書かれているのと、環境汚染とAI技術という組み合わせで現代的にアップデートされているところ。
 こんな書き方をしていると長くなるので、以下は簡単に。
 何夕(ホー・シー)「小雨」は、親友2人の間で揺れ動く女性を「タイム・シェアリング・エンジェル」にして男の視点で描く悲恋もの。
 韓松(ハン・ソン)「仏性」はロボットの魂もののバリエーションだけれど、チベットのラマ僧を不信心な漢族の男どもの視点で描くところが興味深い。作家の力量を感じる。
 宝樹(パオシュー)「円環少女」は一見、父親が何度も溺愛する娘を再生してアビューズするような物語に見えるよう誘導されるが、結末は全く違ったものになる。
 陸秋槎(ルー・チウチャー)「杞憂」は、中国の有名な故事をもとに、どの国にもその時代にはあり得ない技術が存在していて、語り手が古典的兵法が役に立たなくなってしまった世界を描く。バカSF的ホラ話ですね。
 陳楸帆(チェン・チウファン)/スタンリー・チェン「女神のG」は、子宮欠損の女性が身体変換ですべてがGスポット(?)になってスーパーセレブと化すサタイア。なんかスサマジイ感覚がある。
 王晋康(ワン・ジンカン)「水星播種」は、作者が1948年生まれと云うことで中国SF界では最長老の部類だろうか。物語はタイトル通りのSFで、伝統的SFのスタイルをきっちりと守っていて、水星で進化した金属生命体のエピソードがキリスト教的サタイアになっていることもあり、登場人物が欧米系の名前であっても違和感はなさそうだ。
 王侃瑜(レジーナ・カンユー・ワン)「消防士」は、異常気象が進んで、人命に関わらない山火事は消火されない時代、優秀な消防士だったが亡くなった兄の後を追って意識アップロード型消防用ロボットになった女性の物語。
 程婧波(チョン・ジンポー)「猫嫌いの小松さん」は、なんと小松左京の本名小松実が猫嫌いのナゾの高齢日本人として登場するホンワカした1編。舞台はチェンマイである。中国SF界での小松左京の影響力が偲ばれる。
 梁清散(リアン・チンサン)「夜明け前の島」は、義和団の乱の直前、光緒帝や袁世凱が出てくる戊戌変法の苦いエピソード。SFとしての感触はあまりない(巨大飛行船の話がある)けれど、この時代にそういう話があったのかと思わせる。
 万象峰年(ワンシェン・フォンニエン)「時の点灯人」は、「〝時間"が物理量から剥がれる」というアイデアが現実となった世界で、世界最後の時間発生器の周囲だけに時間が存在する。しかしバカSFではなくシリアスな書き方の1篇。
 譚楷(タン・カイ)「死神の口づけ」は、ロシア中央部の都市を舞台に、将軍の息子と庶民の娘の恋愛と高名なバレリーナを妻に持つ教授がともに愛する女性を原因不明の呼吸器不全で亡くす話。生物兵器開発の悲劇を描く。
 趙海虹(ジャオ・ハイホン)「1923年の物語」は、ひ孫娘が幼い頃に亡くなった曾祖母の思い出を通じて、イギリスに留学後記録装置としての「水夢機」の研究者となった曾祖父と、その年出会った美しいダンサーだった曾祖母との恋愛、そしてたまたま曾祖父の研究室に逃げ込んだ美貌の男装女性革命家とのエピソードを語る。矢野徹「折り紙宇宙船の伝説」に触発されたという"ロマンチックが止まらない"1編。
 昼温(ジュウ・ウェン)「人生を盗んだ少女」は、ミラーニューロン理論が人格そのものを形成するアイデアで、いつも爪弾きにされてきた女性が、自分に懐いた妹分ともいえる少女に自分が過ごすはずだったその後の人生を奪われるという、タイトル通りの話だけれど、語り口が落ち着いていて余りホラーらしくはない。
 総タイトルにもなった江波(ジアン・ポー)「宇宙の果ての本屋」は、どれほどの時間読み手が来なくても本を保存することで永遠に読み手の訪問を待つ本屋が、宇宙的スケールにまでインフレーションする1編。書きようによってはバカSFだけど真面目な作風で進行する。図書館ではなく本屋というところが不思議。そういえば江波は広島市の地名でエバと読ませてますね。

 ノンフィクションはベストセラーになった東浩紀『訂正する力』を取り上げようかと思ったけれど、2ヶ月かけてようやく読み終わろうとしているカール・ポパーの文庫4冊で2000ページという『開かれた社会とその敵』と提言が一緒なので、感想は次回まわしに。 


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