内 輪 第399回
大野万紀
11月のSFファン交流会は11月11日(土)に、「ドードー鳥とSF鳥」と題して開催されました。
出演は、川端裕人さん(作家)、八代嘉美さん(幹細胞生物学者)。
写真はZoomの画面ですが、左上から反時計回りに、川端さん、みいめさん(SFファン交流会)、八代さん、根本さん(SFファン交流会)です。
以下は、チャットも含め当日のメモを元に記載しているので間違いがあるかも知れません。問題があればご連絡ください。速やかに修正いたします。
江戸時代の出島にドードー鳥が送られてきたというオランダの商館長の記述からその歴史的事実を調査していく『ドードーをめぐる堂々めぐり』、さらにそれから進んで絶滅動物とその復活、生命倫理にまで踏み込んだ科学小説『ドードー鳥と孤独鳥』を書かれた川端さんですが、ドードー鳥に興味をもったきっかけは、高校時代にSFマガジンで読んだ、ハワード・ウォルドロップの短篇「みっともないニワトリ」(『80年代SF傑作選 上』に収録)だそうです。これには自分もそうだという古手のSFファンが多数。
お話は主にその「堂々めぐり」をめぐる詳細を、様々な資料を画面に映しながら説明されたのですが、それが面白い。書籍に掲載された小さいモノクロの写真のオリジナルな写真や図版がカラーで大きく表示され、それを著者本人が説明されるので、こんなわかりやすいことはない。特に4百年近く前に書かれた本のここにドードーが記載されていると指で指し示したり、骨の写真の詳細なものを見せていただいたり、色々な画家の描いたドードーの絵を見比べたり、そういうところが大変面白く興味深かったです。
川端さんは実施にモーリシャス島まで行って発掘に参加されるのですが、こういう行動力が素晴らしいですね。以前に読んだ『我々はなぜ我々だけなのか』でもジャワ原人の発掘現場に実際に行っておられる。
後半では八代さんも加わって『ドードー鳥と孤独鳥』で描かれた絶滅動物とその復活について、現実の生命科学がどのようにそれを扱い、またアメリカでそれを実現しようとしている人たちがどのような活動をしているかが話されました。小説の内容というより(それは二次会で少し話が出ましたが)、そこにある科学と社会的、生命倫理的な話が中心でした。
まずはよく聞くマンモスの復活の話。シベリアで発見された凍結したマンモスに使える生殖細胞が見つからず、ゾウの生殖細胞に核を入れてクローンを作ろうとしている。でも簡単にはできないそうです。またゾウ自身も希少種なので、マンモスの復活より先にアジアゾウを救えという声が出る。それはまあ当然でしょう。ところが、絶滅種を復活させることで環境を改善し、ひいては現存種にも良い影響を与えるという議論もあるとのこと。アメリカで絶滅したリョコウバトの復活計画では森の復活など、そのあたりの議論が進んでいるとのことです。
『ジュラシック・パーク』の悪夢がよみがえるためか、絶滅動物の復活というと科学的なロマンはあるけどその悪影響が思い浮かび、人間の思い上がりとか、マッドサイエンティストとか、ネガティブなイメージが強くなる印象があるのですが、これもまた決して単純な話ではない。議論を尽くさないまま突っ走るとそれこそマッドサイエンティストですが(『ドードー鳥と孤独鳥』のテーマの一つでもあります)、もっと様々な面を考える必要があるということでしょう。動物にも人間にも、そして地球環境にも悪い影響がない、そして科学的ロマンも満たされる解があるのかも知れません。例えばモーリシャス島におけるドードーの復活計画にはそんな要素もありそうです。
iPS細胞を使う話、RNAを使う話、人工子宮を使う話など、聞いているといかにもSFといえそうな話があり、それが現在実際に少しずつ進められている(難しい問題が山積みでなかなかすぐにどうなるということではなさそうですが)というところには夢がありました。もちろん社会的、倫理的側面を議論した上での話ですが。
最後にこれからの予定として、川端さんは今色覚をテーマにしたSFを書いており、いずれは人類と復活した絶滅人類が共存する世界の話を書きたいとのことでした。また八代さんは中学生向けと大人向けのiPS細胞の本を書きたいとのことです。期待大ですね。
話題になった2冊については、下の書評欄でぼくの感想を書いています。特に思ったのは、『ドードーをめぐる堂々めぐり』ではこれを(ネットではなく)テレビ番組のようなより広い視聴層に届く形で放送して、旧家や寺社に残る埋もれた資料を再発見できないものかということ。川端さん自身はテレビの取材に良い印象がないようであまり乗り気ではなさそうでしたが、今のような狭く閉じたネットとは違う形で集合知を求めるのはありかと(素人考えですが)思いました。また『ドードー鳥と孤独鳥』については、これは専門書の鳥類の棚に置くのもアリだなという印象で、つまり主人公二人のつながりに関する小説としての面白さは当然として、ボーちゃんの視点で書かれた「近未来科学ノンフィクション」として読めるということです。そして「近未来ノンフィクション」って、つまりはすごく正統な意味で「SF」に違いないのです。
次回は12月23日(土)にリアルでの納会が開かれる予定とのこと。東京方面で参加可能な方はサイトでご確認ください。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします。
2年前、2021年11月に出たノンフィクションである。なかなか読む機会がなかったが『ドードー鳥と孤独鳥』を読む上でぜひ読まなければいけないと思った。実に面白く、どんどんと読み進めることができた。
きれいな図版も多い。ドードー鳥といえば『不思議の国のアリス』で著者ドジスンのいわばアバターでもあり、古いSFファンにはウォルドロップの短篇『みっともないニワトリ』でも知られている(ドードーはニワトリじゃなくてハトの仲間だけど)。16世紀末に発見され17世紀後半に絶滅した、どこかのんびりしたとぼけた味のある飛ばない鳥だ(この印象自体が間違った復元画から作られたものであることも本書に記載されている)。著者はそのドードーが生きたままオランダ船で出島に連れてこられていたことを知り、世界中を股にかけたバイタリティ溢れる調査を開始する。それがドードーをめぐる堂々めぐりであり、本書はその記録である。本書では、人間の関わりによる生物の絶滅ということを中心に、珍しい動物への好奇心と博物学のはじまりから考察し、日本各地からヨーロッパ、現地インド洋のモーリシャスをめぐり、日本も含めた17世紀の世界的なネットワークの存在に驚き、19世紀以後の科学的な観点の進展と、現代に至る種の保存や環境の保全への意識までを語る。そういったものが実在の人物や組織、絵画や遺物、そして現地の発掘調査などを通じて著者自身の興味の赴くままに生き生きとした筆致で描かれているのである。
江戸時代が始まり島原の乱が終わった家光の時代、1647年にオランダから出島に来た船に生きたドードーが乗っていた。それは商館長の記録にちゃんと書かれていたが、21世紀になるまで誰も注目してこなかったのだ。それを2014年に論文にしたのがロンドン自然史博物館のリア・ウィンターズとジュリアン・ヒュームである。その論文を見て著者はヒュームに連絡をし、日本に来たドードーのその後を調べるため、いくつかの可能性をあげて検討を進める。古文書を調べ、長崎、松山、福岡、佐賀と各地をめぐり、現地の研究者に聞いたり発掘調査の結果を見たりする。その過程で日本人でドードー研究における世界的に有名な鳥類学者、蜂須賀正氏についても紹介される。現時点の結論としてはっきりした手がかりは見つからなかったのだが、それでもここには歴史的な謎解きの面白さがある。これってまさに「歴史探偵」だなあ。それこそNHKで特集すれば一般の人も興味をもって、実は家にこんな古文書がとか新しい発見につながるかも知れないと思った。何しろ長崎オランダ商館長の日記のようなきちんと調べられているものでさえ、その気になってドードーという観点から見なければドードーが日本に来ていたことさえわからなかったのだから。
続いて著者はドードーの発見以降のドードーに関わる人々を追って、世界の博物館をめぐって行く。まだ科学とはいえない博物学の時代、奇物収集家や画家、珍しい物好きの王族、そういった人々がドードーに魅せられ、貴重な資料を残しているのだ。さらに19世紀以後はより科学的な進展がある。種の絶滅ということが科学的事実として語られるようになる。そしてそこからさらに環境保全といった現代的な観点へとつながっていく。
そしていよいよ著者自身がドードーのいたモーリシャスへ、さらにソリテア(孤独鳥)のいたロドリゲス島へ行き、発掘にも参加する。ここで1990年代に東京農大名誉教授の近藤典生という学者(故人)がモーリシャスのドードー調査で大きな功績をあげていたことも知る。私的な活動だったので日本ではほとんど知られていなかったのだ。ドードーをめぐる人々の様々な環が重なり合い絡み合い、めぐっていったことには心を打たれる。ただドードーだけに留まらない、大きな科学の関わり合いの歴史に呆然としてしまう。著者が取り憑かれている「堂々めぐり」という言葉にはそういった人間活動の波とその重ね合わせが反映されているように思う。
それにしても日本に来たドードーのその後も何とか解き明かされて欲しいものですね。
江戸時代に日本に来ていたという絶滅鳥を追ったノンフィクション『ドードーをめぐる堂々めぐり』を書いた著者による、ドードー鳥と孤独鳥(ソリテア)(孤独鳥はあまり知られていないが、ドードーと同種の絶滅鳥である)をテーマにした小説である。立派な箱入りの装丁で、古い文献からとられた鳥類の挿絵がたくさん入っている。書店では小説の棚ではなく鳥や動物の専門書の棚にあることが多い。著者は鳥類の棚にも小説の棚にも置いて両方の読者に読んで欲しいと言っているが、ぼくが行った書店でも専門書の方にあって、小説の棚にはなかった。。
本書の内容は先のノンフィクションとも呼応し、「堂々めぐり」という言葉も多用される。実際に登場人物たちは行動の上でも考え方の上でも様々な試行錯誤と繰返しを経験し「堂々めぐり」するのである。
主人公は二人の女性。マッドサイエンティストとその記述者といってもいいし、ホームズとワトソンといってもいい。小学生のころに知り合い、生物一般とその環境、そしてとりわけ絶滅動物に魅入られた二人。語り手であるわたし、ボーちゃんとも呼ばれる望月環(たまき)と、後半では名字が辰野に変わるがケイナちゃんと呼ばれる佐川景那(けいな)。二人は小学四年生のときに房総半島南部の町で出会い、意気投合して親友となった。二人とも学校では変わり者として皆から敬遠されていたが、動植物が大好きという点で共通していた。ケイナちゃんはわたしの家に入り浸るようになる。わたしの父は歴史学者だったが生物学や博物学の歴史に詳しく、家には図鑑がいっぱいあったのだ。その中に絶滅動物の本もあり、いつしかわたしはドードー鳥に、そしてケイナちゃんは孤独鳥に自分を重ね合わせるようになっていた。
わたしの家は百々(どど)谷という、こんもりとした深い森に覆われたほとんど人のいない谷にある一軒家だった。わたしとケイナちゃんは百々谷の自然を探検し、そこに住む様々な生物の生態に引き込まれていった。このあたり、本書の前半はとてもワクワクするような子ども時代の発見に満ちたすばらしい理科小説となっている。森や湿地でトンボやチョウを追い、嫌われ者のセイタカアワダチソウがここでは自然に再編成された生態系の一員となっていることを発見する。二人の友情とそれを取り巻く人々、そして百々谷の生態系のリアルで生き生きとしていること。現代における環境保護活動のあり方についてもしっかりと描かれている。
だが二人は成長し、別々の土地へと離ればなれになり、音信も途絶える。わたしは東京の大学で物理学を専攻したが研究者にはならず、科学ジャーナリストとなる道を選ぶ。全国紙の新聞社に入って科学部に配属され、様々な科学記事を書くが、いつか絶滅動物をテーマにした本格的な記事を書きたいと思っていた。やがてその機会が訪れる。北米へ取材に行った際、スミソニアン博物館の鳥類キュレーターと会って、絶滅動物のDNAを解析し、ゲノム編集技術によって絶滅動物を蘇らそうとする研究財団があると知る。わたしは取材と調査を進めるが、その過程で生物学の研究者となったケイナちゃんとの再会を果たす。彼女は今その財団の資金を使ってカリフォルニアの大学でゲノム編集した鳥の発生の研究をしていた。再会した二人は遅くまで楽しく語り合うが、科学ジャーナリストとして科学に伴う社会的倫理と責任についても考えを深めていたわたしは、研究に一途に没頭するケイナちゃんに一抹の不安も覚えるのだった。
その後の展開には新型コロナ禍が影を落とす。わたしは日本に戻り、北海道で江戸時代に日本に来ていたドードー鳥の痕跡を探る中、ケイナちゃんと新たな再会をする。ここでは絶滅種の復活に関わる倫理問題だけでなく、過去に採取されたDNAを含む遺物の所有権の問題(現実にアイヌ民族の古い人骨を大学が返還することなく所有しているといった問題がある)、環境保全のあり方と生物多様性の問題、科学論文と発表タイミングに関する問題など、様々な問題が扱われていく。わたしとケイナちゃん、ドードー鳥と孤独鳥の物語は、そういう最先端の科学と社会の接点で多様な観点を堂々めぐりしながら、近い将来にあり得る現実を、SFというか近未来の科学ノンフィクションとして展開していく。とりわけ語り手である主人公の軌跡には著者自身の生き方が反映しているようにも思える。そこには科学的なリアルと、はっとするような美しい場面があり、心に染みるような光景がある。そして最後の一行にはここまでの内容を踏まえた上での、嬉しくそして胸に迫る感動がある。傑作。
訳者後書きによれば、韓国で活躍中のSF作家5人が飲み会で顔を合わせ、朝鮮王朝を舞台にしたスチーム・パンクアンソロジーを作ろうと意気投合した結果できあがったアンソロジーである。5人による5編と、チョン・ミョンソプによる年表が収録されている。中国史はある程度わかっても韓国の歴史となると全然知識のないぼくのような読者には、この年表と訳者である吉良佳奈江さんの後書きが大変参考になった。
チョン・ミョンソプ「蒸気の獄」は王宮で起こった「蒸気の獄」という大粛正事件の真相を、書記官である主人公が探るという物語だ。年表によれば蒸気の獄とは1519年に国王(中宗)が保守派(勲旧派)と共に蒸気を使う機械の利用を積極的に進めた改革派(士林派)趙光祖とその一派を粛正した事件である。25年後の1544年、その中宗が崩御し、その諡(おくり名)を巡って再び宮廷内で対立が発生する。この時代には150年ほど前に謎の人物都老(トロ)が開発した蒸気機械が庶民の間まで普及し始めており、自動で歩ける蒸気背負子を行商人が使うまでになっていた。勲旧派は蒸気力の便利さを認めながらもそれが民衆や異民族の武器となることを恐れて規制しようとしているのである。主人公は記録に残すため両派の言い分を聞きながら、蒸気の獄の真相に迫っていく。ただここではドラマチックな陰謀劇の凄まじさはあまり描かれず、真実を求める聞き取り調査が淡々と進んでいくのみなのである。実際の歴史を知っていればああここはあれとかわかるのだろうが、なるほど平安貴族の勢力争いみたいなものかと思うばかりだ。だがそこに背景として蒸気機器という機械文明の浸透があり、そこに旧来の秩序を乱す要素があって、それはSF的にも十分理解できるテーマである。
パク・エジン「君子の道」は中編。時代は「蒸気の獄」とほぼ同じか少し前。当時の朝鮮には厳しい階級制度があり、奴婢(奴隷)制度があった。語り手はある下級官吏に所有される奴婢で、親子代々の汽機の職人というか技術者。この物語は彼が後を継ぐ自分の息子に思い出話を語るという形で進むが、前半はずっと奴婢という身分がいかに主人たちから理不尽な暴力を受けるだけの存在かという、痛々しい物語となっている。ただ汽機を作ったり修理したりする腕があるので、主人の一家はその製品を売って贅沢な暮らしをしており、他の奴婢のように機嫌が悪いからといきなり殺されるようなことはなさそうだった。主人公はぐうたらな坊ちゃんにおもちゃを作ったり、後には書を書く活字機を作ってまるで本人が勉強しているかのように旦那さまをごまかす手伝いをしたりしていた。それでも奥さまや坊ちゃんに殴られてばかりだった。ところが政変があり、主人の一家は没落する。他の奴婢は売り払われ、主人公一人が付き従うことになった。そんなある時、主人公は都老を名乗る男に出会い、彼から汽機の進んだ技術を学ぶ。そして活字機を改造し、ついに限られた範囲でだが言葉を話し、坊ちゃんそっくりな姿のいわばロボットを作り出す。坊ちゃんは役所に勤めることになるが、この活字機が何もできない坊ちゃんの代わりをすることになるのだ。そして――。ロボットSF的な味わいはあるが、やはりこれは奴婢制度のあった時代の下級官吏や奴婢たちの日常を描く歴史小説としての要素が強い小説である。
キム・イファン「朴氏夫人伝」はその約百年後。蒸気技術は危険なものとして弾圧され表面的には廃れている時代。語り手は大道芸人のように往来の客に物語を語って聞かせて金を取る伝奇叟と呼ばれる男。彼は他の伝奇叟のように古典や流行の物語を語るのに飽き足らず自分で物語を創作して語るのだが、受けは良くない。そんなとき、都老と名乗る男に出会って山の中にいる鍛冶屋を尋ねるよう言われる。山の奥へ迷いながら行って見ると大きな鍛冶場があったが、そこには朴氏夫人とその夫の夫婦二人しかいない。二人はこの時代、都老に教えられ、お上に隠れて様々な汽機を作っているようだ。語り手の男はいつの間にか都老から二人に渡すべく謎めいた部品を託されていた。時を同じくして、鍛冶屋が禁制の汽機を作っていることがお上に知れ、役人たちが山を包囲して二人を捕縛しようとする。伝奇叟の男は二人の作った汽機人に助けられ、物置小屋に隠れて人間の言葉を話す汽機人に物語を語って聞かすよう乞われる。それも彼の創作した物語を。翌朝物置小屋から出てみると、もはや誰もいなかった。男は「朴氏夫人伝」という物語を書き、妖術ではなく蒸気を使う英雄の話を語るようになる。そう、これは物語についての物語。伝説が作られるとき、そして妖術が科学に代わるとき。つまりSFの誕生についての物語なのである。
パク・ハル「魘魅蠱毒(えんみこどく)」。訳者前書きによると1760年以後の話かと思われる。人を呪う蠱毒を使ったという噂が広がり、流れ者の呪術師が捕まって拷問死する。彼を捉えた県監は単なる噂でここまでする必要があったのかと思うが、国王から派遣された監督官の命令であり逆らうことはできない。県監は息子と共に秘密裏に調査を進める。すると呪術師には連れて来た子どもがいるとわかった。その子は山中の家で保護されていたが口がきけない。官舎に住まわせて面倒を見るが断固として口を開かない代わりに何かを伝えようとしている。それがわかって山奥へ調べに行った県監親子はそこでとんでもないものを目撃する。そして覚悟を決めて監督官に真実を報告した県監は死を賜ることとなる。厳しく禁じられている蒸気機械だが、細々とその技術は受け継がれており(たぶん都老のおかげだ)、この時代にはその禁制にほころびができかけているようだ。それは宮中の重大な権力争いにもつながっているらしい。朝鮮史に詳しければ様々なヒントからもっと詳しい背景がわかるのだろう。
イ・ソヨン「知申事の蒸気」では18世紀の正祖・李祘(イ・サン)の時代が描かれる。李祘はテレビドラマでも何度も描かれた(ぼくは見ていないが)名君とのことだ。彼とその有能な補佐役となる洪国栄(ホン・クギョン)がこの物語の主人公である。記憶を失った状態で発見された洪国栄は人間ではなく汽機人(蒸気で動く人間そっくりなロボット)だった。宮廷に連れてこられ、王子だった李祘と親しくなって一緒に教育を受け、李祘が即位するとともに彼の右腕となって活躍する。だが李祘の側室となった洪国栄の妹(彼は人間の一家に養子として入ったのだ)が急死し、洪国栄は宮廷を追われることになる。そして――。歴史ドラマである。その主人公の一人が人間ではなく汽機人だったということ。蒸気を吐く、近づくと熱いといった細かなところを除けば、まるでミスター・スポックみたいな人間味の薄い朱子学的に論理的な性格の人間として描かれている。韓国の歴史ファンなら歴史上の有名人や事件をそういう目で見ることにより、虚実を重ねた面白さがあるのだろう。物語としては様々な事件があって面白いのだが、ぼくにはその背景がよくわからず、SF味も他の作品に比べて薄いように感じた。