内 輪   第398回

大野万紀


 10月のSFファン交流会は10月21日(土)に、「キム・ニューマンのハロウィンパーティ」と題して開催されました。
 出演は、鍛治靖子さん(翻訳家)、北原尚彦さん(作家、翻訳家)、冬木糸一さん(書評家)。
 写真はZoomの画面ですが、左上から反時計回りに、鍛冶さん、冬木さん、根本さん(SFファン交流会)、北原さんです。以下、必ずしも発言通りではなく、メモを元に記載しているので間違いがあるかも知れません。問題があればご連絡ください。速やかに修正いたします。

 ファン交:最初にキムニューマンとの出会いについて。
 鍛冶:95年ごろ創元の小浜さんから電話があり、ドラキュラ知ってる? 切り裂きジャック知ってる? と言われて、知ってると答えると、じゃあ『ドラキュラ紀元』(創元版)やってと。知ってる名前はあったものの、こんな本だとわかった時には遅かった。当時はインターネットもなかったし。後にアトリエ・サードで再刊した時はインターネットでいっぱい調べたけれど。
 冬木:第4巻『《ドラキュラ紀元》われはドラキュラ――ジョニー・アルカード』についた登場人名辞典がものすごいものでした。
 北原:創元版では逆引きができなかったんですが、新版ではどのページにあるかまで書いてあった。
 鍛冶:ゲラが出る度にページが変わるので、原書のページで指示していました。
 北原:私はSFファンであると同時にホームズファンで、特にホームズパロディが大好き。当時ロンドンに〈マーダー・ワン〉というミステリ専門の古本屋があって、ホームズパロディの洋書をたくさん買ったんですが、その中にキム・ニューマンの92年の『ドラキュラ紀元』があった。でもそんなにホームズパロディじゃないなと思っていたところ、創元から翻訳が出たんで読んでみた。するとホームズこそあまり出ないけれどメチャメチャ面白かった。そこでキム・ニューマンの書いたモリアティ教授もののパロディも追いかけ、2011年に長編が届いたので一晩でネタをチェックし、翌日に小浜さんに創元で出せとメールした。『ドラキュラ紀元』の復刊もしたらと話をしたら、数年前に版権を他社に取られて復刊できないと言われた。『モリアーティ秘録』となって本が出たのは18年か19年。
 冬木:ぼくはアトリエサードの『ドラキュラ紀元一八八八』から。当時から古い話なのでいつ読んでも面白い。
 ファン交:キム・ニューマンの作家紹介を。
 冬木:1959年ロンドン生まれ。ジャーナリスト出身。ホラー系のノンフィクションを出していたが、ジャック・ヨーヴィル名義でウォーハンマーの小説を書いた。代表作になったのが92年の『ドラキュラ紀元』三部作。その後も続編が出ている。日本を舞台にした『One Thousands Monsters』『Daikaiju』も出ている。とにかく知識が豊富。日本で言えば伊藤計劃さんみたいな。情報量が半端ない人だ。登場人物事典も巻が進むごとにどんどん増えてきて長くなってきた。第4巻の『われはドラキュラ』では現代に近くて映画のキャラクターがたくさん出てくる。
 鍛冶:とにかく知識量。オタクの中のオタク。吸血鬼だけじゃなく広範囲な知識があって、私は大変です。
 北原:大体同じカルチャーを見て育っているので自分にとってもストライクゾーン。ただパロディというだけでなくその対象への愛があります。
 冬木:年代が近いというのもある。
 北原:オタク第一世代。
 鍛冶:『Daikaiju』だけでなく、ゴジラやモスラがドラキュラものに(名前は出さずに)出てきます。
 冬木:インターネット以前は調べがつかずにあきらめがつきやすいけれどインターネット後はあきらめにくいというのがあったのでは。
 鍛冶:それでもあきらめる。3巻のころならインターネットも一応あって映画などが調べられた。1巻の時は創元からニューマンに質問してもらった。紀伊國屋で背表紙を見て立ち読みしたり、ニフティ・サーブで詳しい人に聞いたり。
 北原:『モリアティ秘録』にH・G・ウエルズの『宇宙戦争』の一節を引用していたり。ホームズの文章ならわかるんだけど。
 鍛冶:『ドラキュラ紀元』が最初に出た時、「SFが読みたい」のベストに載ったのが驚いた。復刊が出た時も一部ですごく評判になったのだけど、一般にはそれ何の雰囲気だった。
 冬木:マニアックに受ける小説だと熱量が絶えない。最近類縁な話が出てきているがその元祖だと思います。
 鍛冶:若い層にも読んで欲しいがぶ厚い。特に2巻。
 北原:2巻は本編以外にもおまけが入っているし。
 鍛冶:新版では色々と変わっていてもっと面白い。
 北原:1巻でシャーロックホームズが捕まっていて出てこない。それはホームズが活躍していたら切り裂きジャック事件は解決してしまうから。そのことが2巻に追加された部分でホームズ自身が話している。
 鍛冶:とにかく翻訳が大変でした。第一章でルルという娼婦を殺すシーンがあるけれど、切り裂きジャックにそんな被害者はないと思っていたら、ルルという芝居のパンフがあってそれを見たら全部載っていて衝撃だった。マーロン・ブランドが緑のスーツケースを置いておけといったのも意味がわからなかったが、それは実話だった。
 冬木:コッポラの『ドラキュラ』は映画のオマージュがいっぱいで、『地獄の黙示録』だったと言う。
 鍛冶:ちゃんと『地獄の黙示録』も見直した。『魔人ドラキュラ』も見た。ブラム・ストーカーのドラキュラも一応読んでいたがそんなに詳しく知っていなかった。レッド・バロンは知っていたが、複葉機の羽が布だというのは知らなかった。
 冬木:巻によって話のベースが全然違う。最初の三作は日本では95年から創元から出た。原書の版権が移って新版がアトリエ・サードから出た。その間に出た中短篇も含まれている。
 鍛冶:『One Thousands Monsters』では日本の妖怪とドラキュラたちが出会う。円月殺法も出てくる。世界中の妖怪はバンパイアの眷属という設定。『Daikaiju』には三人娘が出てくる。犬神明っぽい人やヨーヨーを使う少女も出てくる。日本に詳しいんだけど、ろくろ首の妖怪が武家娘なのに三味線を弾くという間違ったイメージも出てくる(武家娘が弾くのは琴)。種族名と固有名詞がごっちゃになっているところがあって、雪女が固有名になっている。まだまだだな。
 冬木:吸血鬼でなくバンパイアとしたのは?
 鍛冶:ホラーではないと思ったのでバンパイアとした。転化ということばも初めて作った。今は一般化したけれど。新生者(ニューボーン)や長生者(エルダー)はルビで。
 冬木:SFとファンタジーについては?
 鍛冶:SFが好きでニーヴンなども訳したがハードSFは難しいのでファンタジーを訳したいと。アシモフはそんなにハードじゃないので。
 冬木:ドラキュラに血統ごとに能力や特長があるというのも面白い。
 北原:『モリアティ秘録』について。ホームズ・パロディはこれまでも訳していたので大丈夫と思っていたが、大変だった。知識量の話もあるが、語り手が悪役で、ビクトリア時代の俗語が出てくる。後半にいくほど調べ物が大変になった。時間がかかったおかげでコミック/アニメの「憂国のモリアーティ」と重なり、モリアティという名前の知名度が上がったのは良かった。

 次回は11/11(土)14:00から。「ドードー鳥とSF鳥」というテーマで、川端裕人さん(作家)、八代嘉美さん(幹細胞生物学者)がゲストです。
(ご指摘をいただき、一部修正しました)


 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
 なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします


冲方丁『マルドゥック・アノニマス8』 ハヤカワ文庫SF

 このシリーズももう8巻。大長編のコミックのようになってきた。本来主人公はパロットで、ネズミのウフコックや〈イースターズ・オフィス〉の面々がメインとなるはずなのだが、ここにきて悪役のはずのハンターがどんどん存在感を増し、〈クインテット〉のメンバー、特にナンバー・ツーのバジルの魅力がアップして、ほとんど読者の共感を呼ぶ主人公のようになってきている。ハンターにはちょっと得体の知れない薄気味悪さがあるが、バジルはパロットの後輩として大学にも通い、人間味もあって頼りがいのある男として描かれるのだ。
 この巻ではほとんどがマルドゥック市の東にあるマルセル島が舞台となり、〈クインテット〉と前巻で逃げ延びたマクスウェルを中心とするギャングたちとの激しい総力戦が描かれる。そこにパロットたちの話も挿入されるが、それは短く、後日談のようで時系列もつながっていない。全てが終わった後で、再びパロットたちと〈クインテット〉の新たな関わりが描かれるのだ。
 ハンターのいう「イコライズ」とはもっと精神的な、カルト的なものだったはずだが、ここではまるで「天下統一」のような使われ方をしている。その「天下」がマルドゥック市という一つの都市に限られているように見えるのが気になるところだが、アメコミでのニューヨークだと思えば、それが一都市というより作品の世界そのものとなることが納得できるだろう。
 マクスウェルはマルセル島で麻薬やカジノを支配するギャングたちを再編成し、〈クインテット〉の攻撃に備える。ハンターは配下のグループを結集し、島を包囲して攻撃をかける。物語はそれぞれのグループの戦いを描くが、もちろん双方のエンハンサーたちが能力を駆使して凄まじい異能バトルを繰り広げるのだ。血みどろの戦いになるが、簡単に死ぬような連中じゃない。とんでもないものに変身し、毒虫や動物や水や電線を自由に使い、切り刻まれてもすぐに再生して簡単には死なない。これまでの巻でもそうだったが、そんな非常識な戦いを著者はスピード感ある視覚的な動きと衝撃を与える文章でパワフルに描いていく。めちゃくちゃ面白い。何というか、昔の山田風太郎忍法帖の現代版みたいだ。グロテスクで衝撃的ではあるが、あまりに人間離れしているのでむしろコミカルでクールな感じがある。
 そんな肉体の闘いから頭脳の闘いへとモードががらりと変わるのが、パロットたちのパートだ。前巻で描かれた、勝つためには有無を言わさない司法戦術の強烈さがパロットを驚かせる。タフじゃないと人を救えない。このシリーズの中心にある、人間の作った法が、ルールが、きわめてロジカルに人々を強制し、統制するツールであるという認識がここでも貫かれている。エンハンサーたちがいかに強力な超能力をもとうとも、マルドゥック市という法が支配する世界では、ただの人間が上に立ち、勝利することができるのだ。ハンターが目指すのもそんな合法的な権力だ。それに立ち向かうには徹底的に頭を使わないといけない。そしてマルセル島の闘いの後、いよいよパロットたちとハンターたちの本当の闘いが始まるのだ。


キム・ボヨン『どれほど似ているか』 河出書房新社

 1975年生まれで韓国を代表するSF作家の一人であり、最もSFらしいSFを書くと言われる(作者紹介より)キム・ボヨン。彼女の作品は「赤ずきんのお嬢さん」が〈文藝〉に、「0と1の間」が〈SFマガジン〉に掲載され、本書にはそれらを含む2009年から2020年に書かれた10編が収録されている。巻末には作者の言葉と池澤春菜による解説、それに訳者あとがきがある。

 「ママには超能力がある」はショートショートだが、ユニークでとても面白かった。主人公は自分の子ではない娘にママと呼ばせている女性。自分には超能力があると娘に話す。娘は誰にでも超能力はあると答える。本当のママにもパパにも超能力がある。応援しているチームが負けるとか、旅行に行くと必ず雨が降るとか、役に立つとは限らないが。でもママと呼ばせる女性の超能力はもっと特殊だった。彼女には分子や原子の動きがわかるのだ。そこからこの奇妙なシチュエーションがもつ意味が明らかになってくる。そんなレベルで見るとあらゆるものは循環している。パパもママも娘もそして彼女も、原子レベルで見ると交わり合っているのだ。二酸化炭素の排出をテーマに依頼されて書いたということだが、この視点はユニークで、超能力の有無にかかわらずとても科学的、SF的だと思う。それは普遍的に読めるものだが、韓国の現実という中で読むならまた違った読み方が出来るのかも知れない。分断された個々の間に浸透していく目に見えない別の存在として。

 「0と1の間」は日本より遥かに過酷な学歴社会である(と言われる)韓国の現実によりコミットした作品。でもこのような親子の問題、学歴格差の問題は多かれ少なかれ日本でも見られるものだろう。その一方でこの中編は時間論を扱った本格的なSFである。「ママには超能力がある」に出てきた観点もここには含まれている。タイムマシンの存在する世界が描かれるのだが、よくあるタイムパラドックスがどうとか並行世界がどうとかという話ではない。量子論的なカオスの世界だ。過去のSFでいえば、フレッド・ホイルの『10月1日では遅すぎる』の世界に似ている。受験生の娘をもつキム女史は子どもが勉強しないことに悩み、月2回の町内会で同じ悩みを持つ母親たちと愚痴を言い合う。いい大学に入らないと落ちこぼれになるのに、うちのスエは学校に行きたくないなんて言うんですよ、と。キム女史はまた、このごろ時間の流れがおかしいような気がしている。町内会に勉強のしすぎで頭がおかしくなったという噂の目立たない女性がいて、彼女がキム女史に話しかけてくる。タイムマシンとか時間旅行とか。この作品は彼女が語るパートやスエ視点のパートがキム女史のパートと並行して描かれ、次第に世界がどうなっているのかが明らかになる。キム女史の通う町内会の意味も。そしてそういうSF的な物語そのものが、若者たちに未来を押しつける社会への真っ正面からの批判となっているのだ。

 「赤ずきんのお嬢さん」はショートショートに近い短編。男女格差の問題をSF的に扱い、ストレートに怒りを表現している。一人店に入ってきたそのお客を見て、スーパーにいた人たちがみな驚く。彼女は若く、赤ずきんのような格好をしたお嬢さんだった。普通でいたいのに、人々は彼女に注目し、戸惑い、話しかけてちょっかいを出そうとする。彼らはみんな男性だ。精巧な義体が出来て男女の性が自由に選べるようになった時代。どういうわけか女性を含むほとんどの人が男性になることを選び、女性の数が激減。そんな中で街を歩く女性には好奇の目が向けられるのだ。だが彼女は怯えながらも一人で女性らしい姿をして街を歩く。平凡で自然で自由な、そんな一日を過ごせるようになるために。解説によるとこの話は現実にあった事件が元になっているということだ。

 「静かな時代」は未来の韓国の大統領選挙を描いているが、作者が言うとおり、これは言語SFである。主人公は国会議員の補佐官から選挙アドバイザーを依頼された言語学者。ある農民出の政治経験もない無所属の泡沫候補がなぜか若者中心に支持を集めている。全体の支持率から見れば取るに足らないが、その素人に国の未来を託そうとする人々が大勢いるのだ。どうやらその候補はマインドネットという接続者の心を伝える全感覚ネットワークに接続しているらしい。他の候補でマインドネットに接続している者はいない(心の中がまるわかりになってしまうから)。主人公は選挙キャンペーンの言葉を駆使してその候補者を落選させようとするのだが……。韓国の人々の心には、ろうそくデモという過去何千回も行われた静かな大衆デモの記憶が残っているという。大統領が退任するたびに逮捕されたり暗殺されたりする国での根強い政治不信。それがストレートに描かれていると同時に、言葉が人々の感情にどう働きかけるかということが明確に書かれていて、そこも興味深かった。

 「ニエンの来る日」はケン・リュウ「宇宙の春」と同じく中国のネット企画で、春節と北京西駅をテーマに書かれたショートショート。中国の伝説の帝王、堯舜の時代は科学魔法が発達しており、光の速度が出せる光速列車が作られた。その乗客は相対論効果で未来へと運ばれる。毎年春節になると、駅には過去からの乗客と、年(ニエン)と呼ばれる怪物がやって来る。ニエンは赤色が嫌いなので、赤い服を着て大きな音を立てていると襲われることはない。だから春節の駅は赤色にまみれ、とてもにぎやかだ。といった設定の元に語られるのは、それぞれの未来へ旅立った家族を探して終着駅へと向かおうとする「私」の物語である。駅のにぎやかさとは裏腹に、はるかな時間を超える「私」の夢が静かに、懐かしさを込めて語られる。

 「この世でいちばん速い人」は作者が企画したスーパーヒーローもののテーマアンソロジーの一編ということだ。チャン・ガンミョン『極めて私的な超能力』の「アスタチン」もそうだったが、アメコミの二次創作っぽいスーパーヒーローものというのは韓国SFで人気が高いのだろうか。日本でもあるけれど、むしろ特撮怪獣や巨大ロボット、戦隊もののオマージュ作品の方が目立っているように思う。子ども時代に見る娯楽番組の違いかも知れないが、詳しいわけじゃないのでこの話はここまで。何にせよ、こういう作品は作者が楽しんで書いていることが伝わってきて、読んでいて嬉しくなる。この作品ではDCコミックスの〈地上最速の男〉フラッシュがリスペクトされている。彼が光の速さで動くためのエネルギーはコミックスでは別次元から得るようだが、ここではツナ海苔巻きを食べて得ているというのも楽しい。主人公はフラッシュのような能力を持つ超人〈稲妻〉。この韓国には超人たちが普通に暮らしている。重力を操る若い超人〈隕石〉は彼の友人であり、致命的な敵でもある。しかし楽しいばかりではない。超人には超人の悩みがある。超人はその能力ゆえに英雄にもなれば悪党にもなる。そして世間の人々は災害が起きても超人に頼りっきりで、自分たちの責任になるようなことはやろうとせず、何かあるとその責任を押しつける。そして大勢の人がいるスーパーが手抜き工事で崩壊の危機に瀕したとき、その10秒間に〈稲妻〉と〈隕石〉はそこへ駆けつけるのだが……。セウォル号沈没事件の悲劇と同様な背景がここにはあるのかも知れない。もしその場に超人がいたとして、彼らはどうしただろうか。何ができただろうか。

 「鍾路のログズギャラリー」はその続編。語り手は超人だが能力〈未定〉の女子高生(実際は能力があるのだが、それは後で明かされる)。超人の能力についてのハードSF的な小ネタも多く、それも楽しい。同じく超人の〈霜〉と〈ヨード〉と高校生っぽくキャピキャピとしゃべりあっている。あの〈稲妻〉が悪墜ちして〈悪党〉となり、国会議事堂を壊したというのだ。これまで実際に〈稲妻〉がやったのは政府機関の天井に落書きしたり、警察の壁を赤く塗ったりという反体制的な悪さだけなのだが。政府とマスコミは反超人のキャンペーンをはり、世間の人々も超人に否定的となって、いわれない迫害も始まっている。そんな中、全てを凍りつかす能力を持つ〈霜〉が〈稲妻〉を倒すと宣言した。「ログズギャラリー」というのはDCコミックスの悪党(ヴィラン)がチームを組み時に使われる用語だと説明にある。鍾路はソウルの政府機関や繁華街のある地名。彼女らは〈稲妻〉を倒すログズとなるのか。でも〈未定〉はそんな〈霜〉に思い直すよう説得する。勝てるわけがないからと。だが彼女の決意が固いことを知り、光に氷が勝てるような科学的な方法を何とか考え出すのだ。そしていよいよ対決の時がくる。〈稲妻〉と〈霜〉の想像を絶する異能対決が描かれ、ついには――。小説の構成も時系列を並び替えて真実を語るような形式が取られており、結末に向けて盛り上がる。そして〈稲妻〉の真実とは。〈未定〉の隠された秘密とは。いやあ面白かった。

 「歩く、止まる、戻っていく」は「年齢」をテーマに依頼されて書いたというショートショート。時間というものが一方向に直線上に進むものではなく、平面的なタイルの上を跳び渡っていくようなものだというイメージで、人の一生とはどのようなものかを描く作品だ。幻想的なようだが、このような時間論は先に述べたフレッド・ホイルやカート・ヴォネガット、テッド・チャンにもある。人の生きる時間をそのように捉えたとき、きっと救われるものも多いはずだ。

 「どれほど似ているか」は本格SFの中編。タイタンの居住区で事故が発生し、たまたまエウロパへ向かっていた宇宙船がその救助に行くことになる。そうした中、船の危機管理AIだった私が、有事の際に乗組員の記憶をコピーするために用意された人間型義体の中で目覚める。だがなぜAIの自分が非論理的な有機脳に支配される不便な人間型義体にコピーされたのか。乗員たちは私が自分でそうしたのだと言う。ある程度記憶が戻り、タイタンの救助に向かっているという状況はわかったが、何か重要な情報が抜け落ちている。そして乗員たちの私に向ける激しい敵意。中心人物である航海士は暴力までふるってくる。船長は権威によってそれを何とか抑えてくれるのだが。狭い閉ざされた宇宙船の中での人間的感情のもつれ。それは義体に再生した私に、中途半端に人間に似ているがゆえの〈不気味の谷〉を感じているせいなのか。だが私には任務がある。タイタンの住人を救うための補給物資を用意しなければならない。私は船長たちとそのための作業を進める。しかし航海士たちはもはや救助は不可能でこのまま帰還すべきだと考えているようだ。それで船長と対立しているのか? だがそれにしても私に対する激しい憎悪と敵意はどこからくるのか? しだいに緊張が高まり、ついに乗員たちの船長に対するクーデターが発生する。そして――。私から抜け落ちていたという情報が明らかとなり、物語の真の意味が明かされるクライマックス。「どれほど似ているか」というタイトルの持つ意味もそこで明確となる。それはこれがAIと人間の違いをテーマに描く本格的な宇宙SFだと思っていた読者に、本当のテーマはそれだけではなかったという衝撃をもたらす。それは当初からミステリとしてあった断絶の謎であると同時に、われわれのよく知っている現実の谷間でもあったのだ。

 「同じ重さ」は「何月何日 ビニールハウスにサンチュを植えて水をやる」といった農業日記を中心に、その間にはさまれた主人公の独白、さらに記憶や脳の神経配線のイメージ図などで構成される作品である。主人公は「普通の人」とのコミュニケーションに問題があり、妹にはアスペルガー症候群だと指摘されている。ただ医者によるとその傾向はあるがほとんど正常であり、ただ発達障害と言った方が生きやすいだろうとの診断だった。主人公は「普通の人」のように空気を読むことが苦手で、決まった手順を規則的に繰り返すことが得意、少しでもそれが乱されると混乱する。確かに農業日記の書き方はとても几帳面である。彼には重要なこととそうでないことの区別が明確でなく、何ごとも「同じ重さ」で記憶する傾向がある(なおここで描かれるアスペルガー症候群の特徴は必ずしも典型ではないことには留意が必要だ)。だが農業は彼に向いている。植物は規則を守るからだ。そして彼は、自分が他の並行宇宙の科学者であり、いくつもの並行宇宙を渡ってこの世界の彼に入ったのであって、もうすぐまた去って行くということを知っている。それが本当なのか、彼の想像なのかはわからない。でも彼は自分と「普通の人」との違いをはっきり自覚している。作者によればこれは同人誌に発表した作品であり、「どれほど似ているか」のアイデアの多くがここから始まったとのことだ。両方を読み終わってみるとそれは納得できる。何に同じ重みがあり、何が似ていて何が違うのか。それは「普通の人」でもAI人格でも、あるいは並行宇宙の人間であっても、相手を人として認識する限りついてくる問題なのである。


久永実木彦『わたしたちの怪獣』 創元日本SF叢書

 「七十四秒の旋律と孤独」で創元SF短編賞を受賞した著者の、第二短篇集である。日本SF大賞候補となった表題作を始め、4編が収録されている。著者あとがきも、ひとつの物語として読める。

 「わたしたちの怪獣」の主人公は18歳の女子高生。その日、自動車の運転免許を取って家に帰ると、小学生の妹が父親を殺していた。いつも暴力をふるわれていた妹が、父の後ろから炊飯器を頭にぶつけ、電源コードで首を絞めたのだ。姉であるわたしは「そっか」と言う。ずっと見て見ぬふりをしてきて、こんな日が来るのをそっと待ち望んでいたのかも知れない。父はエンジニアだったが、2年前SNSにアップした1枚の写真が原因で大炎上した。サーバーに抱きついて涼んでいるという他愛もない写真だったが、その後起こった全く無関係なサーバー障害の原因だとして非難されたのだ。父は会社をクビになり、母は愛猫と共に家を出、わたしと妹は苛めを受け、その後も執拗に続く攻撃にさらされてわたしたちは東京から埼玉のアパートへ引っ越した。その部屋で、呆然としている妹の前で、わたしは死体をどうするか考える。その時、つけっぱなしだったテレビが臨時ニュースに変わる。東京湾に巨大な怪獣が現れ、千葉市のアミューズメントパークを破壊し、東京に向かっているというのだ。姿は立ち上がったワニのようだが、全身がヌメヌメとしたバルーンのような管で覆われている正体不明の怪獣である。東京に上陸した怪獣は街を破壊していく。すでに膨大な被害が出ているようだ。わたしは父の死体をその被災地に運んで捨てれば誰にも気づかれないだろうと思い、父のオンボロカローラのトランクに死体を乗せて埼玉から東京へと向かうのだ。自衛隊が出動し、怪獣に立ち向かうが全く歯が立たない。そして政府はアメリカ軍の保有する小型核兵器を使うことを決断する。やがてわたしの車は怪獣のすぐそばにまで近づくのだが――。この作品では父親殺しと死体遺棄、そして怪獣の出現と政府の対応という、全くリアリティレベルの異なる二つの現実が描かれている。それは小説の中ではどちらもリアルなものだがそれぞれ別のレイヤーにある。主人公のわたしにとっては二つとも非日常な、現実とは思えないものだ。しかし彼女はその二つを結びつけ、さらに彼女自身のリアル=ファンタジーを作り上げる。それはもはやリアルなのか幻想なのかわからないが、どうにもならない大きな二つのリアルの中で、彼女に一つの解放をもたらすのだ。傑作である。

 「ぴぴぴ・ぴっぴぴ」は奇妙なタイトルだが、一種のタイムパトロールというか、過去を改変して犯罪や事件を未然に防ぐことが可能となった世界の物語。主人公は非正規雇用だが時間局に所属し、過去へ跳躍しては対象者に声をかけて事件の発生を未然に防ぐのが仕事だ。それは〈声かけ〉と呼ばれている。ところがそうやって起こらなかったはずの事件の動画がなぜかサイトに配信されている。日々の生活に倦んでいた孤独な主人公は動画にはまり、それに絡め取られていくことになる。何度削除されても事件の動画をアップしていたのは実は彼の同僚だった。奇妙なタイトルは、その男の口笛のような笑い声なのだ。発生後に動画を撮影し、発生前に戻って事件を防ぐ。もちろん違法だが、彼は起こらなかった事件の記憶、〈声かけ〉の中だけに残るそれを残しておくことが自分の存在価値だと考えているのだ。男は自分に似た資質をもつ主人公にその方法を教える。初めは拒否していた主人公だが、次第に引き込まれていく。私的利用を禁じられている跳躍装置をハックし、幼いころ電車にはねられて死んだと母から訊かされていた父の死亡時間へと飛ぶ。そこで見たものが彼の心をさらに侵食していく。夜間勤務となり、原子力発電所で起こる(起こった)重大事故を防ぐため過去へ飛ぶが、その経験は本当に恐ろしいものだった。そして彼はついに――。起こった事件を未然に防ぐ〈声かけ〉のような仕事が事務的なルーチンワークとして描かれているのが面白く、また一見悪いことではなさそうなそんな仕事が次第に人の心をむしばんでいくことにも辛く深い闇を感じる。

 「夜の安らぎ」は吸血鬼もの。途中までは曖昧な書き方をしているのでネタバレになってしまうが、本当に吸血鬼ものである。とはいえ主人公は人間で、楓(かえで)という名の高校生の少女。両親を亡くし、伯母と美しい従妹の未佳(みか)と暮らしている。楓は未佳に魅了されていて、中学校の時、健康診断の採血で彼女の美しい血を盗んで味わったことがある。だが楓は孤独だ。伯母にはなじまず、学校ではいじめを受けている。なるたけ家に帰りたくなく伯母の世話にもなりたくないので、チェーン店の電気屋でずっとバイトをしている。だがここの店長もイヤな人間で、唯一彼女を気にかけてくれるのが同じくバイトに来ている年上の女性すみれさんである。そんな彼女がアルバイトの帰りの山道で、黒いチェスターコートをまとった男性に出会う。その男性には見覚えがあった。病院の地下で輸血用の血液パックを取り出しているところを見たのだ。吸血鬼に違いないと楓は思いこむ。彼女は森の中の廃屋にまで彼を追っていき、自分の血を吸って吸血鬼にして欲しいと頼むのだ。もちろん彼は自分はただ小説を書くためにここに来たのであって、吸血鬼などではないと言う。それでも彼女はその後もずっとアルバイトの後、彼の小屋へしつこく通うのだ。そして事件が起こる――。楓の視点、謎の男性の視点、そしてすみれさんの視点から物語は描かれ、激しいバトルシーンやどんでん返しもあってとても面白い。しかし、楓の心の孤独と闇の深さ。誰もそれを救ってやることはできないのか。それができるのは本当に吸血鬼のようなこの世を離れた超常的なものだけなのだろうか。そんなどんよりとした重さが心に染みる。

 「『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を観ながら」は少しモードが変わる。主人公は会社で事件を起こし、何でもいいから時間をつぶそうと初めの小さな映画館にふらりと入った「ぼく」。そこでは異様な熱気に包まれたな映画ファンたちが、有名な「Z級」映画「アタック・オブ・ザ・キラートマト」の上映会に集まっていた。映画をあまり見ないぼくはこの映画を知らない。だが隣に座った黒いイブニングドレス姿の長身の女性が(マニアにありがちな上から目線ではなく)この映画とその評価について話してくれる。トマトがなぜか人間を襲うようになり、ついには人類絶滅の危機にまで陥るというおバカ映画だが、世界中に熱狂的なファンがいるのだ。ところが上映が始まって30分ほどしたところで巨大な爆発音と大きな衝撃が劇場を襲い、上映は中断してしまう。おまけに映写機が故障したので本日の上映は中止とのアナウンスが流れる。払い戻しがあってほとんどの観客は劇場を出て行ったが、トイレに行っていたぼくは行く当てもなく、残っていた支配人と数人の観客と共に劇場に留まる。ぼく以外はみな顔見知りの映画マニアのようだった。聞いたこともないような映画の話をとても楽しそうに話している。外で何が起こったのかはスマホを見てもよくわからなかったが、Jアラートが鳴って建物から出ないようにとの指示がある。劇場のシャッターを閉じ上の窓から外を見ると、そこに見えたのはゾンビの群れだった! 大爆発の後ゾンビが発生し、人を襲っているという。襲われた人もゾンビになってしまう。窓から見ると先ほど劇場から出て行った親子連れがゾンビに襲われて母親がやられ、子供たちが取り残されていた。ぼくらは修復した映写機でキラー・トマトの続きを見ていたのだが、ここにきて決断を迫られる。子供たちを助けに行くか、このまま救助を待つか。ゾンビに囲まれ、建物に閉じ込められているというゾンビ映画によくあるシチュエーションだが、映画マニアたちのおしゃべりと「アタック・オブ・キラートマト」のおかげでそれほど絶望的な恐怖感はない。それでも状況を考えればこれはとても恐ろしい物語なのである。


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