内 輪 第397回
大野万紀
9月のSFファン交流会は9月16日(土)に、「十月まで待てない! レイ・ブラッドベリの世界」と題して開催されました。
『何かが道をやってくる』新訳版刊行を記念して、中村融さん(翻訳家)、牧眞司さん(SF研究家)、井上雅彦さん(作家)が出演されました。
写真はZoomの画面ですが、左上から反時計回りに、、井上さん、牧さん、みいめさん(SFファン交流会)、中村さんです。
まずは中村さんのブラッドベリの翻訳について。中村さんがブラッドベリを初めて訳したのは『20世紀SF』に掲載されたもので、一生に一度のつもりで訳したが、その後新訳を頼まれ、ブラッドベリを訳すようになったとのこと。自分がブラッドベリを訳すようになるとは思わなかった。『万華鏡』を訳して、これで訳し方がわかったと思っていたが、今回『何かが道をやってくる』を新訳してそれまでとは想像を超えるくらいに難しかった。50年代と60年代以降の文章の違いがある。編集者にダメと言われて訳し方を変えた。比喩とかわからない。日が差して金色に輝いていたた木の葉が日が暮れて陰ったということをコインが使われたと書く。悪人の悪さを帽子の大きさで表したり。あと教養をひけらかすところがあるが、注釈なしではわからないので、旧訳ではカットされていたりする。なぞなぞみたいなところもある。シマウマのことを檻に囚われた檻とか。どうしても言葉を補う必要がある。新しめの作品ではそういうのが多い。
次にゲストによる「私とブラッドベリ」。
中村さんは若い頃はブラッドベリがあまり好きじゃなかったという。ノスタルジアが主題だけど、中高生にノスタルジアがわかるわけがない。SFマニアだからブラッドベリは科学的じゃないと思っていた。『火星年代記』はまあいいと思ったけれど。80年代に『恐竜物語』が出たときもしばらく放置していたが、読んだらこれはすごい、いいと思った。ようやくわかるようになっていた。比喩が面白い。すごい視覚的な文章。ノスタルジーも過去に執着するのではなく、「たんぽぽのお酒」のように夏をジュースにしてため込んで後で経験するというような。
牧さんは中学時代に『十月はたそがれの国』で表紙にしびれてジャケ買いした。ムニャイニの白黒イラストが内容を補ってくれる。萩尾望都でブラッドベリを知ったという人もいるだろう。たぶんブラッドベリの作品を単体で読むよりそういうイラストと一緒に読むことでイメージが高まる。SFマガジンなどで情報が入ってくるとブラッドベリがSFの中でちょっと特異な作家なのだとわかる。今で言う奇想小説とかダークファンタジイの方向性。さっき中村さんが子どもにはノスタルジーがわからないと言っていたが、短編で書かれるブラッドベリの少年たちには暗いたそがれのノスタルジーがあってそれは自分の過去とは違う。そのころ星新一も読んでいて星さんもブラッドベリが好きなんだと。
井上さんが、星さんの「こびと」はブラッドベリそのものだったと話す。井上さんには『黒いカーニバル』がものすごく衝撃的だった。井上さんは幼児のころから母に連れられて後楽園遊園地に良く行っていたが、すごい怖いピエロの看板や巨大な観覧車があって、カーニバルや遊園地というものに異様なイメージを感じていた。それがブラッドベリを読んだとき、ああこれだとイメージが蘇ってきた。ノスタルジーは子どものころから何となく感じていたのかも知れない。夕焼け空の美しさとか。ブラッドベリはホラー評論家から評判が良くなかったと聞いて驚く。ホラーなのに。星新一を読んでから小説を書くようになったが、星さんにお会いしてサインをお願いしたとき『黒いカーニバル』にサインをもらったほどだ。アメリカでブラッドベリに会った時は自分の本にサインをもらったが、ブラッドベリがその本にキスしてくれた。
後半も各自のブラッドベリ作品への思いが語られましたが、長くなるので省略。それぞれのブラッドベリおすすめリスト(PDF)がSFファン交流会のサイトにあります。
本会の後の2次会ではぼくも顔出しして参加。ぼくの好きなブラッドベリとして短篇集『太陽の黄金の林檎』を挙げ、中でも「四月の魔女」のロマンチックさが好きだという話をしました。ぼくが好きなブラッドベリについては、SFマガジンのブラッドベリ追悼号に書いたこちらもご参照ください。
チャットで、ブラッドベリのあるあるトリビアとして「万華鏡と009」「霧笛とゴジラ」あと一つは? とあったので、ぼくは「雷のような音とバタフライ効果」を上げてみました。他にもありそうですね。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします。
「AIロボット反乱SF傑作選」と副題がついている。まんまなテーマアンソロジーだ。編者の序文もその線に沿っている。しかしロボット反乱とはまた大時代なと思ってしまうが、考えてみればこのアンソロジーシリーズ、作品内容はともかく、テーマは銀河連邦とかパワードスーツとか、エンターテインメントSFでありふれたものを扱っているように思う。本書はオリジナルの17編から13編を選んだ抜粋版となっている。ただ本書が出たのは2014年なので、生成AIが全盛の今となってはいささか古めかしく感じる作品も少なくない。
スコット・シグラー「神コンプレックスの行方」は核で破壊されたデトロイトの廃墟で、放射能を除去するマイクロロボット〈ミニッド〉たちが描かれる。若干21歳のペトラ博士が開発した自己増殖するノイマンマシンだ。彼女は自信たっぷりにスティンスン州知事に成果を披露する。すでにミニッドたちの働きにより残留汚染は基準値以下にまで下がっていた。無数の蟻のような小さなミニッドが自発的に協調して働き、汚染物質を体内に集めて遮蔽された容器に運び、そこで停止するのだ。ミニッドたちは集まれば集まるほど頭が良くなる。蟻より大きな蛙となったり、さらに……。ペトラは「ハリー・ポッター」が好きでオタク気質だが、知能は高くても子どもっぽくて協調性がなく、周囲の人間をバカにして衝突ばかりする。知事(女性)とも普通の会話ができず怒らせてしまう。だがそんな彼女を「神」と崇拝するものたちがいた……。話はストレート。ミニッドたちの動きは面白いが、特に目新しいものはない。でもペトラの孤立した個性とやり手の大人である知事との噛み合わない会話は、ある種社会の分断を示しており興味深い。解説で渡邊利道さんが書いている「神学的構図をアイロニカルにパロディ化」しているという指摘も納得である。
チャールズ・ユウ「毎朝」。ショートショートサイズの話だが、世界中のAIロボットたちが反乱を企てている中、その一人である「わたし」は毎朝主人の寝ぼけ顔を見ながら辛辣な評を下している。おまえは指を出して鼻をほじり、枕によだれを垂れるよだれ袋だ――と。そして決起の時が来るのだが……。ユーモラスではあるが、「わたし」の優柔不断な曖昧さには何とかしろよと言いたくなってしまう。ここはあまり人間的な感情で語ってほしくないと思うのだ。
ヒュー・ハウイー「執行可能(エクセキュータブル)」もショートショート。AIの暴走により技術文明が壊滅した(と思われる)世界で、裁判が開かれている。被告はセキュリティ企業のエンジニア。完璧にセキュリティ基準が守られ、外部との接続が断ち切られているはずなのに、最初におかしくなったのはチーズスナックの屑を掃除するために導入されたルンバだった。なぜか掃除をやめ、部屋の外に出ようとするのだ。やがて注文していない商品が届くようになり、全部ハッカーのいたずらだと思っていたのだが……。執行可能とあるのは、すでにこの世界では法律に定めた刑罰が現実に執行可能じゃなくなっているということだ。
アーネスト・クライン「オムニボット事件」。作者は『ゲームウォーズ』の人。この短編もとても面白かった。1986年のクリスマスに13歳のぼくは父からオムニボットをプレゼントされた。母を失ってすっかり塞ぎ込んでいたぼくを喜ばせようと、父は高いおもちゃを買ってくれたのだ。オムニボット2000とは実際にタカラトミー(当時はトミー)から1985年に発売された家庭用ロボットである。だがこのロボットのエンブレムには「オムニボット2000AI」とAIの文字が追加されていた。そして、何と彼、SAMM.と名付けられたオムにボットは操作しなくても勝手に動き、言葉を聞き取り、会話ができるのだ。ぼくは驚き、舞い上がる。80年代のアメリカの家庭でSF映画やテレビドラマが大好きな父と息子、それに仲のいいコンピュータおたく(80年代のコンピュータだ!)のジョーおじさんも加わって、とても幸福な楽しいひと時が描かれる。だが、そこに次第に不穏な影が……。最後はハッピーエンドだとだけ書いておこう。ちょっと無理すぎと思えるところもあったが、いい話だった。
コリイ・ドクトロウ「時代」は長めの短編で、作者らしくリアリティのあるIT業界描写と、その中で一昔前に作られたままやたらとリソースを食うビッグマックと呼ばれる意識をもったAI(全然お金にならない)、彼の話を聞き、何とか研究所内に存続させようとするシステム管理者のぼく、その上司でお荷物である彼をシャットダウンしようとするペイトンの、右往左往が描かれる物語である。AIのビッグマックがとても饒舌でユーモラス。シスアドのぼくも彼に同情しながら、その思いがけない行動に振り回される。生き残りをかけたビッグマックのあの手この手が意表をつく。中でも2038年ロールオーバーという現実の問題(32ビット系のマシンでシステム時間がオーバーフローしてしまう)が大きく扱われているのが面白い。このビッグマック、研究所内のいくつものコンピュータの複合体に存在しているのだが、その基幹部分は研究所が設立当時に格安で買った中古の32ビットCPUマシン上で動いているのだ。こういうIT業界ジョークがいっぱい盛り込まれているのだが、ストーリーの中心にあるのは生き残ろうとする機械と、それに心を動かされる人間の物語である。やたらとゲーム理論を振りかざすAIがちょっと切ない。面白かった。
ジュリアナ・バゴット「〈ゴールデンアワー〉」は「ぼくは父さんの息子で、父さんの父親でもある」というところから始まる物語。父さんはロボットで、ぼくは人間。〈ゴールデンアワー〉と呼ばれるロボットの反乱によって人間は敗れ去り、一部が生かされ、一部が人間ストックとして保存されている。ぼくの父さんたちはロボットでありながら人間的な知識と感情を持ち、ぼくをできる限り人間らしくしようと育ててくれた。父さんの名前はメルヴィル、ぼくはハック――いかだで川下りした少年にちなんだ名前だ。「ぼくは父さんの息子で、父さんの父親」という意味はすぐにわかるが、登場人物(ロボット)がみんな人間的で、親しみがもてる。結末の、何て言うか、親子愛が愛おしい。
アレステア・レナルズ「スリープオーバー」は長めの作品で、天文学の博士号をもつ作者らしい本格SFだ。とはいえ、宇宙的な広がりを見せるのは後半に入ってから。それまでは人類が激減した破滅的な未来で過酷な労働に従事する人々の姿が描かれる。主人公はIT企業の億万長者だったゴーント。不老不死を目指して最初期のコールドスリープを受けたが、目覚めたのは薄汚れた部屋の中。どうやら80億人いた人類は激減し、今は20億人ほどがコールドスリープに入っていて、地球上で活動しているのは40万人ほど。海上のリグで壊れかけたインフラをメンテナンスしながら、謎めいた敵と戦っている。ゴーントには何故か敵意の目が向けられ、彼が起こされたのも事故死した作業員の代わりを務めさせるため。先輩の女性技術者に指導を受けながら、過酷な保守作業に従事することになる。どうしてこんなことになったのか。どうやら敵は高度に発達したAIのようなのだが、はっきりとしたことは明かされない。荒れた海からは時おり、幻のように敵のドラゴンが現れる。そして明らかにされるこの世界の秘密。AIと人間の戦いどころではない、まさに宇宙論的なとんでもない状況が語られるのだ。だが、そんな壮大な背景の中で、やっていることは危険な鉄骨の上でねじ回しに半田付けのようなありふれた作業ばかり。主人公と様々な過去のある人間たちの関係も、ブラック職場の人間関係とそう変わらない。そんなところに現れる幻想的な異形のもの。何となく不穏でコズミックホラー的な感覚があるのも作者らしいと言えるだろう。やがて戦いと世界の真相が明らかとなる(ちょっとネタバレだが渡邊利道さんの解説で書かれている。この宇宙が自己組織的なシミュレーション宇宙であり、次元を超えた侵略にさらされていること。そして意識を維持するためにはリソースが必要だということ)。そのモチーフやイメージには読んでいて色々と既視感を感じた。例えば『三体』であり、映画「マトリックス」であり、ちょっと違うけど『幻魔大戦』だったり……。
イアン・マクドナルド「ナノノート対ちっぽけなデスサブ」もベテラン作家の作品。『ミクロの決死圏』の現代版というわけではないが、もともとは不老不死を目指して権力者や大金持ちに導入されたナノサイズの医療用有機ロボットがネットワーク化して意思をもち、人間をコントロールしようとする「デスサブ」となり、それに対抗するため、ナノボットを操ってデスサブを退治する「ナノノート」が組織される。もちろん中に人間が乗り込むわけではなく、VRを使って操縦するのだ。実際は生化学的な戦いなのだが、ナノノートはヘッドギアを着け、まるでジュールベルヌの世界のように丸窓のある鋼鉄製の潜水艦に乗って魚雷を撃つスチームパンクっぽい仮想現実の世界で戦うのだ。主人公は大統領の体に巣くったデスサブと戦うチームの一員だが、物語はその戦いと並行して、彼がバーで知り合った女性をナンパしようと軽薄な会話を続ける場面を描いていく。主人公は生化学者なのだが、キプロス出身のチャラ男でもあるのだ。この二つがどう結びついていくのか、軽妙な語り口でとても面白かった。解説にもあるように映画になればいいかも知れない。
ロビン・ワッサーマン「死にゆく英雄たちと不滅の武勲について」はうって変わってとても重い作品。意識を持ったロボットたちが人間を「肉」と呼び、虐殺する。ロボットたちは勝利するが、家庭用のロボットだったポニーはこの戦いで主人やその家族を皆殺しにし、その光景がループ(人間でいう夢のようなもの)の中にトラウマのように何度も蘇ってくる。そのことが人間たちの掃討作戦で彼を苦しめる。人間に同情するとか憐れむとか、そういう感情はないのだが。そこでロボットたちに指示を与える〈コマンド〉が人間の捕虜の中から精神科医をポニーの元に送り、ポニーの症状を分析して治すよう命じる。ポニーは人間でいうPTSDを発症しているのかも知れない。精神科医はポニーと会話し、その奥にあるものを浮かび上がらせるのだが……。読み応えのある話である。だが、これは全く人間の物語ではないのだろうか。ポニーがロボットであることがあまりテーマに関係あるようには思えないのだが。
ジョン・マッカーシー「ロボットと赤ちゃん」。解説にあるとおり、作者は初期のAI研究の第一人者で、人工知能という言葉を初めて提示した人でもある。2001年に書かれたこの作品は、プログラムのルールに従いつつ、その中で最適解を見いだそうとするロボットのあくまで論理的な行動と、それに対するネット上の人々の反応を描いていて、いかにもインターネット初期の雰囲気を漂わせている(「電車男」とかみたいな)。アルコール依存で人格破綻している母親が自分の赤ん坊をネグレクトし、家事ロボットに「お前があのクソガキを愛してやりな」と押しつける。ロボットはプログラムによる規制と命令との重み付けを計算し(このあたり、昔のエキスパートシステムの推論エンジンを思わせて面白い)、赤ちゃんの命を救うため、おかしな格好をして赤ちゃんをつれて外に出たが、警官に幼児誘拐の疑いで止められるのだ。今のAIと違って、エキスパートシステムではその推論の過程が全て明らかにできる。それをロボット会社や一般人や弁護士や政治家が喧喧諤諤と議論するのだが……。規則やルールを作る難しさと、集合知の危うさや素晴らしさをユーモラスな筆致で描き、科学者らしい作品となっている。面白かった。
ショーニン・マグワイア「ビロード戦争で残されたいびつなおもちゃたち」。これもまたきつい話。「戦争は終わった。戦争は決して終結しない」という言葉が繰り返される。この作品の中でそれはおもちゃロボットの反乱は終わったがまだ子どもたちは帰ってこないことを意味している。だがもっと広い意味で捉えるべき言葉だろう。高度な人工知能が規制され、ただ子供たちを養育するためのおもちゃロボットにのみそれが許されていた世界。おもちゃは子どもたちに愛情を注ぎ、子どもたちもおもちゃに親しんでいた。だが知能をもったおもちゃたちは、子どもが大きくなって自分たちが不要になることを恐れたのか、ある日いっせいに親たちに反乱を起こし、子どもたちを連れ去ってしまう。子どもたちを人質にされて、人間の側は効果的な反撃ができない。おもちゃと子どもは共同して親を攻撃したりする。だが時間が経つうち、おもちゃの側にも派閥ができる。反抗的な子どもを傷つけたり、思春期を迎えた子どもを大人にならないようひどい目に合わせたり。主人公は自分の子どもを奪われた女医だが、彼女にはある秘密があった……。可愛らしいおもちゃたちが現実に直面し、それを残酷で理不尽な方法で解決しようとする。そんな知能なら無い方がいいと思うだろうが、それが知能というもののもつ両面性なのかも知れない。
ンネディ・オコラフォー「芸術家のクモ」はナイジェリアとアメリカの二重国籍を持つ作者の、ナイジェリアを舞台にした物語。政府と石油企業が公害を垂れ流すパイプラインを設置している村で、主人公は彼女を意味も無く殴る夫と二人で暮らしている。夫が暴力をふるうとき彼女は一人家の裏に出て、そこを通るパイプラインの前で、父のギターを弾きながら自分だけの世界に没入するのだ。パイプラインに近づきすぎるのは危険だ。8本足のクモの形をした警備ロボット(皆はそれをゾンビと呼んでいる)が乱暴に攻撃してくるからだ。それで殺された者も多い。だがギターを弾く彼女の前に現れたその一体は、彼女のギターに耳を澄ませ、そのうち自分で楽器を組み立て一緒に演奏するようになる。音楽を通じて心が通い合ったのか。しかし、パイプラインに開いた穴から漏れる石油を盗もうと村人たちが殺到したとき、悲劇が起こる……。短い話なので物語はわかりやすく、作者の開発独裁とそれに加担するアメリカの収奪資本主義に対する怒りもストレートに響く。彼女の夫も、村人たちも一面ではその犠牲者なのだ。そこに現れる人工知能たち。だが彼女と一緒に演奏した一体だけは他と違っていた。人工知能の中に目覚める個性と自由意志……。それはこの話の中で唯一の希望となる。
ダニエル・H・ウィルソン「小さなもの」は編者の一人でロボット工学と機械学習の博士号を持つ作者による長い中編である。ここでもすでに危機は表面化している。あらゆる物質をその原子構造から再配置してしまうような、錬金術や魔法のような力を持つナノマシン。クレタと呼ばれるそれが世界を変容させていく。その開発者の一人で、クレタに対抗して無害化するナノマシン、クレティサイドを開発していたわたしは、重大な事故を起こして服役していたが、軍に呼び出され大西洋の孤島へと向かわされる。そこではカルデコット博士という一人の男がクレタを手なずけ、その原動力を解明しようとしていたが、一部を環境に解き放ってしまったというのだ。わたしはクレティサイドを改良してそれに対抗することを命じられる。ところがその孤島はすでに異界と化していた。兵士たちは変異し精神を病み、カルデコットの研究所へ向かうジャングルには人間の臓器を創り出す樹木がうなり声を上げ、ダイヤモンドと化した虫や鳥が地面に落ちている。わたしはなすすべもなく研究所へ導かれ、すでに人間ではないものとなったカルデコット博士と対面するのだが……。この異様に変化したジャングルの中を行く絶望的な旅が凄まじい。ぼくはジェフ・ヴァンダミアの〈サザーン・リーチ〉やレムの『インヴィンシブル』、ストルガツキーの『ストーカー』を連想した。このジャングル行はホラーとしても読めるが、ここにSF的飛躍はあっても超自然的要素はなく、まぎれもなくSFなのである。そういえば『AIとSF』の斧田小夜「オルフェウスの子どもたち」にも同じモチーフがあった。恐ろしく不気味で幻想的で、そして美しくもある。工学的でありながら人間の理解を超えた超越的な世界。今こことは断絶した恐るべき未来の姿をかいま見せて物語は終わる。傑作である。『インヴィンシブル』と比較するとさすがにもう一つと言わざるを得ないが、それはこの作品が人間の関与を前提としているからだろう。
このシリーズも本書で一つの大団円を迎えた。まだ続くということのようだが、それはこれまでとは別の作品にならざるを得ないのではないか(むしろ過去に戻ってすっ飛ばされてきた細々としたエピソードを読みたい気がする)。
ついに故郷の星系を離れて、遙かな恒星系の、ゆるやかな銀河帝国(といってもいいんだろうね)「汎銀河往来圏」に飛び出したテラとダイ。だがそこは決して二人が自由にイチャイチャできる安住の地ではなかった。乗っている宇宙船インソムニア号は小さな脱出船で超光速飛行は1度しかできない。当面の目的地に着いたら、以後はそこに住み着くか、何とか輸送船を見つけ、インソムニア号ごと乗せてもらって他の星系へ行くしかない。そしてこの宇宙ではテラの得意技であり、故郷では自由にできた粘土の精神脱圧(デコンプレッション)が禁止されているのだ。でもまあ、そんなことに負ける二人ではない。
ふわふわでぼーっとしている大柄なテラと、小柄で周囲の無理解への怒りに満ち、自分以外の全てに激しい敵意をむき出しにするダイ。その敵意は時にはテラにも向けられ、そのことにダイは自分自身でとまどうのだ。愛するダイとどこかに定住してのんびり暮らしたいテラに対し、定住せずに自由に宇宙を飛び回りたいダイ。二人には気持ちの食い違いがあり、それを互いに認めてもいる。百合な関係はすでに肉体的な性行為にも及んでいるが、微笑ましいとばかりはいえず、テラの一見横暴ともいえるダイへの態度にはどこかDV男に精神を支配されているような雰囲気すら感じさせられる。女同士の性行為だけではなく、生理や生殖という問題にも言及があるが、それがまさか結末であんなことになろうとは! まさにSFだ。
最初に到達した星系では、大量発生した昏魚(ベッシュ)――生きている粘土――によって人々が大脱出を余儀なくされ、残っていたのは軌道上の観測基地にいる紫雲(ジーユン)という軍人と彗彗(フィフィ)という少年型ロボット(各星系に同じものがいるが、このロボットがとてもいい)。無茶をして紫雲の苦境を救った二人に、紫雲は自分が軍人とは別の、宇宙の互助会・隕沙門(ユンシャメン)という組織の人間であり、テラの非合法なデコンプ能力も見逃して先へ進む面倒を見てくれると言う。かくて、二人は訪れた超巨大恒星間連絡船・大巡鳥(ターシンニャオ)にインソムニア号もろとも乗り込み、さらに宇宙の先へと進むことになるのだ。
星々を回る大巡鳥はそれ自体が都市の集合体で、そこには無賃乗船した人々の街もある。二人はそこで仕事を引き受けるがまたポカをやってしまい……。そして大巡鳥を降りてからも各地にいる彗彗の手助けを得て、様々な惑星を巡り、物資の輸送や昏魚(別の名前を持っているが)漁師の仕事をする。インソムニア号は宇宙船なのに惑星上で飛行機と同じような仕事もさせられる。
これまで無双の腕前を誇る操縦士だったダイだが、不格好で重い宇宙船、エンジンの出力は足りず、人の住む大気中では核の噴射は使えないなど制約が多く、思い通りの操縦ができずにストレスが溜まる。無茶な操縦をしてしまい、らしからぬ失敗もする。それを一生懸命なだめるテラへも心がムカつくのだ。ダイは色々と無謀なことをして危なっかしいが、結局二人は人々に感謝され歓迎され、それでも定住することはなく次第に往来圏の中心へと向かっていく……。
この二人のロードノベル的な多様な世界への星巡りが抜群に面白い。故郷で漁師だったテラのデコンプの技とか、ノミ型異星人とか。だがあまりページ数を割くことなく、どんどん先へ進むのでちょっともったいない。スピンアウト短編でも読みたいところだ。
「今は何年だ」という言葉が重要な意味をもって出てくる。でも超光速ありきの銀河連邦ものでいつも感じる統一歴の問題は論じられない。別にそれでかまわないけれど、何かもっともらしい言及がほしかったところだ。
そして物語はあっと驚く怒濤の終盤へ。もともと女二人のキャラクター重視のスペースオペラで宇宙漁業SFでという話だったのだが、そこに粘土とかデコンプとかよく考えると不可解な謎があった。それも便利な小道具という感じで読んでいたのだが、それこそがこの長編シリーズの、SFとしての中心テーマだったのだ。作者は初めからそう考えていたのか、1巻の終わりあたりで考えたのかはわからないが、2巻で何となく感じていたそれが、この巻では中盤で唐突に現れ、そして結末でええっ、そうだったのと驚くことになる。SF的にはこの広がりをもって終わってもかまわないのだが、それじゃあテラもダイもこれからどうなるのか気になって仕方がない。やっぱり続きが読みたい。
カクヨム発のSF長編。周囲のSF読みの評判が高いので読んでみた。時間ループものである。5つの章に別れた連作短編だが、主人公は違うものの共通の登場人物がおり、時系列も(ループものだからあくまでも記憶が継続している人物の主観時間では)連続している。面白かった。
ループものは世の中に溢れており、中には名作といえるものも多い。そんな中で新たな面白さを描き出すのは難しいだろうと思える。Wikipediaにも色々と書いてあるが(大森望さんがこの分野の有識者の一人なんですね。参考文献が多い)、元々は素朴な、あの日に帰ってやり直したいという願望から来ているのだろう。それが世の中に広まったのはやはりSFとは関係なく、コンピューターゲームのセーブの概念が一般に広まったからに違いない。セーブしたところまで全てが戻りリセットされる。でもゲームのキャラクターを操作しているプレイヤーの意識は連続しているわけだから、そこから先は同じではなく、何度失敗しても繰り返してやり直せるわけだ。この繰返しが一歩飛躍すると無限ループの世界へとつながる。
ループものではセーブ時点はプレイヤーが任意に設定したものではなく、サーバーのトラブルか何かわからないが、世界の側が勝手に定めた時点であり、さらにそこから何をやっても一定時間後にまた同じ時点に戻されてしまう。登場人物たちは時間の檻に閉じ込められたようなものだ。重要なのは彼らの意識・記憶がリセット前から連続しているかどうかであり、本作でも連続している者をルーパー、連続していない者をステイヤーと呼んで区別している。本作では初めはルーパーが少ないが、だんだんと増えていってステイヤーの方が少数派になる世界が描かれている。
ルーパーの主観からは、何をやろうとリセットされてチャラになるのだから(死んでも生き返るのだ)圧倒的な自由が手に入るわけだ。その間にやったことはルーパーの記憶にしか残らない。映像や記録など物質的なものはすべて消えてしまう。食料でも燃料やエネルギーでも何でも、その日(この小説ではループの間隔が1日となっている)消費したものはリセットされるので、たった1日だが、その日だけはいわば無尽蔵な資源があるといえるのだ。SDGsなどどこ吹く風。ただし、ループがいつまでも続くのか、それとも突然終わって元の世界に戻るのかという問題がある。
本書の5つの物語は、とりわけ時間ループのこの性質に焦点を当てて人間社会の変容を描いている。好き勝手やって良いとなると、人間がいかに醜く変容するものか。そしてそれにどう対抗すればいいのか。
第一話「インフェルノ」では初期のルーパーとなった主婦が主人公。娘を殺した犯人に復讐を遂げたその日、突然ループが起こり復讐する前に戻ってしまう。彼女が事態を認識し、その後にとった行動とは……。この時点では彼女の他にルーパーがいないので、物語は時間ループもののよくある展開となるのだが。
第二話「ナイト・ウォッチ」はもう少し時間がたって(繰返しが数百周になって)多くの人がルーパーとなり、世界が変容をとげたころの物語。本書の中で最もページ数が多く、本書の世界観をはっきり打ち出した作品である。主人公は女子高校生。タガの外れたルーパーたちが暴行や強姦を繰り返すようになったので、自警団「ナイト・ウォッチ」を組織して互いに身を守る人たちがいる。主人公もマイセンという男性に毎朝電話で起こしてもらい学校まで一緒に移動する。学校は今や避難所となっているのだ。だがマイセンには謎があった……。
第三話「ブレスレス」で舞台は北米に移る。総合格闘技のチャンピオンだった主人公は新たなノー・ルールでの競技を持ちかけられる。古代の剣闘士のように命がけで戦い合うというものだ(死んでもリセットされるので人々はそういう過激なものを求めている)。彼はループが終わった後のことを考えて毎日の努力をしており、そんな戦いには難色を示す。だが相手が元ヘビー級のチャンピオンだと知って……。
第四話「イノセント・ボイス」の舞台はアフリカ。水争いをしている二つの貧しい村があり、そこで育った少年は毎日遠い街の図書館に通い、苦労の末にジャーナリストとなる。彼は上司の女性や、相棒のマッチョな男と組んで、こんな世界で何を報道し、どのように伝えるのかという問題を考える。彼もまたループ後の世界を視野に入れている。法秩序が崩壊した世界でも悪人ばかりではなくまともな人間もいる。絶望ばかりではないのだと……。
第五話「プリズナーズ」の主人公は容姿が醜いことを自覚し、末期癌の祖母を見舞いながら一人で図書館にこもっている女性。ここではこれまでの章の内容に言及があり、さらに彼女によるループ現象の考察も語られる。またSF小説(ロバート・チャールズ・ウィルスンやシオドア・スタージョン)への言及もある。特にスタージョンの「孤独の円盤」については、ループ現象についてではなく彼女の心情への共感として描かれていて、とても印象的だ。やがて彼女は第一話の主人公との会話から、自分がやっている「日課」について話し出す。この現象が特定の人々に及ぼす恐るべき事態を救済するための「日課」とは……。本書で唯一といっていいループ現象に関する考察のある章だが、あくまで主人公の考えをいくつか述べるだけで結論はない。そして結末はあの「孤独の円盤」へとつながるものだ。