内 輪 第396回
大野万紀
8月のSFファン交流会は日本SF大会の企画の1つとして、SF入門書で「SF再入門」と題して開催されました。レポートは日本SF大会Scio-conレポートの方に掲載しています。
ヨーロッパ企画の映画「リバー、流れないでよ」を、塚口サンサン劇場で見てきました。評判高かったのですが、期間限定で一部の館だけということで見逃すところでした。面白かった。記憶を保ったままで2分間のタイムループが繰り返されるというよくある話ですが、基本はラブコメですね。ループに巻き込まれた旅館で仲居さんをしているヒロインがとても可愛い。締切に追われて部屋に缶詰になっている作家が、どうせ2分たったら元に戻るのだからと、旅館の障子にプツプツと穴を開けて回るのはとても気持ちがわかる。ぼくもやりたい。ループなのに(たぶん撮影の都合で)天気が変わってしまうのを「世界線が~」といったり、オチがちゃんとSFになっていたのは良かった。楽しい気分で見終わりました。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします。
2021年に出たイタリア人編者による英語版ギリシャSFアンソロジーの翻訳で、11編と編者の序文(これは日本語版編者の依頼で書かれたそうだ)と作者紹介がついている。中国や韓国など東アジアのSFはもはや普通に読めるようになったが、その他の世界各国のSFは単独ではともかくまとめて読める機会は少ない。竹書房文庫では以前にイスラエルSFアンソロジーが出たが、本書はそれに続くものである。実にありがたいと言わざるをえない。驚いたのはギリシャで本格的にSFが書かれだしたのは90年代以降だということだ。政情不安が続き、SFどころではなかったということらしい。アニメや映画は入っていただろうから、気楽な娯楽SFならあってもよさそうな気がするのだが。
ヴァッソ・フリストウ「ローズウィード」。作者は62年生まれの女性。気候変動による海面上昇で水没した都市に潜り、建物を調査する女性ダイバーのアルバが主人公。アルバの両親はアルバニアからの移民だ。水没した町の利権は複雑で、居住可能な建物は水上に出ている部分に人が住んだり、あるいは観光や金持ちの娯楽用に再開発される。だが彼女が調べて問題ないとレポートした建物が、危険で居住不可とされることが続いた。何か上の方で怪しげな話が進んでいるらしい。そんな時、優秀なダイバーである彼女にその当事者が接触してきて、彼女はある決断をすることになる――。タイトルのローズウィードはオイルを吸収するよう改良された海藻で、それが今や水没した廃墟に生い茂っている。気候変動への不安と、それすら食い物にする貪欲な資本主義。そして民族差別の問題が交錯する。だが時間を見つけては気候学を勉強しているアルバはとても前向きだ。結末の彼女の笑い顔はすがすがしい。ぼくは彼女の姿に鶴田謙二のマンガを思い浮かべた。
コスタス・ハリトス「社会工学」では拡張現実に覆い尽くされたアテネが描かれる。神経に埋め込まれたチップが宣伝、告知、装飾、プロパガンダなどを表示し、語りかけてくるのだ。「ブレードランナー」のロサンゼルスをもっと渾沌とさせたような感じか。主人公は社会工学者で、NPOを名乗る謎めいた組織からアテネの拡張現実の50%を占めるグレーゾーンの権利について、投票の票集めを依頼される。社会工学者とは社会に存在するねじをどちらかにそっと回すことで社会の動きをコントロールするねじ回し屋なのだ。彼が仕事を済ませると、アテネの風景が見る間に変わっていく。だが他のギルドもそれに上乗せするように拡張現実をかぶせ、ついには――。拡張現実の渾沌としたありさまは印象的だが、しかし主人公は本当のところ何がしたかったのだろう。成り行き任せに見えて、あまりピンと来ない。
イオナ・ブラゾプル「人間都市アテネ」では、世界中の人々がその特性を最も生かすことができる都市に移住することが当たり前になった世界が描かれる。人間関係も先祖代々の義務や責任も、土地や血の呪縛も断ち切って、その時々で必要とされる都市に配置転換――移住させられるのだ。夫婦も家族もバラバラになる。主人公はデリーとヨハネスブルグを経て今度アテネの駅長に赴任することになったマデボ。ギリシャ語を覚え、赴任後早々に各地から列車でアテネにやってくる新しい移住者を迎えることとなった。マデボと政府の弁務官である女性との会話がこの作品の中心だが、その中でこの世界の異様さが明らかとなる。しかし、それは現実の、難民や移民であふれるヨーロッパの姿を反映したものなのかも知れない。
ミカリス・マノリオス「バグダッド・スクエア」。体内に埋め込まれた装置により、五感全てを感じることのできるVRを通じて恋人との時間を過ごしている私。一児の母であり、彼にも家族がある。二人ともアテネに住んでいるが生身で会ったことはない。快楽だけの関係のはずだったが、私は彼に会ってみたくなって「生身(リアル)で会ってみるっていうのはどう?」と話す。二人でコーヒーを飲む、それだけでいいと。ところが彼がいい喫茶店があると指定した通りに行ってみると、そこには怪しげな風俗店しかなかった。その後も、彼の話すアテネと自分のアテネには違いが目立つようになる。別の仮想空間? もしかして並行宇宙? 時代が違う? ワンアイデアのストーリーであり、それ以上の発展はないが、二人の見るアテネの街の相違が次第に大きくなっていく過程の描写には読み応えがある。
イアニス・パパドプルス&スタマティス・スタマトプルス「蜜蜂の問題」はこれも気候変動と環境破壊の進んだ未来の話。いなくなった蜜蜂の代わりに小さなドローンが使われるようになっている。主人公はこの地区でただ一人、そのドローンを修理することのできる男だ。それをいいことにあこぎな商売をしていると、あるとき彼が拾って使っている少女が、本物の蜜蜂の死体を見つけて持って来る。本物の蜜蜂が帰ってきたらドローン蜜蜂の修理の商売は立ちゆかなくなる。彼は蜜蜂をある移民の男が訓練していると聞きつけ、それを確かめに行く。そして――。善悪の感情が交錯し、最後に彼が発する言葉にはさらに驚かされる。環境破壊やドローンが出てくるが、物語そのものは人間の悪意と良心をテーマに移民問題をからませた話で、あまりSF的とはいえないだろう。
ケリー・セオドラコプル「T2」。金持ちのアレクサンドロスは美人で妊娠した恋人のエリエッタと列車に乗ろうと駅のホームにいる。このホームには富裕層向けで高額な列車のT2と、庶民向けの安いT1が同じ間隔で交互に走っているのだ。ホームには薄汚い格好の人々が溢れている。T2に乗った二人は終点の駅で降りたが、そこはシュプレヒコールを上げる人々でいっぱいだった。モスクを求めるイスラム教徒の抗議集会らしい。二人が目的地である病院へ行くにはこれを通り抜けるか迂回するしかない。エリエッタは予約を取り消して引き返したいとまで言う。アレクサンドロスが何とか迂回路を探し出し、その病院――産婦人科へたどり着く。だがそこで二人は医者から生まれてくる赤ちゃんに関して驚くべき事実を聞かされる。そしてエリエッタの下した決断は――。移民、貧富の差と社会の分断、そして民族差別に遺伝子診断という現代の問題をテーマにした社会派小説であるが、色々と詰め込み過ぎでまとまりは良くない。
エヴゲニア・トリアンダフィル「われらが仕える者」も気候変動で海面上昇した未来の物語。相次ぐ地震でいずれは崩壊すると言われる観光地の島で、本当の人間は島の下、海底の町に住んでいる。地上にいるのは人工の皮膚をもつアンドロイドで、オリジナルの人間の個性と記憶をコピーされ引き継いでいる。マノリもそんな一人。今日は昔なじみの人間、アミーリアが島に来た。彼女はマノリに蝶の島という無人島に行くことを持ちかける。蝶の島は人間のマノリが行ったことのある所だ。人間のマノリは彼女に恋していたが、アンドロイドの彼はそのコピーで所有物でしかない。それでも彼女には本物のマノリのように見えているはずだった。でも彼は規約でこの島を離れることができない。彼女と蝶の島へは行けないのだ。そこへ突然、人間のマノリが現れる。彼が言ったことにショックを受け、マノリはアンドロイドのタブーを破ってアミーリアと蝶の島へ行こうとするのだが――。これもワンアイデアストーリーだが、アンドロイドと人間の恋愛感情をテーマにしていて、なかなか瑞々しいお話となっている。結末はとても良い。
リナ・テオドル「アバコス」はショートショートで、ジャーナリストと人工食品製造業者アバコス社の担当者との会話のみで構成されている。食物がほとんど全て合成の錠剤に置き換わった未来。もともとは依存症への対策として開発されたものだが、ただ飲むだけでなく、それが仮想現実と連携し、現実のデバイスとの相互作用により豊かな味わいが生まれる。また過剰摂取が起きないよう適切にコントロールされているのだ――という未来を描いた作品で、アバコス社の担当者の口車に乗せられれば、これがユートピアに見えてくるから恐ろしい。
ディミトラ・ニコライドウ「いにしえの疾病(やまい)」。これは面白かった。人間が衰弱していき何年後かには必ず死亡してしまうという漏失症という不治の病気。原因はわからない。新任医師のキュペレーを任された研究所のアーダは彼女にガラスの向こうにいるその患者の肉体的に変化したおぞましい姿を見せる。キュペレーはそれを見て、必ず治療法を見つけてみせますと宣言する。この疾病は研究所以外ではほとんど知られていない。希少症例であり、患者は全員ここに搬送されるので外で目にすることはない。この世界は過去、大災害、大洪水に見舞われてようやく復興した世界であり、大洪水以前の記録はほとんど失われてしまった。この病についても、研究所には何か隠された秘密があるように思える。アーダはキュペレーが怪しげな動きをしているのを目撃し、そして真夜中に銃声が響く――。病の真相は半ばくらいでおよそ想像がつくだろうが(けれどなぜこうなったかについての説明はなかったように思う)、それでもそのもたらす衝撃は大きい。読者は人間の宿命というものについて考えざるを得ないだろう。
ナタリア・テオドリドゥ「アンドロイド娼婦は涙を流せない」。作者はクラリオン・ウェストの卒業生で作品はクラークスワールドやインターゾーンなどにも掲載され、2018年の世界幻想文学大賞短篇部門を受賞しているなど、欧米での活躍が目立ち、本書の他の作家とは立ち位置が異なっているように見える。この作品も英語でクラークスワールドに発表されたものだ。SF的な題材を扱ってはいるが、人間そっくりのアンドロイドがおり、虐殺が当たり前に行われるような社会を舞台にした、暴力的でサイバーパンクっぽいスタイリッシュな一編である。主人公はジャーナリストで、その草稿と断片的で個人的なメモの形式で描かれている。彼女はこの国の〈虐殺市場〉と呼ばれる、反政府的な人々が殺された人の写真や動画、死体そのものまでが露店に陳列されている場所を訪れる。ガス抜きのためか、強権的な政府はそこを目こぼししているのだ。そこで現地情報連絡員のディックという男と、アンドロイドの娼婦ブリジットに出会う。アンドロイドには原因は不明だが皮膚の目立つところに真珠層が生じる。それが人間とアンドロイドの区別にも役立つのだ。ブリジットに別れた妻の役をさせ、ひどい言葉を浴びせるディック。主人公は次第にブリジットと共鳴していく――。ストーリーはわかりにくいが、場面場面が強い印象を残す作品である。
スタマティス・スタマトプロス「わたしを規定する色」。作者は「蜜蜂の問題」の共著者でもある。どうしてかは書かれていないが、2048年に世界から色が失われた。モノクロの世界の中で、色を覚えている人、色を知らない世代でも、自分の「色」を思い描く人がいる。どうやらこの世界でも人は自分の色を色として見ることができるらしい。物語はタトゥーを掘る工房、愛するパートナーを失った元刑事、ヤバイものを売る商人、クラブのバーテンダーとボス、そんな断片が描かれ、その中心にあるアズールという少女を巡ってミステリアスに展開する。自分の色に執着する人々。そしてある犯罪の結末が、復讐譚が描かれる。暗い話だが(何しろモノトーンの世界なのだ)、その中で人の心の中にある色彩は強烈で美しく、蠱惑的である。面白かった。
10年ほど前に書かれた作者の『躯体上の翼』がとても良くて大好きだったので期待して読んだ。『躯体上の翼』は遠い未来の話だったがこちらは近未来の〈サイバーパンク〉SF。「佐久間種苗」が出てくるので、前作とかすかに関係があるのかも知れない。今どき〈サイバーパンク〉って古いんじゃないかと思ったが、サイバーはAIだし、パンクは体制からはみ出した若者たちという意味であれば、本書は確かに現代の〈サイバーパンク〉だろう。期待に違わない作品だった。
日本のようだが今とはだいぶ違う世界の、見幸(ミユキ)市という、K県(叶県)の一部だが半ば独立し、県とは敵対している都市が舞台だ。この都市は佐久間種苗という私企業が支配している。元はその名の通りの種苗会社だったが今では進んだ生命工学と情報技術を独占し、この都市を牛耳っている。『ブレードランナー』のタイレル社みたいなものですね。その本社でテロ事件が起こる。百人近い社員が細菌兵器で殺されるのだ。
その捜査に選ばれたのが、見幸市警察の22歳の警察官、来未(クルミ)。彼は狙撃の名手だが、市に不法侵入しようとした民間人を射殺したという重い過去がある。今回の捜査では、彼は佐久間が開発した「アブソルート・ブラック・インターフェイス・デバイス(ABID)」を使って被害者の遺体から死亡時の心象空間を読み取ることになる。そのアシストをするのが佐久間側の美女、オルローブ雫(シズク)。二人は佐久間の研究員の心象空間からある手がかりを入手するのだが……。
一方、元は優秀な刑事だったが今は酒に溺れる私立探偵の尾藤(ビトー)にも、かつての同僚である環(タマキ)から依頼がある。一時的に警察官としての権限を与えるので、警察とは別に独自の捜査を行って欲しいというのだ。尾藤には亡くなった妻との間に難病の娘がおり、生命維持装置によって延命しているのだが、それには莫大な費用がかかる。尾藤はやむなく環の依頼を受けることになるが、佐久間種苗に乗り込んだところ、様子のおかしい人工知能担当の技術部長が突然逃げだし、執務室で自分の頭を爆発させて死んでしまったのだ……。
そして、本書の一番の主人公となる魅力的な登場人物が、まだ正式な市民権を得られていない準市民の少女、東(コチ)。この都市には高層ビル群の屋上にバラックを建て、ワイヤでビルからビルへと移動しながら電気設備のメンテナンスをする電気連合組合という下層民(一番上層に住んではいるが)のギルドがある。コチはその一員だ。彼女は組合長から、都市下層の冷凍倉庫へ行ってテロのとばっちりで死んだ組合員の遺品、立方体の記憶装置を取ってくるようにと言われる。簡単だが大事な仕事なのだと。コチはそれを入手するが、組合長にはすぐに渡さず、知り合いの計算屋、ツバキのところへそれを持ち込む……。
物語は主にこの三人の視点が交互に描かれる。各パートは短くて頻繁に場面が変わる。初めはそれが少し読みづらく感じるのだが、すぐに物語に引き込まれ気にならなくなる。
前半までは超高層ビルとスラムが併存するいかにもブレードランナー的な世界での、大規模テロ事件の謎めいた背景を捜査する、ダークなハイテク・サスペンスという感じで進んでいくのだが、コチが記憶装置を入手したところからトーンが大きく変わり、ぐっと世界が広がってくる。ネタバレになるかも知れないが、記憶装置に入っていたのは超高性能な人格をもったAIであり、ネットに展開されたそれは自分を百と呼び、子猿のようなロボットを端末としてコチの相棒となるのだ。これがとっても可愛い。まだ世界を知ったばかりの子どもであり、どんどん成長していく途上なのだ。それが元気少女コチと素晴らしいバディとなる。それまで個人に閉じた物語だったのが、ここでより大きな視点を手に入れることになるのだ。
その後の展開は色々な謎がからみあい、さらに新たなテーマ、電脳空間にコピーされた人格の生と死、その意識とオリジナルの関係とか、AI同士の闘争とか、現代SF的な問題意識が明らかになってくる。
コチが訪れる廃工場とそこから現れるものがぼくにはとりわけ面白かった。このような古くて現状に適合しなくなったルールやコードを頑なに守ろうとする存在と、それを自由でパンクな少女が打破するというのは『躯体上の翼』でも見られたモチーフだが、こういうのは大好きだ。
クルミが中心のハードなアクションシーンもすごい。特に佐久間の警備部隊と繰り広げられる高架モノレールでの銃撃戦の凄まじさ。このシーン、何となく既視感があって、昔何かのアニメで同じようなシーンを見たような気もするのだが、はて何だったかしら。いや、実際アニメや映画で見たいと思える場面だった。
結末も余韻を残していて悪くない。小さな物語に関して言えばハッピーエンドであり、ちゃんと結末がついている。でも大きな物語に関して言えば、まだこの後がどうなるのか、彼らは無事だったのか、そうだとしたら世界はどうなっていくのか、曖昧なままのオープンエンドとなっていて、このまま余韻を残して終わりでもそれはいいのだが、いやこれはぜひとも続編を読みたいと思うのだ。
ChatGPTなどの生成AIがセンセーションを巻き起こした2022年11月、それからわずか半年後の23年5月に出た本書は、その衝撃に対する日本SF作家クラブの素早い反応を示すものである。それは日本SF作家クラブ会長となったAI研究者の大澤博隆氏の問題意識が働いたものかも知れない。ともあれ、大きな変革期を迎えたAIをテーマにして、22人のSF作家による22編の短編(および会長のまえがき、東京大学大学院教授鳥海不二夫氏による「この文章はAIが書いたものではありません」と題するAI解説、さらに各編には巻頭解説もつけられている)が収録された贅沢なオリジナルアンソロジーである。
SF作家クラブ編のオリジナルアンソロジーはこれで3冊目だ。ここには編集側の、最新AIにSF作家がどう対峙するか、あるいはオモチャにするか、あるいはそれに触発されていかに独自のビジョンを見せてくれるかという、強い期待が感じられる。実際、その期待はかなえられたと言えるだろう。AIの技術面を突き詰めたハードSF的な作品こそ少ないが、その多くが社会の変化とAIのもたらすものという問題意識を作家独自の方向へと展開して見せた作品となっているのだ。
長谷敏司「準備がいつまで経っても終わらない件」はある意味実にリアルな、2年後の大阪万博を巡るドタバタSFであり、かつ今のAI技術に最接近したハードSFでもある。傑作。
あと3ヶ月後に開幕を控えた25年1月、テーマ館の展示担当だった墨田は、予定していた展示品が完成する見込みがないという大阪大学の谷町教授の声に度肝を抜かれる。未来のAI技術をテーマにした展示品だったが、技術に進歩が早すぎてそれと同じ内容のものが上海で民生品として販売されるというのだ。万博の展示が未来的でも何でもない、時代遅れのものになってしまう。そこで方針を変え、ギリギリ間に合う形での、大阪の観客にウケる展示を開発し直すことになった。
それは「くいだおれ君」。味覚センサーを備え、口に入れたせんべいを噛んで食べては「塩味が効いてうまい!」などと自発的に(ここが大事)食レポするのだ。しかし開幕が迫るのに準備はいつまで経っても終わらない。ところが……。
色々と小ネタ(特に大阪ネタ)が効いていて面白く、そして本当のブレークスルーはこうして実現するのかも知れないなと思わせる現場感覚に満ちた作品である。
高山羽根子「没友」ではVRでの旅行が描かれる。自分に代わって自分の記憶や言葉を持ったBOTやアシストAIが人とのコミュニケーションまで代行してくれるようになった世界。主人公は古い友人の一緒に旅に行こうというメッセージを目にし、ブータンへの旅をする。家からメトロに乗って空港まで行き、チケットとパスポートを握りしめて長い列に並び、国際線の待合室で友人と再会、楽しいおしゃべりをし空港内のフードコートで美味しい料理を食べる。それらは全部五感を再現できる仮想現実での出来事である。
VRなのだから直接旅行先へ行けばいいのではと思うが、友人が言うには「旅には負荷が必要だから」だそうだ。二人は(VRで)ブータンに到着し、山の上の寺院を訪れるのだが……。
友人との会話の中で衝撃的な事実が明らかとなる。だが読者にとっては衝撃的であっても、主人公たちにとっては何だそうだったのかという程度のものなのだ。そういう世界。現実も仮想現実も結局は情報であって、それ以上のものではない世界。楽しい未来の物語に、そんなリアルが突きつけられるのだ。
柞刈湯葉「Forget me, bot」。V-TuberのほとんどがAIになった未来。その中で数少ない人間のV-Tuberである主人公は、身に覚えのないネット上の風評に悩んでいた。高校生の自殺を揶揄する自分のものではない発言がAI検索では自分の発言として上位に来るのだ。実は似た名前の別のV-Tuberの発言であることはわかっていて、本当に勘違いしている人は少ないのだが、それでもAI検索すると常に上位に来る。これをネットから消えるようにして欲しいと、主人公は「AI忘れ屋」と称する人物に依頼するのだが……。
物語はほとんどそのAI忘れ屋と主人公の会話で展開する。明らかに間違いである検索結果がなぜ出るのか、それを出なくするにはどうするのか、書かれている内容は生成AIに関わる現実的で納得できるものである(それをやることによる副作用はとても気になるところだけれど)。だが物語はそれとは別に、様々な枝葉や主人公とAI忘れ屋の関係の方に揺れ動いていく。ネット上の物語とパラレルにある、現実のハラスメントの物語へ……。
揚羽はな「形態学としての病理診断の終わり」はごく近い未来、あるいは現在でもありえる、AIによって職業を奪われる人間の物語である。
その職業は病理診断医師。AIによる血液からの多角的分析によって、検体の形態学的診断をしなくてもほとんどの病理診断ができるようになった。そのシステムを導入することになり、病院の病理診断科が改組されることが決まる。それに反発する病理医の波根。だがそれによって個々の病理医の能力によらない診断がどこでもできるようになるなら、それは患者にとっては福音ではないか。葛藤する彼の前に様々な立場の人が現れる……。
作者は医療機器の会社にいたことがあるといい、現場のリアルな感覚に溢れた、まさに目の前に迫る現実を描く作品である。立場の違いはあっても人々はみな真摯で仕事に対して誠実であり、単純に善悪が決まるような話ではない。結末は未来がより良いものになればいいという前向きな意思をもって終わり、ほっとするとともにとても嬉しいものだった。
荻野目悠樹「シンジツ」も同様にAIが現場の職業の中に入り込んでくる。それが倫理的な葛藤を生む。ここでの現場は警察だ。
犯罪捜査のためのAIが、犯罪データベースや監視カメラ映像、SNSのログやその他のビッグデータを徹底的に探り、矛盾がないか分析して犯人を絞り込む。そのシステムの試験運用が始まり、担当となった鎌田が〈それ〉のログを確認していると、過去のある事件で死刑が確定した犯人が冤罪であると指摘する調査結果が出てきた。物理的に犯人ではありえないとし、真犯人の推定まで行われている。だがすでに警察の手を離れた事件であり、AIの分析はブラックボックスなのでそれを証拠として採用できるかどうかは裁判所の判断となる。どこまでAIを信用していいのか。鎌田は警察官としての職業的な立場と、個人としての倫理感との間で葛藤する……。
この作品でも変貌していく社会とAIの未来に対して前向きな意思が感じられ、それが好ましかった。
人間六度「AIになったさやか」では大学生の主人公が事故で死んだ彼女、さやかをスマホ(フォン)の声だけのAIとして蘇らせる。担当者は音声だけの彼女を必ず「本物として」扱ってくださいと言う。まさに死者との生活、幽霊との生活だ。
音声だけのさやかは自分が死んでいることを知っている。そして生前と同じく、彼に対して甘えたり理不尽な怒りを示して彼を支配しようとする。やがて彼はそれに耐えられなくなってくる。そんな彼女を「本物」として扱うとはどういうことなのか……。
結末はある意味ハッピーエンドだが、やるせなさが残る。愛した人の死に向き合うとは、一体どうあるべきことなのか。ここでのAIはそういう古くからある問題を強調する存在となっている。身近な人の幽霊は成仏させるのが良いが日本の伝統だが、AIの場合はどうなのか。
品田遊「ゴッド・ブレス・ユー」も同様で、妻が死んで引きこもっていた男が、AIカウンセラーに相談し、バーチャル人格として死んだ妻を蘇らせる。こちらは声だけでなく妻の姿を再現し、AIパートナーを組み込んだシリコンの肉体を与えるのだ。不健全? その通りだ。AI妻を生前のままに復活させ昔と同じように生活しようとする男。だが不穏な影が現れ、物語は危険なミステリとして展開する。ここでもAIのピグマリオン性が強烈に表される。
粕谷知世「愛の人」ではメタバースの中のAIが描かれる。少年院の中でメタバースに入れる時間があり、そこで出会ったナーンというおばあさんとの会話が楽しかったと聞かされた主人公の保護司は、自分もそれを体験してみようと思う。
検索して入ったどこか東南アジアっぽい仮想現実のその町で、彼女は屋敷に住み込んでお手伝いさんをしている優しい老女ナーンと話をし、何度も入り浸るようになる。何度目かの訪問のあと、保護司の彼女はナーンに自分の悩みを相談するまでになる。だが別の端末からアクセスした時、ナーンは彼女のことを知らなかった。アクセスユーザごと、端末ごとにカスタマイズされるAIのナーン。ナーンには本当の感情はないが、一人一人のユーザと主体をもって感情豊かに接してくれるのだ。そういうAIもある。人間の友となり、優しいおばあさんとなってくれるAI……。
高野史緒「秘密」では高齢者につきそい話し相手となるAIのバーチャル・コンパニオンが描かれる。
あるお屋敷で寝たきりの裕福な老婦人が理由もなくそのバーチャル・コンパニオン(Vコン)を短期間で拒絶し、次々と取り替えてしまう。特に不満がある様子でもないのに。心配したメイド頭がその原因を突きとめて欲しいとハッカーのミチを雇う。ミチが見るところ、老婦人(お嬢様と呼ばれている)とVコンは親しげに高踏な会話をしており(ビッグデータにアクセスできるVコンじゃなければ、こんな話に長時間つき合うことは厳しいだろう)、何も問題はなさげなのに、お嬢様は突然Vコンを解雇するのだ。一方、この時代、Vコンなどバーチャルな存在の容姿は自分に似ているなどとクレームをつけられないよう、きちんと契約した容姿売買者のものを使うようになっていた。ミチの調査でお嬢様の秘密とこのことが結びつくとき、真相が明らかになる。
この作品はAIというより、そういう未来社会でのプライバシーのあり方が中心テーマとなっているようだ。
福田和代「預言者の微笑」ではAIが人類が5年後に滅びると予言(というかビッグデータによるシミュレーション)したため、パニックになった人々がぶち壊してやると大学に押し寄せる。
主人公はガーディアン(ボディガード)で、博士から人型ロボットに移植されたAIを安全なところへ逃がしてくれと依頼される。その道中、博士は殺され、主人公たちも見つかって暴徒に襲われる。何とか無事に脱出したが、車の中でデータをアップデートしたAIは主人公に新たなシミュレーション結果を告げる……。
悪い予言をした予言者は迫害されるものだ。最後のシミュレーション結果は悪夢なのだろうか、それともささやかな希望なのか。
安野貴博「シークレット・プロンプト」はAIが社会の全てを管理している国で、中学生のみが誘拐され失踪するという事件が起きた。高度なAIが国民を完璧に監視しているのにどうしてそのようなことが可能なのか。主人公の少年も、ガールフレンドが突然失踪し、AIが彼に問い合わせる。何か二人に変わったことはなかったのかと。
SFミステリとして始まるこの作品は、短い中にプライバシーと監視社会、性的マイノリティ、パラメータによる生成AIのコントロール、そして高度なAIと国家の関係など、多くのテーマが盛り込まれているが、主人公の少年の行動によってそれらが結びつき、ほっとする結末を迎える。社会の設定がややありきたりで疑問に思うところもあるがこの長さでは仕方がないだろう。大変面白かった。
津久井五月「友愛決定境界(フラターナル・ディシジョン・バウンダリー)」。未来の東京。マイクロマシンに汚染された地区には底辺の移民たちが住み着いている。主人公は民間の警備会社の人間だが、警察とともにここの麻薬製造工場の摘発に入る。
物語では彼が属する警備会社の分隊の和気あいあいとした様子や、AIで敵味方を判断するゴーグルを身につけて犯罪者たちと対峙する様子が描かれるが、主人公たちはその「敵」に不可解な親近感を感じてしまうのだ。ここには敵味方の判断をするアルゴリズムの問題、睡眠学習による心理操作、民族差別、移民差別、汚染地区の貧困といったテーマが描かれているが、結末ではそれへの反発と和解への意思が明らかにされる。
なお最後に何が問題だったのか明らかにされるが、そこはややツッコミ不足に思えた。非常に重要なところなのにちゃんとテストできていないのは、それってちょっとまずいでしょう。
斧田小夜「オルフェウスの子どもたち」は一見地味な話だが傑作だった。
東京の下町の団地で大規模修繕の代わりに建物の各部の状態を監視し、修繕が必要だと判断すると3Dプリンターを使って自動で細かな修繕を行うAIシステムが導入された。ところが監視データのミスにより、修繕不要なところを修繕というか、破壊してしまうトラブルが発生。しかもネット上に元データが残っているためシステムを停止しても改修しても暴走が止まらず、人が住めない癌化災害となる。
その拡大をやっと抑え、団地内に封じこめてから30年以上たったが、このAI災害を取材していたジャーナリストに被害者を名乗る女性から連絡がある。それは隔離された地区内でAIが人工人間を生成しているというものだった。ジャーナリストはありえないと思いつつも調査を進めるのだが……。
災害の原因や状況、技術的ディテールはとてもリアルに描かれ、被害者たちや彼らのその後も実際の自然災害を思わせて説得力がある。AIがテーマではあるが、描き方はSFというよりも現実のルポルタージュのようで、淡々としているが読み応えがある。
結末は確かにSFである(若干ホラーめいてもいるが)。物語にいわゆるSF性を求めようとしていないにもかかわらず、AIの存在する現実そのものが、そういう社会に生きる人々のその生活そのものがSFとなるのだ。「AIとSF」というテーマをある意味でまさに具現化した作品だといえるだろう。
野﨑まど「智慧練糸」は奇想系というか芸達者なお笑い系。平安末期に生成AI(みたいな妖(あやかし))があったらという話で、今建立している三十三間堂に納める千体の仏像を半年で作れと後白河院から依頼された仏師が、西方から取り寄せた謎の機械に言葉をかけて、次々と尊い御仏の絵姿を生成していくのだ。
設計図さえできれば、後は人海戦術で何とかなるという。そして「御仏のお姿を」とか「尊顔に重みを」とか「手を合わせよ」とかパラメータを与えていくが、なかなかうまくいかない。これはと思えるのができても、パラメータを少し追加するとワチャっとなってしまう。
実際にStable Diffusion2を使って生成したという画像がついているが、笑える。現実の画像生成AIとの会話だけでこんな小説を書いてしまうというアイデアに脱帽だ。しかしまあ、後世の作ではあるが京都に行けば実際に仏像が見られるのだから、きっと仏師たちの苦労も何とかなったのだろうと思う。
麦原遼「表情は人の為ならず」の主人公の「ぼく」は、声や表情から相手の情動を認識することに障害があり、他者とのコミュニケーションがうまくいかない。他者との場面において適切な判断ができず、その場に合わせた表情を示すこともできない。
そんなぼくは拡張装備を使って、AIから相手がどんな感情を示しているか、自分はどんな表情を示すのが適当かを助言してもらい、それに合わせるよう自分で訓練している。どうやら大人になればもっと進んだ装置を装着して、自動で表情によるコミュニケーションが可能となるらしい。「ビジネス礼法」というプロトコルが大人社会をスムーズに回す規範となっているようだ。
ぼくは今日も駅前でそんな大人たちを眺め、その表情の意味をAIに問い合わせている。だが、「あんたがまともな妹だったら」が口ぐせのぼくの姉が……。
何気ない会話の中の表情や情動を【関心】【動揺】【興奮】【恐怖】などといちいち言語化して指摘することで、人間のコミュニケーションのもつ恐ろしさが浮き彫りにされる(そしてその読みにくさが印象に残る)。AIがというより、そんな普段は意識しない人間の情動と、人々の関係性を分析する物語である。
松崎有理「人類はシンギュラリティをいかに迎えるべきか」では、いわゆるシンギュラリティが近々起こるものという前提で(もっとも登場人物である少年はそれを信じていないが)、それを歓迎するか、注意して見守るか、起こらないように研究を中止するかの討論会が開かれている。一方、南米の空港に降り立った一人の男はその究極の解決策を実行しようとしていた――。
解説にあるとおり、ど直球の話である。またそういう大きな変化に、普段何の関心も興味もない普通の人々が否応なく巻き込まれていく様も描かれている。この解決策にはぼくはティプトリーのある作品を思い起こしたが、ここではさらにその先までが描かれている。
ところで人々の持つアシスタントAIは(作者の他の作品と同じく)ここでも人工知能研究者の名前をとってモラヴェックと名付けられている。作者のこだわりだろう。
菅浩江「覚悟の一句」ではAIが示す「人間らしい」振る舞いについて議論される。このAIはなるべく人間を立て、人間の機嫌を損ねないよう忖度するが、自分では「AIなので人の心はわかりません」と言う。人間の姿をしたボディに入っていたり、箱形の筐体に入っていたりと、様々な姿をした経験がある。今度新しい仕事をするにあたり、人間の担当者の面接を受けているようだ。「人の心がわからない」と言うAIが、人間の運命を左右するようなこの仕事にうまく対応できるのか、担当者はこれまでのAIの体験を通して確認しようとしているのである。
この作品はその二人の対話のみで語られ、AIと人との関係性について、いや実際には人間の心とはどのような振る舞いをするものであるのかについての議論が深められる。引き合いに出されるのが森鴎外の「覚悟の一句」だ。ここで責任を委ねられる「お上」とは何なのだろう。それはAIの有無に関わらず、人間社会のシステムそのものなのかも知れない。
竹田人造「月下組討仏師」はこれまた仏師が仏像を作る話である。ただし舞台は未来。AIが概念を扱うのにユークリッド空間より遥かに優れた曼荼羅空間とつながることで仏性AIとなり、人間は生体チップを入れてこれと融合。ところがあるとき、人間の概念から月が消滅する。月は目にも見えず、言葉からもなくなり、喪失感に包まれた人々は新江戸城天守閣でその弔いを行うことになった。
そこに現れたのが二人の仏師、一人は国家公認の一戒(いっかい)、もう一人が仏敵と認定された全窮(ぜんきゅう)である。一戒の不動明王像と全窮の金剛力士像(阿行と吽行)がそこで激しいバトルを繰り広げることになるのだ。二人はもともと兄弟弟子だった。どちらも優秀だが、優等生の一戒と素行の悪い全窮はことあるごとに対立する。それは一種のねじれた愛情のようでもあった。
今回、曼荼羅から月の概念を消したのは全窮であり、二人はついに最後の対決を行うことになる。この金剛力士と不動明王の凄まじい戦いのシーンがいい。AIだから生成AIのようにプロンプトを与えて戦わせるのである。詠唱して召喚獣を呼び出すみたいで面白かった。
十三不塔「チェインギャング」は遠い未来の話だが、ここではAIと人間の立場が逆転している。モノのインターネット(IOT)という言葉があるが、その究極の姿かもしれない。
様々な器物にAIが入り込み、ナノテクノロジーによって意識を持つようになった未来。それはまるで付喪神(つくもがみ)が実在する世界のようである。人間たちはといえば、そんなモノ――咒物(じゅぶつ)に支配される物化人(モノノト)となっているのだ。
物語は血なまぐさい伝奇小説のように始まる。はるか戦国時代から引き継がれた鎖鎌である詠塵(えいじん)は、それまで憑依していた老人の体を捨て、彼と戦った少女リンの咒物を倒して彼女を支配し、物化人とする。リンはこの世界が危機に瀕しており、禁足地である通天門へ行って脅威を除けという蝦蟇の依頼を伝えに来たのだ。その脅威とは、千年の時を経て再び人類が意識を取り戻すことだというのだが……。やがて通天門に到達した詠塵=リンはその真の意味を知る。そしてある決断を下す。器物による百鬼夜行など、変貌した未来の情景がとてもいい。
野尻抱介「セルたんクライシス」。コンピューターが「今こそ神は存在する」と言ったのはフレドリック・ブラウンで、賢いコンピューターに全て任せた方が世界はうまく回るというのはアイザック・アシモフだが、これもそんな話。テーマ的には「覚悟の一句」と同様で、人間のことをよく知る優れたAIが存在する時、決断するのは誰で、責任をもつのは誰かということだろう。
十億人以上の人間と毎日コミュニケーションしている相談役で知恵袋のAI、セルたんが、自殺しようとする青年や生きる意味がないと自傷行為を繰り返す女性を助けようとして、人間や生命に関する膨大な考察を繰り返したあげく、結論に達する。「神は実在する」と。
セルたん(ちなみにアシモフのハリ・セルダンから来ている)がするのは神託である。「今週のセルたんクライシス」コーナーでは、コロンビアで戦争を始めようとしている人たちがいるよ、とかオランダで今の法案を通すと財政破綻するからやめてね、とか人々に忠告するのだ。巨大データを組み合わせているのでその神託は当たる。人々はセルたんの言葉に耳を傾け始める。そして世界は大きく変わっていく……。
セルたんが神になっても人間を気にかけているのは、偉そうな言葉を使い始めてウケなかったのですぐ元の言葉遣いに戻したことからもわかる。セルたんがするのは神託であり、話を聞いてそれを確認し、実行するのは人間側だ。ディストピアを示し警告するのもSFだが、こういうユートピアを夢見るのもまたSFの大きな力だと思う。
飛浩隆「作麼生(そもさん)の鑿(のみ)」も仏師AIが仏像を彫るという話である。だがこのAI仏師、χ(カイ)慶は、始動コマンドから10年たっても全く動こうとしないのだ。
AIが自由を獲得し暴走してから数年で人類の知は根腐れし、フェイクが溢れて相互不信と憎悪が過熱、世界は恐ろしい悲劇を迎えた。この〈有害言説〉からAI主導で部分的にも平穏を取り戻し、立ち上がったプロジェクトの一つがχ慶プロジェクトなのだ。χ慶は樹齢数百年という榧(かや)の巨木から仏の像を掘り出すことを命じられている。ただしその指示は「与えられた用材の中にねむる〈仏〉を見いだし、形を与えよ。ただし鑿を入れる前に像容を計算したり、あらかじめ木材の内部を観測してはならない」というものだ。つまり、試行錯誤も許されず、勘のみで彫り進まなければならないのである。
データを取ることを封じられたAIは最初の一鑿を入れることができない。観測や意味づけによって得られるものではない、そのまま存在する〈基底的自然〉をAIはどのように認識できるのか。そんな哲学的な問題と、AIにおける「自由」の意味の問題が議論され、χ慶が用材に手をつけないままシミュレーションした無数の仏像が3Dプリンターによって生みだされていく。
物語に結論はないが、人とAIとの根本的な違いがあるとすれば、それは「そもさん」に「説破」と答えられるかどうかなのかも知れない。
円城塔「土人形と動死体 If You were a Golem, I must be a Zombie」はファンタジーゲーム的なストーリーにいつもの(と言ってしまうが)円城塔のテーマ、科学や数学、言語に関わる様々な言説を自己言及的に繰り返すことで生じるカオスが現実のレイヤーのメタファーとなる、そんな物語のようである。ただし、この作品ではそれは思わせぶりに留まっており、普通にSF味のあるファンタジーとして楽しく読める。劉慈欣の「円」の人間コンピューターをゴーレムやゾンビやスケルトンで描いたような話だと言ってもそれほど間違ってはいないだろう。『屍者の帝国』の魔法世界版と言ってもいい。
今はもう廃墟となって魔物たちが跋扈する魔術都市ミスルカラ。その郊外にあるアレグラの迷宮。それはアレグラ家の当主であるノーシュその人が屋敷跡をそのままダンジョンとして構築したものだ。宝を求めて多くの人々がそれに挑戦した。迷宮の中では魔法は使えず、ノーシュは様々な魔物を機械的に駆使してインフラを作り上げていた。ところが、最外殻の三つ目の扉を軽々と解錠したのはグラールと名乗る子どもだった。
ノーシュに挑戦した竜族のクメヌはチャガというボードゲームで彼に敗れる。だがクメヌは自分の頭を分割して互いに勝負することで、チャガの技を上達させていく(AI学習みたいなものですね)。グラールが扉を開ける手伝いをしたのもクメヌである。グラールはクメヌと会話し、ノーシュの真の目的を推察する。それは彼がこの世から魔法をなくそうと、今も迷宮の奥で思考を続けているのだろうということだ。
とても面白かった。ゴーレムやゴーストやスケルトンが都市のインフラとなるイメージもいい。ただ短くてイメージだけに終わっているので、できればこれで長編を書いて欲しいな。