内 輪 第383回
大野万紀
7月のSFファン交流会は7月23日(土)に、「夏だ! SFだ! アンソロジーだ!!」と題して開催されました。出演は、大森望さん(アンソロジスト)、溝口力丸さん(早川書房)、水上志郎さん(竹書房)でした。
写真はzoomの画面ですが、左上から反時計回りに、大森さん、水上さん、溝口さんです。
もともとはSFセミナーの合宿企画となるとのことでしたが、最終的にはSFセミナーとは別企画になったようです。
ぼくが入ったのは開始から少し遅れてだったので、すでに話は佳境に入っていました。年刊ベストSFアンソロジーが創元から竹書房に移った件について。
大森:創元から出なくなったのでハヤカワへ持って行ったら却下された。シリーズで出し続けるとどこかで止める話になるけれど、創元より短くなったら嫌だからという理由だった。それで竹書房へ。竹書房なら3冊で終わっても大丈夫なので。ただ編集者が創元は複数いたけど、竹書房は水上さん一人。1冊目はがんばってやってくれたが、2冊目は死にそうになってた。海外のアンソロジーはアンソロジストがパッケージにするまで全部やるけれど、日本では編集者のマンパワーに依存する。
水上:来年からは海外スタイルでやりましょう!
大森:そうなったら伴名練にやってもらうか。伴名練アンソロジーの唯一の欠点は伴名練の作品が入らないところだが、竹書房はそれが補完できる。
そしてハヤカワの『新しい世界を生きるための14のSF』の話など。
溝口:アンソロジーのタイトルは「きみたちはどう生きるか」みたいに一目で印象深いものにしようとした。サンデルを意識した。最近は「異常論文」とかこれとか、異常な本が売れている。もっと普通のタイトルの本を出してバランスとりたいけど、その点ベストSFは楽ですね。
水上:大森さんとはそれでいつも議論しています。
溝口:タイトルに年号がついているのがすごくありがたい。創元のは年号がないので困ります。
大森:後で古本を集めるとき困るからね。ベストSFの時、竹書房では年号を入れてもいいのかと聞いたんだ。
水上:そんなことは気にしてもいなかった。
溝口:竹書房文庫は水上さんがほぼ一人でやっているので装丁がバラバラなのがすごい。
水上:竹書房にはもともと統一性がないので意識していない。SFマークをつけようかという話はあったけど。表紙も毎回違う人に頼んでいる。
溝口:『14のSF』では目次に2行のコメントを入れたけれど、これは『NOVA』(河出文庫)へのリスペクト。溝口が書いて伴名さんにチェックしてもらった。伴名さんは自分で書くといっていたがまだ解説をもらってなかったのでそれは止めてもらった。
大森:『NOVA』の2行コメントも伊藤さん(河出書房)が書いていた。解説を書くのは創元が一番大変。字が小さい。
ここでSFファン交流会より、参加者から集めたこんなアンソロジーが読みたいアンケートの結果が紹介されました。
溝口:恋愛SFアンソロジーは出したい。
水上:超巨大建築アンソロジーというのは面白そう。
大森:ヒップホップSFアンソロジー? ヒップホップの人はSFアンソロジー買わないんじゃ?
溝口:コロナじゃなくて普通に人類滅亡するものはいいですね。宇宙ものは宇宙ネタがはやると出しやすい。ラブコメは男女ラブコメに絞ってしまうとSFっぽくならないのでは。
大森:SF作家じゃない人が書くSFというのは考えたが、今は「文藝」がそんな感じだな。80年代、90年代の翻訳SFアンソロジーは版権の問題でとても作りにくい。1本あたりのコストも高いのでたくさんは入れられないし。
溝口:再版するとまた版権を取り直したりしないといけないので、難しい。
大森:向こうで出ているアンソロジーをそのまま出すのはアリだけど。
水上:『猫は宇宙で丸くなる』を出した時は死ぬかと思った。
大森:伴名練はきっと今SFMに連載しているのをまとめて関連アンソロジーを出すと思う。短編SFの百年と題して800ページ。その半分は本人の解説なんてのに違いない。
その他、これから出る予定の本の話や、水上さんが忙しすぎていつも会社の床で寝ているといった話もありました。
今回も大変楽しい会でした。次回は8月27日(土)に、日本SF大会(F-CON)の一企画として開催予定とのことです。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
連作中篇集『マーダーボット・ダイアリー』、長編『ネットワーク・エフェクト』に続く”弊機”が主人公の最新作。中長編「逃亡テレメトリー」に、短めの2編の短編「義務」と「ホーム――それは居住施設、有効範囲、生態的地位、あるいは陣地」が収録されている。
表題作はプリザべーション連合に落ち着いたマーダーボット”弊機”が、そこで起こった殺人事件を追い、それが企業リムの難民を巡る人身売買事件へと発展していく物語である。プリザべーション連合のアイーダ・メンサー博士を初めとする一部の人間には感情や人格のある存在として理解されている”弊機”だが、警備ユニットは残虐な行為も平気で行う感情のない機械だと恐れ、嫌っている人間も多い。そんな敵意の中で犯罪捜査に協力する(というよりほとんど一人で進んでいく)というミステリータッチの展開となるのだが、皮肉なユーモアは健在である。どうやら心配していた悪徳企業グレイクリス社との関わりはなさそうだとわかるが、人権を尊び擁護する連合と、利益最重視で人権など軽視あるいは無視する企業リム(おそらく金儲けに走るグローバル企業の行き着く姿)の対比は強烈だ。しかもこの宇宙は企業リムの方が主流なようで、ほとんどディストピアなのである。だからこそ”弊機”は安心して見られる連続ドラマに娯楽と安息を求めるのだろう。
疑心暗鬼な人々によってハッキングなどの使える能力を制限されてしまった”弊機”だが、それでも時には嘘をついたりごまかしたりしながらステーションの誰よりも深く捜査を進める。愚痴をいい、間違いや失敗もするが、ついに事件の本質へとつながる発見をする。迫力のある激しいアクションシーンも描かれるけれど、それよりも中心にあるのは地道なデータ収集とその解釈だ。解説で勝山海百合さんが書いているが、タイトルの「テレメトリー」は離れた場所からのデータ収集手段であり、「逃亡」はそのデータが逃げていってしまう様を表しているのだろう。
これまでの敵が前面に出てこないので、本作はシリーズのメインというより関連する1エピソード、サブストーリーのように思える。面白かったが、これだけで完結しているようで、少し物足りなさが残った。
短編はいずれも過去のエピソードを扱っており、「義務」では”弊機”がある惑星の採掘現場で警備の仕事をしていたころの、とある事故への対応を描く。企業が支配する過酷な現場で、”弊機”のヒューマンな人格が明らかにされるのだ。「ホーム――それは居住施設、有効範囲、生態的地位、あるいは陣地」はプリザべーション連合に”弊機”を受け容れさせようとするアイーダ・メンサー博士の努力が、博士の視点から描かれている。危険な機械として警戒されている”弊機”に居場所を、ホームを与えようと評議会の人々を説得しようとする博士の姿と、彼女の視点から見る”弊機”の姿が頼もしくも微笑ましい一編である。
雑誌〈コミック百合姫〉の表紙小説として2021年1月号から1年間連載された中編SFである。SFである。大事なことなので2度言った。
冒頭にジャック・フィニイ「愛の手紙」からの引用があり、この作品がその設定と同じく、過去と現在の間で手紙のやり取りをし、そしてそれが時の離れた相手との愛情に結びつくという一種の精神的タイムトラベルものだとわかる。掲載誌から考えて、それが女性同士の愛の物語となることも想像がつくだろう。実際、その通りに話は進む。
主人公は中学3年生で雑誌のモデルをしている現代の少女、小櫛一琉。撮影で訪れた神戸の古い洋館が気に入り、ときおりその部屋を借りてはのんびりと休暇を過ごしている。この部屋の雰囲気がとてもいい。そしてあるとき、そのアンチックな机の引き出しの中に、一通の手紙が入っていることに気づく。末尾に「大正六年十月七日 日向静」と書かれた手紙。難しい字が多くて良く読めなかった彼女は、わかったところに付箋を貼ってまた引き出しに戻したが、次に開けるとさっきの手紙ではなく、たったひと言だけ書かれた紙片が残されていた。「誰ですか?」と。
この引き出しは百年前の大正時代とつながっており、開け閉めすることで入れた物を交互にやりとり出来るのだとわかる。静(しず)は百年前にこの家で暮らしていた14歳の高等女学校生。一琉(いちる)の一つ下になる。二人は日時を決めて時代を越えた文通をすることになる。
この静がすばらしい。好奇心旺盛で進取の気性に富み、ハイカラさんのバイタリティに溢れている。頭もすごくいい。静には保守的で口うるさい姉の寿々(すず)が、一琉には妹で人気アイドルの美頼(みる)がいて、それぞれ姉妹の間に少しややこしい人間関係がある。このあたりはこの種の物語のフォーマットなのかも知れないが、ぼくにはちょっとのれないところだった。さらに話が進むうちに、一琉の抱くコンプレックスが明らかになっていく。それに対して静はずっと前向きだ。主人公は一琉ではなく静の方なのではと思えてくる。とりわけ彼女の書く罵倒文の小気味良いこと。もう最高だ。
やがてうっかりスマホを引き出しに落としてしまったことから、スマホのカメラを使って大正時代の写真を撮ってやり取りするといったこともできるようになる。見たこともないスマホをすぐに使いこなせるようになるのだから、静ってすごい。
色々と問題を抱えながらも、一琉と静は文通を続け、それぞれの姉妹を含めた人間関係や複雑な感情も進展していって、なるほど百合文学とはこういうものなのだなと楽しく読んでいると、ある時点で大きな転機が訪れる。手紙だけでなく引き出しに入る物品の交換を始めたことから、個人と個人の関係やエモーショナルな感情だけでなく、大きく社会のあり方へと広がっていくのだ。そして現代と百年前がある大事件でつながっていることが明らかにされる。一琉にとってこれは大変なショックだ。二人だけの話ではなく、社会や歴史にまで責任を持たねばならないのか、と。
ここからの展開はまさに本格SFである。やっぱり伴名練はうまいなあ。その展開は現実にある(あった)問題ともからんでとてもハードな厳しいものだが、物語はあくまで百合小説として気持ちよく明るく盛り上がっていく。タイムパラドックスの問題すら軽やかに回避してしまうのだ。そしてこの結末!
静が天才すぎる(きみは伴名練か!)ことは置いとくとして、とてもいい話だった。
とうとうウフコックがバロットたちの元に戻った。またハンターも復活した。けれどもウフコックとハンターの間には不気味で不可解なつながりが残される。
復活したハンターはますます大物として存在感が増している。まるでヒーローのようだ。その片腕、バジルも悪役なのにとても好感の持てるキャラクターとして描かれる。何とハンターからの指示で法律を学ぶためにバロットのいる大学に入学し、彼女の学友となるのだ! まさかの展開で驚いた。面白い。
物語はマルドゥック市の各勢力の再編成が中心となる。真ん中にあるのは市長派〈シザース〉と反市長派〈円卓〉の対立だが、ハンターの意思により〈クインテット〉は表向き合法な団体となってその双方に関わりを持って行く。もちろん〈均一化(イコライズ)〉を実現するためだ。後でハンター自身によって語られるが、それはカルトであり、強い共感を持って人々を惹きつけるイデオロギーであり、信仰のようなものである。ハンターの強い意志はまるでナチスのような動員力を持っている。彼は〈円卓〉と協力関係を持ちながら敵対する〈シザース〉とも接触する政治力を発揮する。けれどもその背後にはあの異界の不気味な存在がつきまとうのだ。
バロットたちによるウフコックの奪還戦で〈ガンズ〉が壊滅した(だがリーダーのマクスウェルは逃げ延びる)ことにより、ギャングたちの組織もほぼハンターの思い通りに再編成が進む。エンハンサー同志の戦いは激しく、いつものように迫力満点だが、この巻ではそれよりもそれぞれの組織の政治的な動きが中心となる。そしてバロットについていえば、戻ってきた平穏な日常生活と、そして彼女の大学の先生であるクローバー教授に指導されつつ新たに始まったオクトーバー社への薬害集団訴訟への関与だ。本書の後半ではこの裁判の模様が描かれ、まるで法廷物のように行き詰まる舌戦が繰り広げられる。証拠、罠、心証、動員、暴露、そして様々なルールに縛られた法廷闘争。バロットは正義だけでは勝てないそういった戦術も学んでいく。クローバー教授とその協力者はその点悪辣といってもいいくらいもてるテクニックを駆使するのだ。
そして最後ではまたハンターが驚くべき姿を見せる。ウフコックの様子もおかしい。不穏な空気のまま次へと続くのだ。
中国のSFエージェンシーである未来事務管理局の武甜静(ウー・テンジン)さんが企画し、橋本さんや大恵さんに呼びかけて実現した中国女性SF(それも80年代以降に生まれた若手が中心)のアンソロジーである。前書きで武さんが書いているが、彼女自身が80年代生まれのSFファンであり、日本語を学び日本企業に勤めた後、女性が起業しSFを事業として扱うベンチャー企業として未来事務管理局が立ち上がった時にそこに加わった人だ。
本書は比較的短めな14編の短編が、#宇宙、#和風ファンタジー、#アップロード、#科学研究、#異色、#言語といった大まかなタグをつけて分類され収録されている。もっともこれらのタグはおよその傾向をあらわすものであって、あくまで参考としてのものである。
#宇宙、#ノスタルジー、#人生の終わりタグは2編。
夏笳(シアジア)「独り旅」は遠い宇宙を一人旅する老人の物語。二重星を巡るある惑星に降り立った彼は、荒涼とした崖の下にテーブルを広げ、夕陽を見ながら一人ピクニックのシャンパンを傾ける。ここは彼の思い出の地だったのだ。二つの太陽に照らされる赤い砂漠と廃棄された観覧車。ショートショートだが、その寂寥感と切なく温かいノスタルジーはSF的な風景を背景にして静かに心に染み入るものがある。欧米や日本のSFにも同じようなモチーフの作品があるが、ある種SFファンの共通幻想なのだろうか。ぼくの好きなタイプの作品だ。
靚霊(リャンリン)「珞珈(ルォジア)」でも一人の男の人生と宇宙的な現象が重ね合わされる。珞珈(ルォジア)というのは作者の通っていた武漢大学の敷地内にある山の名前だそうだ。大学の研究室で事故が発生し、実験用のブラックホールが不安定となり、どうやらワームホールが開いてしまったらしい。それが地球を呑み込むのを抑えるには、人間一人分の質量が必要なのだ。主人公は大学の用務員として働いていた老人だが、その話を聞いて何も考えず自らブラックホールに飛び込む。彼はそこで自分の一生を見ることになるのだが――。「故郷」というテーマで書かれた作品だが、やや盛り込み過ぎに思えた。あと「ファイアウォール」という訳語に違和感がある。事象の地平線のことを言っているように思うのだが、原文でも同じなのだろうか。
#和風ファンタジー、#妖怪、#家のしがらみタグが2編。
非淆(フェイシャオ)「木魅(こだま)」は江戸時代を舞台にした〈和風ファンタジー〉。ここでは黒船の代わりに異星人の漆黒の宇宙船が江戸にやってくる。触手をもつ異形の彼らは木魅(こだま)と呼ばれた。江戸に来たのは単に故障した宇宙船を修理するためだったのだが、徳川幕府は異星人と交渉し、欧米と対抗するための科学技術を得ようとする。さらに絆を強固にするため、木魅の一人との名目上の婚姻を求めたのだった。かくて大奥に暮らすことになった木魅は、ただ一人彼女を見ても怖がらず普通に接してくれる侍女の素子(もとこ)と心を通わせる。だがやがて異星人の科学技術で武装した攘夷派が反乱を起こすのだった。
確かに和風ファンタジーでSFで面白いのだけれど、将軍に嫁ぐ木魅が外見はともかく心情的にはあまり異星人っぽくないので、そこに焦点を合わせることでテーマが曖昧になっているように思えた。黒船の代わりに黒宇宙船が来た幕末という点に絞って歴史改変SFにした方がぼくには面白かったように思う。
程婧波(チョン・ジンボー)「夢喰い貘少年の夏」も日本が舞台の怪異譚。三重県の田舎に住む画家志望の少年が主人公。親友を川の事故で亡くし、東京の大学へ進学した彼が夏休みに故郷へ戻ってくる。彼が背負ってきた大きな防水バッグには、見えない少年が入っていた。その少年は悲しい悪夢を食う夢喰い獏だという。まるでごく普通の少年のように居間に寝そべって『少年ジャンプ』を読んでいるが、彼以外の誰にもその姿は見えないのだ。でも犬はその少年に向かって吼える。彼はその少年を連れて、幼なじみの少女の家に向かう――。
河童がモチーフとされているが、まるで都市伝説の怪談のようにどこかとりとめがなく、現実と非現実の境も曖昧模糊としている。居間で『少年ジャンプ』を読む妖怪あるいは幽霊というのは面白かった。獏が夢を食べるという伝承は中国にはなく日本独自のもののようだが、そこにエキゾチシズムが感じられたのだろうか。
#アップロード、#ゲーム、#VRタグが3編。
蘇莞雯(スー・ワンウェン)「走る赤」。幼少期の事故で病院で寝たきりとなった少女は、今もその状態のまま、意識を仮想世界にアップロードして、オンラインゲームの従業員となって働いている。だがゲームの中で春節のお年玉くじ(紅包)が始まったとき、何らかのバグにより彼女は仮想世界を走る赤いお年玉くじの一つとしてシステムに認識されてしまう。年が変わる瞬間、お年玉くじは全て消去されてしまうのだ。そのときは彼女自身も――。
物語は仮想世界の彼女とシステムのコントロールセンターにいる人々、それにこの仮想世界に参加している一般ユーザたちも巻き込んで、緊迫感とスピード感に溢れる展開をする。ただ、紅包という行事が良くわからないので全体像がもう一つつかめないのと、仮想世界はともかくシステム側が具体的に何をしようとしているのかがピンと来なかった。でもとても映画的(アニメ的?)に書かれていて、面白く読めた。
顧適(グーシー)「メビウス時空」では事故に遭った主人公がXという医者に指導され、病院で寝たまま副体と呼ばれるロボットを操るようになる。脳に入れたチップにより副体を自分自身としてコントロールできるのだ。だが副体は実体の肉体の世話をする必要があり、彼はXに言われるまま、次には肉体も捨てて実体としては脳だけの存在となる。脳は保管庫で自動的に安全に保護されるのだ。だがさらにその次があった。今度は一つの仮想世界を作り上げ、彼はその神となってそこに人々や町を作っていく。
タイトルの意味がわかるのはこの段階で、なるほどと思うのだが、正直そこまでする意味というのが良くわからない。意識をロボットに移しても実体の肉体がある限りその介護をしないといけないというのは面白いと思ったが、実体を脳だけにして副体で現実世界に暮らすのではなぜダメなのか。意識を世界全体に移すためにホワイトルームというものが描かれるが、これもイメージしにくい。話そのものは面白かったけれど、展開にはちょっと無理があるように思った。
noc「遥か彼方」。これは良かった。4つの直接関係のない掌編から成る物語。
最初はうち捨てられた仮想世界の断片をサルベージする「私」がそこに住むNPC(ノンプレイヤーキャラクター)と出会う話。彼は外の世界へ行きたがっていた。ありがちだけど、描写が鮮やかで雰囲気がとてもいい。これはもっと長い話でも読んでみたい。
次はフローリングの床を、ベランダのタイルを、液晶テレビのスクリーンを、様々な色彩の中に溶け込み、その表面を滑るように泳ぐ主婦の話。一種の奇想小説だが、そのクールなスピード感と色彩感覚、飛び込み泳ぎなめらかに身をくねらせるその気持ち良さが描写されていて素晴らしい。ちょっと伴名練みたい。
3つ目は翼人の家族がぼくの変身について語り合う話。ぼくは正十二面体にしか変身できない。ほんのり光ることや回転することができ、次は浮遊するようになりたいと思う。父や母はそれはすごいと言ってくれるが、兄はそれでどうなるのかと言う。ぼくは立方体や正四面体、球体といった仲間のいる所に行きたいと思う。家族と個性、そして自立の物語である。
最後が白鳥座X-1のブラックホールへと意識を光に変えて送り出す物語。語り手は志願した人々をその「天国の門」へと送る側の人間である。今日来たのはとても若い娘。彼女の意識を抜き出し情報マトリックスに変えて転送する。残された遺体は分解される。彼女たちは事象の地平線の向こう、新天地で何を知るのだろうか。だが語り手たちはこの話に冷たく経済的な裏があることも知っている。それも興味深いのだが、ぼくとしては遙か彼方へ行く側の人の話も読みたいと思った。
#科学研究、#人生哲学タグが2編。
郝景芳(ハオ・ジンファン)「祖母の家の夏」はこの作者にしては小品だがユーモラスでほっこりする発明譚。大学に入ったけど計画性がなくいつも失敗ばかりしている主人公がしばらく気分を変えて落ち着こうと祖母が一人で暮らしている家へとやってくる。祖母は科学者で、引退してからも自宅で様々な研究を続けているのだ。このお祖母ちゃんがとてもいい。孫が馬鹿な失敗をして実験を台無しにしても「たいしたことじゃないわよ」と鷹揚に構えてどこまでも前向きに対応するのだ。家の中のあらゆるものが見かけと違っているというのも面白い。冷蔵庫がオーブンでオーブンは食器洗い機、パネルヒーターかと思ったら冷蔵庫という具合。何でそんなややこしいことをしているのかはわからないが。祖母はどうやら癌研究に関わるすごい発見をしているようだが、特許も取ろうとせずのんびりしている。彼は焦って勝手に特許局へ申請に行こうとするのだが――。
運命は自分で創り出すものだというカミュの言葉が引用されているが、科学の試行錯誤こそ様々な偶然から選択した結果として価値が創り出されていくものであり、選択は未来に対してでは無く過去に対して行われるものなのだ。価値判断はその後で生じる。祖母はそう考えているからこそ、あらゆる失敗も悪いものでは無いと言うのだ。主人公は祖母に感化され、そして彼にも新たな道が開かれる。そんなにうまくいくのとは思うが、とても楽しい物語である。
昼温(ジョウウェン)「完璧な破れ」は言語SF。冒頭にテッド・チャン原作の映画『メッセージ』が出てくる。その映画を一緒に見たカップル、言語学専攻の私、念念(ニエンニエン)と、物理学専攻の彼、明遠(ミンユエン)は映画について語り合い、念念は言語学のサピア=ウォーフ仮説について、明遠は最小作用の原理について話す。二人は環境問題のサークルに入るが、ある村で深刻な水質汚染の問題が発生しており、たまたま知り合った村の女性の母親が重い病気にかかっていることを知る。同情した念念は女性に金を寄付するが、明遠は根本的な解決にはならないのになぜそんなことをするのかと彼女に問いかける。仲の良かった二人には次第に亀裂が生じ、彼はアメリカへ量子コンピューターの研究に行ってしまい、彼女は他者への理解と共感をもたらす理想的で完璧な新言語を創り出そうとする。それは人々に共感を呼び起こし社会の様々な問題を解決するコミュニケーションツールとなるはずだ。やがて彼女はその完成の目処をつけるが演算能力の不足に悩み、ついに気まずく別れた彼に協力を求めようとする――。
結末は(本当に可能なのかどうかは別にして)明るく前向きな未来の見えるものだ。彼女の理想がそのまま実現するわけではないが、より現実的であり得る解が示されるのだ。現代的なテーマを扱っており、面白かった。
#異色、#秘密結社、#探求タグが2編。
糖匪(タンフェイ)「無定(ウーデン)西行記」に出てくるのはエントロピーが逆転した世界で、人間は老人からだんだん若返り、道路や建物は何も無いところから自動的に生成されるのだ(この後者の理屈はよくわからないが)。主人公の無定(ウーデン)は外宇宙から来た人々の子孫で、ここの人々とは逆に赤ん坊として産まれ年老いて死ぬ。彼は北京からペテルブルクまでの長距離道路建設を申請して許可され、派遣された普通の(だんだん若返る)青年ペトロを助手として長い旅へと出発する。道のないところに道を作るには、生成したい土地の上を人間が移動することで、きっかけを与える必要がある。二人は道なき荒野を馬に乗ってひたすら大陸横断の旅を続ける。陰気な無定に対して陽気なペトロ。二人はいいコンビだ。ペテルブルクまで行けば自然に北京までの道路ができ、二人はそこで自動車を確保し帝都へ帰還するつもりだった。ところがペテルブルクに着いてみると――。
最初の設定さえ受け容れてしまえばユーモラスでどこか切ないトラベローグが楽しめる。ちょっと変わったバディものとしても楽しい。
双翅目(シュアンチームー)「ヤマネコ学派」は猫(ヤマネコ)SF。近代科学がヤマネコの洞察力と科学者の実践によって作られたという架空歴史の物語。Wikipediaによれば、ヤマネコ学会(アッカデーミア・デイ・リンチェイ)は実在し、この作品に書かれた通り17世紀にローマのフェデリコ・チェージが設立し、ガリレオ・ガリレイが会員になった科学アカデミーで、オオヤマネコの鋭い視力を科学者の目標にしたものであるとのこと。いったんは消滅したが、その後何度も復活し、現在も続いている学会である。
この小説ではそれが科学者の秘密結社的なものとして描かれており、あくまで架空のものだ。そこでは実際にヤマネコたちがその秘めたる力を発揮している。ヤマネコの力を科学者に伝えるのが守護者と呼ばれる人たちで、彼ら自身は科学者ではないが、ヤマネコと人間の間を取り持つインタフェースとなっている。そしてその伝統は22世紀の遥か遠い宇宙を翔る宇宙船の中まで続いているのだ。世俗に囚われず、ひたすら未知の世界を探求し、宇宙の真理を知ろうとする純粋な研究心、科学する心というものが、実はヤマネコと人間の共同作業であったという話で、確かにそういうことであってもいいかも知れないなあと思わせる。ときおり白い子猫が肩に乗ったりしていて可愛いが、あんまりヤマネコの描写が出てこないのがちょっと残念。
#言語、#家族、#コミュニケーションタグが3編。
王侃瑜(ワン・カンユー)「語膜」は自動翻訳アプリの開発を巡る物語だが、言語SFというより家族間のコミュニケーションの断絶と不和を描いた悲痛な小説である。コモといえばイタリアの都市を思い浮かべるが、ここでは架空の小国である。コモ語の話者は英語におされて次第に減少しているという設定。母親はコモ語の教師で、母語に誇りを持っており、語膜と呼ばれるバベル社の自動翻訳プロジェクトに参加する。正確で豊かなコモ語を話続けることによってコモ語翻訳の語膜にそれを学習させ、世界中の誰とでもコモ語で細かいニュアンスまで会話できるというものだ。一方彼女には一人息子がいる。インターナショナルスクールに通わせ、外国人の友人とつき合い、英語で会話することに慣れた息子だ。ある事件で夫とは離婚し、息子は公立学校へ転校させてコモ語での教育を行った。しかし成績は悪くなり、母親との関係も(反抗期なのかも知れないが)良好ではない。語膜が完成すればそれもやがて改善するだろうと思っている。ところがこれを息子の視点で見ると――。そして語膜が完成したときに起こったのは――。
母の語りの中に見えてくる家庭崩壊と母思いの息子の感情の悲痛さ。これはSF的設定なしでもあり得る物語だが、そこに言語にある種のフィルターをかけることによるコミュニケーションの変容と分断いう(SNSやカルトにも関わる)グローバルで現代的なテクノロジーの問題が関わってきて興味深い。
蘇民(スーミン)「ポスト意識時代」は言語SFであり、ミームSFであり、ポストヒューマン(になる過渡期の)SFである。面白かった。主人公はカウンセラー。このところ専門的な仕事の説明、プロジェクトの内容やセールストークを自分の意識とは別に、突発的に相手かまわず語り続けてしまい、これは何者かに自分の発言をコントロールされているのに違いないという相談が相次いでいる。主人公本人もそんな不安症に悩まされる。自宅に帰ったとき、娘と遊んでいる脳天気な夫に腹を立て、専門用語をまくしたててしまうのだ。この不安症が進んで自殺してしまったある男のノートを手に入れ、彼女はこの症状がそういった概念のミームが自らを言語によって人類の間に伝搬し、増殖させようとしているのだという考えを知る。それが本人の意識とせめぎ合い暴発するとこの症状になるのではないか。
今どきのSFではミーム(ある概念や思考を人々の間に伝え増殖する情報の遺伝子)はよくあるテーマだが、この作品はさらにその先を行き、それが人類のさらなる進化であるというアイデアを示す。潜在意識から意識へと進化し、さらにより高度で知的なポスト意識への進化。だがそれは人類に幸福をもたらすのだろうか。それとも――。主人公の脳天気な夫がここでわれわれ読者である(ポストヒューマンじゃない)普通の人間に示してくれるものが、そして主人公の結末の涙が、しみじみと心に染みる。
慕明(ムーミン)「世界に彩りを」は人間の視覚情報を拡張し調整する網膜調整レンズが一般化し、誰もがそれを眼球に入れるようになった時代の物語。ここでは特に色彩感覚とそれを表す言葉の組み合わせに焦点が当てられる。わたしが見て感じる「緑」と他の人の言う「緑」は同じものなのだろうか。さらに網膜調整レンズというガジェットが見せる新たな視界に対応する新たな言葉は人々の意識する世界そのものを変えてしまうのではないだろうか。グレッグ・イーガンが「七色覚」で描いたものと同じテーマで同じ問題意識を扱っているが、後半ではさらに現実に存在している現代的で切実な問題が重要なテーマとして浮上してくる。
主人公の少女は画家である母親が自分の目で見て自分の頭で考えることを重視するため、12歳になるまで網膜調整レンズの埋め込み手術を許されない。母には話さないが、そのため学校ではいじめを受けている。他の子どもと同じものが見えないためだ。ついに彼女もレンズを入れ、多彩な世界を見えるようになる。同時にそれを表す新たな言葉もあふれ出す。彼女はやがて大学を出てレンズのプラグインを開発する会社に就職するのだが、ある時ある事件がきっかけで、彼女は自分と母親、そして父親に関する衝撃的な事実を知ることになるのだ。
この後半で扱われているテーマは色覚というものがあくまで主観的なものである以上、社会的にとても複雑で深い問題をはらんでいる。この問題に感心があればぜひ川端裕人『「色のふしぎ」と不思議な社会 2020年代の「色覚」原論』を読んでみてほしい。
以上、バラエティに富んだ(これは便利な言葉だな)短篇集である。ぼくの感覚では必ずしも全てが傑作というわけではないが、ベテラン勢には安定した面白さを、若い作家たちには自由奔放に想像力を働かせてSFの世界に切り込んでいく初々しさ楽しさ、面白さを感じることができた。本書が全て女性作家の作品であるということは正直あまり意識されなかった(ぼくが鈍いだけかも知れないが)。序で書かれている「作家は作家、性別を取り上げるのは良くないという主張もあるが、今はまだそんな理想的なことを語れるような世の中ではない」という問題意識はとても良くわかるし、同意できる。その点は橋本輝幸さんの解説に書かれている通りである。