続・サンタロガ・バリア (第217回) |
年末、コロナ無策みたいな感染者/重篤者/死者数で、年寄りはどこにも行く気になれませぬ。粛々と本が読めればいいのだけれど、それもなかなか難しいデスね。
今回は、値段が高かったのに積ん読になりかけていたものを2冊読んでみたのだけれど、どちらも期待したほどの面白さが得られなかったのが残念だった。
その1冊目が、8月に出たデイヴィッド・ミッチェル『ボーン・クロックス』。前回取り上げた『熱帯の真実』と同じ判型で、上下2段組600ページを超える大冊。
デイヴィッド・ミッチェルといえば『クラウド・アトラス』がかなり面白くて、大作映画にもなって、こちらも結構面白かったけれど、『出島の千の秋』は読んでない。
ということで読み始めると、語り手は15歳の女の子ホリーちゃん、もうすぐ16歳だし、イカした20歳過ぎの恋人とはセックスもしたし、カレシはあたしに夢中なんだから、ママと決定的なケンカをしちゃったけれど、カレシのところに転がり込んじゃえばいいやと、カレシのところへ行ってみたら、親友と思っていた娘とベッドインの最中、ガビーンとなったところへ寝取った娘からアンタはもう用無しよと宣言されて、いまさら家に帰れないホリーはバイトしなくちゃと農場へ向かう・・・というのが、第1章「暑さつづき-1984年」の前半。もちろんホリーには風変わりな弟がいたり、ホリー自身も悪夢と現実が入り交じるような幻覚的な体験を繰り返したりしていて、仕掛けはいろいろ施されているので、この表向きのおバカなホリーちゃんのエピソードは、第6章「シープスヘッド-2043年」まで延びる「壮大な」ストーリーのプロローグに過ぎないわけだ。
作者は6部に別れたストーリーそれぞれにまったく別の視点人物を用意して、クロニクルを展開し、各章のそこここに各年代の歳を重ねたホリーが脇役として顔を出すが、最後に老婆となったホリーの視点に戻ってくる。そしてその間に「壮大な」ストーリーは大団円を迎え、世界は一変している。
どうみても一流のエンターテインメントに仕上がっているように見えるのだけれど、残念ながら「壮大な」ストーリーの設定である、ホロロジスト(時計学者/輪廻転生タイプ)とアンコライト(人の生気を奪って生きる影の世界の長命者)のこの世界の裏で行われている戦いが、それなりのクライマックス・バトルを迎えて読ませはするのだが、詰まるところ結構ショボいのである。『ハリー・オーガスト』を団体戦で戦ってるというか。
あと第3章の視点人物、作家のパーシーはまるでウエルベックの小説の主人公みたいなキャラクターだった。そういえば年寄りになったホリーは晩年のル=グィンを思わせるなあ。
高いお値段のもう1冊は、4月に出た古川日出男『大きな森』(本に印刷されたタイトルは「森」の下に「木」」を三つ並べたもの)。こちらは判型こそ普通のハードカヴァーだけれど、900ページ近い。厚さを目立たせようとしているのか、書籍用紙もやや厚めな感じがする。厚すぎて片手で持てないので、もっぱら寝床において読んでいた。
古川日出男の作品で今も好印象が残っているのは、初期に読んだ『ベルカ、吠えないのか?』と『サウンドトラック』かなあ。『聖家族』も読んだような気がするが、あまり覚えていない。
さて、目次ページをめくると登場人物表があって、「第二の森」にいる丸消須ガルシャ、「第一の森」にいる坂口安吾、手記「消滅の森」を執筆しているのが「私」、この3人が主人公として括られている。
物語は、「第二の森」から始まり、主人公は「アニ」として意識を回復すると、列車の客席にいた。意識を取り戻すとき「京都は三つある」と心に浮かんだ。そして同席の男と会話する中、「アニ」は自分が記憶を失っていることを告白する、するともう一人の男が相席を求め、ふたたび3人で会話する内に相席を求めた男は「振男・猿=コルタ」と名乗り、それに合わせて最初から同席していた男が「防留減須ホルヘー」と名乗り、それを受けて「アニ」は「丸消須ガルシャ」と名乗りを上げた。
「第一の森」に章が変わると、坂口安吾が自分の作品を勝手に出版社に発表された事を憤っているが、それはクスリで病んで入院中だったからだった。病院には小林秀雄が見舞いに来た。安吾が「教祖の文学」でおちょくった当人だ。そして退院した安吾は、探偵になることを決意し、行きつけのクラブ/高級コールガール派遣店で失踪したコールガールの女性を探す仕事を引き受けた。
「消滅の森」の章では東京から京都の十条に移ってきた作家は、石原莞爾や戦前満州にいた京大出身の医者で731部隊にいた叔父、そして宮澤賢治に思いをはせ、石原の満州が壮大な夢の国ならば、イーハトーブも夢の国、同じ東北にうち立てられた世界を作家は夢想する。
ということで、この三つのストーリーが、それぞれ違う世界にある三つの森や三つの京都(京都、東京、新京)や三つの満州をめぐって、それぞれにファンタジー的な展開を見せながら、最終点に向かって進行する。
ウーン、こういう風に紹介すると我ながらなんだか面白そうな作品のように思えてきたが、読んでる最中はラテンアメリカ文学代表3人衆の鉄道と満州をめぐる冒険も、ついに満州へと至る安吾の探偵物語も、現実が崩壊する作家の京都も読んでいる最中は、ちっともドライブがかからず、結局読み終えるのに丸1ヶ月を費やす始末だった。
個人的には、ラテンアメリカ文学代表3人衆の会話と「満州/満洲」を舞台に据えたことにかなりの違和感を感じて、読み進めるのがしんどかったことがある。石原莞爾も満州も嫌いだからなあ。波長が合う人には大傑作かも知れない。
分厚い大作が今ひとつノレなかったせいか、結構面白く読めたのが、アフマド・サアダーウィー『バクダードのフランケンシュタイン』。なんとバクダード在住の作家がアラビア語で書いたフランケンシュタイン(?)・バリエーション。驚くね。
とはいえ帯にある「中東×ディストピア×SF小説」とのうたい文句は、「中東」だけ合ってるけれど、「ディストピア」と「SF小説」はちょっとどうかなあ、というところ。作品の面白さには関係ないから、どうでもいいか。
登場人物は「フランケンシュタイン」も含め多数いるが、主要キャラクターは、まず第1次湾岸戦争で20歳の息子を失い、以来20年古い家で息子が帰ってくるのを待ち続けているウンム・ダーニヤール(ダーニヤール〔息子の名前〕の母)、そして崩れかけの隣家に住む古物屋のハーディ。彼は、息子のように思っていた若者を自爆テロで失って以来、爆弾テロで粉々に吹き飛ばされた肉体の一部を拾ってきては人体を組み立てており、それは今日の爆弾テロでこれまで欠けていた鼻を拾って付けたことで完成したのである。その翌日、かろうじて助かったけれどハーディも巻きこまれた爆弾テロで犠牲になった近所のホテル警備員の意識が肉片から出来た人体に入り込み、ウンム・ダーニヤールの家へ向かう・・・。
これだけで、「ディストピア」ものとか「SF」というには、ちょっと違うことが分かるけれど、主要キャラクターは他にも何人かいて、「フランケンシュタイン」が人を殺し回る事件を取材することになった雑誌編集者や、バクダードのテロ事件などに関して占い師たちを用いて情報を得ようとする秘密情報部の少将とか、まさに15年くらい前のバクダードならさもありなんというようなキャラがゴロゴロでてきて読者を飽きさせない。
「フランケシュタイン」も含め、脇役キャラもそれぞれがいい味を出していて、こんなにもフツーに面白い超常小説がアラビア語で書かれているなんて、ホント良い時代になったねえ(現実はちっとも良くないが)。
さて、年末に合わせプロパーSFもたくさん出たけれど、今回読めたのはハヤカワ文庫の内の2冊。
なんだか久しぶりに読んだ気にさせるのが、牧野修『万博聖戦』。牧野作品としては強烈な暴力描写やホラー風味があまり強くないが、作品としては上々の出来と云っていい。
1969年大阪万博を前にオトナ人間の侵略に気づいた、クラスでは浮き上がっている問題ありの男子中学生2人が、オトナ人間の組織に対してレジスタンスを試みるのが前半。
中学生の片方、主人公格の「シト」には美少女だが性格が悪い「未明」という幼馴染みがいて、シトの相方サドルの憧れの少女である。ちなみにサドルに云わせると未明は、オトナ人間をコドモがやっつけるテレビアニメに出てくる「少女将校ガウリー」にそっくりだ。
どうにかオトナ人間の攻撃を70年万博で退けた二人は「未明」を失ってしまう。そして67年後の2037年、大阪全体をVR万博会場にする時がやってきた。歳を重ねたシトとサドルは名前を変え姿も中学生時代とは大違いになって登場し、シトは復活したオトナ人間側に墜ちたサドルと結局対決することになる・・・。
ある種のデウス・エクス・マキナではあるけれど、説得力があって読後感は悪くない。
初期の『MOUSE マウス』にあったヒリヒリした感じは、より叙情的なものに変わっている。
ハヤカワ文庫SFの方は、橋本輝幸編『2000年代海外SF傑作選』を読んでみた。
冒頭のエレン・クレイジャズ「ミセス・ゼノンのパラドックス」は女性同士の喫茶店での会話による量子力学コント。しゃれた1作。
ハンヌ・ライアニエミ「懐かしき主人の声 ヒズ・マスターズ・ヴォイス」は、この作者の長編でも使われた電脳世界でペットが犯罪者のご主人様を取り戻しに行く話。イメージ的にはやや古びているかも。
ダリル・グレゴリイ「第2人称現在形」はドラッグ/ナノテクで人格消滅が生じる話。これって、ある意味SFじゃなくても現実に起きるのではないだろうか。
劉慈欽(リウ・ツーシン)「地火 じか」はちょっと驚くような炭鉱開発リアリズム作品。後半の地下が燃えるクライマックスのイメージもすごいけれど、リアリズムもなかなか。
コリイ・ドクトロウ「シスアドが世界を支配するとき」は、今読むととても時代性を感じさせる終末SF。長いけれどある意味世界が狭くてサクサク読める。地球上から電磁波が消えるとなれば、ディザスターは相当なものだろうな(以前読んだ太陽フレアの話ってそれだったっけ)。
チャールズ・ストロス「コールダー・ウォー」は、世界破滅戦争をカンブリア紀絶滅生物やクトゥルー神話の怪物を引用して描いた不マジメな1作。マニアックと云えばマニアック、ヒドいともいえる。
N・K・ジェミシン「可能性はゼロじゃない」はストロスの後で読むと解毒剤みたいなショートショート。
収録作中一番長いグレッグ・イーガン「暗黒整数」は、「ルミナス」の続編。数学定理の証明がこの宇宙と違う宇宙との通信を可能にしてしまった3人の数学者に新人が加わって、宇宙が破壊されると相互に不安が渦巻く中、脅迫と信用によってついに妥協点が生ずる話。イーガンとしては驚異的に読みやすい。
トリを飾るのが最近は長編の翻訳が途切れたアレステア・レナルズ「ジーマ・ブルー」。このオーソドックスなSFぶりが、SFの魅力と退屈さ/文学的安っぽさを兼ね備えた1作。「SFは絵だ」を地で行く作品だが、基本的にはSFでなくても充分に書けるテーマではある。でもSF的なイメージは素晴らしい/バカバカしい。
わずか10年あまり前とは云え、全体を通じて一種の時代性というものがあるような感じがするので、年代別海外SFアンソロジーとして充分にその責を果たしているんじゃないでしょうか。
今回のノンフィクションは、ちょうど1年前に文庫が出たカルロ・ロヴェッリ『すごい物理学講義』。以前大野万紀さんが取り上げた『時間は存在しない』よりも前の作品らしい。
実を云うとこれは、これまで読んだ中ではかなり楽しめた最先端物理学の概説書だった。いわゆる超弦理論とは別立てで一般相対性理論と量子力学を統合するループ量子重力理論を、文系の一般読者にもわかるかのように、文学的な世界からの引用を物理学的なイメージへの変換材料に使っていて、それが結構うまくハマっているところがこの作品を面白くしている理由のひとつだろう。
これまでの最新物理学入門解説書と同様、本書も古代ギリシャから説き起こして、それがデモクリトスを最重要視というところがユニークだけど、ガリレオやニュートン、アインシュタインそしてファラデーやマックスウェルにディラックを挟んで量子力学へと向かいファインマンやジョン・ホィーラーの解釈を紹介しながら、あくまでループ量子重力理論での統一理論的な方向を紹介していく。
SFファンとして気に入ったのが、この世界に無限は存在しないというアイデアだった。速さは光速が、長さはプランク長が、時間はプランク秒がその限界だという。そして無限の代わりに何があるかというと離散的な(飛び飛び)の値が存在していて、その限界がこの宇宙の存在を支えているというようなことになっている。解説によれば「事物の容れ物としての空間や時間は存在せず、すべては相互作用の渦中にある量子場でしかない」ということらしいのだけど、本書を読んでいる間はそんなにカチッとした印象はなく、もっと茫洋とした、それこそSF的なアイデアとして使えるんじゃないかと思われるような話のように読めた。
なお、この本でもSFへの目配りはいっさい無いけれど、「量子の時空間構造-スピン」のイメージ・モデル図「スピンの泡の頂点の形状」としてグレッグ・イーガン作製のものが掲載されている。