内 輪 第349回
大野万紀
グレッグ・イーガン・リスペクトだというので、野崎まど脚本のアニメ映画「HELLO WORLD」を見てきました(原作は未読)。映画館の中になぜか小学生の男の子の集団がいて、こいつら映画を見てる様子もなく、集団で走りまわったりしていました。一体何なんだ。映画が終わる前にどっと出て行ったけれどね。
映画は面白かったです。京都の話なのに言葉がみな標準語というのは気になりましたが、まあ問題じゃないです。イーガン・リスペクトというのも確かにその通りで、よくわかります。前半の、SFオタクで優柔不断な高校生の青春ドラマは、ちょっと気恥ずかしいけどいい感じでした。
でも、10年後の主人公がやってきて、この世界が実は仮想現実の世界だとわかってからは、SF部分と日常ドラマのバランスがおかしくなるように思いました。高校生のラブストーリーが、未来の自分が指導するシナリオをただなぞっていくだけなので、彼女への思いが深まらず、どの時点で本当の感情に転化したのか、もうひとつ不明確です。また仮想現実世界の修復という中盤のドラマは、ホラーめいたアクションで盛り上がるところですが、ぼくにはピンときませんでした。CGはすごくて、面白いシーンはあったものの、擬人化された修復ソフト(キツネ面なのは伏見稲荷がフィーチャーされているからなのか)は、実際のところ一体何をしているのでしょうか。これなら「電脳コイル」の「サッチー」の方がずっとそれっぽい感じです。ラストの逆転劇も、そうなのか、とは思うけど、世界観がひっくり返るような衝撃はありませんでした。それはあるべき「強い思い」が不十分にしか描かれていないのと、リアル・ワールドが仮想世界と同様にあいまいな存在でしかないためだと思います。小説版はまた違うのかな。
というわけで、あまり満足はしていないのですが、SFオタクの少年の青春は十分に楽しめました。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『星系出雲の兵站 -遠征-1』 林譲治 ハヤカワ文庫
面白い! 〈星系出雲の兵站〉第2部のスタートである。第1部の直接の続きなので、背景の設定やキャラクターなど、第1部を読んでおいた方がいいのはもちろんだが、ストーリーは別なので、本書から読み始めても十分面白く読めるだろう。
第1部の終わりで、壱岐星系を襲ったガイナスの艦隊は人類に破れ、生き残りは小惑星の拠点に封鎖されていた。奈落宇宙基地では彼らを封鎖しつつ、ガイナスとのコミュニケーション手段を探ろうとしている。その中心となるのが学者である烏丸司令官だ。一方、200年前に出発した超光速航路開拓の宇宙船から、恒星系敷島に未知の文明を発見したとのメッセージが届いていた。ガイナスとの関係はあるのか。新たな艦隊が編制され、敷島星系へと派遣される。
本書では前作のような激しい戦闘こそほとんどないが、二つの方面で、息を呑むような緊迫した作戦が描かれる。その背後では人類コンソーシアムの中での怪しげな権謀術数も進行しているのだ。第2部のプロローグとなる巻ではあるが、大変読み応えがある。とりわけ、烏丸司令官によるガイナスとの意思疎通を目指した作戦が、まるで複雑なパズルを解くようで、とても面白い。相手の実態が不明なままに、異星人との共通認識をもとうとするのだ。
そして、この烏丸司令官ときたら! いやー、この人めちゃくちゃキャラが立っている。まるで昔の公家さんみたいな口調で話し、「うつけ者が!」と叱責する。そして「ここは巨大ロボットを投入すべき局面か」ですよ。ファンになります。
そして謎が多い敷島星系。こちらでも、あっと驚くような作戦が展開され、ずっと続いていた緊張感の中で、いよいよ物語が動き出す。これはもう、早く次の巻を読みたくて仕方がなくなる。何とかしてー!
『年刊日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形』 大森望・日下三蔵編 創元SF文庫
2008年から12年にわたって続いてきた『年刊日本SF傑作選』だが、この巻で終了となる。寂しい気持ちはあるが、編者には長い間ご苦労様でしたといいたい。
ぶ厚い短篇集である。コミックも含め、19編(最後の1編は創元SF短篇賞の受賞作)が収録されている。多くは既読であり、THATTAでレビュー済み。なので、ここでは簡単に記すことにしよう。
宮部みゆき「わたしとワタシ」は〈小説すばる〉掲載。中年になったわたしは、タイムスリップしてきた女子高生のワタシと出会う。思い出の中の自分と現実の若いころの自分とはずいぶんギャップがある。軽いユーモアタッチの物語だが、苦みが残る。
斉藤直子「リヴァイアさん」は電書の『万象』に収録。これは既読だが、とても面白かった。とにかくキャラクターのぶっ飛び方が好きだ。
日高トモキチ「レオノーラの卵」。作者はマンガ家でもあるが本作は『博徒のアンソロジー』に収録された小説である。工場で働く娘レオノーラが卵を産む。それが男か女か賭をしようという。不思議な雰囲気のあるファンタジーというか幻想小説である。
肋骨凹助「永世中立棋星」はコミック。Webコミック誌〈トーチWeb〉に連載の作品より。人工衛星に搭載された将棋AIに人格が宿る。彼は将棋をするためだけに生まれたのだ。
柴田勝家「検疫官」は〈SFマガジン〉掲載。〈物語〉が禁止された国で外国からの〈物語〉汚染を防ぐ検疫官が主人公の、寓話的な〈物語〉である。
藤井太洋「おうむの夢と操り人形」はkindle singleとして出版された作品。ごく近未来における人間型ロボットの可能性を描く傑作である。
西崎憲「東京の鈴木」も『万象』に収録。奇怪な事件と「東京の鈴木」という署名が結びつき、恐ろしく不気味な印象が残る強烈な作品だ。
水見稜「アルモニカ」。何とあの水見稜である! ワセダ・ミステリ・クラブの機関誌に掲載された、18世紀のフランスが舞台の音楽療法を扱った作品だ。作者らしい作品だといえよう。
古橋秀之「四つのリング」は『百万光年のちょっと先』より。魔法の指輪とダイソン・リングが結びつく、魅惑的なイメージのSFおとぎ話である。
田中啓文「三蔵法師殺人事件」は朗読イベント用の作品で、アニメ「悟空の大冒険」が元になっているという(でも挿入歌はゴダイゴのガンダーラ)ハチャメチャな作品。殺された三蔵法師のダイイングメッセージを巡るミステリでもある(本当か?)。田中啓文が年刊日本SF傑作選に収録されたのは本作が初めてというのには驚いた。きっと編者がなかったことにしていたのだろう(嘘です)。
三方行成「スノーホワイト/ホワイトアウト」は『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』より。仮想世界のトランスヒューマンである女王の前に、白いノイズが現れる。このダークで残酷な白雪姫物語はとても魅力的だ。
道満晴明「応為」はコミック。〈ウルトラジャンプ〉に連載された作品より。葛飾北斎の娘、お栄のところに未来からエロマンガ(?)が持ち込まれる。
宮内悠介「クローム再襲撃」は『超動く家にて』に収録の、ウィリアム・ギブスンを村上春樹の文体で描くというネタっぽい作品ながら、よく出来ていてクールなギャグが面白い。
坂永雄一「大熊座」は同人誌『改変歴史アンソロジー』に収録のショートショートで、あり得ないアイデアの傑作。クマSFである。いや、伴名練に続いて坂永雄一も早く短篇集をまとめるように。
飛浩隆「「方霊船」始末」は〈SFマガジン〉掲載の『霊號琴』スピンオフ。ワンダと假面との出会いを描く、何と学園もの。百合も入っているみたい。『霊號琴』を読んでいればより楽しめる。
円城塔「幻字」は『文字渦』の一編。横溝正史風(映画版か)の殺「字」事件が描かれる。
長谷敏司「1カップの世界」は〈SFマガジン〉に掲載された『BEATLESS』の前日譚。冷凍睡眠から目覚めた大富豪の少女は、進歩したAIと協働して未来社会に適合していく。
高野史緒「グラーフ・ツェッペリン 夏の飛行」もkindle singleで出版されたもの。土浦のご当地小説であると同時に、単なるノスタルジーではない、本格SFの味わいがある傑作だ。
最後のアマサワトキオ『サンギータ』は第10回創元SF短篇賞の受賞作。ボリュームのある中編で、近未来のネパールを舞台に少女の生き神様クマリを扱った迫力ある作品。「神が存在する世界を描く」というシンプルなテーマながら、スピーディな展開と、結末の圧倒的なカタルシスがすばらしく、読み応えがある。とはいえ、これはイアン・マクドナルドの作品にも感じたことだが、漂うエキゾチシズムの背後にかすかな文化収奪のにおいがして、現地の人はどう読むだろうかと、そこが少し気になった。まあ日本人が日本を舞台にしてこの話を書くと、ずいぶんありきたりなものになってしまうかも知れないが。
『パラドックス・メン』 チャールズ・L・ハーネス 竹書房文庫
本書が初めて出版されたのは1953年。何と66年ぶりの邦訳である。なお1953年はいわゆる50年代SFの大当たりの年だといえる。クラークの『幼年期の終わり』が、スタージョンの『人間以上』が、ブラッドベリの『華氏451度』が出た年でもある。その中で本書は幻の傑作と言われた作品だ。そのアジテーターはブライアン・オールディス。〈ワイドスクリーン・バロック〉という言葉は、オールディスによって本書のために作られた。
ワイドスクリーン・バロック! 好きでしょ? ぼくも大好き。ただし、ぼくにとってのワイドスクリーン・バロックは何といってもバリントン・ベイリーである(『カエアンの聖衣』初版解説を読んでね)。提唱者であるオールディスの思いとは少しずれているかも知れないが、厳密な定義があるわけでもなく、別に問題ない。
もちろん本書はど真ん中の〈ワイドスクリーン・バロック〉である。詳しくは中村融の力の入った訳者あとがきを読んでいただくとして、破天荒でやたらと複雑なプロット、トンデモな科学理論と奇々怪々なガジェット、猪突猛進するヒーロー、何でそうなるのといいたくなるほど都合のいいストーリー、びっくり仰天、あっと驚くほど大げさで非日常的な物語――いわゆるバカSF(褒め言葉)の魅力に満ちあふれているのだ。実際めちゃくちゃ面白い。
ただ、この手の物語をやたらと持ち上げたのには、60年代のオールディスら、ニュー・ウェーブ運動の戦略があったのではないかとも思える。常識的で真面目な、お堅いオールド・ウェーブSFを笑い飛ばしてやろうというように。一方に文学的なニュー・ウェーヴを、もう一方に破壊力のあるぶっ飛んだワイドスクリーン・バロックを置いて、主流派を挟撃するというようなイメージ。それが本当かどうかはわからないが、何となくありそうな気がする。
本書はアメリカが奴隷制の帝国となった未来で、過去をもたない謎めいたヒーローが、ミュータントとしての能力に目覚め、反体制の〈盗賊〉の一員となって、帝国の危険な重要人物たちと対決していく――大まかにはそんな話なのだが、謎が謎を呼び、キャラクターたちの関係性も目まぐるしく変わっていく。はったりのきいた文章は面白いが、時々何を言っているのかわからなくなる。いや、ほんと、訳者はとても苦労したと思う。ただ頑張りすぎて(原書とつき合わせたわけじゃないが)ちょっと現代風に解釈しすぎたところがあるのかも知れない。また「進化」というのがポケモンの進化みたいで笑えるが、科学的な用語を使った説明の部分は本気にしない方がいいだろう(それは訳者のせいではない)。
さすがに、現代でも読む価値があるのかと聞かれると、面白いからいいじゃない、と答えるしかないように思う。
本書にはヴァン・ヴォークトへのオマージュといえる部分があり、作者も『スラン』や『非Aの世界』や『武器製造業者』に畏敬の念を抱いていたと書いている。けれど、ぼくの主観では、本書はヴォークトよりもずっとまともである。でたらめなようで、一応ちゃんと筋は通っている。ぼくは(『宇宙船ビーグル号の冒険』を除いて)ヴォークトの良い読者ではないのだが、岡本俊弥によればそれは読んだ時期が悪いのだそうだ。高校生になってから読んだのでは遅すぎてダメなのだ。なるほど、そういえば『ビーグル号』を読んだのは中学生になったばかりだった(『ビーグル号』については中村融の読み応えある解説を参照のこと)。
まあそれはともかく、本書はSFがもつ多様なベクトルのうち、一つの根源的な方向性を示した作品だといえるだろう。今読んでも傑作かどうかはともかく、色々と楽しめることは間違いないだろう。