内 輪   第347回

大野万紀


 暑いですねえ。まだ8月になったばかりだというのにこの暑さ。自然も社会も、21世紀の10年目くらいから、どんどんおかしくなっていったような気がします。気のせいで終わればいいんですけどね。

 「現代思想8月号アインシュタイン特集」を買いました。冒頭の佐藤文隆さんと細谷暁夫さんの対談で、素粒子論が主流だった1950年代にはアインシュタインはもう過去の人扱いで、それが今のように物理学のアイコンとなったのはビッグバン以後の話だというのも面白かったけれど、それよりも何よりも、麦原遼さんと、科学文化評論家の宮本道人さん(草野原々さんの学生時代からの友人とのこと)の合作SF「呑み込まれた物語 あるいは語られたブラックホールの歴史」がとても面白かった。
 凶悪なブラックホールに呑み込まれた探査機シェヘラザードがそこで千夜一夜物語する話なのだが、ブラックホールSFの歴史を概説する語でもあります(ちょっと百合も入っているかも)。
 とにかく「だまれ、低質量」という言葉がツボにはまりました。大爆笑。
 ただ残念なことに本文や注釈にいくつかミスがあります。小林泰三さんが小林泰水になっていたり、それにヴァーリイ「ブラックホールとロリポップ」の訳者は浅倉さんじゃなくて、ぼくですからね。
 なお、このことをツイートしたら、早速宮本さんと麦原さんから丁寧なお返事があり、正誤表もアップされました。ついでに、ブラックホールSFについて、昔ぼくが少し調べた内容はこちらにあります。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『偶然の聖地』 宮内悠介 講談社
 「IN POCKET」誌に2014年から月5枚半ずつ、作者にしては珍しく行き当たりばったりに、小説ともエッセイともつかない形で連載されていた「最新長編小説」である。単行本になるにあたって、300を越える注釈がつき、それと合わせて読むことで、作者の私小説でありかつ自己言及的で重層的な奇想SF(しかもハード)であるというユニークな作品となった。
 作者の若いころのヒマラヤ旅行やアメリカでの生活をベースにしたエッセイ風な軽い作品ということが、自由な発想を生み、コンピュータ・プログラマとしての経験が世界をプログラムとしてみて、世界のバグ取りをするというとても現代SF的な構想につながったように思う。この辺りの成り立ちについては、表紙にも一部レイアウトされているが、カバーを外すとちゃんと書かれている。
 普通なら小説として完成させづらいアイデアや発想も、このようにすることで断片的ではあっても作者の気持ちや観点、本音や思いつきがそのまま見える化される。エンジニア視点のエッセイ小説だ。その軽さが逆に深い思索を誘う。傑作という言葉がふさわしいかどうかはよくわからない(傑作というと、ちょっと一生懸命さが見えて、この軽さが、余裕のあるノリが失われる気もする)が、ぼくにとっては大傑作だった。とっても好み。面白いし、大好きな作品だ。それにとても勉強になる。よくできた科学書やノンフィクションのように想像力が刺激される。
 行き当たりばったりに描き続けられたというが、大きな枠はあり、ちゃんとストーリーもある。中東のどこかにあるイシュクト山を目指して、何組か(途中でよくわからなくなるが、とりあえずは4組)の人々が向かっていくロードノベルである(少なくとも見た目は)。しかしこのイシュクト山というのが、いわゆるアノーマリーであり、現実世界にあってはならない、世界のバグなのだ。この世界には、誰がプログラムしたのか知らないが、バグ(ここでは「旅春」と呼ばれている)がいっぱいあり、そのデバッグをする「世界医」という存在がある。物語は、その世界医たちが互いにこの世界のプログラムを修正していこうとする、超常バトルみたいな話になっていく(出てくるバグの例がめちゃくちゃ面白い)。そこに本文や注釈の形で作者の実際の経験や、世界をプログラムとして見たときの、オブジェクト指向の構造図が描かれる。それは世界の構造であると同時に物語の、メタフィクションの構造でもある。
 ダグラス・ホフスタッターが言うように、メタとつくものはなべて自己言及が原理となっており、この物語自体も自己言及的で階層構造を持っているのに、そこにさらに注釈という形で外部から自己参照する干渉がかかるものだから、もうエラいことになる。プログラムでいえば再帰的(リカーシブル)プログラムということになるが、これってバグがあると大変なことになってしまうものだ。コンピューターならリソースを喰い尽くし、エラーを起こして止まる(か無限ループする)だけだが、物理的にはカオスで、特異点(シンギュラリティ)に落ち込み発散してしまうだろう。要するにわけわからなくなるということだ。ただ作者はUML図まで書いて説明しながら「言ってみたかっただけ」と韜晦してみせる。いやいいんだけどね。読者はそれで安心できるから。イーガンの作品で、難しいところは飛ばして読めっていう、あれだ。
 でも作者の理解はとっても正しい。軽くて深い。そして面白い。なぜかチベットの秘密基地にある宇宙エレベーターを奏でてみたり(そうだ、郝景芳の「弦の調べ」みたいって言っていたのはこれだったのだ)、ほんと、SF的奇想(バカ話)というのは世界共通だな。というわけで、特にプログラムやっているSFファンはぜひ読むように。

『タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源』 ピーター・ゴドフリー=スミス みすず書房
 昨年出て評判になっていた本。うちでは奥さんが先に読み、タコがとっても可愛い、でも寿命が短くてとっても理不尽で可哀想と話していた。
 著者はオーストラリアの科学哲学者。原注を見ると、SF作家のチャイナ・ミエヴィルとも交流があるように思える。本書は人類とはまったく異なる心と知性をもつ生命体――頭足類が、なぜこれほど賢いのか、タコになったらどんな気分なのかを語るものであり、SF的な興味でいえば、人類とは異なる異星人とのコンタクトがどのようなものになるのかを想像するひとつの事例になるかも知れないものである。
 とはいえ、実際に読んでみると、心や意識に関するハードで哲学的な議論と、それがどのように進化したかという問題への考察が本書の半ばを占めている。決してタコの自然観察が中心ではないのだが、やはり一番面白く、心に響くのは、実際にオーストラリアの海の〈オクトポリス〉で、頭足類たち――タコやイカと触れあった記録だろう。写真も収められているが、描写が生き生きとしていて頭足類への愛がすばらしく感じられるのだ。
 タコやイカは、人類とは異なるが、それなりに理解可能な知性を持っている。好奇心旺盛で、いたずら好きで、エピソード記憶を持ち、論理的な思考をすることができる。イカの一種はレム睡眠をしていて夢を見ているかも知れない。タコのニューロンは約5億個あり、イヌに匹敵する。脊椎動物では、ヒトや霊長類、イルカなどほ乳類はもちろん、オウムやカラスなどの鳥類に知的な思考能力があり、人間のような意識をもっているかどうかは別にして、心が通じ合うという意味での心をもっているように思える。イヌやネコだってそうだ(本書では、その「心」=「Mind」というものについて、生物学的、認知科学的、哲学的に深掘りしていく。そこも興味深い)。ところが、脊椎動物とは6億年も前に分かれた無脊椎動物の、頭足類にも心がある。進化は心を別の経路で少なくとも二度作り上げたのだ。
 とすれば(これはぼくの想像に過ぎないが)、宇宙においても地球と似たような環境であれば、同じような心が生じても不思議ではないのじゃないかと思えてくる。同じような、といってもタコとヒトくらい異なるかも知れないが。でも、海の中であるタコが、スキューバダイビングしている人間に、好奇心豊かに手を伸ばしてきて、手と手をつないで仲良く海中を散歩するなんてエピソードを読むと、とても愛らしく、ちゃんとコミュニケーションできていると感じるじゃないですか。そんなタコの寿命が、わずか2~4年ほどだというのはショックだ。そういえばワールドカップの予想をしていたタコもすぐに死んでしまったのだった。そんなに短い寿命なのに、なぜ生物として負担の大きい知性を発達させたのか、それも本書の考察のテーマとなっている。進化論からそれなりに納得できる結論は出ているが、もしタコの寿命がもっと長く、少なくとも10~20年はあったなら、知識を蓄積し、次世代に伝えたりして、今ごろはタコの文明が発達していたかも知れないと想像する。それはいったいどんなものなのだろう。考えるだけでもワクワクする。

『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』 SFマガジン編集部編 ハヤカワ文庫JA
 「百合」についてさほど知識や見識があるわけではない。もちろん本書の編集者である溝口力丸さんと宮澤伊織さんの昨年のSFセミナーでの対談は聞いたし、それまでも漠然としたイメージはあった。すごく古いんだけど、昔の少女マンガや、大正ロマン、女学生もの、お姉さま、などの要素から来るセンチメンタルで耽美な感情、女同士のどちらかといえば報われない関係性。それがSFセミナーの対談でちょっとアップデートされたが、まあ理解できたわけじゃないだろう。
 しかし、ぼくの持っていた百合イメージでは、その作者は何となく女性というイメージだったのだけど、本書の9編のうち、女性作者は櫻木みわ×麦原遼ペアだけではないか。このことには何か意味があるのだろうか。今の百合って、男同士のBLな関係性を女性が描くように、女同士の関係性を男性が描く方が普通なのかしら。それとも単なる偶然?(SF大会で溝口さんに聞いてみたところ、たまたまそうなっただけということだった)。
 それはともかく、本書は百合についてそんな漠然としたイメージだけしか持っていなくても十分に楽しめる、SF/ファンタジーの傑作アンソロジーである。
 冒頭の宮澤伊織「キミノスケープ」は、二人称小説で、突然自分以外の人間がいなくなってしまった世界(でもインフラは残されている)で生きることになった女性(あなた)が、もう一人の存在(性別はわからない)に気づき、その人の残したものを追ってさ迷う物語である。シチュエーションはよくあるものだが、誰もいなくなった街の描写がとても美しい。そして不在の相手を思うヒリヒリとするような孤独感、焦燥感、寂寥感。この孤独感というものは、もしかしたら本書のテーマとなっているのではないかと思った。
 そんな不在とすれ違いの感覚が、本書の収録作には多く含まれている。
 森田季節「四十九日恋文」の相手は死者である。死者との間に四十九日の間はメールでやりとりができるようになった世界。その文字数には49文字の制限があり、しかも毎日1文字ずつ減っていく。死者との対話だが、普通に生きているがどこか遠くにいて会えない相手とのメールとして描かれている。文字数ルールに知恵を絞ったり、どうでもよくなったり。その切なさが心を打つ。
 今井哲也「ピロウトーク」はマンガ。高校生のわたしの先輩は、こちらの世界では眠ることなく、どこかの宇宙で枕となってしまった恋人を探している。わたしもまた、行ってしまった先輩を求めて旅する。
 草野原々「幽世知能」では、「幽世(かくりよ)」という異世界がこの世とつながり、その接点のご神体では神隠しが起こる。そこでわたしは、変わり果てた親友のアキナと会い、わたしの妹を殺した彼女を理解し、その理由を知ろうと議論する。おどろおどろしい描写があり、日本的なホラーのようではあるが、何とハードSFだ。
 伴名連「彼岸花」はぼくのイメージにあるような古典的な百合の雰囲気を、何とも美しく耽美に描いた作品。吸血鬼が人間を滅ぼし、取って代わった世界で、たった一人の人間となった少女が、敬愛するお姉様と交換日記のやりとりをする。同じ女学校の寄宿舎にいながら、決して生身では会うことのできないお姉様。その切ない感情と、耽美な文体がひたすらセンチメンタルでロマンティックだ。そしてタイトルにも現れている鮮烈な色彩感覚。ただいつもの作者の尖った世界観は、ここでは吸血鬼の姫が人間を滅ぼして世界を支配したというところに表れてはいるが、あくまでも美意識の側に主体があるので、作者のファンとしてはやや物足りなさもある。
 南木義隆「月と怪物」は「百合文芸コンテスト」の応募作で、これが商業デビューという作品。「ソ連百合」だそうだ。舞台は旧ソ連で、共感覚をもつ姉とその妹が研究施設に収容され、様々な実験を受ける。姉妹と、施設の女性伍長の関係性が、暗い時代を背景に描かれる。旧ソ連というのはすでに異世界ファンタジーなのだなあ。冷戦時代をリアルに知る者としては感慨深い。コードウェイナー・スミスのソ連を舞台にした短篇を思い起こすところもある。
 櫻木みわ×麦原遼「海の双翼」は思いがけない大傑作だった。ともにゲンロンSF創作講座の出身だが、作風はずいぶん違う。女性の細やかな内面を掘り下げて描く櫻木と、人間など突き抜けて、宇宙や数学構造といった抽象的な存在を描こうとする麦原の合作だが、それが思わぬ効果を生んでいる。未来のあるとき、空から落ちてきた翼のある異人「海」と、作家の「葵」、そして葵を補助する人工知能(たぶん)である「硲(はざま)」。その三者の関係性が描かれる。この中で最も人間的な意識をもつのは硲だが、その言葉は独特で、読むのにかなり苦労する。だがそこで明らかにされる世界観は極めて現代SF的で、この異様な世界が大きく広がっていく感覚がある。海は鳥人だが、とても動物的な生々しさがあり、翼を光らせてコミュニケーションするという異知性の存在だ。それがどんどん人間らしさを増していく。一方、人間であるはずの葵は、それと反比例するかのように不可解な存在となる。二人は複数ではない、三人からが複数だという言葉をどこかで読んだが、まさにそんな関係性が描かれている作品だ。また言語SFとして見ても面白い。
 『元年春之祭』が評判になった中国人作家、陸秋槎「色のない緑」も傑作。どちらかというとミステリがメインの作者だが、これは本格SFだ。人工知能ハード本格言語SF。そして百合でミステリ。人工知能が翻訳した小説を手直しする仕事をしているジュディは、学生時代の友人で、機械翻訳の研究をしていたモニカが自殺したと、同じく学生時代の友人で、今は著名な計算言語学者となったエマから知らされる。二人はモニカの葬式に向かいつつ、自殺の真相を知ろうと動き始める。三人の学生時代と現在とが交互に語られ、タイトルにもある文法的には正しいが意味のない(論理的に矛盾のある)言葉が大きな意味を持ってくる。論理的に意味がなくても、人間にはそれで通じるものがあるのではと。ブラックボックス化したAIやフレキシブルPCなど、様々な現代SF的な要素がからみあい、知的な議論が繰り返され、そして最後のひと言でエモーショナルな高まりが深い余韻を残す。これが初めて書いた本格SFだとはとても信じられない。この作者のSFをもっと読みたい。
 ラストを飾る小川一水「ツインスター・サイクロン・ランナウエィ」は軽快な宇宙SFだ。これも本当に素晴らしい。遠い未来の巨大ガス惑星を舞台に、その大気圏をツイスタ(パイロット)とデコンパ(エンジニア?)の二人組で操縦する、姿を自由に変形できる粘土でできた礎柱船(ピラーボート)という漁船を乗り回して、魚取り(魚というが食べられない。金属資源の原料となる)をするお話。主人公のテラはデコンパで、粘土を変形させて様々な漁網を作り出したり、船の形状をその場その場に最適な形に変形させたりする。船の舵取りをするツイスタは、本来は夫婦となった男性の仕事であるが、テラの腕前を見てぜひともツイスタをやりたいと願った年下の女性、ダイオードにまかせ、二人は漁に繰り出す。かなり保守的な種族世界で、テラとダイオードは自由に生きたいと思い、型破りな活躍をしていく。そして事故が起こり、二人はまさに生死をかけた中での心のつながりを確認する。見事な作品だ。登場人物は魅力的で、スピード感があり、巨大ガス惑星大気圏での漁業というテーマにも新鮮な面白さがある。これはぜひ続編を書いて、あるいは長編化してほしい作品だ(これも後で、実際に長編化の構想があると聞いた)。

『三体』 劉慈欣(リウ・ツーシン) 早川書房
 話題の中国SF。やっと読み終わったが、確かにすごく面白かった。水鏡子が「過去篇の立派さが作品のバランスを崩している」と書いているが、そういう言い方であれば実に納得できる(喫茶店で聞いた水鏡子の批評はもう一つ納得できなかっのだが)。でもこれは現代編が「ずいぶんと粗雑稚拙」ということではなく、現代編の「立派さ」が過去編の立派さとミスマッチを起こしているように見えるという意味ではないだろうか。いや、後編もすごく「立派」なのだ。それはSFファンが泣いて喜ぶいわゆる「バカSF(褒め言葉)」的な立派さでもあるが、同時にすごくシリアスな問題意識を含んだ立派さである。そこにあるのは過去編とも通底する作者の本気さ、真剣さなのだ。
 様々なテーマ、サブテーマを含んだ作品であるが、第一義的には、これは現代科学と人間の関係を考える本格SFだといえるだろう。物語は文化大革命の時代の北京、紅衛兵の「総括」で著名な物理学者が命を落とす悲惨なシーンから始まる。その娘、天体物理学専攻の女子大生葉文潔(イエ・ウェンジエ)は、問題分子として大興安嶺山脈の開墾に従事させられる。ところがある事件をきっかけに、彼女は秘密裏に建設されていた巨大なパラボラアンテナをもつ「紅岸基地」に配属されるのだ。技術的な腕を買われて、文潔はそこで大きな役割を果たすが、そこが単なる敵の人工衛星を探るための軍事施設ではなく、異星人を探査するための基地だということを知る。そして、文革で人類の未来に絶望していた彼女は、こっそりとある信号を発信するのだ。この第一部、あの時代を知っている者としては恐ろしくリアルで緊迫感があり、読み応えがある。当時、高校生のぼくらはこんな現実を知らず、造反有理と浮かれていたわけで、忸怩たるものがある。
 そして40年がたった現代、第二部の主人公はナノテクの専門家である(その分野では著名だが、決して世界的に有名な科学者というわけではない)汪淼(ワン・ミャオ)。彼は科学者たちの奇怪な連続自殺事件に巻き込まれ、物語はハイテク・ミステリかホラー小説のように進展する。何しろ、現代科学ではあり得ないような超自然的で奇怪な現象が続発するのだ。それは科学者にとって、普遍的な科学への信頼を失わせるものだった。ところで、ツイッターを見ていると、東北大学SF研の読書会でのツイートで「(絶望のあまり自殺してしまう)豆腐メンタルな物理学者たちについては、確かに自殺するかもしれないけど自殺するとすれば作中のような理論物理学者ではなく実験系の物理学者だろうという話が出ました。素粒子と加速器を専門とする会員が、作中の現象を受けていかに自殺したくなるかということを丁寧に図示する謎の読書会の誕生です」とあったが、これには笑った。確かにそうかも。でも実験系なら、こんなアノーマリーがあれば大喜びで装置を作り直そうとするかもね。
 そして、この事件の背後には謎めいた〈科学フロンティア〉という団体があること、そしてVRゲーム「三体」の存在がクローズアップされる。以後、汪淼の体験した「三体」ゲームの内容と、現実世界での出来事が交互に描かれ、40年前の文潔の行為をきっかけとする、異星人の侵略が迫っていることが明らかとなるのだ。本書は、危険な異星人(三体人)とのファーストコンタクトSFだったのである。
 この後の怒濤の展開については作品を読んでもらうとして、出てくるアイデアの突拍子もなさ、面白さは抜群だ。とりわけ、智子(人名ではなく、光子とか陽子というような、粒子の名前だ)のアイデアはまさにバカSF的で驚かされる。大森望の後書きでも言及されているJ・P・ホーガンのSFを思い起こした(やっぱりベイリーよりもホーガンでしょう。特に『創世記機械』とか)。
 「三体」とは物理学の三体問題からくる言葉で、三体星人の故郷が三つの太陽をもち、その軌道がカオス的で予測不能な動きをするというところから来ている。科学的に明確であっても予測不能というところに、本書のテーマのひとつがあるようだ。ただし、このあたりの物理学描写は、SF的には何も問題ないが、納得のいかないところも多い。特に、三体星人の故郷がアルファ・ケンタウリ星系だというのは、天文学的にちょっと無理筋だと思える。なおVRゲームで描かれる三体人の姿は、人間の歴史をなぞっているように見せつつ、実際には酉島伝法の描く異星人のような姿に思えてしようがない。そして後半の展開で思いっきり魅力的なのは、主人公ではなく、相棒となって彼を助ける警察官の史強(シー・チアン)である。「豆腐メンタル」なインテリたちと違い、乱暴でデリカシーのかけらもないが、とにかく思いっきり頼りになる男である。ユーモアもあって、後半の展開で特に重要となる。
 さて、最初に書いたように、本書の第一のテーマは科学と人間である。科学とは宇宙全体へ通じる普遍的な原理・法則を見いだしていこうとうする継続的で地道な行為であり、天から降ってきたり、イデオロギーで左右されたりするものではないはずだ。このことが第一部で明確化されており、それが三体人の「物理法則ハック」によって揺るがされるのが第二部である。その謎が解かれ、科学技術への信頼が回復してさらなる展開へと続くところで本書は終わる。何しろ本書は三部作の第一部ということで、早く続きを読みたいものだ。
 ところで、本書には文潔が農村の人々と穏やかなひとときを過ごすとても美しく印象的なシーンがある。作者は小松左京を読んでいたということだが、ぼくにはまさに『果しなき流れの果に』の、宇宙的なドラマを背景とした老婆と老人のおだやかな茶飲み話を想起させられた。確かにバランスの悪いと思えるところもあるが、このシーンがあるだけでも本書は傑作といって間違いないだろう。


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