内 輪   第334回

大野万紀


 6月18日の地震には驚きました。23年前の悪夢が頭によぎりましたが、幸いわが家では特に被害はありませんでした。本の山が少し崩れたくらいで。
 しかし、何度も整理してはまた積み上がっている本の山。誰かのように巨大な書庫があるわけでもなく、このまま増えていくにまかせてはおけません。今度の地震でも、亡くなった方の半数は、部屋の中での被害ですからね。
 電書化するというのも以前から考えてはいるのですが、これがなかなか難しい。紙の本なら、むしろ本棚に詰め込むよりも、平積みの方が安全なのかも知れないと思ったりします。何より対策として一番簡単だし。某Y君など、部屋に本を敷き詰めて、その上に布団をひいて寝ていました。阪神の震災の時も、それで無事だったのかも。まあ本当かどうかはわかりませんが。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『ある日、爆弾がおちてきて [新装版]』 古橋秀之 メディアワークス文庫
 2005年に電撃文庫で出たものに、書き下ろしの短篇を加えた新装版である。甘酸っぱく切ないボーイ・ミーツ・ガールのお話に、互いの時間の流れの様々な食い違い――時間の停止、逆行、ループ、乗り換え、飛び乗りなど――をテーマとして描いた7編と、電撃文庫版の後書き、それに書き下ろし1編と新装版の後書きが収録されている。さらにおまけで、新装版後書きには、ツイッター小説でもあるごく短い1編が含まれている。
 昨年の4月に出た本だが、まあ昔読んでいたこともあって積ん読になっていた。それが、この前読んだ『百万光年のちょっと先』が良かったので、あらためて手にしたのだ。うん、何度読んでもいい、これは良い短篇集だ。電撃文庫版と違って、装丁は大人しく、電車の中でオッサンが読んでも安心だ。
 すこしフシギな女の子と、フツーの男の子とのボーイ・ミーツ・ガールな物語なのだけれど、その普通の男の子というのが、奇妙な現象が起こってもそれをフツーと感じている世界でのフツーの男の子なんで、ぼくらのフツーとはちょっと違う。何しろ、新型爆弾になった高校時代のクラスの女の子が空から落ちてきても、記憶がどんどん過去に戻って行く幼なじみと歩いていても、死んでよみがえった彼女と遊園地へ行っても、図書館に百年前からいる小さな女の子の姿をした神さまにお仕えしても、毎日クラスの誰かと入れ替わってしまう憑依人格に振り回されても、3時間目のほんの数十秒だけ教室の窓の向こうに見える彼女と鏡文字でコミュニケーションを図っても、爆心地の凍りついた時間の中に閉じ込められている少女と話をしたくなっても、それは特別なことではなく、彼らにとってはごくフツーの延長線上にあることなのだ。
 基本的に恋愛未満の、ほのかなあこがれと好奇心、せいぜい軽くほっぺたにキスするくらい。ホンワカとして素直でストレートでちょっと感傷的な、すごくうらやましくなる青春の一ページなのである。そんな物語が、時間テーマの思いっきりSF的、あるいは奇想小説的なシチュエーションの中で展開するのだ。
 書き下ろしの「サイクロトロン回廊」は、主人公が高校生ではなく、30代のフリーライターになっているが、テイストは全く同じ。子どもの頃よく訪れていた、亡くなった伯父の田舎の家に一人で暮らすことになった主人公が、夜な夜な廊下を走りまわる足音を聞く。それはこの家の娘で、あるとき突然いなくなったタミコ姉ちゃんだ。豪快な姉ちゃんが、幽霊ではなく時間を越えた昔の姿で現れたとき、お話はコメディ・タッチに展開するが、結末はほろ苦く、意外性が残る。これも良かった。
 どの作品も傑作といっていいのだが、とりわけ印象的だったのが、これは以前読んだときと変わらず、記憶の逆行が普通に起こる世界を描いた「おおきくなあれ」、すれ違う時間の中でのボーイ・ミーツ・ガールを甘酸っぱい感傷の中で描く「三時間目のまどか」、そして60億分の1に凍結された時間の中に生きる少女への思いが噴出する「むかし、爆弾がおちてきて」である。いずれも恋愛小説としてだけでなく、時間SFとして読んでも傑作である。本書を読んでいると、どうしてもヴァーリイやティプトリーの作品を思い起こさざるを得ない。
 ところで、ふだん「リア充爆発しろ!」(古いか)とか考えている人は、本書を読むのは要注意です。だって本当に爆発しちゃうからね。

『飛ぶ孔雀』 山尾悠子 文藝春秋社
 山尾悠子の久々の新作は、〈文學界〉に掲載された「飛ぶ孔雀」と書き下ろしの「不燃性について」の2編からなる幻想的な連作長編である。
 シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった。
 そんな一文から始まるこの〈不燃性〉の物語では、火が燃え難くなったという現象が作品全体を覆っているのだが、そのことは毎日の煮炊きに苦労するとか、タバコに火がつきにくいとか、そういう小さな日常的背景に溶け込んでしまっている。
 もちろん本書はストーリーを追うような小説ではない。記号的な人間たち、風景、断片的で濃密なイメージが、時系列を越えて連なり、独特の作品世界を構築している。だが、その一見無秩序で、クールで硬質な幻想世界の中に、幾何学的ともいえるある種の論理がしっかりと通っているのである。タイプは違うが、それは円城塔の作品にあるSF的で論理的な幻想に近いものだといえるだろう。それがいくらでも引用したくなる素晴らしい文章や、目くるめくイメージの鮮烈さと相まって、一読しただけでは何が起こっているのかすらわからないようなこの小説に、統一感をもたらし、その雰囲気が読者を強く魅了するのだ。
 そのイメージの何と豊饒で魅惑的なこと。「飛ぶ孔雀」には絢爛豪華な宴のイメージがあり、「不燃性について」には暗い地下迷宮の悪夢的なイメージがある。
 ぼくは特に「飛ぶ孔雀」に魅了された。真夏の夜の庭園で開かれる大寄せ。優雅なおばさまたちの「下界は茶会の最中、さて参りましょうか」のひと言で、異界から降り立つ魔女たちの気配がかもし出される。ここでは庭園の中の亭をめぐって、消えないように茶釜に火を届ける娘たちの姿が描かれる。芝を踏んではいけない、口笛を吹いてはいけない、火を落としたらそれで終わり、もちろん後戻りもダメといったルールがあり、それを邪魔するのが赤い目をした飛ぶ孔雀。さらに石灯籠の石像は「空洞くん」といって寂しさから石を増殖させ、孔雀とは敵同士。その上、庭園の芝や地面が滑るように動き出す。
 この無機物が動き出し増殖するというイメージは「不燃性について」にもある。こちらには夜の街を自由気ままに副業しながら走る路面電車、地下にある巨大な公衆浴場や温水プール、市街の目印となる三角ビルの中の劇団と役者たちがおり、ロープウェイで行く山頂のラボでは、研究員たちが様々な動物の頭骨を集めている。それらの混沌とした舞台の中を、狂言回しのような主人公たちが動き回っていくのだが、彼らの多くは単なる記号であり、その中で路面電車の女運転手だけはいわばキャラが立っており、自由で生き生きとした印象を残す。というのも、こちらの物語では、地下迷宮とか頭骨ラボとか、面倒な新人歓迎会に意図せぬ結婚とか、閉鎖的で息詰まるような悪夢的イメージが繰り広げられるのに、彼女だけはそこから抜け出して、別の世界にいるようだからである。
 本書の真の主役はそんな世界そのものだ。舞台となる地方都市は、もちろん架空の街だが、町中を流れる一級河川、その中州にある大きな日本庭園、対岸の天守閣、路面電車、干拓地の向こうの海、町を見下ろす石切場のある山など、そこには作者の生まれ暮らした岡山の街のイメージが重なっている。それは歴史のある地方都市の風景から立ち現れる幻想の異界なのだ。
 ぼくが山尾悠子を知ったのは、彼女が大学生時代に〈SFマガジン〉のコンテストに入賞し、SF作家としてデビューした時だ。同世代の作家の登場が嬉しく、関西のSFの集まりで話を聞いたりもした。その後、いくつかの優れた幻想的な作品を発表して話題を集めたが、長い沈黙期間があり、再登場した時には、熱狂的ともいえるファンが支える、カリスマ的な幻想小説作家となっていた。本書で作者の魅力を知ったという方には、他の作品もぜひ読んでみてほしい。その緻密な小宇宙をたっぷりと堪能することができるだろう。

『工作艦間宮の戦争』 谷甲州 早川書房
 『コロンビア・ゼロ』に続く、〈航空宇宙軍史〉新シリーズの第2弾である。2016年から2017年のSFマガジンに掲載された五編と、書き下ろし一編からなる連作長編。
 タイタンを中心とする外惑星連合軍による先制攻撃によって、航空宇宙軍は大きな打撃を受け、第二次外惑星動乱が勃発した。本書はその後の各所でのエピソードを追っていく。いつものことながら、大艦隊による派手な宇宙戦争など微塵もない。どの現場も疲弊し、ほんの数人という少人数でかろうじて維持されている。軍の作戦命令は矛盾し、情報はあいまいで不明確、全体的な見通しは見えず、ただ目の前の事態に軍規と現場判断で臨機応変に対応しなければならない。人員も物資も不足し、周囲は宇宙の何も無い孤独の中にある。そんな見通しの悪い、閉塞感のある戦場で、ひたすら知恵を絞り、物理法則と不条理な状況を相手に、小さな、しかし致命的な戦いを続ける登場人物たち。だがその努力も、報われるとは限らない。
 これが谷甲州の描く宇宙戦争だ。本書では、そんなエピソードの上に、かつて外宇宙へ旅立ったことのある巨大な探査船イカロスが、改装され、新たな艦長と乗員(といってもたった3人だが)を乗せて、外惑星系を外側から攻撃しようとする作戦の経緯が描かれる。しかしそれは謎に満ちたものだった。ただし、あらかじめいっておくと、各短篇での結末は必ずしも明確でなく、この連作長篇全体を通しても、まだまだ筋道のたった全貌は見えてこない。大きな謎は謎のまま残されていて、この後、思いがけない展開を見せてくれるような気がする。
 「スティクニー備蓄基地」では航空宇宙軍側のフォボスの備蓄基地を、外惑星連合軍の秘密兵器が襲う。だがそれに立ち向かうのはたった二人なのだ。
 「イカロス軌道」は外惑星連合軍側の視点だ。タイタンの特設警備艦(戦闘艦が出払っているので、輸送船がこんな任務に借り出されている)が、外宇宙からの巨大な侵入者を探知する。後でわかるが、それがイカロス42だ。
 「航空宇宙軍戦略爆撃隊」はそのイカロス42内部の話。この巨大な宇宙船に乗っているのは、かつて第二次外惑星動乱の勃発を予想した論文を書いたが、艦隊経験もない新任の艦長と、先任下士官が一人、そして自らをロボットだと名乗る謎めいた老人だけなのである。そしてこの閉塞した船内で、何とも不可解で奇妙な事件が起こるのだ。
 「亡霊艦隊」はまた外惑星連合軍側の視点。今度の主人公は艦隊司令長官という大物だが、激しい戦闘ではなく、微妙で不透明な防諜戦が描かれる。急速に回復しつつあると思われる航空宇宙軍の状況がわからないのだ。送り込まれた偵察機の返す情報は、司令長官を唖然とさせるとんでもないものだった。
 「ペルソナの影」も外惑星側だが、たった一人で小惑星帯に残された航空宇宙軍の無人船を探索する、ガニメデから来た准尉の話だ。流される情報を丹念にひろって照合し、データを集めていく。その地味な作業の先に見えてきたものは――。
 書き下ろし「工作艦間宮の戦争」では、今度は航空宇宙軍側に視点が戻り、小惑星帯で損傷した艦船の修理を行っていた工作艦間宮に、特別な任務が下される。地球方面へ戻ってくる大型艦(つまりイカロス42だ)を確保する軌道に向かえというのだ。しかしランデブーしたイカロスには何ともミステリアスな事態が生じていた――。
 本書のどの登場人物も、全体の状況を知らず、何が起こっているのかわからない。ストーリーは断片的で、謎めいている。それに、単なる誤植なのかも知れないが、ちょっと理解できない文章も出てくる。にもかかわらず、〈航空宇宙軍史〉の熱心なファンならずとも、本書はとても読み応えのある、臨場感にあふれた物語として読めるはずだ。
 ストーリーを語るよりも状況説明を語る文章の方が多いことにとまどう読者もいるだろう。だがこの世界をもう一つの現実として、生きたものとして理解するためにはそれくらいの情報量が必要なのである。とりわけ、この太陽系における物流の動き、情報の動きについて、例えばブロックチェーンのような最新技術にも目をやりつつ、しっかりと構築していく、それこそがこのシリーズの大きな魅力といっていいだろう。ちょうどイーガンにとって物理学や数学で構築された宇宙がそうであるように。

『バッタを倒しにアフリカへ』 前野ウルド浩太郎 光文社新書
 以前にこれは絶対面白いだろうと思って買ったまま、なぜか積ん読になっていた本だ。それがこの前の地震で書籍流が発生し、目の前に飛び出してきた。捕虫網をもち、バッタのコスプレをしたおじさんが、鋭い目で「読め」とにらんでいる。これは読まないわけにいかんでしょう。
 バッタ博士の前野ウルド浩太郎(ウルドはモーリタニアでもらったミドルネームで、~の子の意味)が、収入のないポスドクの焦燥感にかられ、一念発起してサバクトビバッタの被害に悩むモーリタニアのバッタ研究所へ単身で飛び込み、しかし求めていたバッタの大群にはなかなか会えず、それでも現地の人々とガハハと交流しつつ友情を育み、様々なテーマで研究を進め、ハリネズミをペットにし、サソリに刺され、そしてついに砂漠の空を覆うようなバッタの大群の中に緑色の衣をまとってすくっと立ちはだかり「さあ、むさぼり喰うがよい」と高らかに宣言する(しかしバッタたちはそれを無視して通り過ぎていく)。
 面白い。そしてその情熱に泣けてくる。ベストセラーになるのもむべなるかなと思わせる。
 とにかく文章がうまい。笑いあり感動ありのドキュメンタリーである。ちょっと作りすぎじゃないのと疑いたくなるくらいだ。でも、多少の脚色はあるかも知れないけれど、これが日本のバッタ研究者の現実なのだろう。とりわけ、研究が思ったように進まず、資金も底をついて、先の見えない不安が重くのしかかり、子どものころからの夢を追って研究を続けるのか、就職して「普通の」生活者となるのか決断を迫られるといったあたり、面白おかしく書かれてはいるが、そのせっぱ詰まった心情を思うと、ぐっと胸に響くものがある。
 そしてモーリタニア! この本を読むとみんなモーリタニアが好きになるだろう。モーリタニアといえばスーパーで売られるタコの産地だが、それだけじゃないんだ。著者は現地でずいぶんとひどい目にもあうし、文化の違いにも驚かされるが、彼の人格とコミュニケーション力はそれを乗り越えて、現地の人から高く評価されるまでになる。とりわけ、ミドルネームの「ウルド」を贈ってくれた研究所のババ所長、そしてバッタ博士のドライバーとなり助手となり、時には現地ガイドとなって共にバッタを追いかけたティジャニ! 彼こそ本書のもうひとりのヒーローといって間違いない。
 言葉もままならない異国で、現地の人々と深く溶け合い、心からの交流をすること。それができる著者にはうらやましさを覚える。
 とにかく著者ときたら、フランス語が話せないままフランス語圏のモーリタニアに来て、なのに言葉を覚える気もないというのだから! ファーブルにあこがれて昆虫学者となり、生まれた村に聖地巡礼までし、南フランスの研究機関に出張したにもかかわらずである。それでもこれだけ濃密な人間関係を築くことができる。その理由は、本書を読めば納得できるだろう。
 つまりそれほど著者の人柄が熱いのである。そこには、研究者の世界に閉じこもるのではなく、自分の仕事を広くプレゼンテーションしていこうとする冷静な意識や計算ももちろんあるのだろう。でも、もっと自然な、というか「天然な」著者の気質を感じとることができる。
 本書もそんなプレゼンテーションの一環として書かれており、バッタの生態や研究の詳細、モーリタニアでの被害と対策の現状といった具体的なところは(一応書かれてはいるが)ごくあっさりとしている。バッタの話ではなく、「バッタを倒しにアフリカへ」行った話なのである。
 本書には、川端裕人さんがモーリタニアまで著者を取材に来た話が載っている。これ、川端さんの「研究室」に行ってみた(ナショナルジオグラフィック日本語サイト)の連載記事で読んで、メチャメチャ面白かった記憶があるが、なるほどこういう裏話があったんですね。
 そちらではより詳しく書かれていたが、バッタが普通の大人しい状態から兇暴なトビバッタに変わる「相変異」という生物学的な現象がある。とても興味深い話なのだが、本書ではごく簡単にふれられているだけなので、別枠のコラムでもいいからもう少し専門的な解説があっても良かったのではと思う。
 本書の終わり、著者が日本に帰国して故郷の秋田で母校の生徒を前に講演するくだりには、こみ上げるような感動があった。どんな分野でも、サイエンスの現場には研究者たちの情熱があり、未知の世界への魅力がある。著者の場合、それが並外れていて、そこに多くの人が引きつけられるのだろう。それがバッタ博士のフェロモンなのだ。


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