続・サンタロガ・バリア (第189回) |
キング・クリムゾンが12月に3年ぶりの日本公演をするというので、大阪公演2daysの初日チケットを手配した。2015年の時の衝撃はもはやないけれど、あのサウンドにもう一度浸りたいとは思う。そういえばグレッゲ・レイクの自伝にこんなエピソードがあった。
・・・レイクはロバート・フリップとバンドを組むことにして、西ロンドンはレンスタースクエアにある大きなヴィクトリア朝屋敷のフラットに一緒に移り住んだ。・・・その頃のロバートは学生時代の服をまだ着ていたので、ステージ衣装を探しに出た。レイクがパガニーニのブラックマジック風な黒い衣裳がいいんじゃないかと提案したらロバートは乗り気になった。そしてポータベロロードにあるアンティーク店へ一緒に行った。そこでそろえた帽子からケープ、シャツ、靴に至るまで黒で統一した衣裳はロバートにピッタリだったので、これが後にロバートのステージ衣装の定番となり、その衣裳がロバートの風変わりなステージマナーを作り出したともいえる。その後、レイクはロバートと別れスプーキー・トゥースのコンサートを見に行った・・・
ここからはいい加減な訳だけれど原文を引用する。
「(その晩)・・・レンスター・スクエアの家に帰った時、明かりのスイッチを押したけれども点かなかった。たまに電球が壊れていても、この建物の住人は皆めんどくさがり屋で球を換えたりしないから、気にせずに暗い階段を上がっていった。階上にかすかな明かりがひとつ、チラついているのに気づいた。もう少し近づくと、突然、奇怪な歯と黒いトップハットの白っぽい顔が見えた。その顔に続く体はかがんだ姿勢で、切り裂きジャックみたいに真っ黒な服を着てそこに立ち、顔に向けてローソクを一本掲げていた。その顔がこちらを脅かそうとキッとにらみつけている。ぼくの心臓は止まりそうになった。
『このヤローッ!』ぼくは叫んだ。
そう、電球をソケットから外したあと、ロバートはその夜、その衣裳を着、付け歯をして、ぼくを魂消させようとただそれだけのために、ぼくの帰りをずうっと待っていたんだ。」
あのロバート・フリップ先生にもお茶目な時代があったらしい ・・・。
前回の原稿を書くときには読み終わったいたのだけれど、感想を書くことができなかったのが、山尾悠子『飛ぶ孔雀』。
なぜ書けないかというと、ページを繰って行くという行為が終わっただけで、まったく読み終わった気がしないから。
山尾悠子がコメディを書いたのは分かった。山尾悠子がコメディ風なシチュエーションを採用したことには驚いたが、それよりもディテールが謎で、特に表題作の方が図形楽譜のような抽象的な設計図の存在を感じさせて、強靱な言葉のフラッシュが作中に浮かんだ舞台を闇と光の交差で際立たせている。そこへマスカレードのように様々な登場人物たちの会話、独白、行為そして作者謹製のルール解説が出没する。
この作品は物語であるかのように読めてしまうけれども、物語としては解釈できないようなつくり物になっている。ウェル・ストーリーとはまったく違うし、多面的解釈はもちろん許すが、多面的解釈自体に意味がないという代物だ。あとは再び本を手に取ってその言葉、その文章を読むだけである。
何軒かある地元の本屋には創元の『ラブクラフト全集2』だけが抜けていて、注文するのもナンだしとおもい、昨年出たのにクトゥルー・ミュトス・ファイルとやらで手を出さなかった北野勇作『大怪獣記』を読むことにした。
薄いハードカバーで2500円と高めの値段設定だったけれど、なかを開けてみてビックリ、なんと巻末に楢喜八イラスト集が付いているではないか。しかもあの『異次元を覗く家』の表紙絵がカラーで載っている。ウーン、クトゥルー恐るべし。
ということで読み始めたら、クトゥルーへの挨拶代わりの単語は散見するものの、これは昔文庫で読んだ『人面町四丁目』から続く世界の話だった。
世界はいつもの北野ワールドで、これから人面町でロケする怪獣映画のノヴェライズを頼まれた主人公の作家が語り手となって、人なつこくてユーモラスであると同時に不気味な物語が展開していく。まあ、奥さんが強いので安心して読めるんだけれど。
それにしても北野勇作がジャンル外で高く評価されることがないのは不思議だ。
昨年の積ん読消化のついでに手を出したのが、ノーベル文学賞受賞記念で文庫化されたカズオ・イシグロ『忘れられた巨人』。
SFだった『わたしを離さないで』に続く長編が、アーサー王が亡くなって間もない時代のブリテン島を舞台としたファンタジイというのは知っていたけれど、その頃のイギリスは現在のような風景ではないのですと作中にわざわざナレーションを入れるようなことをしているにもかかわらず、まったく読み手に何のストレスも与えないストーリーテリングには舌を巻く。
話は霧が流れる村で村八分に遭っている老夫婦が、村八分の理由も思い出せないまま、少し離れた村にいるはずの息子のところへ旅しようと決心するところから始まる。カズオ・イシグロは物語を先に進めながら、中世騎士物語の残滓をちらつかせつつ、いかにもファンタジイの中世風イギリスを旅する老夫婦のトラヴェローグに読者を付き沿わせる。物語がどこへ向かっているのか物語から浮かび上がってくるものは何なのか、読み手には様々な情報が伝えられ、「忘れられた」が「忘れさせられた」ことになる忘却の霧を吐く魔竜の存在をクライマックスに持ってきて、正統なファンタジイとしての結構を成就する。 カズオ・イシグロはファンタジイをファンタジイとして楽しめる物語を用意することを基本として、忘却の持つ様々な意味を物語のレイヤーの各レヴェルに対応させながら、人間の有り様を読者に提示して見せている。そのためにファンタジイとしての物語は終わっても、老夫婦や様々な脇役を通じて読者に伝えられた「記憶と忘却の意味するところ」が浮かび上がってくる。そういう意味でこれは立派な小説です。
そしてこれが立派なファンタジーだとすれば、山尾悠子の『飛ぶ孔雀』は、その立派さと無縁の幻想で構成されたシュールレアリスム的作品であることがよく分かる。
ここからは新刊に入って、まず飛浩隆『ポリフォニック・イリュージョン 初期作品+批評集成』は、硬質な文系SFの雄であるこの作者の、お蔵だしというか在庫一掃というか、そんな感じの1冊。
初期作品集は、飛浩隆が何をSFとして書きたかったのかがよくわかるという意味で面白い。SFのマジシャンの修業時代とでもいえようか。思いの丈の世界と小説的窮屈さが拮抗している。批評集成の方は本音とエンタメが拮抗していて、巽孝之さんのいう批評という名のSFが実践されているようにも見える。
山田正紀『BatLAND バットランド』は収録作5作全部が既読というあまりお買い得感のない短編集だけれど、あとがきも含め、これらの作品から感じるのは、これはSFファンしか読まないだろうというような覚悟で書かれたとしか思えないシッチャカメッチャカな開き直り(山田SFファンにはありがたい)である。
それぞれの作品の初読の時の感想は、ディテイルを大分忘れたあとで再読しても、強化されるばかりであるが、今回まとめて読んでみてそれが楽しい行為であると確認できたのはご同慶の至りである。
作品空間を言葉/SFタームで意識的に歪ませてみせる力業は、たぶん山田正紀しかやらない暴挙であろう。飛浩隆もそれと似たことはやって見せているけれども、山田正紀のような稚気満々さはさすがに感じられない。
岡本俊弥さんがBook Review Onlineで紹介しているのを見て、出てたのかと早速本屋で買って読んだのが、乾緑郎『機巧のイヴ 新世界覚醒篇』。前作はなかなか斬新な改編江戸時代メカSF連作短編集で面白かったので、続編は読んで見たいと思っていた。
今度は長編で、なんと前作から百年後の改変アメリカ。作中では新世界大陸(ムンドゥス)・ノーヴス)で、ゴダム(シカゴ?)万博が開催に向けて突貫工事中。そして日下国(クサカノクニ)のパビリオン「十三層」の展示の目玉がなぜか停止したままのイヴという舞台設定。
話の方は食い詰めた私立探偵の前に、昔東洋の大陸で組合潰しをやらされて悪夢のような経験をしたときに知り合った謎の男が再び現れ、その男からイヴの奪取を持ちかけられる。妻子の待つ日下国へ帰れるだけの金額提示をされた探偵、イヤな予感を持ちつつも引き受けてしまう。といった、まあ、ありがちな展開だけれど、探偵の悪夢のシリアスさに対して、作品中のリアルタイムで進む話の展開はなぜかコメディタッチ。
イヴも意識を取り戻してからはなぜかノホホンとしていて、サディスティックな殺し屋のサスペンスがあるにもかかわらず、全体には弛緩したB級感が充満している。
サクサク読めるから別に不満はないし、イヴも天帝も長生きなので、続編を期待して待とう。
辛気くさいといえばますます辛気くさくなってきた(ホメてます)のが、谷甲州『工作艦間宮の戦争 新・航空宇宙軍戦史』。
第2次外惑星動乱勃発、外惑星連合軍の再度の奇襲にタジタジとなった航空宇宙軍がなんとか立ち直りを見せようという時期、航空宇宙軍側の外宇宙探査船が改装軍艦として運用され、それが外惑星のまだ外から外惑星連合軍に攻撃を仕掛けようとしている。その作戦を巡って、外惑星連合宇側の対応と航空宇宙軍の思惑とが6編の短編でそれぞれの視点から描かれている。
とにかく人がいない。巨大な外惑星探査船も外惑星連合軍の軍艦も僅かな人数しか配置されておらず、人間的スケールからは誰もいないに等しい宇宙空間の荒涼とした感触が展開されるドラマとぴったりの雰囲気を作り出している。
客観的に考えると人間ドラマとしてはやや無理があるような気がするけれど、戦争そのものが狂気の産物であるなら、それも宜なるかなとは思う。
次回回しになる予定だったシルヴァン・ヌーヴェル『巨神覚醒』上・下が、あっという間に読めてしまったので取り上げておこう。
前作『巨神計画』から作中の物語がリアルタイムの続編ということで、読むのにまったくストレスがない。1章分が極端に短い上、改行行空けが多くあることも読みやすさを強化している。
まあ、巨大ロボットが操縦できる唯一の男女カップルのいままで知られてなかった一人娘が「エヴァ」では、やることは決まってるとしか云いようがない。それはともかく異星から来たロボットアクションものとしては、あらゆる疑問を封じて突っ走っていることは確か。昔の「SFはSFの上に築かれる」という格言は、いまや「SFは偏在するSFミームのなかで育つ」という風にでも言い換えるべきかな。
解説の堺三保さんが日本の巨大ロボットアニメの流れとその設定の裏の意味を鮮やかに明かしていて面白い。
ノンフィクションは次回に回します。