内 輪   第330回

大野万紀


 まずは、最近読んだ雑誌の話題から。「本の雑誌3月号」に、「池澤春菜が選ぶ池澤夏樹の十冊!」が掲載されています。これが素晴らしすぎる! 好きな作品が並んでいるのもいいけど、(「ヤー・チャイカ」の)「主人公のカンナは、私と妹を足して二で割ったような子だし」とか、(『南の島のティオ』の)「ティオはいい、ティオはいいぞお」「だってここにいたのだから。私はティオを知っている。ヨランダやマリアを知っている。犬のオトオサンや、軍艦鳥の雛のハルナや、滝壺の大きなウナギ、無人島で食べるキュウリのキューちゃんと不格好なおにぎり、(中略)、ナンマドゥール遺跡の静けさを知っている」って! ずるい、というか、うらやましいというか。

 次はコミック。奥さんに勧められて、篠原健太のコミック「彼方のアストラ」を一気読みしました。めちゃくちゃ面白かった。始めは熱血サバイバルSFだったけど、すぐに本格SFとして描かれていることが明らかとなり、さらにSFミステリーとしての味わいが強くなる。何をいってもネタバレになるので内容については書けないけど、ちょっと「11人いる」を思い浮かべた。とても楽しめました。

 そして、安田均さんのインタビュー本「日本現代卓上遊戯史紀聞」をkindleで購入。安田さんの学生時代から現代にいたる、ボードゲームを中心にしたゲームとの関わりが語られています。ゲームだけでなく、「幻想と怪奇」やSFの話題も出てきます。いろいろな人の実名がバンバン。うーん、懐かしいですね。あの頃は安田さんとみんなアクワイアばかりやってた記憶が。ぼく自身はその後ファミコンやコンピュータゲームの方が気になって卓上はほとんどやらなくなっちゃったんですが。水鏡子も買ったアップルIIのコンパチ機の話も! ボードゲームは、水鏡子やみんなはその後もずっと続けていて、今でも水鏡子邸ではみんなを集めてゲーム会が開かれています(次は3月にあるそうだ)。わが神戸大SF研も今では神戸ボードゲームの会と名前を変えて、立派に活動しているようです。昔話だけじゃなく、今にちゃんと繋がっているのが嬉しいですね。なおkindle版が読めない人は、ここでPDF版が購入できるようです。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『図書館島』 ソフィア・サマター 東京創元社
 1971年アメリカ生まれで、世界各地を転々としながら、南スーダン、エジプトで英語を教え、今はアメリカの大学で英語学を教える作者の、2013年刊行の初長編であり、世界幻想文学大賞と英国幻想文学大賞を受賞し、さらにキャンベル新人賞とクロフォード賞も受賞した幻想文学/ファンタジー長編である。
 われわれの世界に大変良く似ているが、地理や歴史は異なった中世的な世界が舞台。そこはオロンドリア帝国という強大な帝国がずっと昔から支配している。
 主人公はジェヴィックという名の青年。彼は南の辺境にある紅茶諸島の裕福な商家に生まれたが、オロンドリアから来た肌の色も違う家庭教師ルンレの導きで、書物というものの存在を知る。もともとこの島々には文字がなかったのだ。彼は書物の中に生き生きとした世界があることを知り、それに耽溺していく。
 成長した後、彼はついに憧れの帝都ベインへの航海に旅立つが、航海中に不治の病キトナに冒された島の娘ジサヴェトと知り合う。彼女は母親とオロンドリアの山岳地帯にあるという、〈治療の街〉へ向かうところだった。だがその病は治る見込みはないのだ。彼は彼女に「本」を読んで聞かせる。
 やがて彼はベインの都に到着し、その魅力にわれを忘れ、そのあまり、今の王からは邪教とされて迫害されている古い強力な女神アヴァレイの祭に巻き込まれる。その大騒ぎの中で彼はジサヴェトの〈幽霊〉を見る。彼女は死に、その魂が彼に取り憑いたのだ。それは忌まわしいことだったが、女神アヴァレイの信者にとっては、まさに〈天使〉の降臨に他ならなかった。
 かくて彼は、書き写された〈文字〉の力を信じる現在の公認された宗教と、語り伝える神秘的な〈声〉の力を信じる女神の信者との争いに巻き込まれることになる。〈天使〉に憑かれた彼はベインの兵士に逮捕され、〈文字〉を信じる司祭のもと、世界中の書物を収めた王立図書館のある〈浄福の島〉へ幽閉されることとなる。だがこの島にも女神の信者はいた。彼らは彼を〈天使〉の依り代として祭り上げ、島から脱出させて山岳地帯へと旅立つ。その間にもジサヴェトの〈幽霊/天使〉は現れ、「わたしの物語を書いて」と彼に迫るのだった……。
 あらすじ紹介が長くなった。しかし本当のところ、こういうストーリーは実はあまり重要ではない。重要なのは、物語の中に何度も差し挟まれる書物の、詩や伝説、寓話そのものである。それが「千夜一夜物語」のように額縁小説となって、この世界の奥行きを増している。
 そして何といっても、濃密で美しいその描写。街や自然や人々の、まさにその息吹きがするような、雑踏の喧噪が聞こえ、生活の臭いが満ち、光や空気のゆらぎが見えるようなそんな描写が本書にはあふれているのだ。それがまた訳者の見事な日本語に置き換えられていて、主人公ではないが、未知の世界を描いた書物を読む楽しみに充ち満ちている。まさにじっくりと味わって読むべき小説だろう。堪能した。

『アリスマ王の愛した魔物』 小川一水 ハヤカワ文庫JA
 2010年の『NOVA3』に収録された「ろーどそうるず」、同年のSFマガジンに掲載され、星雲賞を受賞した「アリスマ王の愛した魔物」、2012年の英語版アンソロジー『THE FUTURE IS JAPANESE』に収録された「ゴールデンブレッド」、同年の作者原案、音楽・大嶋啓之のコラボレーションCD「星海のアーキペラゴ」に収録された「星のみなとのオペレーター」、そして最新の書き下ろし「リグ・ライト――機械が愛する権利」の5編が収録された中編集である。
 『天冥の標』のサブタイトルに「ヒトであるヒトとないヒトと」というものがあるが、小川一水は常にこのテーマに取り組んでいるように思える。そして「ヒトであるヒト」も「ヒトでないヒト」も同じ、互いに共感できる「ヒト」だというのが、現在のところ、その結論だと思う。ここでいう「ヒト」には人間はもちろん、動物も機械も人工知能も、バイクも車もロボットも、異星人もみんな含まれるのだ。そして「ヒト」を人間と捉えた場合でも、そこには男も女もそうでない人も、文化の異なる外国人も、大人も子どもも、やっぱりみんな含まれる。
 擬人化、というとちょっとイヤな感じ。そうではなくて、そのまんまヒトなのだという感じだ。多様な存在に同じタマシイを感じ、共感し、投影し、愛し合い、〈萌える〉ことができる。長谷敏司のいう「アナログハック」みたいだけど、人工知能に限った話じゃない。ちょっと楽観的かも知れないが、多くの読者がこの姿勢、方向性には納得し、合意できるのではないだろうか。
 本書でいえば、「ろーどそうるず」も「リグ・ライト」も、まさにそのものずばり、人工知能と人間の、そのような関係を描いた作品である。
 「ろーどそうるず」は知能をもったバイクと、研究所のAIとの会話のみで成り立っている話で、最初に読んだ時も傑作だと思い、今読み返してもその時と同じ感動を味わうことができた。宇宙探査機でも何でも、意識を投影できる健気な機械にはめっぽう弱いのだ。ほろりとくる。
 そして「リグ・ライト」。人工知能の権利と義務について正面から議論しようとする硬派な話を、性別をあいまいにしたカップルとからめて、ヒトとAIだけでなく、人の中の社会的な「定義」も含め、軽い口調で語っている。これも傑作だ。AIに本当に自意識があるかどうかはどうでもいい。アナログハックでもいい。そう解釈できる行動をとり、そう心から思えるなら、プログラムが取ってきたビッグデータが何かそれらしいことを言わせているにすぎないのかも知れないが、そこに愛を見たって全然かまわないだろう。なお、大家のおばさんが性別を固定するように漏らした言葉がちょっと気になった。性別そのものじゃなく、比喩的表現として言ったのだと思うけれど。
 「星のみなとのオペレーター」は、本書で初めて読んだのだけど、これもまた傑作。これは作者がずっと描き続けている、女性の「お仕事小説」の一つといっていいかも知れない。主人公はひなびた小惑星で宇宙港の通信士(オペレーター)をしているすみれ。その日常が、しだいに太陽系の危機とからんでくる。にもかかわらず、物語はずっとすみれの視点から離れることはない。環境や状況が変わっても、彼女の仕事と日常は続いていく。軽く描かれているのだが、背後にあるのは『天冥の標』と似た、宇宙的で巨大な危機だ。何しろ十兆個以上の人工物――接触したものをたちまち改造してしまうフォン・ノイマン・マシンのようなやつが、太陽系を通過しようとしているのだ。ファーストコンタクトものでもあるし、その「ヒトでない」ものを「ヒト」として認めていく物語でもある。彼女の拾った可愛らしい三角形のコンちゃんが、まさかそんなものだったとは(まあ誰でもそう期待するだろうけどね)。明るくてとても前向きで、読後感がさわやかだ。
 「ゴールデンブレッド」は、やはり「小惑星SF」で、また「食べ物SF」でもある。収録されたアンソロジーの性質(アメリカの読者向けに日本SFを紹介する)にも関係するのだろうが、一ひねりした異文化コミュニケーションを描いている。軍国日本の少年兵がカリフォルニア出身の日本文化を保持している小惑星で文化摩擦を経験するという話で、小粒だが面白かった。
 「アリスマ王の愛した魔物」は千夜一夜物語風の寓話だが、おぞましいダークファンタジーでありながら、小技のギャグもきいており、少しエロチックでもある。ストーリーの中心は、数字が大好きなアリスマ王が魔物(たぶんすべての状態を知って未来を予測することのできるラプラスの魔)の力を借りて、無数の人間を計算機として使い捨てにしつつ、経済から軍事まですべてを予測して国々を征服していくというものである。面白く読んだのだが、正直、作者の力量ならもう少し突っ込んだ内容にもできたはずではという思いがある。というのも、計算する人間たちのハードウェアとしての側面は詳細に描かれているのに、そのソフトウェア、プログラムについてはほとんど無視されている(王が設計したとは書かれているが)。もしかしたら、作者はアルゴリズムやソフトウェア的な側面には、ハードウェアに比べてあまり興味がないのかも知れない。「リグ・ライト」はソフトウェアの話ではあるが、その内的なアルゴリズムよりもその表現形(アウトプットやマン・マシン・インタフェース)の方に力が置かれていて、それが小説としての面白さをドライブしているのである。まあ(例えば円城塔のように)ソフトウェアの内部に深く入っていったなら、そこを面白がって読む人は限られてくるだろうけどね。

『絶滅の人類史 なぜ「私たち」だけが生き延びたのか』 更科功 NHK出版新書
 『我々はなぜ我々だけなのか』の関連で読んだ。こちらは人類と類人猿の共通祖先からホモ・サピエンスまでの700万年を概括し、どこがどのように進化してきたのかを化石の証拠からわかりやすく解説している。人類進化史というのは、不明なところが多く、しかも学説がたくさんあって入り組んでいるという印象だったのだが、本書などで最新の状況を見ると、まだまだ異論はあるにせよ、かなり整理されてすっきりしたように、少なくとも素人目にはそう見える。
 細かなところはともかく、本書によれば、ヒトとチンパンジーの共通祖先から別れた初めての人類は、現在発見されているものとしては約700万年前のサヘラントロプス・チャデンシスであり、いくつかの途中経過を経て、約440万年前のアルディピテクス・ラミダスが出てくる。いわゆるラミダス猿人だ(本書では学名を使う方針となっており、この言葉は出てこない)。ラミダス猿人は化石の数が多く、よく調べられていて、これまた本書で最も重要視されている人類の特長、直立二足歩行の起源をさぐる上でも重要だ。
 人類は、地球上の生物の中で唯一の、直立二足歩行をする生物なのだ。脳の大きさとか道具を使うとか、そんなことよりも何よりも、まず直立二足歩行なのである。このことは聞いてはいたが、本書ではその理由が明確に述べられている。直立二足歩行にはメリットとデメリットがあるが、人類はそのメリットを生かすことのできた地球上で唯一の生物なのだ。
 通常の生存には不利に働く直立二足歩行を人類はなぜ採用できたのか。本書では、初期人類からつづく人類の社会性と一夫一婦制(そしてちょっと驚くのが、人類は平和な生物だったということ)をその最大の理由にあげ、その根拠を説明している。それぞれの要素が互いに関連しあって、プラスのフィードバックループを形成し、牙(犬歯)をなくし、大きな脳という、これまた生存にはデメリットの方が大きい形質を伸ばしていったというのだ。このあたりの、化石を証拠とする議論がとても面白く刺激的である。
 さてラミダス猿人の後は、約420万年前からのアウストラロピテクスの時代である。繁栄したアウストラロピテクスからはさらに二つの系統が進化する。アウストラロピテクス・ボイセイなどの頑丈型猿人と、ホモ・ハビルスなどのホモ属である。約250万年前のことだ。
 そして約190万年前にホモ属から現れたのが、ホモ・エレクトゥス、いわゆる原人である。原人は100万年以上の長期にわたって大発展し、アフリカを出てユーラシアへまで広がった。北京原人、ジャワ原人など、これは『我々はなぜ我々だけなのか』で主に書かれていたところだ。
 彼らは石器を使い、肉を食べた。二足歩行で走ることもできた。短距離走は他の動物に及ばないが、長距離では勝つことができる。動物のような体毛もなくなった(実際はなくなったわけではなく、細く短くて目立たなくなった)。火も使った。だが化石の証拠からは、まだ言葉によるコミュニケーションは出来なかったようだ。
 そして彼ら原人と共存する形で、約70万年前に、新たな人類、ホモ・ハイデルベルゲンシスが現れる。そしてそこから進化して、約30万年前に、ヨーロッパでホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)が、それとほぼ同じか少し遅れて、アフリカでホモ・サピエンスが現れることになる。
 ネアンデルタール人は住居を作り、毛皮をまとい、進んだ石器を使った。言葉も話せた。ある程度は抽象的概念も扱えたはずだ。体は頑丈で、その脳は現代人よりずっと大きかった。いったいどんな人々だったのだろう。大きな脳を維持することの負担は大きい。であればどんなメリットがあったのか。技術的な面では彼らより脳の小さいホモ・サピエンスの方がずっと多くを達成している。著者はそれを、遺物などの証拠に残らない、我々の物差しでは測れないような偉大で有利なものだった可能性があると語る。例えば非常に優れた記憶力であるとか。
 我々ホモ・サピエンスは抽象的な概念を発展させ、言葉や、後には文字によってそれを集団の中で外部化させた。すると脳にそれをすべてため込む必要はなくなり、ネアンデルタール人のような大きな脳はいらなくなったのではないかというのだ。とすれば、将来考えることもAIにまかせるようになったならば……。
 著者の次の記述がとても印象的で心に響く。「今の私たちが考えていないことを、昔の人類は考えていたのかもしれない。たまたまそれが、生きることや子孫を増やすことに関係なかったので、進化の過程で、そういう思考は失われてしまったのかもしれない。それが何なのかはわからない。ネアンデルタール人は何を考えていたのだろう。その瞳に輝いていた知性は、きっと私たちとは違うタイプの知性だったのだろう。もしかしたら、話せば理解し合えたのかもしれない。でも、ネアンデルタール人と話す機会は、もう永遠に失われてしまったのである。」

『半分世界』 石川宗生 創元日本SF叢書
 デビュー作の「吉田同名」で創元SF短篇賞を受賞し、星雲賞の候補作になった作者の初の単行本であり、書き下ろし(といっても実際の執筆は一番最初だったそうだが)一編を含む4編が収録されている。
 飛浩隆の解説と帯が全てを語っており、あまりつけ加えることはないのだが、とにかく傑作中編集だ。奇想小説。その通り。でも設定はぶっ飛んでいるが、幻想性よりもリアリズム(マジックリアリズム?)、ロジック性が勝っており、そこがSF性を強く感じるところだろう。とりわけ「吉田同名」はそうだ。
 ある日突然、ごく普通の(といってもかなり知的な人だが)サラリーマンである吉田さんが、約2万人に増殖する。帰宅の途中で起こったので、自宅近くの街中が吉田さんでいっぱいになる。そこで政府は吉田さんたちを廃校などを利用した施設に分散させて収容し、周囲から隔離された環境で共同生活を始めさせる。
 『年間日本SF傑作選 アステロイド・ツリーの彼方へ』に掲載されたときも傑作だと思ったが、今読み返しても傑作だ。こんな事態を思いついたというアイデアもすごいが、その後の展開がひたすらリアルで論理的なのだ。それは文体にも理由があり、一部には主観的で小説的な描写もあるが、むしろ報告書や観察記録のように、とにかく客観的に、対象化して描いているのである。それがかえって面白く、人間性の深いところにあるものを浮き上がらせている。
 表題作の「半分世界」にも良く似たところがあり、ここではある一家、四人家族の藤原さんの住む家が、まるでオープンセットのように半分に切り取られて、外から中の暮らしが丸見えになってしまう。それでも一家の生活は平然と続けられるが、嵐の日には風雨が吹き込まないように、境界にビニールカーテンを張るなど、彼らも部屋が外部に開かれていることは意識しているのだ。
 そしてそんな藤原一家をその向かいのマンションから観察するフジワラーと呼ばれる人々がいる。この事件の研究者ではなく、フジワラ・マニアなのだ。この小説はフジワラーによる藤原一家の観察記録である。藤原さんに直接の接触をしてはいけないといった(よくわからない)ルールがあり、そんなルールの制限下でひたすら藤原一家のディテールが描かれる。そやからどやねん、と思うけど、それが面白いのだ。事件というほどのものは起こらず、見る、想像する、解釈する、アイドルのように気持ちを重ね、追っかけする、そしてついにルールが破られるといったことが、いくつかの観点から記述される。そんなドキュメンタリーだ。
 「白黒ダービー小史」では、そんな不可解なルールで縛られるのが一つの町全体となる。三百年間、町の全住民が白チームと黒チームに分かれ、フットボールに似た球技をひたすら続けている。様々な伝説が生まれ、喜劇も悲劇も繰り返される。白チームと黒チームは互いを不倶戴天の敵としながら、基本的にルールを守って日常生活を続けている。
 ここでも奇想なアイデアがあり、それがルールによって固められ、ゲームとして展開されている。ただ、この小説にはキャラクターがいる。主人公の黒軍(ブラックス)のエース、レオナルドと、白軍(ホワイツ)の監督の娘、マーガレットだ。二人は試合の中で一目惚れし、互いに愛し合う。まるでロミオとジュリエットのように。まったく赤面するような話だが、それが全くクサくないのは、物語自体が神話的で、そんなクリシェが当たり前に思えてくるからだ。小気味いい会話とスポーツのアクション。気恥ずかしくなるほどの真っ直ぐなロマンス。これもまた傑作だ。
 そして最後の書き下ろし(解説によれば、今回の収録作の中で一番始めに書かれた作品とのこと)「バス停夜想曲、あるいはロッタリー999」は、まさに飛さんの解説にあるとおり「一点突破的着想、ルール設定と逸脱を押し進め、ディテールの総力戦を展開」した作品である。
 他の作品に比べると幻想的な要素が大きく、舞台もメキシコっぽい砂漠の中で、ラテンアメリカ文学的な、マジックリアリズムの雰囲気がとても強い作品となっている。
 砂漠の中にあるバス停。そこは999の路線が通っているというが、時刻表もなく、どの番号のバスがいつ来るのかもわからない。そこでバスを待つはめになった数百人から一時は数千人もの人々が、次第に集団を作り、この場のルールを決め、商売し、抗争し、一つの世界を作り上げ、やがて消えていく――という壮大な物語である。何人かのカリスマ的な存在も現れる。語り手は一人ではなく、とりわけ物語の最後では、シャーマン的な老婆の神話的な語りで、この世界の興亡が語られる。コミカルな描写、荘厳な描写、熱気や倦怠、たくましい笑いと残酷な悲劇、希望と絶望、そんな要素のつまった、読み応えのある傑作である。


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