内 輪   第315回

大野万紀


 11月に神戸大SF研の44周年記念行事があり、創立メンバーの一人として参加してきました。おじさん、おばさんの中に、現役の若い人も大勢いたのが印象的でした。今では神戸大学ボードゲームの会と名前も変わっているようですが、まあこれも、ぼくらがその昔、安田均さんと遊んでいたころからの遺伝子の発現といえるのでしょう。
 水鏡子が昔のファンジンなどを持ってきて展示していましたが、群がっているのはどうやら50代以上の連中ばかりのようでした。
 10年ぶり、20年ぶりに会うような人も多く、大変懐かしい感じの会でしたが、三宮での二次会も盛り上がり、けっこうSFの話ができて、楽しかったです。次は55周年かな。なお、前回が33周年で、30じゃない理由は、30周年の時に忘れていたためだそうです。というわけで、今回は44周年、次回は(あるとすれば)55周年となるわけですが、さすがにそれはちょっと無理かも。

 評判のアニメ映画「この世界の片隅に」を梅田まで行って見てきました。とてもいい映画でした。初めと終わりの幻想シーンには、SF者としてこれはもしかして、と思うところもありましたが、そこはまあ後でじっくり考えるとして、戦時中ちょうどすずさんの少し下くらいの歳だった(終戦時に16歳)母の、よくしてくれた話とも重なりました。
 この作品の重要なポイントの一つである、非日常が普通に日常に変わってしまうという点には、戦争とは比べられないかもしれませんが、ぼく自身の震災体験ともかぶって、なんとも言えない気分になるところがありました。小松左京も言っていますが、本当に日常性というものには底知れない恐ろしさがあります。
 この作品はいくつもの観点から見ることのできる傑作であり、その中でも、戦時中にも人々の日常生活があったということを、リアルなディテールにこだわって描くということが重要なテーマの一つとなっています。そうには違いないのですが、その「日常」とは、今生きるわれわれの日常とは(つながってはいても)異質なものであるということを意識しておかなくてはいけません。どんな非日常でも、生きて生活する限りは日常になり得るのです。それはある意味とても恐ろしいことであり、逆に言えば今の日常も、いつの間にか見知らぬものに変容してしまうものなのでしょう(ティプトリーもそんなことを言っています)。
 何しろ表面的には当時のごく普通の主婦の視点から、当時の生活実感をそのままに描いた作品なので、その深い多層性は注意しなければ見落としてしまいがちです。たとえば、戦争でひどい目にあっている被害者としての側面ばかりでなく、加害者としての側面も、ごくさりげなく表現されていることは、多くの批評で指摘されている通りです。
 この作品の幻想性については、たこいきよしさんがブログで深く的確な分析をされているので、(見た/読んだ後で)ぜひご覧下さい。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『天冥の標 IX ヒトであるヒトとないヒトと PART2』 小川一水 ハヤカワ文庫JA
 ついに次はあと1巻(何パートになるかはわからないが)というところまでやってきた。メニー・メニー・シープでの物語は、これで一段落だろう。
 ヒトであるヒトとないヒトとの、和解というか、共生というか、少なくともとりあえずの意識合わせ、意思疎通ができたということだと思う。8巻と9巻の、これまでの閉塞した重苦しさは少し吹っ切れて、外世界の広がりが新しい光をもたらしている。それもまた凄まじい世界ではあるのだが。
 本書のストーリーは、セレスの(メニー・メニー・シープの)人類と《救世群》との壮絶な戦いが、イサリらによる《救世群》内部での戦いと相まって、ついに決着するまでが中心となっている。しかし、すっきりと平和になるわけではない。まったくヒトではない外宇宙の勢力がいよいよ前面に出てきているからだ。これまでとは桁違いの戦いが待ち受けている。
 気になるのは、今回は味方だった太陽系艦隊の位置づけだ。そして母星のカルミアンたち。セレスの人々とはスケールの違うこれらの存在と、カドムやアクリラ、それにイサリらがどう関わっていくのか。作者の後書きには、「宇宙における衝突の深刻さを常に希望的に捉えている」ということばがある。希望的というのは、必ずしもハッピーエンド的な意味ではないかも知れないが、でも閉塞した重苦しさや空しさだけではない、明るい広がりを感じることばである。早く続きが読みたい。

『夜葬』 最東対地 角川ホラー文庫
 2016年、第23回日本ホラー小説大賞・読者賞受賞作。2016年は大賞の受賞作なし。第22回は澤村伊智『ぼぎわん』(刊行時は『ぼぎわんが、来る』)が大賞だった。本書は大賞ではないが、評判は良く、期待して読み始めた。
 あることをきっかけに、被害者のところに〈魔〉がやってきて、被害者は惨殺され、さらにその連鎖が続く、という、都市伝説パターンのストーリーである。本書での「あること」は、コンビニで売っているような安っぽい作りの『最恐スポットナビ』というオカルト本。栃木の山奥の村にあるという『どんぶりさん』という奇怪な風習についての記事が載っており、それを読んだ者のスマホに、文字化けした奇怪なメッセージが届き、操作もしていないのにナビが起動して何ものかが近づいてくることを音声で知らせる。そして被害者は生きたまま顔をくり抜かれてしまうのだ。主人公は連続猟奇殺人事件としてこの事件を追うことになった、テレビ番組制作会社の女性社員、朝倉三緒と、がさつな男性社員の袋田巽。二人は事件を追ううちに、これが超自然的な事件であることを知る。
 タイトルは『どんぶりさん』の方がホラー大賞らしくて良かったのではないかな。短いのですぐに読み終わるが、正直言ってあんまり怖くはない。一つには、小道具がスマホであって、人為的要素が入り込みやすく、ぞっとするような超自然的な感覚が弱いこと。でもそれだけ身近な怖さはあるといえるが。もう一つは、顔がくり抜かれるというのは確かにおぞましく、グロテスクで恐ろしいのだけれど、直接的・肉体的な描写が淡々としていて、ショックが小さいこと。そして何より、相手の姿が具体的に描写されず(それには理由があるのだが)、なぜこんな恐ろしいことが起こるのかという根拠が、やや抽象的すぎること。恐怖をドライブするエネルギーがあまり強くないのである。主人公二人の、互いに性格が嫌いで反発しながらも協力していく姿や、どこにでもありそうなコンビニ本がキーになることなど、印象的で魅力的な部分もあるのだが。

『VISIONS ヴィジョンズ』 大森望編 講談社
 日本作家によるオリジナルアンソロジー。ただし、飛浩隆「海の指」(「モーニング・アフタヌーン・イブニング合同WEBコミックサイト モアイ」に掲載)とそれをベースにした木城ゆきとのマンガ「霧界」(「イブニング」に掲載)は先行して発表され、「海の指」は2015年の星雲賞国内短編部門を受賞している。もともとは、講談社のマンガ雑誌「イブニング」とのコラボ企画だったが、様々な事情があって、実際にコラボされたのは「海の指」だけだったという。結果、それ以外の小説5編と合わせて、小説6編、マンガ1編のアンソロジーとなった。『VISIONS』という名前は、エリスンの『Dangerous Visons』をイメージしたという。そりゃトラブルのも無理はない。
 それはともかく、読み応えのある傑作短篇集である。
 宮部みゆき「星に願いを」は高校生の姉と小学生の妹の日常が、異星人の干渉でとんでもないことになるが、昔風のSF的な設定よりも、それによって明らかにされる人間の本性にこそ、ぞっとするようなワンダーがある。日常の裏にある人間の本性をえぐる、ということは、本書の他の作品でも繰返し描かれている。
 星雲賞受賞の飛浩隆「海の指」は、灰洋(かいよう)という、灰のような霧のような、だがそれに触れたものは解体され情報圧縮され、時には異様な形に復元される、そんな奇怪なものに世界が覆われ、わずかに残された島に生き残った人々の日常を描く作品である。しかしその日常が、まるで昭和の日本の田舎町のようで、異界の中にあるどこか懐かしいその情景には、ちょうど北野勇作の作品と同じような雰囲気がある。一方で、灰洋から〈海の指〉が現れる異変は、まさに『ソラリス』と同様な、人々の内面をえぐり出す効果をもっている。灰洋といった言葉の使い方には酉島伝法も思い起こした。作者本人の過去作品のテーマも含め、そういった様々な要素が非可逆的に情報圧縮され、変形させられた作品だといえる。
 木城ゆきとのマンガ「霧界」は、「海の指」の世界観を生かしたまま独自の作品にしており、とりわけ情報の海からの時空を超えた漂着というテーマが、ボーイミーツガールなストーリーに生かされている。
 宮内悠介「アニマとエーファ」は未来の寓話(ピノキオ?)ともいえる、物語をつくる人形、アニマと、物語を生きる少女、エーファの物語。スラデックの『ロデリック』と同様、アニマも自ら学習し、成長していくロボットである。物語の最後で自分自身の物語を書こうとする「ぼく」=アニマは、もちろん人間と同じ、あるいはその鏡像といっていい。だが彼はあくまでも人形と呼ばれる。
 円城塔「リアルタイムラジオ」は、イーガンが描くような情報世界に住む、百億体のエージェントの一人「フォックストロット」(160ビットの非可逆的な暗号演算で命名され識別される個)が、この世界の外にあるリアルタイムラジオを聞くという「十一月」と、何やらスパイ活劇っぽい仕事をしつつ、世界の創造者であるアルファのことを語る。この物語の中心は、本来は名前しかない存在であるはずのエージェントが、認証ルールで識別されることによって、まるで人間のような個をもち、語り始めるということにある。自意識=個ということだろうか。
 神林長平「あなたがわからない」はもともとは遺体への防腐処置であるエンバーミングのSF的な応用をベースにしつつ、ほとんど会話劇のように思弁的に話が進む。それは「他人を理解する」「共感する」「空気を読む」といった人々が普通にやっていることへの深掘りであり、疑問の投げかけである。
 最後の中編、長谷敏司「震える犬」は、AR技術を応用してアフリカでチンパンジーの群れを知性化しようとする――その試みからホモサピエンスの進化の謎を探ろうとする――研究と、科学者たちを取り巻く現地の社会的・政治的現実、そして知性化されたチンパンジー自身を描く作品で、とても読み応えがある。長編にしてもいいボリュームのある内容が含まれている。ここでも、ヒトの本性とでもいうべきものが、進化的な観点からあからさまにされる。タイトルにある犬もちゃんと出てきて重要な役割を果たしています。

『夜行』 森見登美彦 小学館
 森見登美彦の最新作。これまでのユーモアは影をひそめて、シリアスでホラー寄りの作品だ。ただし、あからさまな恐怖はなく、それより、夜の不安、闇の誘惑、人と人との関係や、人の心の不条理さが前面に出てくる。夜の闇の、幽玄さ、少し怖いが惹きつけられる魅力という面では、これまでの京都ものとも通じるところがあるが、そこに華やかさ賑やかさはなくて、そのかわりもの悲しさや寂しさが強烈に漂っている。
 物語は、学生のころに京都の英会話スクールに通っていた五人の仲間が、十年ぶりに鞍馬の火祭へ行こうと集まるところから始まる。十年前、同じスクールの仲間だった長谷川さんという女学生が、みんなと鞍馬の火祭へ行って、そのまま失踪してしまったのだ。消えた彼女の謎めいた印象は、五人の心にいつまでも残っている。もうひとつ、みんなを結びつけるものとして、今は亡くなった岸田という銅版画家と、彼の残した「夜行」という連作銅版画がある。「尾道」「伊勢」などと名付けられたそれは、いずれも夜の風景の中に、一人の女性が描かれた作品である。「夜行」とは、夜行列車の夜行かもしれず、百鬼夜行の夜行かもしれぬ――と画廊の主人は微笑む。そして夜の京都の宿で、五人は、一人一人、それぞれの不思議な旅の思い出を語り始める……。
 「尾道」「奥飛騨」「津軽」「天竜峡」そして「鞍馬」と、五つの物語が語られるのだが……。それは「夜行」の銅版画とつながり、長谷川さんの謎が微妙に影を落とす、旅行先での不可解で奇妙な体験談である。不可解で奇妙だが、百物語のような怪談ではなく、日常的でありながら、どこか辻褄の合わない、理解を超えた物語である。ふと心がすれ違い、互いにコミュニケーションできなくなる夫婦、カップル。不条理な事件。解決はなく謎は謎のまま残る。そして共通するのは、鮮烈で幻想的な彼女の存在感。
 一つ目の「尾道」を読み終わった後、何かおかしいとわかる。次の話が、そのまま何もなかったかのように、独立して話されるはずはないのに。この物語が、鞍馬の宿で五人が順に語っているように見えて、そんな線形の物語であるはずがないとわかる。時系列も、人と人との関係性も、非線形で、互いに矛盾するように思える。ディスコミュニケーション、思い違い、思い込み、それが人の心だけでなく、風景にも、建物にも影響する。そこに失踪した少女の姿が重なっていく。
 不気味で不可解だが、美しく印象的な描写。そして最後の物語で、この小説の真の姿が何となく見えてくるような気がする。夜の世界と朝の世界。作者の意図とは違うかも知れないが、SF的にいえば、一人一人が何らかの観測をする度に枝分かれしていく並列世界、それらが互いに重なり合うとき、それぞれの人にとっての真実は、互いに矛盾しながらも併存する。そういう解釈が正しいかどうかはわからないが、クリストファー・プリーストの『夢幻諸島から』のように、現実はけっしてただ一つのものではないという、認識的異化作用が、謎は謎のまま甘美な衝撃を与えてくれる。

『最後にして最初のアイドル』 草野原々 早川書房(電子書籍)
 第4回ハヤカワSFコンテストの特別賞受賞作。電子書籍での販売となった。中編。130円で購入。
 アイドルについては全くわからない(といっておこう)し、もとネタの「ラブライヴ」も知らないので不安だったが、アイドルオタクとしての基礎はなくても読める。というか、逆にSFファンとしての基礎がないと読めないのでは、と思った。
 冒頭の何章かは、アイドルをめざす女子高校生の古月みかが、親友の新園眞織にプロデュースされてひたすら頑張るが、学校を出てから鳴かず飛ばず、アイドルを嫌う妹に痛罵され、ついには自殺する。しかし医学生になっていた眞織が彼女の死体を改造し……。
 ……という話を、全く小説になっていない、設定とあらすじだけを語るような文章(あらすじ文?)で書かれていて、こりゃどうしたものかと思った。だが、その後宇宙的な異変が起き、世界が破滅し、異形の存在となった彼女がアイドルとして(そこがしろうとには理解出来ないんだよね、ファンが一人もいなくてもアイドルって存在できるの?)地球に君臨し、さらには壮大な時空の果てへと(アイドル活動を)広げていくという、作者いわくのワイドスクリーンバロック、いわゆるバカSF展開となって、うん、これはぼくの好きなSFだと思った。
 最後までSF「小説」じゃなくて、「SF」だった。であれば、前半の無味乾燥な文章にも納得。しかし、こんな話が大好きだっていうと、またSFファンというやつは、という残念な目で見られるんだろうね。SFファン同志なら盛り上がるのだろうけど。

『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』 高橋良平編 ハヤカワ文庫SF
 その昔SFマガジンに掲載された伊藤典夫訳の50年代~70年代の海外SFから、高橋良平が〈時間・次元テーマ〉を中心に七編を選んだアンソロジー。編者あとがきによれば、第二弾も出る可能性ありとのこと。
 巻尾には鏡明による伊藤典夫インタビュー(1980年)も収録されている。なお帯には「幻の名品を集めたSF入門書の決定版」とあるが、SF入門の決定版かどうかにはちょっと疑問もある。まったくのSF初心者が読んで、SFって面白い!となるか。なるかも知れないが、全体にやっぱちょっと古い感じがするんじゃないだろうか。でもやっぱり面白い。むしろ、たとえ自分で気がついていなくてもSFマインドのある読者、日々の日常とはるか想像を絶するような非日常との、隔たりとつながりに、ドキドキわくわくする(それをセンス・オブ・ワンダーと呼ぶ)、そんな読者に向いた作品集だと思う。
 7編が収録されている。ずっと昔に読んだが、もう忘れていた話もあるが、何度読んでも忘れられない傑作もある。
 その中でも(これはちょっと新しい、ニューウェーヴ時代の作品だが)デイヴィッド・I・マッスン「旅人の憩い」はずば抜けた大傑作。テーマも、問題意識も、ガジェットすらまったく古くなっていない。不条理な戦争こそが日常であり、平和な生活はほんの一瞬の、単なる憩いのひとときに過ぎない。主観的には逆であったとしても。
 ルイス・パジェットの表題作も好きだ。子供たちの日常に侵入してくる異質な思考。未来は現在より優れているというのではなく、異質なものなのだ。
 レイモンド・F・ジョーンズの「子どもの部屋」は同じようなテーマを扱っているが、一直線なぶんだけ、ちょっと落ちる。著者ならもっとすごい作品がある。
 フレデリック・ポール「虚影の街」(虚栄じゃないよ)は毎日が6月15日だという、昔読んでびっくりした作品。今読むと新鮮みが薄れて少し古びた感じがするが、この種の作品の古典だといえる。
 ヘンリー・カットナー「ハッピー・エンド」は凝った構成の短いユーモアSFで、確かにスタイリッシュではあるが、ぼくにはもうひとつだった。
 フリッツ・ライバー「若くならない男」もライバーらしいひねった時間遡行ものだが、ショートショートなので疑問をすっ飛ばして楽しく読める。
 巻末の中編、ジョン・ブラナーの「思考の谺(こだま)」。当時高校生だったぼくには「谺」が読めなかった記憶がある。これは侵略もので、いかにもパラノイア時代のSFだ。TVドラマならともかく、小説で読むと古めかしく感じる。B級SFっぽくって、そこがいいという人もいるだろうが。それと、昔はそれほど気にならなかったが、書体を変えるだけのためにカタカナでえんえんと書かれると、読みにくくて仕方がない。今ならフォントを変えるだけで済むことだろうが。
 伊藤さんの訳はどれもすばらしい。とはいえ、先のカタカナ文のように気になるところもあった。確認はしていないが、たぶん初出に全く手を加えていないのではないだろうか。


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