続・サンタロガ・バリア  (第173回)
津田文夫


 先月はなんといっても『この世の片隅に』ショックで大変だったので、まずはその話から。 
 片淵監督に大量の資料写真を貸しだしたのはもう5年くらい前だったが、ようやく映画が完成したというので、どういう使われ方をしているのか確認がてら、公開初日に地元のおんぼろ映画館に『この世界の片隅に』を見に行った。
 ・・・・・・・・・全く予想していなかった強烈な衝撃に襲われて、エンド・ロールの後ろで流れていた物語やクラウドファンディング出資者名ロールの下に映されていたアニメが目に入らないまま見終えてしまった。この衝撃の意味がわからず、ネットで検索すると絶賛の嵐であることはわかったが、そこに並ぶ言葉ではこの衝撃に釣り合わないのであった。とりあえず1週間後に2回目を見て、エンド・ロールと出資者名ロールで流されていたおまけアニメを確認してきたのだけれど、最初の衝撃を説明できる言葉には相変わらずたどり着くことが出来なかった。
 この映画の持つ情報量はすさまじく、すごいスピードで切り替わっていく1シーン1シーンに描かれたものは、たぶんストップモーションを掛けない限り見定められないだろうが、しかその程度のことでこの衝撃が発生するわけもなく、どこかにヒントになるものはないかと、ネットにはまる毎日が続いた。そのなかでは、岡田斗司夫のネタバレなし解説がよく出来ていたが、これでさえまだ言葉が遠いのだった。
 映画の呉パートに使われている資料写真などは、自分が編集に関わった3冊の写真集(内2冊は記憶に基づく昭和16年の呉市街地戸別住宅地図付)や戦前戦後の市民の証言集、歴史ビデオそして市史などから引用されているものが多い。まるでフルカラーの呉の写真集を見ているみたいだった。この映画を見たおかげで、それまで確信が持てなかった空襲後の市街地の遠景を撮影した写真の焼け跡の中に立つ門が、遊郭の裏門であることが判明したなどというオマケも付いてきたのだが、それは衝撃の正体とは別である。

 ようやくこの衝撃に見合う言葉を見つかったのが、篠房六郎という漫画家が、なんとスタートレックのエピソードを引き合いにこの映画の感動の依って来たるところを述べた、このツイッターまとめを26日に読んだときだった。
 この衝撃にピッタリと合う言葉、それは「現実創造」。この言葉が浮いていたときはビックリしたけれど、得心がいってホッとした。
 そうなのだ、これは仕事の目で見ていた筈が、心はSFとして見ていたのだ。この衝撃は50年近く前に見た『2001年宇宙の旅』がもたらした衝撃と非常によく似ていたのだった。
 ここに出てくる昭和19年から20年末までの呉の街は、徹底的に調査されているとはいえ、歴史的事実として昭和20年9月に呉で1000人以上の犠牲者を出した枕崎台風が全くスルーされているように、基本的にはフィクションである。現実に昭和19年の呉を撮影した写真は皆無に等しい。利用できる写真は昭和17年くらいまでが限度で、その後の写真は海軍内で撮影されたものと20年3月19日から始まる連合軍による空襲及び偵察写真、そして7月1日深夜12時頃に始まった空襲で燃えさかる市街の様子を、写真屋の主人が決死の思いで撮影した数枚の写真があるだけだ。
 敗戦後も、占領軍が上陸した20年10月7日以前の写真は殆どなく、10月7日以降はアメリカ軍が公式非公式に撮影した大量の写真がある。これは呉湾及びその周辺の海軍艦艇にも当てはまる。
 ところが、以上のような仕事上の知識で見ているつもりが、心は、すさまじい情報量で埋められたこの手書きフルカラー画面を「現実創造」と捉えていたのであった。この「現実創造」はまず第一に、この映画を見たすべての人間に昭和19年から20年の呉の姿がこの通りであったと納得させるだろう。そして現在の75才以下の呉市民にもこれがあのときの呉のリアルな姿として記憶されるだろう。
 まだ言葉を探していたときに、呉生まれ呉育ちで今年90才を迎えたお袋にこの映画を見せたらとても喜んでいた。お袋は主人公すすさんの1才年下で、すずさんの妹すみちゃんと同じ名前だ。空襲前の呉の街やその後の焼け跡がお袋の頭の中でリニューアルされたのは間違いないだろう。お袋に戦時中の呉は映画のようだったかと聞けば、あんな風だったよと答えるであろう。そしてここに「現実創造」の恐ろしさが突出する。曖昧だったお袋の70年あまり前の記憶はこの映画によって上書きされ、たとえ曖昧であったにしても幾分かは真正だったはずの記憶が、この映画に描かれた呉の風景によってお袋から失われたのだ。
 映画「この世界の片隅に」は素晴らしい作品だ。しかし自分にとっては現実的な恐怖をもたらす映画でもあったのである。この作品に恐怖心を覚えるのは、おそらく世の中でたった一人しかいない(まるでディックのSFの主人公だなあ)。

 ところで、いろいろググっていたら、「この世界の片隅に」の登場人物名が元素名に由来しているということを解説したブログZoaZoa日記 「この世界の片隅に」の化学 があった。
 すずやりんが元素名なのはわかるが、周作が臭素から取られているというのはわかりにくい。でも、臭素はスズやリンと激しく化合するらしいので、すごい設定だとはいえる。すずと周作の実家の名前は浦野(ウラン)と北條(ホウ素)というから、ウランを受け止めるのがホウ素であるということで、こちらも教えられればよく出来ている話である。
 こうの史代は広島大学理学部中退という経歴なので、さすがリケジョ(当時はこんな言葉はなかっただろうけど)の面目躍如というところか(ドラゴンボールのギニュー戦隊とサイヤ人を思い出した。古ッ)。

 ちなみに、「現実創造」で得心した後に3回目を電車に乗ってシネコンに行き、サラウンド音響で見てきた。今回はストーリーや登場人物を追わず、ひたすら画面全体を見渡し、声と音楽と効果音に集中して見た。いろんなコトがわかったけれど、そういう見方だと2時間あまりがあっという間に過ぎるが、映画自体のおもしろさは半減する。
 平日の昼間ということもあって客席は4割程度しか埋まってなかったけれども、映画が終わって明るくなるまでシーンとしていたのは、地元で2回見たときと同じだった。

 J・G・バラード『J・G・バラード全短編集Ⅰ 時の声』は、実物を見るまでこんなお値段のハードカヴァー だったとは気がつかなかった。全集以外の形での出版が許されないということらしいけれど、若い読者が読めないのがもったいない。
 まあ、ほとんど再読だけれど、それは一部を除けば何十年も前のことなので、全く覚えていない話もあった。バラード本人も云っているように、「時の声」がこの時期の代表作であり、バラードの小説の特徴をすべて備えている作品だ。でも、発表年代順に作品を読むことでうれしいのは、バラードがヴァーミリオン・サンズの短編を1編ずつ着々と書き継いでいっていることがよくわかることだ。好きという点では、ハードな「時の声」よりも甘みがあって好きかも。全集版オンリーという縛りが解けたらぜひまたヴァーミリオン・サンズを1冊にまとめて出して欲しい。

 へえーっと思ってインターネット注文したらお取り寄せになっていたケイト・ウィルヘルム『翼のジェニー ウィルヘルム初期傑作選』は、バラードの後で読むとわかりにくさが目立つ短編集。
 わかりやすいのは表題作とか「アンドーヴァーとアンドロイド」、「灯かりのない窓」くらいで、後の作品は読み終わっても内容がピンと来ない。「一マイルもある宇宙船」は何度目かの再読だけれど、オチはともかく感覚的に何かしっくりとこないものを感じる。巻末の長い中編「エイプリル・フールよ、いつまでも」に至っては、読めるけれども何か肝心なことが伝わってきていない気がするのである。ウィルヘルムの描く当時の風俗や考え方が、バラードと違ってより当時のアメリカの生活に密着しているせいかもしれない。

 山田正紀『カンパネルラ』は、そのタイトルからわかるとおり、宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」(の異稿)に取材したミステリSF。大森望が『本の雑誌』の書評で解説しているように、『ミステリ・オペラ』に始まった〈検閲図書館〉黙忌一郎シリーズになるはずだったものから改作されて独立した作品に発展したものらしい。 
 最近の山田正紀らしく「言葉」が作り上げる世界にこだわり抜いた作品で、話者である主人公/カンパネルラの言葉に釣られて、読む方にもこの物語がタイムスリップものになりかけていたところにVRを絡めて、ちゃんと驚かせてくれる。 そういえば、敵役の「風野又三郎」を演ずる役人がちょっと黙忌一郎を思わせた。

 ちょっと読みたいものがない時間ができたので、積ん読だった小林泰三『失われた過去と未来の犯罪』を読んでみた。
 小林泰三もとことんロジックで展開する話を書くタイプだが、ここではある日「大忘却」で人類が短時間記憶しか持てなくなってしまった状況が展開されている。プロローグである女子高生の記憶喪失対処及びその父親の原子力発電所の記憶障害対応を描いた第1部が楽しく読める。幕間と第2部では記憶喪失状態が次世代以降に受け継がれて起こる人間の状況(ただし日本国内に限る)をいろいろなパターンで描き出し、さいごには大スケールで人類の選択肢が提示されて終わるのだけれど、それって誰と話をしているんだろうと思った。それと人格記憶がメモリ・スティックみたいなものになっちゃうとここで描かれたような事故は日常茶飯事のような気がするなあ。

 《反逆航路》三部作完結編というアン・レッキー『星群艦隊』はややタイトルに難ありだけれど、悪くはない1冊。ついに「12冠達成!」だもんなあ。
 基本的に前作第二部の続きで、ヒロイン/ヒーローのブレクが宇宙空間でちょっとだけ活躍するところを除けば、全体に密室劇で会話劇でもある。ついに訪れた皇帝アナーンダ・ミアナーイとの対決も密室劇の会話劇である。
 シリーズ3作目ともなれば、舞台が前作と同じと云うことも手伝って、読む方は勝手知ったる世界に戻ってこられるわけで、作者も手慣れた感じで動かすようになったキャラクターたちがアナーンダを含めみんなカワイイ。
 これまでのような緊張感の強さなら巻末の短編「主の命に我従わん」の方が楽しめる。こちらは太守や修道院長などが支配する権謀術数渦巻く社会で、戦闘ゲームを巡る陰謀に巻き込まれながら成長する少年の話。ル・グィンを軽くしたような感じがする。

 タイトルだけ見たときはカットナー傑作選だと勘違いした高橋良平編『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』は、よく出来たSFは半世紀以上経っても読み応えがあることを教えてくれる良いセレクション。
 さすがに表題作は何回目かの再読で、「旅人の憩い」にいたっては5回以上読んでいるだろう。ほかの作品も既読であるが、初読からかなり時間が経っているので、ほぼ忘れているんだけれど、このレベルの作品だとさすがに、読後の感触を覚えているものが多い。
 一番思い出せなかったのが巻末のジョン・ブラナー「思考の谺」で、SFマガジンで読んだだけだし、何の感触も戻ってこない。そのおかげで、前半のサスペンスが盛り上がって楽しかった。まあ後半はあの時代の作品と云うことで、やや古めかしいけれど、ブラナーが24才でこれを書いたというのはたいしたものだ。

 ついに出たバリントン・J・ベイリー『ゴッド・ガン』。ドリ・カムの歌じゃないが、これは「うれしい!たのしい!だいすき!」なベスト短編集。ホント今年はエリスンといいコーウェイナー・スミスといいヴァーリイといい素晴らしいベスト短編集が多いなあ。新訳ブームもあって、SF回想期というか、まあこちらが還暦なんだから一回りしてSFのクリームがちゃんと評価されるようになったというか、もしかしたら、死ぬ前にいい目を見せてやろうと云うことなのかも知れないな。日本でも上田早夕里の短編集や宮内悠介の連作短編集が良かったし。
 今回の短編集に収録された作品は未読のものが多くて、それもうれしい理由の一つ。完成度という意味では「蟹は試してみなきゃいけない」がピカイチだけれど、ベイリーだからねえ。表題作みたいなバカ・アイデア一発の落とし話がやはり面白い。「ロモー博士の島」はさすがに時代に追いつかれているとは思うけれど(ここに描写されているようなことは、タンブラーをサーフィンしていると実際の映像で見ることが出来るもんなあ)。集中の作品はジャンルとしてはホラーだったりファンタジイだったりしても、そのアイデアのメチャクチャさはバカSFと呼ぶにふさわしい。

 第4回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作は、まず吉田エン『世界の終わりの壁際で』から呼んでみた。
 前にも書いた気がするけれど、昔はドナルド・A・ウォルハイムの「SFはSFの上につくられる」だったが、いつごろからか、SFはSF的に蔓延した様々な媒体の上下左右(その他あらゆる方向)に造られるようになった。そういう点で、この作品は典型的なもののように見える。また巻末の選評に「この話は決まった枠組みも擾乱や破壊を避けた気配」(小川一水)とか「本作は運命に逆らって行動する英雄譚ではない」(神林長平)とあるように、先行世代からするとちょっと覇気に欠けるし、本来の革命には至らないもどかしさもあるが、もはや「革命」や「英雄譚」に意義を見いだせない時代なのだから仕方がないともいえる。これは今の時代の持つ雰囲気から出てきた時代の刻印を負った、ある意味見慣れたSFであって、SF自体を更新するSFではないのだ。

 おなじく優秀賞を受賞して塩澤編集長イチオシだった黒石迩守『ヒュレーの海』も、『世界の終わりの壁際』と同様、今の時代の刻印を負ったSFであることには変わりなく、こちらは黒丸訳『ニューロマンサー』から『攻殻機動隊』、古橋秀之『ブラックロッド』あたりで消化されつつあった電脳世界ものの最新版といえる。
 塩澤編集長がいうごとくマンガやアニメを彷彿とさせながら、ある意味SFらしい思考が展開されているが、しかしそれもやはり「決まった枠組みも擾乱や破壊を避けた気配」や「運命に逆らって行動する英雄譚ではない」が無い物ねだりになってしまっていると思わざるを得ない。これも『世界の終わりの壁際』同様の前向きな建設への一歩を示して物語を閉じており、今の時代にはふさわしい結末だけれども、昔なら小市民的と指弾されても不思議はない物語づくりがされていることも確かだ。そういうことを考えると野崎まど『KNOW』はスゴかったのかもしれない(それとも古典的だったのか)。

 しばらくノンフィクションを取り上げられなかったけれども、今月はとりあえず1冊。 渡辺惣樹『朝鮮開国と日清戦争』は、副題に「アメリカは何故日本を支持し、朝鮮を見限ったか」とあるように、アメリカに残る外交資料等を駆使して、アメリカ側視点で日本の維新前後から日清戦争終結までの時代の朝鮮外交史(とまでは行かないが)を記述したもの。出版社が草思社ということで、著者は近代日米関係史などの著作があるけれども、カナダ在住の、いわゆる在野の歴史家である。
 19世紀後半の日本-朝鮮関係の本はこれまで何回か取り上げたように、この時代の朝鮮には近代国家に転換できる条件がほとんど存在していなかったことがわかるが、この本を読むとアメリカやヨーロッパの強国も朝鮮についてほぼ見限っていいたことがわかる。
 日本がいわゆる「征韓論」などと云っている時代における朝鮮は、欧米からみれば清(中国)の子分に過ぎず、朝鮮に手を出すにはまず清国に仁義を切らねばならなかったのである。そして欧米諸国はそれを嫌った。
 ということで、都合良く周回遅れで近代国家の仲間入りを目指した日本が、先進国の「正しいやり方」を見よう見まねで朝鮮相手に外交交渉をやって見せようとした。当然海千山千の欧米陣は日本の我慢強さに感心しながら、清国の相手をするのがイヤで、最終的に清国との戦争を日本にやってもらうことにした。
 アメリカの日本に対する態度は、ペリー提督の報告書を見ればわかるとおり(東洋の深窓のお嬢様=日本がヨーロッパの悪党連中に好いようにされている!)、近代国家見習い優等生を導くことに結構熱心だった。著者は、日本ではほとんど知られていないこの時代のアメリカ外務省及び外交官の記録から、日本はもとより朝鮮にもアメリカ人が入り込んで、両国に対するアメリカ本国の印象を形作り、最後には下関条約交渉時の李鴻章の外交顧問に、当時の日本の政治家たちにもよく知られたアメリカ外交官が就任して、この交渉に影響力を持っていたことなどを、かなり詳しくまたアメリカ寄りの視点で書いている。
 この本自体はアメリカ視点に寄り過ぎな面があるものの、この時代の日本/朝鮮関係については、この本で一段落した感じが残った。


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