続・サンタロガ・バリア (第165回) |
『キース・エマーソン自伝 KIETH EMERSON Pictures of an Exhibitionist』を読み終わったのが3月10日で、翌日エマーソンの訃報、それも自殺ということが報道された。さすがに、「そんなあ~ッ」と声が出た。この本を買ったのは、SF忘年会に参加した昨年年末で、再オープンした京都丸善を初めて訪れた記念に購入したものだ(ビル・ブルフォードの自伝もあったけれど値段を見てまたの機会とした)。でも、読み出したのは2月末だった。
1993年10月、もはや以後の演奏が不可能になるかもしれない不安を抱えて、右手の手術に臨んだところから話が始まり、麻酔で意識を失ったところで、出生以来の生い立ちが語り出される。そこから70年代ELP最後のスタジオ版『LOVE BEACH』の録音をしたバハマのナッソー島にあるコンパス・ポイント・スタジオでの思い出まで400ページを費やして様々なエピソードが続く。最後は父の死とその時エマーソンの息子が祖母に、たとえ天から召されてもトイレに隠れてパイプにしがみついているように言うところで、看護師の呼びかけで手術後の現在へと舞い戻り、その後の年月がわずか数ページで語られて終わる。エマーソンの書きっぷりはいわゆる赤裸々で(だからExbihitionist)、文学的巧緻/狡知は無いと言っていい。
父親がアマチュアのピアノ弾きだったらしく、エマーソンも7歳からピアノを習っていたが、父がジャズ好きだったこともあり、早くからジャズ・ピアノやポピュラー・ピアノを弾くことに興味を示している。高校時代にはピアノ・トリオを組んでアルバイト的な演奏活動に入った。高校時代は化学好きだったというのには驚かされる。学校を卒業して銀行に入るもジャズ演奏に熱中、この頃クラシック・ピアノの優しい女の先生と自ら袂を分かった。そしてピアノ・トリオでの活動と音楽に熱中するあまり銀行を首になるも、ジミー・スミスを聴いてオルガンに興味を持ち始め、アルバイトをして金を貯め、親父の助けもあって月賦でハモンド・オルガンを買っている。こうしてエマーソンはゲイリー・ファー&Tボーンズに誘われ本格的なジャズロック・オルガニストへと成長していく。そしてここら辺から酒・麻薬・女そして愚行の話題が満載となる。エマーソンがハモンドからあのアヴァンギャルドな破壊音を出すようになったのはTボーンズ時代であることが分かった。
Tボーンズもエマーソンの名を一躍有名にしたザ・ナイスにしても結局クスリで立ちゆかなくなってエマーソンは次のバンドを作ることになり、そこでついにエマーソン・レイク&パーマーが結成されたわけだ。エマーソンは(この本が2002年のナイス再結成直前に書かれていることもあって)ナイス時代に郷愁を表明してけっこうページを割いている。とはいえ、現実にはまずギタリストのオーリストがクスリでイカれ、最後にはドラマーのデヴィッドスンが演奏に支障が出るようになってクスリを(一応)やめたエマーソンは嫌気が差したわけだが、ちゃんと元メンバーのリー・ジャクソンから現在は関係が良好だなどと書いてもらっている。
この自伝で一番の衝撃は、キング・クリムゾン在籍時のグレッグ・レイクをメンバーに誘った初対面の時のレイクの印象の悪さと、その後も延々と続くレイク批判だろう。ここでは翻訳で採用されたレイクの口調もあって、レイクがワガママ兄ちゃんのような感じに描かれている。少なくとも日本では、結局エマーソンはELPの主役としてのスターであるほかないわけで、ELPの初期の5年間のライヴ・パフォーマンスの記録は、その後どれほどロックの演奏・録音技術が進んでも新しいファンを生み出すだけのパワーを保っていると思えるが、それはエマーソンだけでは達成できなかったろう。少なくともパフォーマンスにおいてレイクはエマーソンの構想に最高にハマったヴォーカリスト兼ベーシストであったことは間違いない(カールのドラムもね)。
なお、エマーソンの楽曲分析でアメリカの大学の博士号を取ったという訳者だが、初めての翻訳書ということで、翻訳初心者的な訳語・訳注のぎこちなさが目立ち読んでいてイラつくことが多かった。本としてはかなり安易な装丁なのに3000円近い値段のエマーソンの自伝を買う読者層を想定せず、一般読者にも分かるように細かく施されたそれらは、かえって訳者が日本における洋楽ロック/ジャズ紹介の歴史にあまりにも無頓着であることを明らかにしてしまっている。ま、Norwichをノーウィッチとしてしまうのはアメリカ英語の人だからとはいえ、いまどき旅行パンフでもイギリスのノリッジ/ノリッチは普通に使われてるよ(25年前には自分もイギリスから来た手紙の住所をノーウィッチと訳して報告書を作ったことがあるので人のことはいえない)。
EL&Pは45年前にわが音楽趣味の基礎となった。エマーソンにはやはりR.I.P.を捧げよう。
新訳・新版SFばかり読む羽目になったので、ついでに積ん読になっていたスタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議』を読んだ。
昔読んだときは何がなんだかよくわからなかったという感触だけ残っているけれど、今回読んでそれも当然な印象であることがよく分かった。自分が泰平ヨンの物語と相性が良くないことは短編ベスト10の感想でも書いたけれど、レムが使うヨンのユーモアと主題となったドラッグ禍の描写のすさまじさ(結末を迎えても泰平ヨンがどうしてその後も生きているのか分からない)の落差は恐ろしくキツい。230ページの文庫を読むのに結構時間がかかった。映画も見てみよう。
早川書房創立70周年ハヤカワ文庫補完計画全70点の1冊、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『あまたの星、宝冠のごとく』は、ティプトリー最後のそしてあの衝撃的な自殺の直後に出た短編集だけあって、いかにもティプトリーらしい苦みと場合によっては狂気が味わえる1冊となった。一見皮肉なコメディも強い毒を持ち、シリアスな短編のむき出しの毒は読者にグウの音も出させない(特に男性読者には)。好きだ嫌いだとかいうレベルの作品ではもはや無いが、主題が技巧を裏切ってまで暴走する「地球は蛇のごとくあらたに」にアンナ・カヴァンの狂気を感じる。
ハヤカワ文庫補完計画の最終刊というのに3巻本の1冊目となっているコードウェイナー・スミス『スキャナーに生きがいはない 人類補完機構全短編1』は、ティプトリーを読んだ後に読むとホッとするくらいロマンティックなオトコの子の夢でいっぱいだ。そしてその夢の奇妙さは、いわゆる日常生活のレベルとは無関係に書かずにはおれなかった夢想家たちの幻想小説と相通じるところがある。だからオーソドックスなSFとしてSFの部分を考えてしまうとちょっといい加減すぎなところがあるけれど、しかしSF的なイメージとそれを導き出すSF的論理は、スミスの世界においては絶対的な説得力を持ってしまうなどということが生じる。それが作品全体を覆ったときにスミスの作品は忘れがたい感銘を読者に残すのだ。
スミスの作品に出てくる美少女・美女たちはバカバカしいほど単純に「美少女」と読者に伝えられるだけだが、それを納得させてしまうのがスミスのおとぎ話であり、言葉そのものに込められたスミスのロマンティックな魔法である。それでいてSFとして成り立ってしまうところがスミスのスミスたる所以かなと思う。特異なSFという点ではティプトリーと並び立つが、作品の強度はティプトリーの敵ではないよなあ。
表題作が一番冗長なのは残念。でも他の作品がそれを補ってあまりある楽しさだ。
『太陽・惑星』で本格的なSF物語を作って見せた上田岳弘の『異郷の友人』は、表題からイメージする異星人ものではなくて、かなりひヒネったテレパシーもの。淡路島と札幌とアメリカ西海岸サンノゼを主な舞台として物語は展開する。
冒頭の「吾輩」の独白で、「吾輩」は山上甲哉として生まれ育ったが、「吾輩」は誕生時の記憶はもちろん地上の東西を問わない過去の人物(仏陀の弟子とかユングとか石原完爾とか)だった記憶も持っている。しかし20才代前半の山上甲哉は現在、札幌で平凡なサラリーマンをやっている。語りのメインは「吾輩」ではなく、山上甲哉の「僕」が行う(ときおり「吾輩」も口を出す)。雪が舞う札幌で見知らぬ外国人に呼び止められ、近くのスターバックスに入ったところから物語は動き始める
「僕」の心に他人の意識が入り込むようになったのは中学2年生の頃からだった。「僕」に流れ込んでくる意識の持ち主の一人が、淡路島に住む新興宗教の教祖であるSと、もう一人が元はスタンフォード出身の優秀なハッカーだったが、今はサンノゼに住みとある組織の手先みたいな仕事をしているJだ。教祖の思想である「世界は一度滅びて生まれ変わる」ことに、なぜかJのやっている仕事が絡み、「僕」に流れ込む彼らの意識から「僕」がその関係を語っていくというスタイルを取っている。最終的にJも札幌にやってくるのだが、日本に行く指令を聴く場所がサンノゼのスターバックスだったりする。
こんな風に書いていると長い話に思われそうだが、わずか150ページ、文芸誌に一挙掲載された200枚くらいの長中編である。「吾輩」の述べる大風呂敷に見合うだけのスケールは出てこないが、最後まで読むとこれが阪神淡路大震災と東北大震災をつなぐ物語でもあることがわかる。『太陽・惑星』とは全く違う設定だけれどキャラの動かし方は共通しているように感じた。
1月に出たのに買うのを忘れていた佐藤亜紀『吸血鬼』は、19世紀半ばの分割されたポーランドの片田舎に新しく赴任した役人を主人公にした(ように見える)物語。ここでは吸血鬼はウピールと呼ばれている。表面的には誰が吸血鬼なのかというサスペンスである。
この物語から何が読み取れるかについては、すでに精緻な読みのブログが上がっているので何も言うことはないが、佐藤亜紀を読むのが楽しいのは、たとえばこの作品だと、夜の暗さ(昼でも暗い)であり、気候の冷たさ(登場人物たちの冷たさ)であり、そしてオペラティックな作劇作法が味わえるところにある。佐藤亜紀が作品ごとに仕込む趣向は大変見事なものなのに意外と評価されていないのは、作者のコワモテぶりに評者が恐れをなしているからだろうな。
こんなに厚い本だったなんて思ってもいなかったジョン・スラデック『ロデリック』。しかも河出書房新社のストレンジ・フィクション叢書から出たなんてちょっとびっくり。昔、この作品のペイパーバックを手に入れたときはパラパラめくっただけで、そのまま本箱行きになったのだけど、そんなに厚いペーパーバックだったという印象がない。柳下毅一郎氏が学生時代に読んだペーパーバッグは雨に濡れてぼこぼこにふくらんでいたそうだから、もしかするとページ数も増えていたのかもしれないな。スラデックならやりかねないぞ。当時はまだ元気だったし。
と、それぐらいの妄想が湧くくらいこの『ロデリック』はイカれて/イカしている。いかにイカれているかは巻末の円城塔が愛情を込めて力説しているので、そこだけ読んでもいいかもしれない。しかし『ロデリック・アット・ランダム』が続編と言うより、とても長いロデリック物語の後半だったとは。それでこの結末の半端な終わり方も納得だ。どうしたってその後のロデリックを読まずにはいられないっていう奴が何人も出てくるに決まってるんだから、河出と柳下氏が1年以内に『ロデリック・アット・ランダム』を出してくれるだろうと期待している。『ロデリック・アット・ランダム』のペイパーバックを買った覚えがないんだよねえ。