続・サンタロガ・バリア  (第161回)
津田文夫


 ここのところ小澤征爾/SKOの演奏を聴いては寝てしまうという話ばかり書いていたら、ほかのCDを聞いててもよく寝るようになってしまった。これはもしかしたら加齢による体調の変化かもしれないなあ。
 久しぶりに広島のタワーレコードによってみたら、カエターノ・ヴェローゾの新しい1000円盤が出ていた。ニューヨークでノンサッチ・レーベルに吹き込んだ1985年のセルフ・タイトル作『カエターノ・ヴェローゾ』がそれ。
 基本的には自ら弾くギターだけで歌っているスタジオ盤。ときおりサイドギターとささやかなパーカッションが入る。ソロ・ライヴ『トータルメンチ・ジマイス』が86年だったから、このノンサッチ盤に気をよくして、ソロ・ライヴをつくったように思える。歌うことに専心したカエターノはホントに素晴らしい。マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」からサウダージが漂い出る。

 8月に出た小説宝石特別編集『SF宝石 2015』をようやく読んだ。冒頭の上田早夕里「アステロイド・ツリーの彼方へ」を読み始めて、おおハードSFかと思ったら、人の思いの方へ力点が移っていって結末を迎えるという、いかにも「中間小説誌に載るSF」になっていたので、やや肩すかし。新城カズマは同級生グループの秘密が世界系という新機軸。福田和代と樋口明雄は、半世紀前に第1世代が書いていたような昔懐かしいタイプのSF。中島たい子はユーモア落とし話。ショートショート10篇ではやはりモリミーが面白くて読み返してしまった。
 後半はやや読み応えがあって、井上雄彦吸血鬼オムニバスはヒネりがあって面白い。田中啓文「輪廻惑星テンショウ」はタイトルまんまのいかにも田中啓文らしい1篇。登場人物の名前「ダロメイド」は筒井の「カメロイド」をなぞっているようだし、昔「SFマガジン」にジョン・ブラナーだったか、魂の数が足りないという話もあったなあ。藤崎慎吾「5月の海と、見えない漂流物-風待町医院 異星人科」は長さに見合ったよく出来たジュヴナイル。目新しさは無くても読んでて嬉しい。松崎有理「架空論文投稿計画 -あらゆる意味ででっちあげられた数章」は作者お得意の論文請負業のバリエーションだけれど、架空論文のシッチャカメッチャカぶりが良い。東野圭吾は手慣れた1篇。

 中編集『ノックス・マシン』が結構面白かった法月綸太郎『怪盗グリフィン対ラトウィッジ機関』は7月刊の長編。そのまま読み始めたら、怪盗のモットー「あるべきものを、あるべき場所に」が周知の様に出てきたので、オビを見たところ「怪盗グリフィン」シリーズの第2作目らしい。
 P・K・ディックの経歴と半妄想的事件をなぞったSF作家P・K・トロッターの未発表原稿が発見されたが、それを正統な持ち主に返すため怪盗グリフィンが乗り出した。未発表作品には政府の秘密にされた量子ネコの存在が書かれていたことから、政府機関が絡んできて・・・と、非常に軽い調子で書かれた物語。ディックに関するオタクSFファン的知識を折り込んでのP・K・トロッターに関する情報は楽しく読めるし、量子ネコと量子コンピューターを巡る蘊蓄も面白いが、着地点はあくまでもユーモア・ミステリである。なお、未発表原稿はストーリー・マシンの創作だとするエピソードは『ノックス・マシン』と関係があるような気がする。

 パオロ・バチガルピ『神の水』はなかなかの読み応えで、読み始めたときは悪党者かと期待したが、そこまではいかず、それでも単純なハッピーエンドにはしていないところがいい。
 ウエルベックと平行して読んでいたので、3パートのエンターテインメントな作話法が鼻についたけれど、水をめぐってのさまざまな残酷話はリアリティがあり、メインキャラクターたちがそのただ中にいることが実感される。SF的には、世界がどうなっているかの説明がアメリカニズムのなかで語られていて、その分『ねじまき少女』に比べスケール感に欠ける。3人のメインキャラの中では、水売りの少女が不気味。

 『服従』が話題のミシェル・ウエルベック『プラットフォーム』と『地図と領土』が文庫になったので、『服従』を読まずに、この2作を読んでみた。
 以前『素粒子』を読んだことは覚えていたので、その時の感想を読んでみたら、我ながら益体もないことしか書いていない。
 『プラットフォーム』は語り手の父親が殺されて久しぶりに田舎の実家に戻ったところから始まるが、ウエルベックにミステリ趣味はなく、語り手の立ち位置と性格をザッと紹介できたら、あっさり犯人がつかまってしまう。語り手は文化省に勤める中堅公務員だが、父親は自らの努力で悠々自適の老後を送っていた。このオヤジから見れば語り手は情けない人生を送っている息子ということになる。
 独身の語り手にとって、親父の死によりちょっとした遺産が転がり込んだわけで、バカンスには観光会社誂えの団体タイ旅行へ出る。これが第1部。語り手は団体の中で同行者を観察したり、現地でセックス処理をしたりしながら、孤独をカコつわけでもなく、あれこれと思索するが、団体の中のヴァレリーという女に惹かれるモノを感じた。ヴァレリーには帰国したときようやく連絡先をもらえた。
 第2部はそのタイ旅行の主催観光会社の企画担当だったヴァレリーと語り手の物語で、基本的には逆シンデレラ・ストーリーである。語り手自身が自分にはもったいないくらいのまともな女というヴァレリーがとんとん拍子で出世していき、最後にはヴァレリーが稼いだ一財産でタイの島に住むことに決める。そして行きずりの暴力/テロが全てを帳消しにする。
 第3部は語り手のその後だが、生きる意志が減退していく短いエピローグである。
 膨大な量の幸せな且つ冷静なセックス描写と所々に挟まれるテロ事件やレイプ犯罪のエピソードがわれわれの住む世界を写し取り、それが語り手の厭世/無常観を常に強化している。作品全体の沈んだトーンは、これが回想録なので当然でもあるが、ウエルベックの持ち味でもある。

 好意的な書評が多かった『地図と領土』を続けて読もうとしたら、『プラットフォーム』の余韻で似たような話に見えてしまい、一息置いてから再挑戦した。
 こちらは芸術家を主人公とした現代小説。カットバックというかカットフォワードというか、そんな構成が見られる上、最後は2020年代までエピソードが伸びている。
 この主人公の父親も建築業の実業家としてそれなりに成功した人物で、年老いてひとり暮らしそしてガンで死期が迫っている。ただし、主人公がこの父に反発しているわけでなく、主人公の行動動機にかなりのウェイトを占めている。
 主人公は地図を元にした現代アートを創作して、いきなり芸術家として成功を収め、すぐに有能なロシア系美女が主人公の恋人として現れるものの、今回は前半で姿を消してしまい、長い不在ののちに再会するも主人公はよりを戻さない。
 この間に主人公は仕事する現代の人々を描いて現代絵画の寵児なるも性格はもとのまま。画商のすすめで、ウエルベック(ほぼ本人らしい登場人物)にカタログ用文章を書いてもらうためアイルランドに住むウエルベックに会いに行く。何となくウエルベックとは気が合うが、ウエルベックの肖像画を描いて渡す約束をして、肖像画が出来た頃にはウエルベックはフランスの生まれ故郷に戻っていた。ここまでが第1部と第2部。
 第3部はいきなりウエルベック殺人事件とそれを担当した定年前のベテラン警部補の話になる。切り刻まれて部屋中にばらまかれたウエルベックの遺体などというノワールな仕掛けは、解決不能事件化しそうだと警部補を悩ませるが、しかしこれはダシに過ぎなくて、主眼は警部補の思考と生活にある。一方、主人公は参考人としてウエルベックの部屋に入り、肖像画がないことを警部補に指摘する。結局これが解決への糸口になる。ウエルベック殺人事件の解決を警部は定年後に聞く。これもまた浅ましい人間の仕業に過ぎないことに落胆しながら。
 3部の終わりで、主人公の父がスイスでの安楽死を選び、そのことを知った主人公はスイスの施設を訪れ、冷たく対応した女に重傷を負わせて帰国する。
 そして短いエピローグとなり、主人公のその後の仕事が回想され、その最後の仕事が風に揺れる草に覆い尽くされる様子を描いて幕をを閉じる。
 いかにもウエルベックらしいフィクションといえるかなあ。基本的なトーンは『プラットフォーム』と同じだけど、物語づくりは自在と言っていいくらい動いていて、なおかつ絶望感はより深まっている。それがフィクションの愉しみとして十分味わえるところが、ウエルベックの評価が高い理由なんだろう。ウエルベックはSF作家なのかもしれないなあ。

 ウエルベックを続けて読んだあとなので、松永天馬『自撮者たち』(「じどりもの」ではないよね)を読んでしまう。
 基本的には詩(詞)集だけどSFマガジンに掲載した短編がメインの短編集ともいえる。短編を読んでいると「鈴木いづみ」が入っているのかどうかが気になってくるけれど、やっぱり違うかなあ。エロティックな言葉がツリのように感じられることもあるからね。

 オビの「最大の野心作」というところはある程度納得するのが、神林長平『絞首台の黙示録』。死刑囚の視点で首を吊られる話が、いないはずの双子のいがみ合いとオヤジの存在の確認話にストレートでつながっていて、神林の話術だから愉しく読めるけど、相当なムリ筋で読んでいる間かなりイライラがつのる。が、普通にやられたら馬鹿にするなあと怒るようなどんでん返しが、驚異の返し技として成立してしまい、ウッソーと喚きたくなる。こんなのやっていいのか、しかし。

 処女長編にしてヒューゴー賞・ネビュラ賞を始め7冠(なにもそこまで数えなくても)という鳴り物入りで出たアン・レッキー『叛逆航路』は、ゾンビも含めて「SFはSFの上に造られる」の最新型スペースオペラ。面白い。
 邦訳だと「三人称が彼女だけ」の世界の衝撃が原書ほどではない微妙な違和感なので、主人公が女で従者の元艦長が男(の子)ととらえてしまえば、あとはすらすら読める。言葉遣いそのものに男女の別や社会的上下が組み込まれている日本では、「三人称が彼女だけ」の衝撃力を体験したくても出来ないようになっているのは残念だけれど。その意味では英語と日本語の翻訳の限界を生じさせているともいえる(その限界を乗り越えるぐらいの訳文を造れれば凄いことだが、エンターテインメントじゃなくなる可能性が大)。
 話自体に目新しいものはないけれど、プロットはよく出来ているし、ツンデレAIの主人公もなかなかカワイイ。ポチみたいな従者元艦長もツンデレだしなあ。
 眉村卓のSQ1の昔から攻殻機動隊の電脳の海に発生した人形遣いまでの前世紀だけでも、もはや日本では「属躰(アンシラリー)」なんぞ当たり前の世界だよねえ。衝撃性という点ではピーター・ワッツの方が強力だったなあ。

 エンターテインメント路線の上田早夕里『妖怪探偵百目 百鬼の楽師』はこの〈妖怪探偵百目〉シリーズ最終巻。最終巻とあって最強の祓い師播磨遼太郎と最強/最狂の妖怪〈濁〉との最終決戦がメイン。ただ、最終巻と言うことでこれまでのキャラクター総出演を兼ねているため、この分量では十全な書き込みが出来ていない。妖怪探偵百目という本来のメインキャラもどことなく影が薄いし(まあ、妖怪だからなあ)。読み物としては十分面白いのだが、もったいないとは思う。

 ノンフィクションは天瀬裕康『悲しくてもユーモアを 文芸人・乾信一郎の自伝的な評伝』のみ。イマジニアの会の席で渡辺晋先生(筆名:天野裕康)から版元注文を薦められて、取り寄せた1冊。
 乾信一郎と言えば、SFファンにはなんといっても『時計仕掛けのオレンジ』の訳者ということになるが、どちらかというとミステリ翻訳者のイメージが強い。しかし、この本から浮き上がってくる乾信一郎は戦前戦後を通じて、ある意味とらえどころの無いモノカキ(文芸人)として一生を貫いた明治生まれの「日本人」だった。
 宮田登の『戦後翻訳家風雲録』では紹介がなかったように思うが、ハヤカワ・創元などに関係した専業翻訳家ではないこともあって取り上げられなかったのかもしれない。
 乾信一郎(上塚貞雄)は明治39(1906)年、アメリカのシアトル生まれ。上塚本家は肥後熊本の代々続く庄屋筋で明治以降も戸長などを務めた名望家である。6歳で帰国、帰国子女扱いでイジメられつつ、その後は熊本のキリスト教系私立旧制中学に入って卒業するも、旧制五高受験を蹴って浪人生活を送る。叔父のすすめで東京へ出るも東京商科大受験をすっぽかしまたもや浪人、青山学院英文科に潜り込んで、不良学生生活を始めた。
 どう見てもカタギな人生は送れそうにない性格ですね。
 ワル学生で英語の得意な青年は当然「新青年」の熱心な読者であり、昭和3(1928)年には22歳にしてP・G・ウッドハウスなど2篇の翻訳を横溝正史が編集する「新青年」に送ってみた。そしたら横溝から呼び出しがあって、ここに翻訳家乾信一郎の原点が出来るわけだ。翻訳だけでは飽き足らず翌年には短編ユーモア小説を書いて「新青年」に掲載されている。青年は横溝がすぐ辞めたあとも「新青年」を舞台に活躍し、なんと横山隆一や清水崑などの漫画家を「新青年」のために発掘したという。大学卒業後は「新青年」編集部に入り、翻訳に小説にコラムにと八面六臂の大活躍。この間にペンネームを乾信四郎(「感心しろ」のもじり)とする。が、さすがにあとで反省して乾信一郎と直したらしい。
 ここまででまだ30ページほど。平成12(2000)年に94歳で没した乾信一郎の文筆人生はまだ始まったばかりだが、興味のある人は読んでねというところで終わっておこう。要はここにも作品たる人生があり、「人は1冊の本である」が実践されたということだ。
 なお、天瀬裕康の評伝作法は作者がよく顔出すスタイルなので、一般的な評伝からするとやや違和感がある。


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