内 輪   第296回

大野万紀


 Twitterでも書いたのだけど、SFマガジン6月号の「ハヤカワ文庫SF総解説」で、ティプトリーが4冊載って、『愛はさだめ、さだめは死』が大野万紀、『たったひとつの冴えたやりかた』が長谷敏司、『老いたる霊長類の星への賛歌』が福本直美、『故郷から10000光年』が鳥居定夫(水鏡子)で、まあぼくのは別にしても、どれもが力の入った良い解説でした。
 この前の例会で水鏡子は、『故郷から10000光年』の解説について、締切を忘れていて土壇場で仕 上げたのだけど、いい文章が書けたと自賛していました。なるほど、これはティプトリーのSFへの思いを忖度した名文です。だけど……。
 この解説を読んで特に違和感があったのは、「探し求めた〈故郷〉を見いだしたかの純粋無垢の多幸感」というところ。しかし、すなおにこの短篇集を読んで感じるのは、それとは逆の感情です。喪失した故郷、痛々しく、凄まじいばかりの疎外感……。「そして目覚めると…」「苦痛思考」「故郷へ歩いた男」そして「ビームしておくれ、ふるさとへ」。どれも、誰からも受け入れられず、失われた〈故郷〉にアイデンティティを求め、そしてその〈故郷〉にすら拒絶される、強烈な疎外と孤独。どこに〈多幸感〉があるというのでしょうか。
 だがその一方で、水鏡子の指摘は正しいのです。この〈多幸感〉は、SFに自分の〈故郷〉を見いだしたティプトリー自身のものなのだから(実際、水鏡子はそう書いています)。作 品よりも作家へ目を向けることの是非はともかく、ティプトリーにはそうさせてしまうだけの魅力があります。その作家自体が作品であるような魅力を、リアルタイムに読んで味わうことのできた、ぼくら自身も幸せだったといえるのでしょう。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『レッド・ライジング 火星の簒奪者』 ピアース・ブラウン ハヤカワ文庫SF
 本書がデビュー作となるアメリカの新人作家の三部作第一巻。かなり壮絶に暴力的な、テラフォーミング後の火星を舞台にした「戦国国盗り物語SF」だ。
 火星SFが中世風のサイエンス・ファンタジーの舞台となるのはよくあることだ。そもそもバロウズの火星シリーズからしてそうだが、本書はずっとSF寄り。そういう意味ではダン・シモンズの、火星でオリンポスの神々が戦う『オリュンポス』なんかが近いかも知れない。
 支配階級ゴールドを頂点とする厳しい階級社会が確立した未来の太陽系。最下層のレッドの人々はほとんど奴隷状態となって、過酷な労働に従事している。支配者に妻を殺されたレッドの少年ダロウは、復讐を誓い、革命組織の力を借りて肉体改造し、自らゴールドの一員となって、ゴールドの若者たちのエリート養成校に入学する。
 学園小説風になるかと思ったら(そういう所がないわけでもない)、この養成校というのが学校とは名ばかりで、ゴールドの若者たち同士で戦争や殺し合いをして一番強く狡猾な者が勝ち残るための要塞だったのだ。オリンポスの神々の名前のついた十二の学寮があり、ダロウはその中のマーズ寮に所属して、他の寮との血みどろの戦いに突入していく。
 ダロウは、最後には支配階級を打倒するという目的を秘めつつ、その支配階級の若者たちと戦友としての信頼関係や友情を(そして恋も)はぐくみながら、知力と体力とで恐るべき相手と戦っていく。ティーンエイジャーによるゲームの戦争でありながら、それは現実に命のやりとりをする中世的な本物の戦争であり、その描写は迫力があり、勇敢さ、自己犠牲といった戦場のヒロイズムもたっぷりとあって、読み応えがある。まさに国盗り物語だ。しかし、そこには彼らの戦いぶりを高みから観戦し、時にはちょっかいをかけてくる寮監たちという存在がある。子ども同士の惨たらしい戦いといえば、小川一水の『天冥の標』にも出てきたが、この超越的な大人たちの存在が、この悲惨な戦いがあくまでも閉じられた世界でのゲームにすぎないことを意識させる。後半、そのあたりから、すこしずつ枠組みが広がっていくところが面白い。
 まあ三部作の第一部なので、本来の話はこれから始まるというところだろうが、本書は本書で完結している。しかし、仇敵であるはずの支配階級のゴールドたちと、主人公は戦友としての絆を持ってしまったわけで、これからどうなるんだろうという気もする。目的のためには手段は選ばないというのが本書のテーマなので、大義のためなら友情もモラルも捨てるというテロリストの論理が前面に出てくるのだとしたら、それはちょっとイヤな感じだけれど、でも何となくそうはならない気がするのだなあ。
 ところで、本書では「ヤバい」と「どえらい」という言葉で階級差を表現することになっているのだが、そこのところ、めっちゃ違和感あるなあ。

『冥福 日々のオバケ』 牧野修 光文社
 短篇集。わりあいほのぼのとした、少し怖い、ちょっと哀しい、かなりおもろいお化けたちの話が、書き下ろし1編を含め6編収録されている。
 幽霊なんだけど、幽霊とはちょっと違う、お化けなんだと主張する人もいる。面白かったけど、え、これ、本当に牧野修? と思ったのも確かだ。ぐちゃぐちゃでもドロドロでもエロエロでもない、派手なアクションもぶっとんだ論理もない。すなおで、ええ話やん。哀しい話もあるけれど、基本は心温まる人情話である。ほんまか? 何か裏があるんじゃないかと思ってしまった。
 「チチとクズの国」は、おやじギャグの得意な父の幽霊と、そんな父を毛嫌いしていたダメ息子の話。いいおやじだわ。
 「夏休みを終わらせない方法」は高校の美術部で親友となった二人の男子の物語。いかにも高校生らしい男の子同士のバカ騒ぎの末に、死んでしまった親友が幽霊となる。そしてやっぱり二人でバカやってる。
 「草葉の陰」は水難事故で死んだ孫娘を、自分のせいだといつまでも捜し続けるお祖父さんの話。これはちょっと怪談っぽく、異界がその姿を現すが、怖いというより切なく、もの悲しい。
 「プリンとペットショップボーイ」には猫の幽霊が出てくる。しかもため口をきく。「おい、ヒト。食事はまだか」って具合だ。まあ陰膳みたいなもんだが。そしてちょっと変わった幼なじみとのラブストーリーでもある。
 「オバケ親方」は、新米の幽霊が男にだまされている彼女を助けようと、オバケ親方に、オバケとしての生き方(?)を教わり、先輩オバケたちとともに、悪い男をやっつける話。落語みたいで面白い。
 書き下ろしの「タカコさんのこと」は、家族・親戚の中で浮いた存在である叔母のタカコさんと、いつもぼーっとしていて、やはり親とうまくいかない私との話。タカコさんは幽霊だが、お話はほとんど私の思い出となっている。でも、こんな話を読むと、オバケになるのもいいな、と思ってしまうんじゃないだろうか。オバケになってもいいけど、ぼくのところには来ないでね。怖いから。

『母になる、石の礫で』 倉田タカシ ハヤカワSFシリーズJコレクション
 第二回ハヤカワSFコンテストの最終候補作。作者は『NOVA』や『夏色の想像力』などにインパクトある短篇が収録されている注目の作家だが、長編は初めてだ。
 脳だけの存在になって地球を飛び出し、小惑星帯で暮らすようになった十二人のマッドサイエンティスト〈始祖〉たち。彼らが生みだした、まだ人間らしさをかなり残しているものの、機械と融合し、異形の姿になった〈二世〉たち。そしてもはやほとんど人間とはいえない存在になった〈新世代〉。本書の主人公はその〈二世〉たち、虹、霧、針の三人と、〈新世代〉のたった一人の生き残りである41だ。
 〈始祖〉たちのコロニーから離れて、自分たちで作りだした〈巣〉に暮らしていた彼らだが、あるとき母星〈地球〉から巨大な構造物が圧倒的な威圧感をもって近づいてくるのを感知する。敵対的な脅威を感じ、再び〈始祖〉たちのコロニーへと向かうのだが……。
 といったストーリーは本当はあまり重要じゃないのだろう。ここに書いたようなことが起こっているのはわかるし、大きな物語があるのも想像できる。でも視点はそこにはなく、ミニマムな、次々と生起する事象(イベント)とそれへの反応が、めまぐるしく、反射神経ゲームのスピード感で描かれているのだ。ほとんど説明もないまま、変容した未来のテクニカル・タームが溢れ出す。
 それがいったい何を意味しているのかわからないままに、目眩がするような描写を続けるというのは、先端的なSFではさほど珍しくないし、SFを読み慣れているなら、何とか追従していくことができるだろう。だがイーガン作品で大森望がいったような、わからないところは読み飛ばしてもかまわない、というのはここでは通用しない。本作の場合、例えば〈母〉というタームにわれわれのもつ普通に情緒的なイメージと、単に何かを生み出すジェネレータとしての意味のみを見ている彼らとのギャップこそが重要なので、それを読み飛ばしていたら、楽しめないということになるだろう。
 ここでの〈母〉や〈仔〉、〈3Dプリンター〉、〈トナー〉、それに〈計画域〉、〈出力域〉といった用語は、その意味を再定義されているのだが、それは単機能で再帰的な、いわばサイバースペースをナノテクっぽい技術で物理化したようなイメージであって、汎用的で工業製品的な(ただし目まぐるしく変化し、アプリケーションとして無限に適用可能な)存在を示している。これは本当に独特で面白い使い方だ。ただしそれゆえに読みにくいのが難点である。
 その一方で主人公たちは(中二病といってもいいのか)ティーンエージャーらしい万能感と暴力性と心細さがいっぱいで、やっていることはわけわからなくても、その心情はよくわかる(気がする)。欠点としては、41と針はかなり個性的に描かれているのだが、その他が虹も霧も〈始祖〉たちも、あるいは他の機械や存在たちも、みな同じような調子で描かれていて、それがまたこのポストヒューマン小説のキモなのかも知れないのだが、どうも単調に感じる。もう少し簡潔にまとめても良かったかも知れない。それと、この描写は、文章で読むよりも、CGアニメーションか何かで描く方が似合っているようにも思った。

『妖怪探偵・百目(2)廃墟を満たす禍』 上田早夕里 光文社文庫
 妖怪探偵・百目の続編。物語はこれで終わらず、次の巻へと続いている。この巻では、妖怪たちと戦う拝み屋・播磨遼太郎の生い立ちから、その哀しい過去、そして妖怪をも食ってしまうという最大・最悪の妖怪〈濁〉が真朱の街を襲おうとしていることが明らかとなる。
 播磨は、〈濁〉を倒すために、一時的に真朱の街の妖怪たちと休戦し、共闘を呼びかける。だが、その一方で、最終的には妖怪を一掃したいと考える人間たちは、妖怪たちにも共感を抱いている刑事・忌島を、妖怪対策の新組織の長に任命し、妖怪退治の任務を負わしてしまう。そうした中で、百目と助手の邦雄は播磨の過去を知ろうと奔走するのだが……。
 最悪の妖怪〈濁〉を別にすれば、本書に登場する人物も妖怪たちも、決して悪ではなく、それぞれの過去や因縁に捕らわれた、また強い意志でそこから脱却しようとする、共感できる、あるいは悲しむべきものたちである。大勢の人が死に、妖怪が土に還っていくが、そんな哀しさが全編を深く色濃く覆っている。
 ただし、百目と邦雄の行く先で現れる異界や妖怪たちの姿、ふるまいには、不気味さと共に懐かしく楽しげな、縁日や三味線の音曲や、唄や舞踊の謎めいた魅力に満ちている。この、様々な妖怪たちと風景を描くときの、作者の筆致はとても愛おしげで、魅力的だ。とりわけ「妖怪楼閣」の章は、水木しげるの世界にも通じる不気味さと楽しさがいっぱいだ。
 この世界では、妖怪の存在とSF的な科学とがシームレスに共存している。考えるとちょっと変なのだが、全然そんな感じはしない。これまた妖怪のしわざだろう。
 最後に〈濁〉が真朱の街を囲い込み、いよいよ殺戮が始まる。本書を読んだ後では、こいつを単に戦って滅ぼすだけでは済まないような気がする。どんな決着がつくのか、続編が楽しみだ。


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