続・サンタロガ・バリア  (第154回)
津田文夫


 退職記念にステレオのアンプとCDプレーヤーを買い換えた。デノンの1500シリーズのセットで、値段的には合わせて20万弱。60歳になって、もはや高音を聴き取る耳がないことは確かだけれど、合わせて10万の以前の装置よりは音の粒立ちや響きの締まり具合などの違いはよく分かる。このクラスになるとSACDが聴けるようになるんだけれど、手元にあるのは以前コンサート会場で買ったアブデル・ラーマン・エル=バシャの『ラヴェル:ピアノソロ作品全集』しかない。なので、試しに聴いてみるとSACDだとCDよりも窮屈さがない、というかSACDを聴くとCDの音が窮屈であることが分かるというものだった。エル=バシャの演奏自体はその技量や録音の良さにもかかわらず、必ずしも好みではないが、SACDで聴くと少し好感度が上がった。これはSACDの功徳だろう。
 地元のCDショップを覗いてもSACDは置いてないのだけれど、よく見ると数枚だけ70年代ロックのSACDが棚にバラバラに挟まっていた。フリートウッド・マック『噂』とかいわゆる「フォーエバー・ヤング」系のヤツだ。その中にイエス『こわれもの』があったので買って帰り、聴いてみた。SACDはfレンジ・DレンジともCDより広いので、1曲目「ラウンド・アバウト」冒頭のギターのハーモニクスの響きが新鮮だ。録音を重ねに重ねたリック・ウェイクマンの「キャンズ・アンド・ブラームス」もオーケストラの楽器に割り当てたキーボードの響きを明快に分離して鳴らす。いい音といえばいい音だけれど、イエスの場合はSACDじゃないといけないかといえば、そんな感じはしない。愉しむだけならライノのリマスター盤でも十分だと思う。いわゆるクラシック・ロックを3500円も出してSACDを買うくらいなら「フォーエバー・ヤング」盤や輸入盤を2枚3枚買った方が良さそうだ。『こわれもの』に関していえば、SACDはデジタルテレビが4Kや8Kになるようなもので、アナログの代わりになるわけではないのだ。
 しばらくは手持ちのCDをあれこれ聴いてみよう。すでに意外な発見もあるのだが、それはまた次回に。

 昨年11月に出て積ん読になっていたミハル・アイヴァス『黄金時代』にようやく手を出したら、3週間近く抱え込んで沈没してしまった。330ページが58章に分かれている構成だから1章あたり6ページ足らずだが、読めないことおびただしい。
 前半はアフリカ大陸の大西洋側にあるカナリア諸島とカーボヴェルデの中間あたりにあるという架空の島での体験記だが、その説明と考察はいちいち引っかかりがあって、全然前に行かないのだった。何かというと報告者が「読者」に向かってあれこれと説明するのがいらだたしいということもあるが、基本的な企みがわかりにくいところに読み手のブレーキをかけるものがあるのだろう。
 前半のエピソードで一番分かりやすい物語は、パリのチェコセンターで開かれた展覧会で、そこで出会った絵文字に興味を持つパリ在住のチェコ人に、報告者/語り手がモノに変身する欲望をもつ島の文字の話題を振ったところ、そのチェコ人がそれに関連する話題として、やはりパリ在住のチェコ人の知人のこととしてカフェで語られた話だろう。そのパリ在住の知人の名前は語られなかったと語り手が伝えているにもかかわらず、語り手が仮に「バウムガルテン」と呼ぶことにしたため、読み手にはバウムガルテンの物語として妙に印象に残ってしまう話となる。
 カフェで話されていることになっているバウムガルテンの物語は、この人物が60年代半ばにチェコの大学の哲学科を出て美学科の助手として働いていたという紹介から始まり、美学に関する研究論文を書く野心を持っていたが、70年の粛正で大学の職を失い、小さな研究所に入って執筆を続けた。しかしある日その執筆のインスピレーションが消えてしまう。
 バウムガルテンは散歩をしながらインスピレーションが沸くことを期待していたが、歩いているうちにいつもと違う遠いところに来てしまい、宿もない村の納屋で寝る羽目になった。朝目覚めると、目に映る農具や壊れかけの戸板の形がギリシャ文字に見えることに気づいて、思いを巡らすとその言葉から「オデュッセイア」の美しい踝のイノのエピソードが思い出される。そしてバウムガルテンは女神イノのメッセージを受け取ったと思い、書き物を捨ててパリに出て、あるきっかけでチェコの美学者ムカジョフスキーの著作の翻訳者や著作集の編集者として成功し、パリの大通りのマンションに家を持つに至った。
 ある雪の夜、浅い眠りから目覚めると女ドロボウが妻のために買っていたネックレスを盗むところを目撃して、女を追いかけ雪の積もるパリの町の屋根を走りだす。女に追いつくと、女は盗みを働く動機となった買いたい不思議な絵について延々とおしゃべりを続け、寒さで眠くなったバウムガルテンは女ドロボウに絵を買う金を貸すと伝え、女に送られ自宅に戻る。女はタクシーでどこかへと去った。翌朝女に教えられた画廊に行ってみると女が話した絵は存在せず、美術仲間に聞いてもそんな画家はいないといわれるだけだった。そしてチェコ人は話はこれだけだとカフェの席を立った。
 これが数章を費やして語られるのだが、美しい踝のイノのエピソードや不思議な絵画の説明がポストモダンっぽいにもかかわらず、この話はリニアーであり、読み慣れた世界の物語である。しかし、語り手は次の章でこのカフェで語られた物語の信憑性を疑い、物語を論評する。そして論評の最後でこの物語を肯定するに至る。
 このカフェで語られたバウムガルテンの物語は、常人には理解しがたい島の文化のたとえとして一種の読者サービスのようなものになっていて、それに対する論評は不信の停止が読みのポイントであると読者に呼びかけている。
 後半は島で読み継がれる唯一の本の話で、その本の成り立ちや構造の説明とともにそこに書かれた物語の再話(内容はいわゆる千一夜物語風)が主となる。こちらは前半に比べるとだいぶ読みやすいが、前半が前半だけにそれでも読み手に負担がかかる。
 この報告者/語り手の現在は、携帯電話への言及があるようにほぼ現代であり、そのこと自体が読み手にとって物語枠全体への不信を醸し出している。疲れたなあ。

 アイヴァスに比べたらあっという間に読めたのが、藤井太洋『アンダーグラウンド・マーケット』。わずか3年後のトーキョーでの地下(電子)通貨/経済とそれに伴う風俗を描いて、若い3人の男女を主役にお金を巡る冒険を展開してみせる。考察はハードだが、物語はスィートな作者のスタイルが良く出た1作。

 昨年SFとして取り上げられた文学系作品を2冊読んだ。多和田葉子『献灯使』上田岳弘『太陽・惑星』
 多和田葉子の名前は知っていたが、読むのは初めてだ。これは150ページの長い中編と関連した短編4話を収録したもの。中編は大震災とメルトダウンからアイデアを考えたとおぼしき、荒廃し鎖国した近未来の日本で生きる曾祖父とひ孫の物語。基本的視点は曾祖父にある。曾祖父の世代は事件以来頑健な体と長命を保つようになり、ひ孫世代は立つことも難しいほど肉体が弱化しているが、ある種の能力を持っている。
 曾祖父の視野の中で語られる物語の鎖国日本の舞台設定は、この曾祖父の家族関係から断片的に伝えられる。しかし情報は断片に留まり全体的な設定は最後まで明かされない。タイトルの「献灯使」は、ひ孫の通う学校の教師がこのひ孫を鎖国日本から外国へ送る使節「献灯使」にしたいと考えるところから来ている。ひ孫の名前は「無名」である。
 メルトダウンから始まった鎖国日本への道のりは、短編「不死の島」で手短に説明されているが、かなりベタな話づくりがされている。また「韋駄天どこまでも」はまるで筒井康隆が採用しそうなスタイルをとっており、多和田葉子の寓話体質が感じられる。人類が滅んだ後の動物たちの人類(日本人)の思い出話を綴った「動物たちのバベル」も筒井風といえば筒井風である。なお、ダストジャケットや本文中に使われた数葉の動物絵は味わいがある。

 一方『太陽・惑星』の方はまったくのSF。「太陽」「惑星」とも手法はほぼ同じで、巨視的なSFの設定「太陽の人工的ノヴァ化(核融合で金を生成)」や「情報技術による地球人類統合(肉の海)」と微視的な主要登場人物たちの動きが同じ手つきで語られていく。主題は「太陽」は人類進化と経済だったり、「惑星」は東京オリンピックだったりするが、変奏スタイルに違いはない。視点の取り方は、あるいはテッド・チャンを思わせ、円城塔を思わせ、瀬名秀明を思わせたりするが、基本的にドライである。ただSFとしては人類が閉じる方向に向かうので、あんまり嬉しくはない。

 SFプロパーの新刊に読みたいものがあまりないので、チャーリー・ヒューマン『鋼鉄の黙示録』を読んでみた。なかなかケッタイな学園伝奇ものだったので、新鮮といえば新鮮だが、南アフリカの作家であのローレン・ビュークスに見いだされたという作家の背景を考えると、まあ納得のヤングアダルト作品である。主人公の持つ特異な血筋と能力が見いだされ、主人公が冒険と戦いを終えて成長したことにより、学園小説であることも卒業してしまうという、実にまっとうなつくり。ただ、主人公の表面的な悪ぶりがその心情の素直さにほぼ最初から読者に見破られているので、その点は興ざめかもしれない。

 先月積み残したノンフィクションに移ると、
 佐藤卓己『増補 八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』は2005年にちくま新書で出たものの増補版。親本は読んだような気がしないので初読かなあ。
 戦後間もない新聞に掲載された敗戦の日の表情ということで紹介された写真に疑問を持ち、それを「玉音写真」と名付けていろいろ追いかけてみると、どれも当日撮られた写真ではないことが分かる。また玉音放送の日である8月15日がいかにも敗戦/終戦の日として語り継がれてきたが、それは占領期間が過ぎた昭和27(1952)年以降のメディア/政治によってそのように記憶されたものであることを検証している。それに加え本当の敗戦の日は連合軍に対して降伏文書に日本側全権が署名した9月2日であるというのも、必ずしも連合国の一致した見解ではないという事例を様々挙げ、日本にとっての敗戦日はポツダム宣言の受諾を連合国に伝えた8月14日であると論理的に詰めて、8月15日の虚構性とあるべき8月15日の定義を示してみせる。
 ごもっともとしかいいようのない8月15日論ではあるけれど、何百という手記を読んだり何十人という体験者に聞いた経験からすると、8月15日に国内にいた若者(学徒動員・女子挺身隊に子供)やあまり若くない人(徴用工員や主婦やお年寄り)にとっては、空襲警報と灯火管制がなくなって戦争が終わったことが〈8月15日〉でくくられてしまったことに異論はないような気がするなあ。
 まあ、著者もそれを変えようというんじゃなくて、戦争を知らない世代はもうちょっとまじめに8月15日を考えて、将来この日をどう記憶していくべきかを訴えているんだけれど、主たる記述が「8月15日じゃないよ」というところにあるので、ちょっとどうかなあという気もする。

 敗戦の後は明治維新というわけじゃないが、門松秀樹『明治維新と幕臣 「ノンキャリア」の底力』は上記の本と同じく昨年末に出たもので、こちらは中公新書。
 何度も書いてきたけれど、明治維新は薩長政府の宣伝が行き届いてしまって現在ようやくその呪縛を逃れようとする視点が一般化してきた。この新書もその一つ。
 考えてみれば当たり前な話だが、王政復古や廃藩置県をしたところで、人々の日常生活を支える仕組みが続けられなければ、新国家の建設は画餅に帰する訳で、この本にあるように、薩長などの藩レベルでは対応できない中央政権を支える仕組みは徳川幕府にしかノウハウはなく、当然のごとく薩長政府はそれを利用して日々の行政実務をこなすのに旧幕府の人間を使っていたのである。もちろん大勢の元侍たちはリストラで悲惨な目に遭ってはいたけれども、一方で新政府を支える人材として実務をこなしていった元侍たちも多数存在していた。それは廃藩置県によって親藩も外様もなくなった各藩の元侍たちも同様であった。教科書に出てくるような出来事は薩長や土佐・佐賀の大物たちの物語だが、国家の日常を支えたのは旧幕臣や旧藩の実務系侍層と豪農を主体とする旧村役人たちだったのである。
 ちなみにお世話になっている近世が専門の大学教授のモットーは 「明るい農村」主義である。

 本屋の文庫棚を見ていたら堀江敏幸『象が踏んでも 回送電車Ⅳ』が目に入ったので読んでしまった。ページをめくってⅢを読んでないのに気がついたけれど、エッセイ集なのでそのまま読んだ。
 今回の表題作は著者の「詩」である。なかなかいい出来で読んでいてリズムも言葉遣いも内容も読ませるものがある。さすが、堀江敏幸。何十もの短文は、体験談だったり、書評だったり、小説ぽかったり、研究ノートぽかったり様々だけれど、ある一定のトーンは保たれている。自分の中ではひと昔まえなら杉本秀太郎だったところを堀江敏幸は占めているはずだけれど、まあ、時代も違えば人も違うという当たり前なことからして、堀江敏幸には古典感覚がない代わりに現代的なシャイネスがある。それがこの人の文章を読ませるのだろう。

 次は江戸時代ということで、藤井譲治『戦国乱世から太平の世へ シリーズ日本近世史①』岩波新書を読んでみた。これは岩波の新書版時代史シリーズの1冊、岩波は以前に近現代史のシリーズを完結させている。
 この表題からは当然、信長、秀吉、家康から家光までという、常識的なラインが浮かぶが、まさにその通りな内容になっていて、最新学説を踏まえたあの有名な時代の解説が読める。まあ、最近は秀吉の「太閤検地」「刀狩り」「海賊停止令」などの威力がようやく納得できるようになったので、そこのところが面白かった。秀吉の俗物的狡猾さと純真な憧憬ともいうべき心情の同居するキャラはやはり凄いなあ。

 今回は「週刊文春」坪内コラムが取り上げた文庫で気になったので読んだものが2冊。
 1冊目はマーシャル・マクルーハン/クエンティン・フィオーレ『メディアはマッサージである 影響の目録』河出文庫。
 マクルーハンといえば、40年前の学生時代でも60年代に流行ったヒトというイメージがあった。それでも当時マクルーハンを1、2冊買った覚えがある(読んだ覚えはない)。ここには「電気回路」という訳語が頻繁に出てくるが、この確信犯的に古めかしい訳語がすべてを変革するマクルーハンの鍵である。いま読むと「電気回路」はまるでコンピュータ/ソフトウェアのように読めて素晴らしい。

 もう1冊は木下彪『明治詩話』岩波文庫。これは親本が昭和18年に出版されたという、いわゆる戦時中の軍部の検閲に引っかからないタイプの書物(幕末維新時代の漢詩の評論)である。
 著者は宮内省官房・図書寮勤務というからプロの漢詩文研究者で、この本を世に出すきっかけは、明治の日本文学史が坪内逍遙の西洋風小説を以て嚆矢とする風潮に、漢詩を文学として鑑賞しえない者が、明治文学史を語る僭越に憤りを覚えたからだという。
 漢詩の読めない評論家を腐した割には、この本に取り上げられた幕末明治初期の漢詩(狂詩を含む)には、著者が読み下し、ルビに解説そして漢詩としての出来の善し悪しを付して、素人にも非常に読みやすい作りになっている。
 素人目には日本には1000年以上にわたる漢詩漢文の伝統があり何やら漢詩の幸える国のような気がしていた(昔『頼山陽とその時代』とか読んだし)が、著者によると明治初期こそ日本始まって以来の漢詩の傑作が排出した時代であって、それ以前の日本の漢詩では五山文学絶海以外に見るべきものはないという。そのような日本始まって以来の漢詩の隆盛を無視した明治文学史に怒りを覚えた著者は立派であるが、この本を読まない限り現在でも誰も明治初期の日本漢詩を明治文学史に取り込まないだろうなあ。確かにいい勉強になりました、坪内先生。


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