続・サンタロガ・バリア  (第148回)
津田文夫


 11月になってしまった。20年以上ほぼ毎日通っていた昔風の喫茶店が、マスターがトシのせいで休みがち。その上開いてる日も午後6時には閉店するようになったため、仕事帰りの読書ルームを探していくつか茶店を試してみたんだが、今のところ定着先はない。チェーン店ではタリーズが落ち着くが、チェーン店のコーヒーはあまり好きではないので、カフェ・ラテしか飲めない(あれはコーヒーとはいえないよなあ)。毎日茶店を変えてると読書量も落ちるのだ。

 このひと月に買ったCDは1000円盤ばかり。ブラジルポップスが5枚にジャズが1枚ポップス/ロックが2枚。クラシックはなし。
 ブラジルポップスは、今回男編で、マルコス・ヴァーリ「サンバ’68」、ジャヴァン「閃き~アルンブラメント」、イヴァン・リンス「ノーヴォ・テンポ」、カエターノ・ヴェローゾ「アレグリア・アレグリア」そしてエドゥ・ロボ「カンチーガ・ロンジ」。この5人くらいが昔愛読していた「FMfan」のレコード紹介で覚えた名前だ。マルコスとカエターノが68年、エドゥが70年、イヴァンとジャヴァンが80年の作。

 マルコス・ヴァーリのはアメリカ録音のボサノヴァ・アルバムで、全曲奥さんのアナマリアとのデュエット。ヒット曲「サマーサンバ/ソー・ナイス」をはじめ、どれも聴きやすいポップな1枚。かっこよく洒落ている「バトゥカーダ」は、最近1000円盤で復活したので買ったセルジオ・メンデス&ブラジル66の67年のサード・アルバム「ルック・アラウンド」にも入っている。マルコスのオリジナルもいいが、セル・メンの方がアクが抜けていてアメリカンポップスに近い。セル・メンのにはジョアン・ドーナトの「ザ・フロッグ」もはいっていて、思わず体が揺れる。しかしジャケットのマルコスはダサいなあ。

 カエターノ・ヴェローゾのはガル・コスタと組んだデビュー・アルバムに次ぐ本当のソロ・デビュー・アルバム。解説によれば、60年代起こった原点回帰的な音楽ムーヴメント「トロピカリア」の旗手がその「トロピカリア」誕生を告げた作品とのことだが、ようわからん。ブラジルポップにビートルズの「サージャント・ペッパー・・・」が与えた衝撃は大きかったらしいけれど、これを聴く限りビートルズというよりシャンソン・イエイエな感じが強い。翻訳された歌詞はかなり強烈な内容でその点はビートルズかもしれない。いかにも68年頃の音がする。1000円盤というのにジャケット・解説とも6つ折りの大判。太っ腹だなあ。

 エドゥは先に買ったアルバムより10年前の作品。1曲目「要塞」が実は、昔ブラジル66でお気に入りだった「カーサ・フォルテ」の原曲。といいながら「バトゥカーダ」同様セル・メンのカヴァーの方が1年早い。「丈夫な家」だから「要塞」か。それにしてもこのアルバム、カエターノのアルバムの後に聴いたせいもあって、洗練の極みサウンド。ジャズボッサ系大人の音楽である。聴きながら、70年当時の若者音楽やアヴァンギャルドや電化ジャズなどがうなりを上げていた時代の中で最もソフィスティケイトされた音楽じゃなかろうか、と思った。これはあのエレンコ・レーベルの1枚。セル・メンはもちろんアース・ウィンド&ファイアーもカヴァーした「ザンジバル」が入っている。

 ジャヴァンやイヴァン・リンスとなると、ボサノヴァ時代が遠い昔のようなサウンドになっていて、欧米と同時代という意味で80年代の音楽が響いている。それはもはやローカルなブラジルポップであることがトレードマークではない時代に突入していることを示している。ジャケットもまるで平井堅のアルバムのご先祖みたいなジャヴァン、アメリカ西海岸のシンガーソングライターみたいなシンプルなセルフポートレイトを使ったイヴァン・リンス。しかしイヴァンは、アルバムの最後にカエターノとガルのデビューアルバムの1曲目「コラサォン・ヴァガブンド(放蕩者の心)」を入れて、新しい時代のアレンジでボサノヴァから切り替わる時代のブラジル・ポップを振り返って見せた。

 ブラジルポップばかり聴いているとときどきノー天気に聴けるアメリカンポップスが聴きたくなって、買ってみたのがスリー・ドッグ・ナイトのベスト盤。「イーライズ・カミング」とか「ライアー」とか「ママ・トールド・ミー(ノット・カム)」とかいい曲だよねえ。ポール・ウィリアムスもすばらしい。

 ジャズはフィル・ウッズ&ジーン・クイルの「フィル・トークス・ウィズ・クイル」。フィル・ウッズが聴きたくて買ったのだけれど、白人アルト同士の競演ではフィルの特徴であるスキッとした切れ方があまり感じられない。似たもの同士だからかなあ。

 ロラン・ジュヌフォール『オマル2-征服者たち-』は、2000年代フランスSFを代表するシリーズと解説される作品の第2作だけれど、そんな大げさに言うような代物ではない。舞台設定の大枠は広すぎてどこまでも大地が続く世界で人類を含め3種族が争っているというもの。作品中で明言はされていないが、ダイソン球の内側世界と思われる。基本は冒険小説で、ニーヴンのリング・ワールドでダン・シモンズの『ハイペリオン』をやってるようなものだけれど、小説としての印象はイギリスのニュー・スペースオペラ、特にアレステア・レナルズあたりを思わせる。
 前作は人類に敵対する種族の海賊飛行船の女船長がキイ・キャラクターだったけど、今作はそれより700年前という設定。科学技術が失われていく一方の世界なので、こちらの方がレトロ&キッチュな科学兵器が立派である。いわく原子力機関車に光射砲(こうしゃほう)。ストーリー構成は三つの別々の話が進行するんだけれど、メインキャラは戦場の英雄だがネクラな若手士官で、機関車も光射砲もこの若手士官の話を成り立たせているガジェットである。
 ストーリーは前作とのつながりが薄いので、独立した作品として読めるが、このタイトルでは手を出しにくかろう。

 ケリー・リンクやヴクサヴィッチがそれなりに評価される中で、これもその流れかと思って読んでみたのが、ブライアン・エヴンソン『遁走状態』。19編入り短編集。訳者は柴田元幸。今年2月の出版で買ったのは8月の2刷。
 「パラノイア」テーマというのが基本的な印象。読んでいて鬱になりそうな話ばかりだ。短い話だと結構うまくいく手法だけれど、話が長くなってくるとパラノイアだけでは物語を支えきれない。うまくいくタイプの長い話は寓話風のファンタジイになっていて、表題作などは面白い。エンターテインメント的な意味での小説作りは下手ということかも。

 なぜか『ブルー・マーズ』をスキップして出たキム・スタンリー・ロビンソン『2312-太陽系動乱-』は、いかにもロビンソン風な太陽系スペース・オペラ。水星や金星をはじめとする各惑星や衛星の風景描写がSFのホームタウンであることを改めて感じさせてくれるところは感涙ものだが、水星の軌道都市破壊にまつわるミステリの物語枠とヒロインをはじめとする各キャラクターは保守的で、翻訳上の言葉遣いもあって、男性器と女性器を併せ持つヒロイン・ヒーローたちが変容した意識の持ち主には見えない。悲惨な地球帝国と共存共栄を目指す惑星・衛星連合という図式も今さらな感じがして、なんだかなあである。

 帰ってきたオリジナルSFアンソロジー、大森望編『NOVA+ バベル』はなかなかの力作揃い。
 宮部みゆき「戦闘員」は筒井康隆の『敵』を思い起こさせる1編。月村了衛「機龍警察 化生」は戦闘アクションがないのがちょっと残念。警察小説としてはよく出来ていると思う。藤井大洋「ノー・パラドクス」は新機軸タイムトラベルもの。「原因なし矛盾なし」っていうアイデアから導かれたドタバタSF。面白い。宮内悠介「スペース珊瑚礁」は星間取り立て屋コンビのシリーズ最新作だけれど、ちょっと先輩がかっこよすぎる話。野崎まど「第五の地平」はタイトルのニュートラルさと打って変わったバカSF。チンギスハンの愛でる大草原が宇宙の果てまで広がっていく理屈をブルーバックス風に解説した説明図入り。まあ、いいけど。
 酉島伝法「奏で手のヌフレツン」は、慣れたとはいえあの独特の世界で展開される一見ファンタジーな物語。作者のことだからハードな裏解説がありそうだ。「太陽」のイメージが強烈。表題作の長谷敏司「バベル」は、なんとエジプトのカイロを舞台に、流行予測システムを作っている会社の技術者と営業利益より優先する伝統的イスラム社会の価値観が激突する話。まじめな長谷敏司の作る話なので浮ついた感じはないけれど、大丈夫なのかコレ、とは思う。円城塔「φ」は、空集合という数学的論理を小説に仕立てて作品自体が空集合に向かって文字数を減らしていくというこれもバカSFの一種。確かに筒井康隆の作品を思わせる。

 『大阪ラビリンス』と一緒に買った『夢見る部屋 日本文学100年の名作 第1巻』はぽつぽつ読んでたら読み終わった。荒畑寒村と長谷川如是閑はいつもゴッチャになるのだけれど、寒村「父親」は純文学風で如是閑「象やの粂さん」はエンターテインメント風だった。どちらも幕切れはフーンな感じ。如是閑のは文字通り象遣いの話。鷗外「寒山拾得」はコント。佐藤春夫「指紋」はポーと久生十蘭を足したようなミステリで、谷崎潤一郎「小さな王国」は今でも書かれていそうな先生が取り込まれてしまう教室/子供王国もの。大正モダンだ。芥川「妙な話」は語りのうまい小品。百間「件」のすっとぼけた夢の質は古くならない。足穂「黄漠奇聞」は昔読んだダンセイニへのオマージュ。いまでも面白い。乱歩「二銭銅貨」は初めて読んで結構上品だなあ、と思った。話自体はその後にいろんな人が使い回していて初読とも思えない。宇野浩二の表題作はまさに純文学。作家のウダウダな生活と思考が綴られていて、まるでモリミーだ。もちろん読むべきは文体そのもの。ウネウネとつながる文章は長いときは1ページ近くなる。
 ほかの作者に比べると無名と言ってよい宮地嘉六「ある職工の手記」は仕事がらみで以前読んでいる。これは継母とソリが合わず13歳で家を出て佐世保の造船所(佐世保鎮守府)に働きに行く明治30年頃の話。いわゆる労働者文学の走りだが、素直な感性と文体で当時は文学界に名をなした。まだ小冊子だった大正時代の『文藝春秋』にもエッセイを寄せている。佐世保の後、呉海軍工廠で働き、明治末期の大ストライキで首謀者のひとりと目され、大阪に出ようとするときも私服警官の監視がつくのだが、それも小説にしている。明治後期の呉の街を職工の目から見た作品は復刻されている。

 9月から10月にかけてずっと読んでいたのが、角川ソフィア文庫で出たM・C・ペリー報告F・L・ホークス編纂『ペリー提督日本遠征記』上下。こんなものが文庫で出るとはねえ。
 これはペリーがアメリカ政府に提出した3巻本の第1巻の全訳。後の2巻は資料集らしい。ペリー提督の日本遠征記とはいえ、ペリーの著作ではなくて牧師で博物学者的教養人のF・L・ホークスがペリー提督の書いた記録はもとより、遠征艦隊一行の士官や同行の民間知識人および画家たちが作成した記録類すべてを参照して編纂したもの。だから視点はホークスのものである。
 最初にホークスによるヨーロッパ各国と日本の交渉史が綴られているが、ホークスのリベラルかつヨーロッパ特にポルトガルやオランダに関する辛辣な視点は面白い。当時世界一の日本通シーボルトにも点が辛い。アメリカ的教養人としてホークスは日本を深窓のお嬢様のように扱い、ヨーロッパの誘惑者たちを批判している。もちろん本編では沖縄(王室)や日本(幕府)のごまかし体質を徹底的に批難しているけれども。
 航海記としても無類に面白い。ペリーはニューヨークをミシシッピ号1隻だけで出発している。ほかの船はなんやかやで同時出航がかなわなかったのだ。そして大西洋を渡り、アフリカ大陸を南下し喜望峰を回ってインド洋に達し、中国大陸香港・マカオそして上海へと着く頃にはようやく艦隊が勢揃いする。ただしペリーにとっては艦隊の編成は要求通りではなかったようだ。上海で旗艦をサスケハナ号にして琉球へと向かう。
 ここまででペリーの一行がありとあらゆる物事を記録しようとしているのがわかる。その記録をうまくまとめて解説を加えるホークスの力量もたいしたものだ。そういえば一行がモーリシャスに着いたところで、ホークスは首都ポート・ルイスが「ポールとヴィルジニー」の物語の舞台であり、その作者の想像力と現実とを解説している。この解説も当時の読者には新鮮だったろうし、いまでもヘェーっというにたるトリビアだろう。
 現代の読者にとっては、日本側の資料も大量に残されているペリーの浦賀上陸や翌年の横浜村上陸、下田開港の様子などよりも、沖縄訪問記がこの遠征記の白眉かもしれない。沖縄の役人たちの懇願を無視して、どんどん沖縄本島を探検してしまう一行の報告は、面白すぎる。
 てな調子で書いていると終わらないので、この本の性格を説明すると、これはアメリカ政府およびアメリカ市民に対して、ペリーがこの遠征期間中いかに立派に振る舞いそして偉大な功績を挙げたかについて言挙げするための報告書である。要は税金の無駄遣いじゃないですよ、といっているのである。それはそれで仕方がないところだが、今の日本人にとってはエキゾチック・オキナワとエキゾチック・ジャパンを愉しむエンターテインメントになっているところがミソ。

 8月に出ていたのに読み忘れていたNHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言-軍令部・参謀たちが語った敗戦-』は、500ページが2日で読めてしまう、ある意味プロジェクトX的興奮を誘う1冊。単行本発刊時はパラパラとめくっただけだったけれど、文庫になると読みやすさが違う。
 大和ミュージアムの戸高館長とは部下として2年間お付き合いさせていただいたけれど、ホント古本大好きおじさんだ。広島でのSF大会には無理をいって(いったのは別のヒトだが)出ていただいた。たとえSF大会であっても控え室で海軍的に超濃いお方とお付き合いされていたのはサスガであった。
 その戸高さんが秘蔵していた海軍反省会テープ(の一部)が、この番組のきっかけになったところから始まって、海軍が典型的に表した日本的組織の欠陥(それは3.11にもつながる)を教訓として終わるまで、ある種のゴシップ的な筋が(各書き手の真摯さにもかかわらず/ゆえに)牽引力となって読めてしまう。
 買ったのは9月15日4刷だったから、来年戦後70年に向けて売れ続けそうな感じだ。


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