続・サンタロガ・バリア (第142回) |
今月の「岡本家とは別の話」にいきなり載せられた30年も前の集合写真を見て、不安を覚える今日この頃、記憶というものは怖いなあとつくづく思うのであった。
それはともかく4月も何をしていたのかわからないんだけれども、少なくとも3月よりは平和だったような気はする。毎日伝えられる世界のニュースはちっとも平和じゃないけれど。
このところジャズばかり聴いている。だけどまだここで何か書くようなところまできていない。そういえば3月にBUMP OF CHICKEN の新譜を聴いていたんだけれど、これについてもあまり書きたいことはないのだった。
村上春樹『女のいない男たち』は、普通に読めばベストセラーになるようなウェルメイドな短編が一つも入っていない短編集。先年の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は未読なのだけれど、短編作家としての村上春樹は、この短編集を読む限り、同時代性を失いつつあるように見える。
冒頭の「ドライブ・マイ・カー」は、運転できなくなった男が若い女のドライヴァーを雇い、彼女が運転中に男と交わす会話が男視点で語られる。最初がビートルズの「ラバー・ソウル」の1曲目と同タイトルで、次の短編が「イエスタデイ」ではビートルズネタかと思わせるが、こちらはちょうどよいタイトルを選んだだけで、「イエスタデイ」の方には、のっけから関西弁訳「イエスタデイ」が出てきた。作者コメントでは、関西弁のいい加減訳でもビートルズ・サイドからクレームがあったそうで、それはJASRACじゃないのかと思った。
残りの短編ではビートルズつながりはあまり感じられないが、もしかしたらつながっているのかもしれない。相変わらず男女のセックスは物語の核をつくっているのだけれど、その核が、集中の短編のあちらこちらに引用される古いジャズやポップスまたはクラシックと同様、何かしらリアリティの薄いものになってきている感じがする。コチラが年をとっただけかもしれないが。
表題作を読んで印象に残ったこと。その1「エレベーター音楽」。死んだ彼女が好んで聴いていた音楽。それは何かといえば、当時よくエレベーターの中で流れていたという、パーシー・フェイス楽団の「夏の日の恋」に代表されるムード・ミュージック・オーケストラが奏でる音楽のこと。ムアコックの「ミューザク」を思い出す。洋楽ポップスを聴き始めた中学生の頃、パーシー・フェイス楽団のアルバムを買っており、「夏の日の恋」はお気に入りの一曲だった。当時はこの手のポップス・オーケストラは花盛りで、この短編で紹介されているようにポール・モーリアやレーモン・ルフェーブルにマントヴァーニその他数多くのオーケストラが妍を競っていた。ポップ・クラシック・ギターの名曲「クラシカル・ガス」はポール・モーリアに教えてもらったし、英米以外のポップヒット曲を知ったのもこれらのムード・オーケストラのおかげだった。もっとも、すぐにロックにうつつを抜かして、聴かなくなってしまったけれど。その2 夜中にかかってきた彼女の死を知らせる彼女の夫からの電話を切った時、語り手の妻は目を覚まして「誰か死んだの」と訊く、何でもないという語り手に妻は不審を覚えながら沈黙する。語り手の妻はこの場面でしか言及されず、語り手はひたすら死んだ彼女と「女のいない男たち」に思いを巡らせる。この語り手の妻とはいったい何なんだろう。
短編集としては大して感心はしないけれど、「シェエラザード」や「木野」といった作品からは長編への助走が感じられる。
長谷敏司『My Humanity』は、いかにも作者らしい力の入った中編が4作。ゼラズニイなら「Four for Tomorrow」といったところ。疑似神経制御言語ITPを基本アイデアにした最初の2編は、やや紋切り型の「地には豊穣」に対して、不気味な精神の作用をかなりドライに描いた「allo,
toi, toi」が最後までコントロールが行き届いて、かなりの重みを獲得している。「Hollow Vision」はスーパーAIアンドロイド話が宇宙に持ち出されて、結構リアルなスペースオペラ(地球近傍だけれど)を展開。最後までカタチにこだわるところはブレがない。
「父たちの時間」は暴走したナノテクとろくでもない父親を演じながら優秀な技術者としてそれを止めようとする男の物語。生物的に雄が生殖時以外不要だという身も蓋もない論理を男の苦悩として、またナノテク怪物の雌雄性獲得の皮肉として全面に展開して見せた怪作(っていい過ぎだな)。まあ、生物としては種の存続のみが有効だとしても基本的に雌雄性から社会分化は起こってしまい、自然に対する影響力を元手に余剰を稼ぎ、文明文化を盲目的に立ち上げてしまった人類なんだから、なにもそこまで反省する必要はないんじゃないでしょうか。それとも必要なのかなあ。
まじめを絵に描いたような長谷敏司の作風だけれど、ハヤカワSFコンテスト入選者たちと比べると一日の長はあるよね。
短編がおもしろくても長編はどうなのかといわれていたロバート・F・ヤング『時が新しかったころ』は、そういう評判に頷かざるをえない1作だけれど、中学生時代に読むには悪くないかも。中学生のころはエドモンド・ハミルトン『スター・キング』に涙していた人間なので、ヤングの情熱の赴くところから大人目線を引けば、それなりに楽しい読み物であるような気がする。ま、いまや小学生でもエロについては大人目線かもしれないが。
収録の3編のうち2編は去年読んだような気がする瀬名秀明『新生』だけれど、こうして読んでみると一番新しい「ミシェル」は冒頭しか覚えていないことが判明。それだけ幕開けの章が印象的だったともいえる(いや単なる健忘症か)。表題作は初めて読んだが、初めて読むような感じがないのは小松左京の短編を本歌取りしているからだろう。この3編をもって小松左京へのオマージュと震災後にSFを書くことの意味とをかなりややこしい結び方で寄り合わせていることはわかるが、やや胃にもたれる。短い長編並のヴォリュームを持つ「ミシェル」は、その高密度なアイデアとエピソードに改めて頭がクラクラするんだけれど、読み手がほっとするようなところもなく疲れてしまう。瀬名秀明のきまじめさと長谷敏司のそれとを比べたら、それでも長谷敏司はファニッシュというところだろうか。そういう意味では「Wonderful
World」がその役割を負っていたのかも。
お待ちかね創元海外SF叢書第一弾、イアン・マクドナルド『旋舞の千年都市』上・下は実際読み始めると、えらく時間のかかるシロモノで、エンターテインメントとしては物語の作りがちょっと似ている『クラウド・アトラス』の方がずっと読みやすかった。
イスタンブールを舞台に、テロリストの女だけが死んだ自爆テロにあった若者、心臓の悪い少年、老経済学者、ガス・トレーダーの青年と骨董店主の妻、そして仕事を探すマーケッターの若い女。この6人の主要登場人物のエピソードが独立にそして絡まりながら大団円を迎えるまでの紆余曲折が話といえば話。原題の「ダルヴィーシュ・ハウス」は廃された僧院で、文中に「旋舞の儀式を特色とするメヴレヴィー教団の修道僧たちの館」と説明があり、そこには現在テロにあった若者、少年、老経済学者が住み、骨董店がある。少年と老経済学者は最初から交流があるが、そのほかの人物は(夫婦者でさえ)独立したエピソードをもって始まる。
物語の主たるSFガジェットはナノテクで、若者、少年、ガス・トレーダー、若い女のエピソードで主要な役割を果たす。結末で明らかになる大がかりな陰謀もナノテクがらみで、骨董店主が客の依頼で追いかける「蜜人」ももしかしたら古代のナノテクかもしれない。そして事件の大枠はナノテクにうとい老経済学者が見破る。
しかしボンクラ読者がこうした見通しができるようになるのは下巻もだいぶ読み進めたところで、それまでは、『クラウド・アトラス』よりもずっと重厚な調子を漂わせて、アクション・ミステリまがいの大団円によってストーリーが一挙に軽くなるまで、マクドナルド(もしくは訳者)の文体にだまされてしまう。
訳者もいうようにイスタンブールそのものが主人公というのも頷けるところであるが、『旋舞の千年都市』という訳題にはいささかの疑問を感じる。それは編集側でつけたのかもしれないけれど。
ウクライナ騒動が発生してキナくさいニュースが毎日伝えられる中、思い立ったのが、フレデリック・ポール『チェルノブイリ』を読もう、だった。1989年10月刊の講談社文庫。たぶんいつぞや古本屋で買ったもの。
事件は上々颱風に「がんばれ、大統領」と歌われたゴルバチョフ(懐かしい)政権時代の、グラスノチが進む崩壊寸前のソビエト支配下のウクライナで起きた。日本向け前書きにあるように、ポールはバランタインのすすめでチェルノブイリ事件の小説を書くことにしたわけだが、それまで何度かソ連に行った経験のあるポールがグラスノチ・ソビエトの対応の変化に驚きを隠せない。なにしろそれまでは益体もないパーティと酒と決まり切ったコースしか提供しなかったあのソビエトが、昔なら抹殺されたであろう重大な原発事故の情報に関して自由にアクセスさせてくれたのだから。
この作品は全くの非SFで、綿密な取材によってかかれていることがよくわかる。SF作家ポールの利点は、原発事故の意味を技術的な側面を含め公平な目で素人にわかりやすくかけること、そして文学的文体とは無縁な職人的散文でエンターテインメントと同じ読みやすさを確保していることだ。
ポールはこの作品で、事件に関わったすべてのロシア人(当時は)にほぼ同情的な視点をもって物語作りをしている。科学的な考察の冷たさも人間ドラマを突きはなしてはいない。ポールの作風は芸術的ではないが、書くべきことを書き、それを読ませることにかけては十分な技量を発揮している。
事件からすでに四半世紀、ロシアの穀物倉とうたわれたその国は借金だらけ。電力不足で原発も稼働中だ。チェルノブイリの四半世紀はいまのウクライナでは一顧だにもされないのだろうか。まあ、3年前の地震による原発事故以来、現在も溶けた核燃料が原子炉のどこにどういう状態であるかもわからないような状況で、他国に原発を売りつけようとする国もあることだから、しようがないか。
ノンフィクションでは、永山薫『エロマンガ・スタディーズ』を読んだ。永山氏のHPは10年くらい前(もっとか)、「天使庁」で話題になっていた頃によく読んでいた。基本的にエロマンガを通してのハードな考察ぶりがキモですね。ここまで真摯に語られると凄いけれど、ちょっと引いてしまうかな。引用されているエロマンガのコマも今や歴史的なアイテムになりつつあるし。
東浩紀の解説は、プレオタク世代のオヤジの限界を示してミもふたもないが、理解はしてますっていうかんじかな。
今月の積ん読からの一冊は、日夏耿之介『風雪の中の対話』1992年11月初刷の中公文庫。日夏の強面ぶりは昔から有名で、ここでも架空の対話や鼎談(4人以上は座談か)を仕立てて、戦後(各編には昭和22年から29年までの日付が振ってある)の社会(文学・政治)状況に対して憎まれ口をたたいている。1編だけ「半世紀後の対話」と題して2004年が振られているけれど、2ページあまりの他愛ないシロモノ(2004年が半世紀後なのは、元版が1955年の刊本だから)。
昭和27年4月で日本の占領が終わったこともあって、「対話」の大半は昭和27年から29年(これが日夏がこれらの原稿を書いたリアルタイム)に設定されている。読み始めは歯切れの良さに感心していたのだけれど、ときどき主人役が卓子においてある呼び鈴みたいなものを鳴らすのに、ちょっと考えて、これは夫人か使用人を呼んでいるんだなと思い至るとちょっと感じが違ってきて、読み続けているうちに憎まれ口も退屈になってきた。何よりこの文庫が、日夏がとことん毛嫌いし罵詈雑言をもって呪った新仮名遣いで刷られていること自体、日夏を道化にしてしまっているではないか。
なお、日夏耿之介記念館が飯田市にあるらしい。