毎週のレビューは世界どこからでも更新し(東欧からクラウド経由でアクセスしたのは初めてですが)、依頼原稿はお受けするものの(という点では、余裕がある)、Thattaの原稿は怠けております。こちらには、単純なブックレビューではなく、それらしいネタがないといけません…と思っていたら、サンリオの話題があったので書いてみます。
いかにもそれらしい夕暮れの風景と、いかにもありがちな雨の石畳の夜景
さて、「特集=サンリオSF文庫の伝説」である。1978年から9年間続き、197点が出た文庫ながら、リアルタイムに知らない世代からは、価格が高くて(モノによる)、茶色く変色した古本という印象しかないのだろう。書店から撤去されてから、もう四半世紀が過ぎた。本書では、編集顧問だった山野浩一へのインタビューが注目される。聞き手の大森望も、当事者ではない(KSFA絡みで、翻訳の一部を担当したことはある)。文庫がなくなって以来、こういった裏事情が詳細に語られたのは、今回が初めてだ。
サンリオが出版を本格的に開始するにあたり、(なぜか)SFにターゲットを絞った。しかし、初代編集長が主に文学の専門家で、SFは良く分からない。そこで山野浩一にコンタクトが計られ、山野は主にイギリスやフランスなど早川が手薄な分野を狙って、幅広く翻訳権を取得していった。翻訳家もベテランを含め声がかけられた。その中で、海外SFを幅広く紹介していたKSFA(関西海外SF研究会)は、有力な翻訳グループとみられていた。
編集者側にも課題があった。初代の佐藤編集長当時は実務が順調に動かず、2代目の西村編集長(昨年亡くなった)になって、ようやく動きが見えてきたように思う。細かなチェックが回らないからミスが入り、いわずもがなの批判を浴びることもあった。サンリオは文庫と同時(1978年)に、ブライアン・アッシュ『SF百科図鑑』(1977)を完訳版で出版した。山野グループであるNW-SFのメンバーを総動員したものだが、本自体はトラディショナルなSF辞典(図鑑)そのものだった。このアンバランスさが、その後のサンリオ文庫を象徴する雰囲気だったように思う。出版社として売りたい「ふわっとしたSF」とのギャップ。最先端、非アメリカSFといえる(一般のイメージする、通俗的なSFとは大きく異なる)異質な要素、さらには翻訳の出来までが複雑に絡み、最後まで混じり合わない違和感/落ち着かない印象を残した。
当時「KSFAがサンリオを駄目にした犯人」説を採る人は、高橋良平など何人かいた。安田均は早くからゲームへと転換していたし、大野、乗越、水鏡子などのメンバーは、米村(『エンパイア・スター』)や下浦(『アプターの宝石』)などの一部を除き、単独の翻訳書が出ずプロにならなかった。正しかったのかというと、結果論で言えば翻訳家になれる才能に欠けていたのだと思う。KSFAからプロ化したのは、サンリオ文庫が終わった後の世代、古沢嘉通や大森望らだ。KSFAが支えていても、サンリオ文庫が継続できたかどうかは分からない。親会社の方針を見る限り、最後(バブル崩壊後)には止めていただろうからだ。
ところで、サンリオは出版契約書を作って、きちんと契約を交わすというやり方を採っていた。これは、日本式の口約束では曖昧すぎるという山野の方針に基づくものだ。翻訳書の希望さえ挙げれば、KSFAのように実績がないメンバーでも結構叶えられた。大野万紀も、このインタビューで言及されている『パヴァーヌ』以外に、いくつか契約があったはずだ。その点、筆者は出版契約書にサインしていないので無実です!
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