続・サンタロガ・バリア  (第73回)
津田文夫


 桜が散ってあっという間に4月も終わりだ。世間はゴールデンウィークとやらだが、土日祝日オープンな仕事場なので関係ない。嫌いじゃないが、仕事ばかりだと意欲が失せるぞ。
 てなこといいながら、友人が入っているアマチュア・オーケストラを聴きにいった。プログラムはモーツァルトのオペラ「皇帝ティートの慈悲」序曲にシューマンのピアノ協奏曲、最後はブラームスの4番という立派なもの。年1回の演奏会というペースで、すでにベートーヴェンの交響曲全曲を終えて今回はブラームス・チクルスの最後。アマとはいえ、熱心に弾き込んできただけあって、聴き応え十分。そして無料コンサートということもあって800人ぐらいのホールにそれなりに人が入る。毎回開演前にオケのメンバーによる室内楽がロビーで演奏されるのもいい雰囲気だ。シューマンは1月に上原彩子と広島交響楽団で聴いたばかり。そのときは期待はずれだったけれども、今回は結構感心して聴いていた。ソロイストの腕前は上原と較べてはかわいそうなレベルで、音が寝ているし、ちょっとたどたどしいにもかかわらず、シューマンを楽しく聴かせてもらった。後で友人に訊いたら彼女はオケのソロイストは初めてだったらしい。ブラームスの第4交響曲は、素晴らしい熱演で、金管(特にホルン)が弱いという欠点は免れないものの、テンポもやや早く爽快に鳴る演奏だった。ブラ4が爽快でいいのかという疑問はC・クライバーの録音を考えれば、こういうのもありだろう。アンコールもブラームスでハンガリー舞曲5番。

 奥さんも面白いと太鼓判の貴志祐介『新世界より』は、初めて読む作家の(その長さからすると)大作だが、そのタイトルにSFを期待して読みはじめると、やや方向性が違っていて、リーダビリティは抜群だけれども、一文一文が飛んでいってしまいがちな造りになっていた。物語は回想録として書かれていて、その分安心して読める一方、サスペンスは殺がれる。「原文ノママ」とかで終わる方向もあったろうが、E・E・スミス『レンズの子ら』の終わり方で締めてある。物語全体のバランスは、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を思わせる子供時代のエピソードが物語の中核になっており、後半、設定等に十分慣れてから読む大人になってからの災厄の物語は、すいすい読める一方、ややダレる。奥さんに「これってラノベ?」と訊いたら、即座に「違う!」と返された。

 ハヤカワJコレの短編集、小林泰三『天体の回転について』の表紙にビビっていたら、まったくそのとおりの表題作だったので、ややあきれた。Jコレ初期のSF短編集『海を見る人』に較べればブラック・ユーモア編みたいな作品が目立つ。またハードSFの基礎をVR美少女が教えてくれるというワン・アイデアで論理展開してみせるスタイルは、他の短編にも共通しているように見える。どれも水準以上の面白さで読ませてくれるけれど、マスターピース揃いの前短編集に較べるとちょっと軽い。

 菊池博士のところのブログで昔の論争がちょっと蒸し返された瀬名秀明『Every Breath』はFMラジオ小説を元にしているだけあって、文章だけで読んでいるとやや説得力に欠ける展開の物語だ。一番の疑問は、主人公の先輩への想いが独り相撲(恋愛妄想)とどう違うのかという点だろう。物語の成立がその点に立脚しているだけに女系多世代のキャラクター配置も影が薄く感じられる。これが声という強力な実体によって演じられるとまた印象が変わるのかもしれないが、文章で読んでいる限り先輩や主人公の夫など男たちが主人公の子孫の女性たちに較べまるで幽霊のような存在に感じられてしまう。近未来SFとしての設定が魅力的であるだけに残念。

 『ラナーク』でちょっとビックリな作風を披露したアラスター・グレイ『哀れなるものたち』は、やはり『ラナーク』を書いた作家であることがよくわかるスタイルで書かれた作品である。相変わらず手の込んだつくりのプロットを用意して読者を誑かす。SF部分と成長物語部分が分離していた処女作に較べ、小説家として一家をなした後のこれは、いわゆる奇想天外を地でいく夫の手記とそれを批判する妻の解説が旨くかみ合っていて、読後感は怪しさいっぱいの企みに乗せられた気分だ。20世紀の小説がほとんどその可能性の果てまでいってしまった後に、まだ物語で読者の歓心を買おうとすれば、これぐらいの仕掛けが必要だということか。20世紀中葉のラテン・アメリカ文学が豊壌のイメージなら世紀末イギリス文学は人工の果てというイメージだな。
 


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