内 輪 第201回
大野万紀
連休というのはまとまった時間があるはずなのに、何故か本が読めないのはどういうわけでしょうか。ごろごろしている時間はあるというのに、不思議です。さすがに『オリュンポス』は読めたけど、通勤電車の中で少しずつ読む方が何となく確実に読めるような気がします。
それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『オリュンポス』 ダン・シモンズ 早川書房
『イリアム』の完結編。今度は分厚い上下巻だ。とにかく冒頭から「トロイアのヘレネは空襲警報で目を覚ました」とくる。ギリシア神話の神々のプラズマ爆弾が、木星系から来た金属生物たちの防御シールドに守られたトロイアの都を爆撃しているのだ。思わず頬が緩んでしまうような、めちゃめちゃにSFな描写だ。シモンズはこれだから参ってしまう。もうたまりません。『イリアム』ではとりあえずホメロスの叙事詩に合わせて進んでいたトロイア戦争が、もう無茶苦茶な展開となり、ギリシア人とトロイア人が協力して神々に反旗を翻し、それをモラヴェックたちが支援し、と思ったら今度はそれがまたひっくり返り、アマゾネスの女王が登場し、神々同士の内輪もめが大戦争となり、一方、未来の地球では古典的人類の大虐殺が始まり、こっちはこっちでシェイクスピアの世界が展開して行く……。といった要約では一体何のことやら。下巻末に訳者によるわかりやすい解説があるのだけれど、これを読むのは本書を読み終わってからにしなければ、大変なことになっちゃうし。まあ、あんまり全体的な構成を楽しむというより、部分部分の凄まじいイメージの奔流や、あれよあれよのストーリーテリング、魅力溢れるキャラクターたちのお喋りや、壮大でカラフルでワイドスクリーンでハイビジョンなスペクタクル描写を、わくわくどきどきしながら楽しんで、ああ面白かったという小説なのである。読後に読むべき訳者解説で語られているように、細かな整合性はむしろあんまり気にすることではなくて(訳者はとても苦労してますね)勢いで読むのが正しい読み方なのだ。もっともこれだけの長さの小説を一気読みするのは、年のせいか、かなり厳しいのも事実だけれど。結末の大団円は、これは日本人好みじゃないかなと思った。エンターテインメントでよくある手法ではあるけれど、ほっとして、ほろりとして、さらなる未来の広がりを感じさせる、確かに続編やサイドストーリーが読みたくなる結末である。できれば、もう少し短かめな小説でお願いしたいですね。
『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』 東浩紀 講談社現代新書
前号のTHATTAで水鏡子が批判していたが、実際に読んでみると、彼の感じただろう違和感はわかる気がするものの、批判は筋違いというか、ポイントがずれているように思える。もちろん、ライトノベルや美少女ゲームの具体的な作品論に対して、ぼくよりはるかにこの分野に詳しい水鏡子が、それは違うだろう的な違和感やいらだちを感じるのは確かにその通りなのだろうと思う。が、筆者が何度も本書でエクスキューズしているように、これはポストモダンな批評の観点やシステムを提示しようとする試みなのであって、われわれが慣れ親しんでいる、本書でいう「自然主義的読解」の枠組みとは違う批評の枠組みを語っているのであるから、例示されている作品が面白い/くだらない、価値がある/ないといったこととは本来無関係なのだ。とはいえ、やっぱり筆者は作品を例示しながら、こいつはすげえ、とべた褒めしているように読めるわけで、それに反発するのは仕方ないよなあ。ただ水鏡子の「これは単なるSFではない」発言への反発というのは、たぶんわかって言っているのだろうが、ほとんど言葉尻をとらえたいちゃもんに近い。だって筆者は「単なるSF以上のすごいものだ」という意味で発言しているのではなくて、まさに観点・枠組みについて語っているところなのだから。だから、本書への本来の批判のあり方としては、そういう観点・枠組み、ここでは「マンガ・アニメ的リアリズム」「ゲーム的リアリズム」「環境分析的読解」「コミュニケーション志向メディア」といった述語で記述されるポストモダンで新しい観点というやつが、本当に有効なのか、ぼくらにとって何か嬉しい意味があるのか、発見をもたらしてくれるものなのか、というところから入らなければならないだろう。で、ぼくはそういう批評理論みたいなのにはあんまり興味はないのだが、本書で述べられている観点には、確かにうなずけるものがあるように思った。ただそれが本当に新しいものなのか、どれほど有効なのか、ということには判断を留保する部分がある(例えば今のWEB環境についての「Web2.0論」と同じような雰囲気を感じてしまうのだ)。でも、ライトノベルでもゲームでもないが、例えば読んだばかりの『オリュンポス』にしても、あるいはイーガンの作品にしても、このような観点からの読解ができるような気がする。『オリュンポス』なんてキャラクター小説じゃないですか。そのデータベースがぼくらの頭に構築されていないだけで。ループだって、メタ視点とキャラクター視点の混合だってあるし。えーと、話は変わるけど、結局水鏡子やぼくのいらだちっていうのは、今現在の「オタク文化」というのに対する古いSFファンの違和感やいらだちというところに帰結してしまうんじゃないかしら。
『やどかりとペットボトル』 池上永一 河出書房新社
池上永一のエッセイ集。ごく短いエッセイなのでとても読みやすい。それに面白い。評判の高い「愛人ラーメン」も面白かったが、ぼくには沖縄での少年時代の話がとても印象深かった。70年生まれの作者なのに、そんな昔の話じゃないのに、沖縄はまるで違うんだねえ。作者の母親がちょっと変わった人だったというのも、どこまでリアルなのかはわからないが、子供のころ家の中に見知らぬ老婆が住んでいて、その人のことを聞いても母は「知らない」と答えるというのが何だかすごい。諸星大二郎みたいだ。全体に特有なユーモアがあるのだが、沖縄の風景や風土を描いた短いエッセイがとても美しく、海と空とブーゲンビリアの原色が目に浮かんでくるようだ。
『サマーバケーションEP』 古川日出男 文藝春秋
読みやすくて気持ちのいい小説。井の頭公園から月島埠頭まで、神田川を海まで下っていく人たちのお話。人の顔が見分けられないという主人公のまわりにいつしか人が集まり、グループが増えたり減ったりしながら海を目指して歩いていく夏休み。本当に夏に歩いたらすぐにへろへろになってしまいそうだけど、読んでいるぶんにはとても心地いい。途中に現れる社長のおじさんと、自転車で走る〈評議会〉の中学生たちが、とてもいい。最高。これが古川日出男マジックだなあ。ディテールも細かく、地理も詳細に描かれている(そう、これはまた典型的な地理的小説だ)のに、ちっともリアリズムじゃない。夏休みというマジックワードで、日常をどこかへ置いてきた、そんな人々。確かに顔はいらない。人間ドラマもいらない。これは流れの小説。もちろん川は流れるし、その周りに、道路も線路も高圧線もみんなある方向に流れ、交差し、ベクトルを示す。そのベクトルに沿って、みんな歩き、走り、出たり消えたりする。地図という動かない座標の上に、人やコトバやイメージが動いていく。単なる地図じゃなくて、川と道路の路線図、ネットワークだ。ただひたすら歩きながら、そこに自然と人工と、都市のインフラが立ち現れる。そういう意味ではいつもの古川日出男だ。でも、EPって、結局何のことだったんだろう。
『ブロークン・エンジェル』 リチャード・モーガン アスペクト
前作『オルタード・カーボン』と同じ主人公、同じ未来だが、全然別の小説である。今度の舞台はサンクション系第四惑星というところ。仕事は火星人の宝探し。火星人といわれるとびっくりするが、要するに火星にも遺跡を残した羽のある異星人だ。前作よりは、はっきりとSF寄りになっている。火星人の遺物である巨大宇宙船に到達してからの展開など、SFでもあり、ホラー小説のようでもある。テクノ・ゴシックというやつか。ただし、そこ以外は戦争ものの、血なまぐさい冒険小説。この惑星は激しい内戦のさなかにあるのだ。しかしまあ、情け容赦のない残酷な描写がえんえんと続く。意識のダウンロードが可能で、死の意味がずいぶん変化した社会ではあるものの、そんなことおかまいなしの大量死が描かれる。あきらかに9.11を意識した作品だといえるが、おかげで、ストーリーのはじめと終わりでは、ほとんど別の話になっており、いったいこいつら、何をやりたかったんだ、と疑問に思ってしまう。まあ、成り行きまかせということか。それなりに面白かったから別にかまわないのだけど。