みだれめも 第192回

水鏡子


 文章とは、自分の心の内から自然に湧き出るものではないと思っている。
 あらかじめ定められたテンプレートに不足なく収まることが求められるなかで、すりあわされ、かたちづくられると思っている。不足なくであって、過不足なくではない。過がそのテンプレートをきしませることができれば、これに増す喜びはない。けれども、そして大概は、テンプレートをいかに不足なく埋め尽くすかに汲々するのが現実だ。小説であれ雑文であれ、求められ、目指すところは同じだろう。

 文章とは、自分の心の内から自然に湧き出るものではないと思っている。
 あらかじめ想定された読者に対して、納得させる温度と密度をどうやって確保していくか、その模索のなかで文章はかたちづくられると思う。期待に応じることは大変だ。せいぜい納得して、許してもらえればそれでいい。SF雑誌やSF系文庫の解説という場所を持てたことはしあわせだったと思う。なによりも、想定される読者層のイメージが低俗におもねることも高尚にふんぞることも許すとは思えないところがいい。高いリテラシー能力と協奏する広範な知的稚的痴的趣味嗜好性にあわせた文章を探していかねばならないところに想定される読者がいる。ライトノベルもギャルゲーも、それからあまり読んでいないけど主流文学やミステリにしてみても、作家の資質として、相当のものをもっている印象の人は少なからず存在する。けれどもぼくらが昔SFに、あるいはSF読者の期待にすりあわせかたちづくられた作品と比較して、期待され要請される空気のなかで、リテラシー能力と広範な知的稚的痴的趣味嗜好性のどこかが突出するかわり、どこかが欠ける印象を受ける。昔のそんなSFの空気に近いというか、もっと洗練された読者の要請がなされている雰囲気をもつジャンル(?)は、じつは3つほど知っている。SFやファンタジイを貪欲に取り込んだ純文学の一部、コミックの一部、それにファンタジイノベル大賞組。ライトノベルやギャルゲーにはまだそういう面でのそこまでの、あるいはその種の読者に対する期待が感じられないことにぼくのものたりなさもあったりする。

 もっとも、今、SFの旗の下に集う作品群からは別のものたりなさも感じている。理念に敬意を払うあまり純粋で禁欲的でありすぎて、物語としての猥雑をこなしきれない感じがするのだ。小松左京や筒井康隆、半村良の空気を引き継いでいるのは、飛浩隆や谷甲州、野尻抱介、瀬名秀明といった<SF的想像力>派の作家より、池上永一、古川日出男らの<猥雑な物語>派の作家、冲方丁、福井晴敏などの<愚直な物語>派の作家かもしれないなどと考えたりする。

 話がちがう方向に流れたが、文章がどういうふうに紡がれるかと考えてしまったのは、牧眞司『世界文学ワンダーランド』(本の雑誌社)である。贔屓点が入っているけど、ひさびさの★5つである。
 なによりも組み立てがいい。基本は1作品4ページ。題字に作品名・作者名に加えて書影と書誌情報を載せる。1ページ上段は作者履歴。下段は著者のこの作品に向かう立ち位置を確認する前ふりだ。残り3ページの紹介は未読の読者に対してのあらすじ紹介を主体に、文学史的な位置づけを踏まえた読書記録である。作品の置かれている状況へ言及しつつ読み方と読んだ気分を伝えることに腐心する。評価、分析でなく、気分の共有こそを重視する。
 巻末には、年表と各篇作者のビブリオを整備する。ここに並べた選び出しも堪能もの。最強の文学、最強のジャンル小説各ベスト50はあっておいしいけれど、構成的には少し邪魔。載せるなら結びに一章割いてコメントを付したまとめにしてほしかった。
 全75篇を12の章に分けた各章題も見事で、美しい目次を成している。
 この構成、この造りだけで、星4つ半は確定である。それくらいできのいい構成に、気持ちのこもった文章が入って★5つになる。
 SFマガジンという媒体に<境界領域>の傑作を紹介するという、当初のコラムの想定読者がこの本の密度と温度を育てたように思う。
 この本の、考え抜かれた構成が、構成にみあう更なる書き込みを著者に強いたのだと思う。
 それが巻頭重ねた文章で言いたかったところのもの。
 若干の不満点を並べる。
 ひとつは題名。ここまできちんとした構成なら、「ワンダーランド」などと白本めいたタイトルでなく『世界文学案内』といった正統性を主張する正面突破のでっかい看板をあげてもよかったのではないか。「必携」なんて言葉も入れてみたりして。
 内容面では、ものによって、この枚数で書ききれず、最後の締めが決められず文章的に腰がくだけた感じのものがいくつかあった。
 どちらもたいした問題はない。この構成から見ればささいな瑕疵だ。
 紹介された作品・作家の6、7割は家にあるけど、読んでるものは3割に満たない。この系統の紹介本を読むと、いつも反省するところだ。さらに問題なのは、読んでる本の紹介されるあらすじを読んでも、まるっきり記憶が甦ってこないこと。なかには自分のおぼろな記憶とまるっきりちがうあらすじだったりする。まことに困ったことである。

 『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』東浩紀(講談社現代新書)★★
 広範な実地経験を踏まえておたく文化の視野構造を拓いてみせた前作『動物化するポストモダン』は楽しんで読んだのだけど、前作で展開した視野構造を<事実>とし、<事実>に合わせて作品という<現象>を説明しようとする今回は、違和感が先行した。なによりも、SF、ライトノベル、ギャルゲー、その他渉猟領域が重なりあい、一応メジャーどころをとりあげているにもかかわらず、じつはその大半がぼくの読んでいない、やっていないところに占められていることに、意外と意外感がもたらされ、紹介される作品の内容及び紹介のされかたに、なんかそういうものであるならまあ別に、ぜひとも読むべき部分でないなと思ってしまったこと、読んだ作品、ジャンルに関する印象にかなり異なる感触を抱えたところについてなど、いくつかのひっかかった点をちょっと並べてみることにする。ネタバレになると思うので念のため。

1.キャラクター小説について

 ライトノベルの特徴がキャラクター小説であることに見るのは共通認識になってきていて、そのこと自体は正しい意見だろう。<萌え>概念の席巻がそうした手法をさらに商業的に必置条件にまで押しあげている。キャラ萌え自体ははるか昔からある物語のひとつであり、デジャー・ソリスやクラリッサ・マクドゥガルと騒ぐのをそれはSF本来の楽しみではないだろうと偏狭に怒っていた若い時代というのもあった。もともと映画やTVドラマでの、俳優を見せることを目論んだ構成に、物語への尊厳を欠いた姿勢に思えて反発したりしたもので、とくにそれがノヴェライズされると小説として格下に感じる意識というのがあったし、今もある。現実のタレントから虚構のキャラに、さらにデータベース化された記号的キャラにと劇的に特化してきているけれど、作品の基本様態ははるか昔の蔓延する映画文化を背景に、映画キャラを彷彿させて量産された小説作法の進化型であり、大衆小説の王道である。データベース化された記号的キャラについて小説に接する前からの共通了解が想定読者集団との間にできあがっているという文化状況が成立していることが、現在状況の特徴であるのだろう。著者はゲームを殊更に重視しているが、基本的には漫画文化の蔓延が原因である。
 問題は、その種の小説が一段下に見られがちなのは、それだけの理由があるということ。本来、物語の中で伝えるべきものを既存のデータベースを介しての共通了解に委ねるというのは省力化技術のひとつであり、そこに安住することで愚にもつかない作品を安定的に供給できる。それゆえに作家は小説密度を高めるために設定や描写や文章に独自性を積み上げていかなければならない。それが作家性というものであり、そこについて語る段になると、データベース化された記号的キャラに端を発するのは非常に難しい気がする。
 ぼくの持論であるけれど、優れた作家・作品は作家的個別性が強まるのでジャンル論には見合わない。ジャンル論に徹するなら、売れているけど凡庸な作家を選ぶか、優れた作家であるなら、ジャンルの拘束のなかでいかに独自性を見出そうとしているか、そんな視点が必要であると思っている。

2.桜坂洋『ALL YOU NEED IS KILL』について

 「本作の設定はSFとしてはいささか特殊である。筆者はここに自然主義的な現実でもSFの規約的な現実でもない、別種の「現実」への想像力を見出したいと思う。・・・私たちはここにSFの奇想とは質的に異なった想像力を見出すことができる。・・・環境分析は作品を単なる物語(タイムスリップSF)としてではなく、物語内部の虚構(タイムスリップ)と物語外部の現実(ゲーム的想像力に満ちた世界)が連続的に繋がるなか、その全体への介入が物語とメタ物語の組み合わせで表現された、複合的なテキストとして読み解かれている」

 評判は以前から聞いていていつかは読む気でいた本だけどまだ読んでいない。うーん、しかしこれはひさびさの、昔懐かし「これは単なるSFではない、もっと大変なものなのだ」発言である。著者の内容紹介からみると、この小説はゲーム世界でキャラクターがすべて自意識を持っているという設定のもとに、プレイヤー憑依用キャラが他の憑依用キャラと互いの特殊性に気づき絆を深めていくという、リアルで異様な世界構築と、そんな世界設定ではじめて生み出される人間ドラマを組み立てた作品らしい。とっても困ってしまうのは、フレデリック・ポールの「幻影の街」とかハインラインの「かれら」とか小松左京の「新趣向」、古い話をいくつも思い出して、どっちかというと「こういうものこそSFだ」と思っている人間としては、著者の最初の前提(「これは単なるSFではない」)であとの文章がすべて意味をなさなくなることだ。
 ゲームに造詣の深い著者が、ゲーム・システムがそのまま世界律を成す世界を作ろうとする。つぎにやることは小説としてどう密度を高めていくか。どうリアルにしていくか。どこにドラマ的意外性を秘めていくか。そんなことはきちんとした作家ならやるべきあたりまえのことであり、そういうものを「物語とメタ物語の組み合わせで表現された、複合的なテキスト」といわれると、「単なる物語(タイムスリップSF)」とはどういうゴミを指して言っているのか教えて欲しくなる。

3.ゲーム的想像力について

 ゲーム・システムを物語世界に援用するということとゲーム的想像力とは重なるところもなくはないけど、基本的には別物である。近隣風俗やエンターテインメントに堪能な作家たちに一部が、それらを素材として取り込むだけにとどまらず、手法や文法を小説世界に反映させようとしてきたこともいわば物書きの本性みたいなところがある。科学的世界律やマルクス主義をとりこんでジャンル化させたSFやプロレタリアート文学などをみるまでもなく、むかしの作家や漫画家が映画や演芸、舞台や歌手に触発されて物語を作っていたのはそれこそ枚挙にいとまがない。コミック、ゲームの興隆が著者と読者層との近隣エンターテインメントの力関係に地殻変動を引き起こし、今、現在の状況を生み出しているわけだ。
 著者のゲーム的想像力という言葉は、そのあたりがあやふやで、一方でゲーム・システムの導入を指していたり、ゲームをすることで生み出される共通の心象風景を指していたりしている。その風景がリセット感覚を日常化なんてメディアの紋切型発言だったりすることには違和感が残る。コミック、映画、小説と、ゲームとのエンターテインメントとしての一番大きなちがいは、コマンドを入力(読者からの意思決定)がないと前に進めないというインタラクティブ性と、それと裏表のマルチシナリオの部分だろう。著者の言及もそのあたりがテーマとしてあるのだけれど、リセット感覚から話を紡ぎだされるとすこし納得できなくなる。
 ちなみに、ここで紹介される作品はすべて、永遠の世界とタイムループを巡る物語に収束されていく。これこそが現在おたく文化の最重要テーマみたいな語られ方をされると、わたしの趣味するところがほとんど零れ落ちてしまうよなあと思ってしまう。
 ゲーム・システムを物語世界に導入したケースとしては、ちょっと思いつくところでは、戦士や魔法使いたち主人公たち一行が前衛後衛6人の隊列を組んで、目的地への旅を続けるクリフォード・シマックの『妖魔の潜む沼』(愚作)とか、ゲームのルールを世界を統べる魔法システムとして結実させた冲方丁『ストーム・ブリング・ワールド』(佳作)などが思いつく。飛浩隆の<グランヴァカンス>もそうだろう。ただゲーム的想像力という言い方の可能性をさぐっていくには、むしろ「安置所の碁打ち」などの小松左京作品にこそ見るべきものが多いような気がする。

4.ギャルゲーについて

 『雫』『痕』あたりリアルタイムで遊んだ身として、僕自身いまだにあの時期,あの作品がターニングポイントだったという感覚はない。このジャンルへの消費参入はその少し前の『同級生2』の発売時期だけど、ジャンル風景の一新はあきらかにエルフ『同級生』とアリスソフト『闘神都市2』によってもたらされたという感じだった。リーフについては『かまいたちの夜』システムのギャルゲー・バージョンとしてむしろ当然でるべきゲームという印象で、むしろ感じたのは牧野修との同時代性だった。キイについても『カノン』とかやってそれなりに楽しんだし、人気のほどは知っているけど、不幸な少女に涙する純愛・泣きゲーも非道の限りを尽くす鬼畜も、弱い立場の少女の上に自分を置きたいという点で、性的コミュニケーションより支配従属関係を求めるコインの裏表という気がしている。ランス(アリスソフト)のモラリスティックな非道ぶり(?)のほうがずっとはるかに好ましい。趣味の問題もあるのだけどね。ぼくのコンピューター・ゲームの趣味は基本的に戦略シミュレーションRPGで、コンシューマーで言えば、ファイヤーエンブレムやサモンナイト、やガンパレードマーチ、ギャルゲーだと、メーカー名でアリスソフト、エウシュリー、ソフトハウスキャラといったところになるから。だけど同時にその路線こそ王道だという思いがある。


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