続・サンタロガ・バリア  (第59回)
津田文夫


 正月休みが終わったらあっという間に歳を拾ってしまったよ。毎日何をしているんだかなあ、ちょっとダウン気味。でも昨年末に、ケンペが死の年に東ドイツのレーベル、シャルプラッテンに入れた組曲「火の鳥」とブリテン「鎮魂交響曲」の国内版が出ていたのを見たときは嬉しかったなあ。まったくやる気のないライナー・ノートにはガックリきたが、今回のリマスターは、オリジナル・レコードが発売された当時、この録音を市販の2トラ・サンパチのオープン・テープで聴いた伝説のオーディオ評論家高城重躬が「再生音楽であることを忘れさせる」とまで言った音の良さを、かろうじて再現している。ステレオのヴォリュームを少々上げてもテープヒスがほとんど気にならない、細部まで良く聞こえる録音だ。

 クラーク賞候補作になったというのでようやく読んだカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』は、作者がこれはネタがどうこうという話じゃないといっているのに、読者の方がネタばらしだというのでその設定にほとんど誰も言及しない、臓器提供用クローン人間の女性による一人称小説(オマケにちょっと違ったイギリスの現代が舞台だ)。この一人称がベラボーにウマいので、作者が男だということを忘れてしまう。こないだ立ち読みしたミステリ・マガジンのベストでも女性の支持が多かった。この上手さはおそらく翻訳の手柄でもあるのだが、実はこの小説で一番気になったのが、70ページに出てくる「お尻をいざらせました」という表現。これは机のフタ(天板)に腰を下ろしたまま、もう一人机の上に座れるように尻をずらせる行為を表しているわけだが、「いざらせる」という言葉が懐かしくまた現在では滅多に聞かないことがこの一文を強く意識する結果になったのだろう。「いざらせる」をググると、6件ヒット。非常に少ない上に、半分はネット・ポルノ小説である。この言葉は日本語としての「身体の一部分を接触面につけたまま動かす」という一般的な意味が、性的な行為の中で目立って使われるようになっていることを意味している、というかそんなところでしか眼にしない言葉になりつつあるのだろう。ウーム、原文はどういう単語を使ったのかな、きっと普通に「ずらせる」という意味の言葉だと思うんだが。そういえば友人がノーフォークに住んでいるのだった。やっぱり原書を買って「ノーフォークは忘れ物の吹き溜まり」というギャグを使うべきだね。いわゆるSF的な思考には何の考慮も払われていないが、小説の技巧としては大したモノでしょ。それともこんな小説を書く行為自体がSFなのか。

 イーガン『ひとりっ子』はこれまでよりも読みやすい短編集。慣れたのかとも思うけど、似たような題材の短編がこれでもかとテーマを押しつけてくるので、分かる気にさせられたのかも知れない。「ルミナス」は分かっていてもドキドキするもんなあ。表題作と「オラクル」が読み応えがあるけれど、肝心のアイデアがピンとこない面もある。主観と多世界解釈との間にはいったい何があるんだろう。

 ニュー・スペースオペラはラノベ的に愉しんだ方がよいと分かって読むチャールズ・ストロス『アイアン・サンライズ』は十分面白かった。恒星に鉄のかたまりをぶち込んで、という表題通りの大業で始まるフックがいかにもストロスだよ。サブキャラがネット記者だったりして現実世界のいろいろな問題がそこここにバラ撒かれているのに、まったくエンターテインメントとして処理されているのもさもありなんというところ。人捜しに使われた軍用犬と脱出船の船長のやりとりなんか笑わせてくれるが、その場限りのキャラでもったいないくらいだ。最後になってもアイアン・サンライズの衝撃波は広がり続けているわけでこの先どうなるんだろな。

 読めば面白いのにマイ・フェイバリットとはいいがたいコニー・ウィリス『最後のウィネベーゴ』は「女王様でも」が一番笑わせてくれる。「タイムアウト」も面白く読めたが、「スパイス・ポグロム」は長過ぎ。ひとつひとつのギャグはそれなりなんだけど全体的にクドいのは作者の思い入れが強すぎた所為か。たぶん作者の目指したというスクリューボール・コメディそのものがギャグがクドいんだろう。表題作はしみじみとした話の運びで、昔主人公の飼い犬をひき殺した少女に会いに行く話がなんともいいがたい感情を引き起こす。動物愛護協会はギャグかしらん。

 正月は翻訳小説三昧と言うことで休み中に読むはずだったのにちょっと予定が狂ったガルシア・マルケス『コレラの時代の愛』。『予告された殺人の記録』を読んだのがもう20年以上前だ。数日前に新聞広告で『予告された殺人の記録』の元ネタをルポルタージュしたらしい日本人の本が出たことを知ってビックリした。広告を見る限り尻馬本みたいだったけど。後書きで知ったんだが、この作品が『予告された殺人の記録』の次に書かれていたんだねぇ。本当に久しぶりに読んだマルケスの凄さは圧倒的だった。マルケスのつむぎ出す小説空間の中では時間が塵のように降り積もっていく。そんなことを狙ってマルケスがこの小説を書いたとは思えないけれども、読んでる間中堆積した時間がどうしても意識されてしまうのだ。そしてマルケスはつもり積もった時間の埃を作品の最後で吹き払って見せる。最後の一行のセリフには思わず笑ってしまった。何故かフィリアス・フォッグを思い出してしまったんだよなあ。こんな小説にお目に掛かることは滅多にないが、それはそれでいいのだ。やっぱりSFはカワイイよ。


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