内 輪   第147回

大野万紀


 今年は秋が短くて、あっという間に冬が来たみたい。地球全体は温暖化していて、局地的には寒暖の差が激しくなったり、カオス的な天候になったりするのでしょうか(天候なんてものははじめからカオス的か)。ぼくは寒い冬はちょっと苦手です。こたつにもぐり込んでごろごろするのも悪くないけれど、扇風機にあたってだらだらしている方がもっと性に合う感じですね。
 ところで一人称に「ぼく」を使うのは女の子とおじさんだけだ、というのは本当ですか。身近な中高生を見ると、確かにそんな風にも思うのですが。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『イリーガル・エイリアン』 ロバート・J・ソウヤー ハヤカワ文庫
 ソウヤーの新作はファーストコンタクトものだが、法廷ミステリだというので、実はあんまり期待していなかった。法廷ミステリといえばちまちました人間の論理。SFはもっと大きな謎を扱わなくちゃ――なんてね。で、脱帽。しっかりSF、しっかりソウヤーでした。もちろんファーストコンタクトしたエイリアンが殺人事件の容疑者として裁判にかけられるという点など(エイリアンが日常的に人間社会にいるのならともかく)もう一つ納得いかない展開ではあるのだが、すぐにそのあたりは重要な問題ではなくなってしまう。謎解きのベースがいわば異星生物学なので、確かにこれはSFだという気分になる。もうひとつの謎、殺人の動機という点だが、これこそが、(後半になって出てくる)まさにSFという大きな謎につながっていて、おー、やっぱりソウヤーだわい、と安心できるのだ。実は強烈でものすごい話なのだが何となくユーモラスなのもいいし、最後なんて「こんなのありか!」ものですね。でもファンなら大拍手。

『地球礁』 R・A・ラファティ 河出書房新社
 ラファティの長編は短編とは別物という意識があって、けっこう苦手感覚があったのだが、これはすごく面白い。やっぱ子供達が主役だからかなあ。訳者解説がとてもいい。まあSFセミナーなどでも話されていた内容なのだが、実にまともなラファティ論である。とはいえ、ラファティの小説はあんまり細かい先入観なしに読むべきものだと思う。せいぜいおおらかなアメリカの田舎のほら話だ、くらいで十分。本書もストーリーだけ追うと、スティーヴン・キングのホラーか、うっかりするとB級サスペンス映画にでもなりかねないものだが、とてもそんな話じゃないよね。ラファティをストーリーで読む? そんなアホなことをしてはいかん。ストーリーじゃなくて、お話を聞くのだ。
 60年代、70年代、ラファティはSF作家だった。みんなラファティをSF作家と認めていた。水鏡子はそれを60年代アメリカSFのジャンル意識のおおらかさ、広さといったものに結びつけている(ここ)。でも現在から思うと、それはむしろ当時のSFジャンルの狭さの反映ではなかったのかと思う。あれもSFこれもSFといわなければ、あまりにも狭いファンダムの世界の中に孤立してしまうから。当時に比べて遙かにSFが浸透した現在、本書のような話をあえてSFという意味があるのだろうか。面白い、変てこな物語、で十分だろう。すこし不思議、だからSFというのならOK。ラファティの作品にはもちろん「SF」としか呼べないものが多いのも事実だ。でも本書はちょっと違う。ぼく自身は本書をSFのベストに入れるべきかどうかちょっと悩んでしまう。本当のところ、別にどちらでもいいんだけどね。

『童貞』 酒見賢一 集英社文庫
 新刊ではない。薄くて、長編というより、長めな中編という感じ。古代中国の話、というか、母系社会から男性原理の社会への移行を一人の少年を通して描いた、一種の寓話だ。「童貞」というタイトルがもつのは、そういう意味だ。寓話といったが、話そのものには神秘的なところも非現実的なところもない。尊敬されるべき男が、治水の失敗を口実に権力を持つ女たちに殺される。それを見た少年が、女性中心の社会を嫌悪し、やがて村を破壊して一人去ってゆく。そして最後には伝説的な英雄になるのかも知れない。その語り口は伝説や神話のようである。面白かったが、この後の話も読みたいと思った。

『星の、バベル 上下』 新城カズマ ハルキ文庫
 表紙も口絵もまるっきりライトノベルで、古いSFファンのおじさんとしては敬遠するところなのだけれど、内容は本格的なSFだった。もちろん登場人物の造形(特に日本人記者の女)は典型的にライトノベルっぽいとか、やたらと多い主人公の内面の声が大人っぽくないとか、いろいろとあるのだが、テーマはめちゃくちゃ大きい。それを南海の小さな島国を舞台とする狭いロケーションの中でそれなりに表現しているのはりっぱだ。赤道直下の太平洋の島国で(小さくても国家であり、民族問題やテロもある)発現した異星からのウィルス生命体とだけ聞くと、よくある話になりそうだが、本書はそれを言語の問題(それが表題となっている)にからめて、ユニークに展開している。論旨はいささか強引ではあるが、とても面白く読めた。

『塵よりよみがえり』 レイ・ブラッドベリ 河出書房新社
 チャールズ・アダムズの表紙が雰囲気あってすばらしい、中村融訳のブラッドベリ。「集会」や「四月の魔女」でおなじみの〈一族〉ものを連作長編にしたものである。とはいっても長編というよりは、やっぱり短編集だ。「四月の魔女」にしろ(本書では「さまよう魔女」)「集会」にしろ、昔の翻訳が強烈に記憶に残っているものだから、どうしてもちょっと違和感がある。でもまあ、何だかんだいってもこのシリーズは好きだな。ハロウィンの季節に読むというのもよろしい。とはいうものの……ブラッドベリの美文調って、昔の少女マンガの背景に花やなんかが描かれているのと同じ(?)で、きれいだけれど、雰囲気だけなんだよなあ。それがダメだというわけじゃないけれど、物足りなさを感じるところでもあるのだ。それと連作長編にするために付け足した部分というのが、あんまり効果を上げていない。むしろ蛇足でしょう。

『竜とわれらの時代』 川端裕人 徳間書店
 力作である。まさに〈科学小説〉というにふさわしい傑作だ。日本での恐竜の化石発掘をテーマにした物語であり、登場人物たちの造形も、舞台となる地方の情景も、いかにもそれらしいリアリティがあり、もちろん科学的ディテールもしっかりと書き込まれていて危なげがない。ただ、竜の方はいいとして、〈われらの時代〉というテーマの方が、これはこれで大変重要なテーマではあるのだが、しっくりと物語にとけ込んでいるとはいえないようだ。科学の相対化や、クリスチャンサイエンスがらみのテーマは、進化論と密接にからむだけに作者としても重要だったのだろうが、小説の舞台と何となくミスマッチで、違和感が残った。特に後半はもっと違った書きようがなかったかと思ってしまう。ちょっと後味の悪さが残ってしまうのだ。思い切ってテーマを絞り、もっと素朴に〈科学小説〉してしまった方が素直に楽しめたと思う。それはそれとしても、恐竜好きにはたまらない〈発掘小説〉であり〈古生物学小説〉である。科学者の生態を描いた小説として、ベンフォードの『タイムスケープ』をも彷彿とさせる。何よりも、おばあちゃんたちが素敵だ。

『太陽の闘士 上下』 S・ウィリアムズ&S・ディックス ハヤカワ文庫
 銀河戦記エヴァージェンス三部作の第一作。オーストラリア産の現代スペースオペラだ。あんまり50万年後の世界という感じはしないのだが、スーパーヒーローっぽいやたら強い戦士だの、何でもできそうなAIだの、EP能力のある少女だの、そして主人公はわりと普通っぽい女性兵士と、登場人物の造形は面白くなりそうな雰囲気がある。でも、前半は銀河戦記どころかこぢんまりとした惑星上が舞台で、話がなかなか進まず、わりと退屈。後半、ペースがあがって面白くなり、大逆転なんかもあっていいのだが、でもこれでやっと登場人物がそろってプロローグの終わりという感じ。まあ結局面白く読めたからいいけど、さて次回作はどうなっているかね。

『ダークホルムの闇の君』 ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 創元推理文庫
 ダークホルム二部作の開幕編。魔法世界ダークホルムは別の世界(こちらの現実世界のように思えるが、SF的な解説はない)の事業家チェイニー氏に事実上支配されている。別世界から来る観光客にRPGゲーム風の冒険をさせるテーマパークな存在になっており(でも実際に闘いで人は傷つき死ぬのだ)そのために莫大な損害と苦痛をなめさせられている。今回、その闇の君に無理矢理選ばれたのは魔術師ダーク。ダークの一家(妻と一男一女五グリフィン)がこの苦難に立ち向かうという物語。えーと、確かにユーモアファンタジーである。SFっぽいけれど、理屈はない。とんでもない難事業に仕方なく立ち向かわされるダーク一家(グリフィンたちがステキ)の、特に子供達の兄弟愛がいい(グリフィン踊りってどんなのかなあ)。というわけで、本書は実はプロジェクトXなのですね。難事業のプロジェクトリーダーに突然指名されたお父さんの困惑。団結する家族。次々と発生するトラブル。若者達はがりがりと進み続けた(がりがりと進むってどんなのだろう)。面白く読み終わったのですが、SF者としては、この世界の設定がどうなっているのか知りたいと思い、そこが無いのがちょっと不満だった(別に無くたっていいんだが、気になるんだよねえ)。


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