みだれめも 第149回
水鏡子
21世紀に入ったというのに「明日の文学」たるSFの、年間ベストの頂上に、四十年近くも前に書かれたある意味「ポルノと同じくらいもてなしのいいファンタジイ」『デイヴィー』を持ってきていいんだろうか、といった思いはじつはぼくのなかにもある。芯の強い精神に裏打ちされた文学の香り豊かな物語は、その直裁さとさわやかさのせいで、あまりにわかりやすく、気持ちがよすぎ、泣ける話に仕上がりすぎている。新しい世界が開けるセンス・オブ・ワンダーに欠けている。傑作というより、心やさしくなれる佳品といった評価が妥当なところだろう。これを超える話がないのなら、せめてこの本を2位にして、1位該当作なしとしたっていいんじゃないのかな。などと思ったりもしたのだけれど、ここにきて『デイヴィー』のうえにもってくるのが恥ずかしくない本が出てきた。
とはいうものの、やっぱり六〇年代刊行作品。うーむ。うーむ。
さきにも書いたように『デイヴィー』を読みながら感じた思いは「いい話を読ませてもらっている」といったものだった。『地球礁』の場合は違った。「もしかしたらすごいものを読まされているんじゃないか?(でも、もしかしたらすごくもなんともないのかもしれない)」というちょっとややこしい感情だった。「いい小説」と「すごい小説」のちがいは、「いい小説」は、どういいか、わりときちんと説明できるのに、「すごい小説」は説明する言葉を持ってなかったりするところ。それと「いい小説」は基本的にいつまでも「いい小説」なのだけど、「すごい小説」はある日突然、どこがどうすごかったのか、わからなくなったりすることがあるということだ。
『地球礁』はとんでもない物語が延々と語られていながら、じつは超常的な出来事がなにひとつ起こっていない(ようにも見える)。片田舎で起こった殺人事件の顛末とその関係者となった子供たちの数日間を描いた普通小説(のようにも見える)。ただし、空想力豊かな子供たちの目を通じて見せられ語られる世界というのが、じつはこの世界の実相であるのだと、ニヤニヤ笑いながらラファテイはモノ騙る。『悪魔が死んだ』のような雄大さの一方で、本書のように狭隘な地域のうえに二重写し、三重写しの世界を立ち上がらせる技法(技法なのか?)を自在に駆使する才は、やはり類を見ない作家だったなと改めて思う。上の中?
そして、この作家を、ジャンルSFの境界ではなく、軸に近いところにおくことに躊躇のなかった六〇年代アメリカSFのジャンル意識というもののすごさ、その空気をリアルタイムで呼吸できた幸運に、(『デイヴィー』という作品も念頭に置きつつ)、改めて感謝をしたい。
斯界の絶賛ぶりに、正直理解に苦しむのがコニー・ウィリス『航路』。
たとえば『ドゥームズデイ・ブック』と比べて、話は地味だし、ユーモア仕立ての展開や映画をめぐる薀蓄もはっきり言って過剰である。コニー・ウィリスの実力を信用しているから、第一部のドタバタも、こんなものを読みたくてSF読んでるわけじゃあない、と心のどこかで思いつつ、何とか乗り切ることができたし、実際、ラスト30ページくらいまで、結局これはSFじゃなく、病院を舞台に、最新の科学知識をふりまいただけのクリスマス・ストーリイの流れを組んだ幽霊話に落ち着きそうだと決めつけて(『リンカーンの夢』や『わが愛しき娘たちよ』のいくつかの話がそうであるように、これもウィリスの十八番のひとつ)、それはそれでかまわないというスタンスで読んでいたら、最後の最後で、限りなく普通小説に近接したSFという地点に、それも無理なく着地させる手ぎわのよさに感歎したりはしたけれど、それでも全体を通してみれば、意外性などかけらもない、納得のいく自然なまとまりのある小説で、心地よくはなるけれど、驚きなどはほとんどない。ただし、この印象には「リアルト・ホテルで」ぎらいで、『リメイク』の映画薀蓄にへきえきした過去をもつぼくのバイアスがたぶんにかかっていることは想像に難くない。なんといっても、この2作に見えたウィリスの嗜好性がモロに反映された小説でもあるわけだから。かったるかった第一部にしてみても、映像でならともかく、文字の力だけで、大量の人間がすれちがうドタバタ・シーンをここまで明快に一人一人の人間像が浮きあがるように書き込む技術は、やっぱり並ではないわけだし。高すぎる評価に異を唱えたくなるだけで、基本的にはだれにもお勧めできる安定感のある良質のエンターテインメント。今年の収穫のひとつである。中の上。
マサキ(えい、漢字が出ない)悟朗の『シャドウ・オーキッド』。主人公と姫が唐突に愛しあっていますと口走るあたりで登場人物の意識についていけなくなって、全体がうそ臭くなる。そのあたりをもっとぼかしていたほうが話に奥行きがあったような気がする。基本的にゴシック・ロマンの定型に依存しながら、フーコーその他を援用し、様式美を磨いた作品で、作者の力量からすれば、八分の力で軽くしあげたかにみえる、軽さがある。中の中。
山田風太郎『戦中派焼け跡日記』出た日に買いそびれて書店注文したところ、もう4刷りになっていた。『不戦日記』に比べると趣味がかなり俗っぽくなって、本を介した会話をするのもこれならそんなにこわくない。これはやっぱり過去に読んだ日記文学などを念頭に、後世に残して人に見せることも意識したものだったりするのでないかと、長々と客観描写を綴る文章などを見て思った。できることならこの次の年、作家デビュー直後の日記が読みたいものだ。