みだれめも 第142回

水鏡子


フィリップ・プルマン<ライラの冒険>第三部『琥珀の望遠鏡』(新潮社 2800円)。
 開巻突然、神の陣営の摂政格天使とかいって「メタトロン」という名前が出てきたりしたものだから、ちょっと前にまとめ読みした『天使禁猟区』との間で記憶が混乱した。そういえばあちらのコミックにも本名ライラなんてキャラがいたような。それにしても、「エヴァ」やら『天使禁猟区』やらを成立させている日本のヤングアダルト圏の黙示録系教養第二水準レヴェルというのはどのあたりなんだろう。とりあえず、ぼくの教養レヴェルより三段階は上に位置する。陰陽師系教養第二水準というのも同じくらいレヴェルがあがっていると思うのだけど、根本的にちがうのは、陰陽師の系のほうは立脚基盤や大枠がなんとなく見当つく気がするのに対し、黙示録の系はじつはそういうところがわかっていない。話のなかでどうアレンジされているのか、もともとなにが目的で組み立てられた系なのかわからない。前提に無知な状態で押しつけられるのが、むりやり守勢を取らされるようで、これがファッションやら流行やらの若者文化であるならわからなくても平気だけれど、どっちかというと個人的には興味がないこともない分野に関する知識について、この年で、十四、五歳の第二水準基礎教養についていけてないのかもしれないと思ったりすると、これは少々なさけない話である。まあいいや。
 さて、第2部の『神秘の短剣』のときは、おとうちゃんはどうみても転生したサタンだし、一方のおかあちゃんは忠実な神の軍団の僕という役割で、どちらも置かれたポジションに見合った邪悪な正義の信奉者というめりはりのきいた<あぶない>風格を備えていた。人間の目線からするとどう考えても邪悪な存在同士である、両者の対立の中で、ライラは、蛇の助けを借りながら、悪魔からは<自由>という概念、神からは<愛>という概念を奪い取り、人の世界を作り出すイヴになることを期待した。解説で紹介されているように、「ハリー・ポッター」よりはるかに邪悪な小説であると確信していた。
 完結篇は、うーむ。けっしてつまらなくはないのだけれど、やっぱり作者がびびってひよったとしか思えない。なんといっても、ライラのとうちゃんとかあちゃんが、<人間>のとうちゃんとかあちゃんにスケールダウンしてしまった。あのふたりに託されていた、人間など道具、下僕としてしか見ていない神と悪魔の倫理の論理が今回ほとんど見えなくなった。評価としては中の上。

吉村萬壱『クチュクチュバーン』(文藝春秋 1238円)
 去年の文学界新人賞受賞作である。新聞広告の紹介をみて、吾妻ひでお風の話みたいだったので読んでみたら、どっちかってえと「幻想の未来」の印象に近かった。ある日突然、地球がバージェス頁岩状態に突入し、生きとし生けるものすべてが無意味無目的進化を開始するというお話。どんどん奇怪になっていく人間たちの話がただひたすらドライヴしながら語られ続ける。奇怪なオブジェと化した人間たちをえんえんと描き、描きつづけることだけが目的と化した自己充足的でしあわせな<SF>になった。後半失速してくるが、しかたがないだろう。そもそも奇怪な風景を書き綴ることだけが目的だから、失速し、退屈になってくることでしか、終わりにならない。百枚くらいかなあ。お勧めします。
 これだけでは、本にならないから、もう1篇中篇を合わせて本にしている。「人間離れ」。空から大量の化け物が落下してきて人類が食われている世界の話。前作に比べるとテンションが低い。「クチュクチュバーン」のような小説を書こうとして、書きあげられた、「クチュクチュバーン」のような小説。「クチュクチュバーン」は、ぼくは「クチュクチュバーン」のような小説を書こうとして書いたものではなかったと思う。できあがったら「クチュクチュバーン」だったのだと。
 それにしても、どうみても、むしろいまどき古風な(なんといっても「幻想の未来」)由緒正しいSFであり、SFでしかない。


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