みだれめも 第126回

水鏡子


『BRI(バトル・ロワイアル・インサイダー)』(太田出版)を読んで、映画版『バトル・ロワイアル』を見た。『BRI』の前半、小説編と、映画編の一部は面白かった。平日に映画館に入ったら、異様に学生服とセーラー服が多かった。社会問題化宣伝効果は相当の追い風になったようである。願わくはこの子らが映画だけでなく、原作にも目を通されますように。
 映画は小説とはまったくちがうものになった。原作の大東亜共栄国を、教育崩壊のなかでBR法が成立した21世紀初頭の日本に置き換えた設定は、それはそれで悪くはない。問題は、教師キタノにこのクラスの1年次担任の過去を背負わしたこと。これで、物語はプロットはもとのまま、制度的抑圧の<大きな物語>のたががはずされ、人のどろどろした思いがとぐろをまいた<小さな物語>に移し返されてしまった。それはそれで監督の資質を生かした映画ということだともいえるので一概にだめだとはいわないけれど、SF映画として期待していた結構的めりはりには欠けた。SFは好きらしいけど自分の文法とSFを合わせきれないという言い方で、深作欣二という監督をスティーヴン・キングにひきつけて考えてみている。2時間という時間的制約のなかで42人が殺される、それもほぼ原作に忠実におこなわれるのだから、個別事情に踏み込みようがなかったという部分はわからなくもない。桐山和雄と相馬光子のモンスター二人が圧倒的に映像を支配して、かっこよく、これはちょっと、原作みたいにはいかなくて、ばかな政治家の言い分を無条件に非難するのが若干苦しい部分がある。評価としては、いいところだめなところ両方あって総体として並の下レベル。

『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』を読むのはちょっと怖かった。ここ数年ヴォネガットを読むたびに面白くないとつぶやきつづけて、けれどもそれがほんとうにヴォネガットが面白くなくなったのか、それとも自分の方が変質してしまったのか自信がなくなってしまっていたのですね。初期短編の落穂拾いの本書がだめだと自分の方の変質(劣化)を認めざるを得ないだろうなと恐怖しながら読み始めた。
 いやあ、いい本でした。坑道で最大音量でカナリヤが泣きわめいている感のあるうざったさのある「ハリスン・バージロン」や「モンキー・ハウスへようこそ」なんかが大きい顔をしていた第1短編集よりももっと心地いい。オー・ヘンリーやデイモン・ラニアン、ジェイムズ・サーバーなんかを思い出す。それにドレスデン体験を知ったあとで読む初期短編には、書き込まれなかったものを読みとりたい楽しみもある。ウェル・メイドで定型の安心感ときすぐりにみちた作品が長所をそのまま残したまま、時代とともに少しづつビター・スィートな味わいを増していく年代順の構成は、短編集としての有機的連関の魅力も備えたひさびさの快楽だった。中村融やドゾアのアンソロジーはひとつひとつの作品のレベルはいいし、総体的なまとまりも感じられるのだけど、この種の快感がもうひとつ足りない気がする。メリルにはそれがあった(ような気がする)。
 うん。『スローターハウス5』『チャンピオンたちの朝食』で燃え尽きたというぼくのヴォネガット観はまちがってないようだ。

●旧約聖書ってたしかエデンの園から始まってたよなあ。じゃあ、ルシファーの軍団構成ってどこで書かれてんだろうとかいうことが気になって、この年になって突然読んだのがミルトン『失楽園』。これがいまさらいうのもなんだけど、格調の高いエンターテインメントの傑作。堕天使たちは全能にして善なる神に負けるべくして負けたのだとは思っていないのである。神が稲妻という最終兵器を隠し持っていたこと、そのことに気づかなかった戦略ミスが敗因のすべてであったという判断なのである。かくして序盤、地獄に落とされた堕天使たちは反攻戦略について主戦派、慎重派、謀略派、日和見派とさまざまな立場にたって侃侃諤諤の討議を行なう。結果的に稲妻という最終兵器に立ち向かう武器がみつからないことから、意趣返しめいたエデン汚染計画の発動が決定されるのである。かくして統領たるサタン自らが単身エデンに向かうことになるわけだけど、サタンが地獄を抜け出て世界の遠望を見渡すシーンは、その構図も文体も『銀河帝国の崩壊』のラストシーンを思い起こさせる。クラークの格調、神と悪魔を取り扱う手ぎわといった個性の源のひとつは、この『失楽園』にあるのでないかという気がしている。
 この堕天使軍団の幹部連として並ぶのが、ベリアル、マンモン、ベルゼバブ、モーロックなどなどである。まさか、ミルトンがひとりででっちあげたとも思えなく、ちょこちょこ調べてみたところ、ルシファーと一緒に地獄に落ちた天使たちのリストというのは、1215年の第4回ラテラノ会議で決定されたのだという。神学者とかいってもやってることは、まあ、なんというか、<おたく>の所業である。
 つまりアルマゲドンというのは、強力無比な最終兵器を擁した軍事力でもって抑圧蹂躙された自由を愛する天使たちが永劫の雌伏の歳月を経て、再軍備を果たし、神に2度目の戦いを挑むという話であるわけなのですね。けれども、きたるべきアルマゲドンにおいて、堕天使軍団が勝利を得るためには、少なくとも神の稲妻を無効化するか、もしくはそれに匹敵する強力兵器を堕天使軍団が手に入れなければならない。とまあ、まるっきり関係なさそうな話を薦めながら、そういう驚天動地の世界設定につないでいくのが、フィリップ・ブルマン<ライラの冒険>(『黄金の羅針盤』『神秘の短剣』)なのである。読んでない人バラしてしまってごめんなさい。『失楽園』を読んだのも、この本の背景設定を確かめたかったせいである。やっと本国で発表されたという第3部がはたしてどういうクライマックスを迎えているのか。物語の比重のかけ方から見て、神の勝利はまずないと思うのだけど、悪魔の勝利か人間の勝利かのどっちかで結ばれるにちがいない。神の側も堕天使側も倫理感覚が異様に歪んでいる。第1作は児童文学のカーネギー賞を取ってしまっているけれど、こんな倫理的にあぶない本に児童文学賞を与えていいんでしょうか。
 ブルマンにはほかにもメタフィクション風ファンタジイ『時計はとまらない』、シンデレラ外伝『ぼくネズミだったの』といずれもくせのある児童書の翻訳がある。<ライラの冒険>にくらべると分量的に物足りないが、作者の性格の悪さはそれなりに味わえる。


THATTA 152号へ戻る

トップページへ戻る