内 輪   第108回

大野万紀


 今年はアポロの月面着陸から30周年。なのに未だに月面基地もなく……というような話はむなしいので止めましょう。今月は1999年の7の月ですが、今のところ恐怖の大王も現れず……というような話もつまんないので止めましょう。今週は「ぼく、ダッチロールするもんね」というフライトシミュレータ・おたくが全日空機をハイジャックする事件がありましたが、これでマイクロソフトの売り上げがどうなるか……というような話はわけわかんないんで止めましょう。暑いですねー。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。今回から出版社名をつけることにしました。

『時間怪談』 井上雅彦編 (廣済堂文庫)
 異形コレクションの10。SFではなくホラーの観点から選ばれた時間もの、ということだが、SFテイストの感じられる作品も多い。梶尾真治「時縛の人」などは当然ともいえるが、例えば恩田陸の「春よ、こい」もそうだ――ところで本書では桜をテーマやモチーフにした作品が多い。これは単に執筆の時期的な問題というより、日本人にとって桜と時間とは関係が深いということを意味しているのだろうか。
 前回の「内輪」で、ぼくは恩田陸の『不安な童話』について、作者の他の作品に比べSF性が薄いといった意味のことを書いたが、この作品はそうではない。単なるリプレイものではなく、明らかな「異界」の存在が描かれていて、少女たちはその世界でより高いレベルの意識をもっていることがわかる。これはセンス・オブ・ワンダーだ。確かに微妙なものではあるが、その世界全体を相対化できる視点が作品内にあるとき、ぼくにはSFテイストが感じられるのだ。
 ホラー系の方で面白かった(怖かった)のは牧野修「おもひで女」や西澤保彦「家の中」。江戸情緒のある五代ゆう「雨の聲」、時代性を強く感じさせる早見裕司「後生車」も印象に残った。

『セレス』 南條竹則 (講談社)
 「電脳長安の封神演義」という帯の文句が全てを語ってしまっている。水鏡子は批判的なようだが、ぼくは面白く読んだ。カバー絵が(色遣いのせいか)昔の金森達を思い起こさせるし、物語もちゃんとSFしている――単に電脳世界を舞台にしただけではなく、SF的なアイデアを提示している。中華世界での仙術比べも楽しい。もっともぼくは昔から「西遊記」やその手の話が大好きなんで、仙人が出てくれば許してしまうというところもあるのだが。ただ、本書の構成にはちょっと疑問を感じる。一人称の第一部と、彼の語ることを記録したという体裁の第二部に分かれているのだが、なぜそうなっているのか。特に効果があるとも思えず、むしろ単純な三人称にした方が、矛盾がないのにと思えた。そもそも電脳空間が出てくるというだけでメタフィクション性があるのだから、この書き方はくどいのではないか。とりわけ、主人公が後半で影が薄くなってしまうので(これもちょっと期待はずれな点だ)、特にそう感じた。

『虚ろな穴』 キャシー・コージャ (ハヤカワ文庫)
 これは大変インパクトのある作品だ。でもさすがにSFというのには躊躇する。いや、内宇宙を描いたニューウェーブSFといえばいいのか(90年代のニューウェーブ! すごいや)。内宇宙に開いたブラックホールの話――いや、実際そうだと思う。アパートの物置にある「黒い穴」。それは近づく物質を、生物を、人間を変容させる。発見者である情けないフリーター男と、そのガールフレンドのちょー強烈な女。そして様々な個性をもつ若い芸術家たち。それにしても見事なまでに世界が広がらない。こんなものを抱えながら、みなそれなりに日常生活を続け、警察もテレビ局もCIAも科学者も一切出てこない。穴が恐怖を、感情の嵐を、心と身体の変容を巻き起こすのは、一握りの狭いコミュニティの中だけであり、しかし、それはとても強烈なものなのだ。とりわけ主人公とガールフレンドのカップルにとっては。いや、この女、ナコタが真の主人公かもしれない。こんなに不快で強烈で魅力的な個性をもった登場人物はめったにいないだろう(いや、最近現実世界でこんな人物を見た気もするが、気のせいかな)。情けないダメ男の主人公にしても、アシモフ先生のダメ男とは違い、いかにも人間的で魅力がある。これでデビュー作というんだから、すごいよなあ。

『精霊がいっぱい!』 ハリイ・タートルダヴ (ハヤカワ文庫)
 何だか「悪霊がいっぱい!?」みたいなタイトルだ。魔法が科学技術の代わりをしているオルタネート・ワールドもののユーモアSF(確かにファンタジイじゃないよなあ)。いちいち魔法に置き換えたパラレルな現代アメリカというのも面白いし、魔法廃棄物処理での公害問題から始まって、世界の破滅を元気なヒーローと美人のヒロインが救うという結末まで、楽しく読んだんだけど……何かもう一つな感じ。50年代のパターンと変わらないということもあるし(廃棄物処理問題やバーチャル・リアリティみたいに現代的要素がありそうに見えて、結局まさに50年代風の大時代な話になっている)、それより敵があんまり邪悪で強大なように見えなかったことが原因だろうか。

『大いなる復活のとき』 サラ・ゼッテル (ハヤカワ文庫)
 うーん。ローカス賞受賞の新人女性作家による現代スペースオペラ、とくれば、いかにもぼく好みで面白そうなんだけれど……。遙かな未来、銀河に広がった人類の様々な文化と、異様な(しかし魅力的な)異星人、一種の超能力をもつ辺境惑星出身の宇宙船船長と、銀河の有力種族に追われている彼と同郷の謎の女性、そして物語は辺境惑星の謎と銀河文明の歴史の謎を巡って展開する……と思ったんだけれど……。前半はとにかく説明抜きで色んな言葉が飛び交い、何がどうなっているかさっぱりわからん状態。最近はこういう話が多いように思うが、まあ、SFだからそれでもいいんだけどね、もっと話に入り込みやすくできないものか。えーと、例えばスター・ウォーズだって説明抜きで未来の用語や文化が語られるけど、わかるでしょ。この本を読んだとき、ちょうどディレイニーを読み返していて、まあディレイニーと新人作家を比べちゃいかんだろうが、誰も見たことのない、知らない未来を描く描き方みたいなものについて考えさせられてしまった。それは物語の原型にのっとっているかどうか、といったことにも関係するだろう。で、本書の全体像がわかってくるのはだいぶ後になってからなのだが、それでもすっきりしない。いや、話はわかるんだけれど、どうしてそうなるの。壮大な謎、壮大なアイデアというのが、本当にこれでいいのか? ま、もうちょっと読みやすかったら面白い話だったといえただろうね。


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