大野万紀「シミルボン」掲載記事 「ブックレビュー」
SFの〈ニューウェーブ〉って、もう半世紀も前なんですよねえ…
『キャンプ・コンセントレーション』
トマス・ディッシュ
このレビューは、今はなき「SFアドベンチャー」誌にかつて掲載された筆者の書評をアレンジして再録したものである。このレビューを書いたのは今から30年近く前の1987年。本書はそのさらに20年前に書かれたものだ。決して読みやすい作品ではないが、ディッシュの代表作のひとつである。バラードが復活している今日、かつてのSFの〈ニューウェーブ〉とはどのようなものだったのか、その雰囲気を知るにはちょうどいい作品かも知れない。
本書が書かれたのは1967年。今からもう20年近い昔になる。あの反乱の時代。当時ディッシュは27歳の怒れる青年詩人であり、かつ『人類皆殺し』や『虚像のエコー』を書いた後、故郷のアメリカを捨ててイギリスに渡った新進のSF作家であった。本書は〈ニューウェーブ〉の震源地たるマイクル・ムアコックのニュー・ワールズ誌に連載された、いって見ればあの時代の空気を百パーセント含んだ作品なのである。
優れた作品は時代を超越している。本書も疑いなく優れた作品には違いない。違いないのだけれど、書かれた時代の空気があまりにも濃厚であり、とうていそれを無視することはできない。20年たった今日、多くの読者にとってはそれはほとんど自分に無縁な歴史上の一断面にすぎないだろう(何しろ本書と今日の距離は、第二次世界大戦と本書の距離にほぼ等しいのである)。したがって今の読者が本書をどう読むかは、正直なところ評者にはわからない。いや、評者自身、本当のところ本書と同時代を生きたわけではなく、およそ一世代の差があるわけで、生々しさはそれだけ薄いといえるのだが……。
時代は60年代末の争乱の、エスカレーションするベトナム戦争の、抑圧とナパーム弾と異議申し立ての、長髪と催涙弾と重い重いロックミュージックの、そういったものの延長上にある近未来のアメリカ(もっとも本書はSFだから、そういった風俗的・社会的な背景は直接描かれていない。あるのは消すことのできない時代の雰囲気だけである)。地下の収容所に閉じ込められた良心的兵役拒否者の詩人に対する、知能増大を目的とした非人間的な人体実験。ストーリーを追えば、決して目新しいものではない、普通のSFである。人工的な知能の増大とその副作用、という点では「アルジャーノン・テーマ」といってもいいだろう。だが本書の第一 のテーマは人間の知能そのものに関するスペキュレーションにある。それも理科的な知能ではなく、主人公が詩人であることからもわかるように、文科的な面での思考が問われているのだ。それは外部に直接的な力を持つことはなく、むしろ内向きに働く。増大された知能は閉ざされ、空回りし、主人公自身を苦しめる。彼の書く手記は理解困難なものとなる。ここでは人間的であるがゆえに自分自身の限界に閉塞される知性が、時代の状況とパラレルに、痛ましく描かれている。本書の第二部で、主人公は知能を増大された理科系の天才と対決するが、彼の相手はより俗物的で、普通に理解可能である反面、内実は非人間的で悪魔的な科学者として描かれている。本書の第二のテーマは、このことからもわかるように、非人間的な〈科学〉への異議申し立てである。本書ではこの歪んだ〈科学〉に替わるものとして〈錬金術〉(をも包含するあり得べき真の科学)が対置される(ディッシュは基本的に人間性を信じるタイプのヒューマニストなのだろう)。書き方は前衛的だが、本質は比較的ストレートなSFだといっていい。
なお、これは誰もが指摘していることだが、この結末のとってつけたようなどんでん返しは、無意味なばかりか、作品をぶち壊しているといえる。ディッシュの屈折した性格から考えると、SFファンをばかにするためにわざとやったとも思えるくらいだ。また訳文は非常に凝ったもので、決して読みやすいとはいえない(NW-SF誌への連載時とは全くといっていいほど変わっている)。もともとがペダンチックな、凝りに凝った文章なのだから、これはこれでいいのかも知れないが。とはいえ、文庫本の三分の1を占める訳註にはいささか驚かされた。
(16年9月)