内 輪 第345回
大野万紀
ここに来てハーラン・エリスンがまた注目を集めています。国書刊行会から『愛なんてセックスの書き間違い』が出たり、ハヤカワから『危険なヴィジョン[完全版]』が出たりと、いうわけです。エリスンについてはぼくも『ヒトラーの描いた薔薇』の解説に昔話を含めて色々書いたので、ぜひご覧下さい。
そこにも書いたのですが、エリスンがSF大会で初対面のアシモフに対して言った言葉、「なってねえなあ!」。これは『世界の中心で愛を叫んだけもの』の解説で伊藤典夫さんが紹介した(もっと前にSFマガジンか何かで読んだ記憶もあるけど、不確か)言葉なのですが、『愛なんてセックスの書き間違い』の解説で若島正さんはこれを「あんたはカスだ!」としています。原文は"Well,
I think you're--a nothing!"で、これを「なってねえなあ!」と訳せるのが伊藤さんのセンスなんでしょう。やっぱりすごいや。ところがツイッターでの古澤嘉通さんとの会話の中で、内田昌之さんが「『世界SF大賞傑作選7』(講談社文庫)の伊藤解説では、なぜか「なんてことないじゃん」となっています」と指摘されています。定訳となった言葉であっても常に見直されているわけですね。
「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」見てきました。面白かった。しかしラドンがあんなアカンやつだったとは! 大好きなモスラが活躍してくれたのは嬉しかったけど、まさかの・・・いや、きっと大丈夫だよね。
途中まで、あ、このストーリー展開はちょっとダメかもと思って見ていたけど、ストーリーがわりとどうでもよくなってからは(ホントにどうでもよくなるのだ)、問題なし。あとエンドタイトルの音楽がオリジナルリスペクトでとても良かった!
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『梟の一族』 福田和代 集英社
現代を舞台に、忍者の一族の隠れ里が襲撃され、一人残った少女が活躍する痛快なエンターテインメントである。うちの奥さんは彦根の出身なので、いきなり出てくる河内の風穴とか、ご当地小説として大喜びで読んでいた(まあ舞台の半分は東京なのだが)。
忍者の一族といったが、彼らには常人と違う一つの能力がある。それは眠らないことだ。このことが代々受け継がれる彼らの習俗や生き方に大きく関係している。それは主人公である、16歳の榊史奈も同じだった。河内風穴に近い山中の限界集落(とはいえ電気も来ていてスマホも使える)で、唯一の十代の子として、町の高校に通いながらも、集落の長である祖母の強いカリスマの下に、期待を背負って育ってきたのだ。その集落がある夜、何者かに襲われる。銃撃の音もする。祖母の指示により河内風穴に逃れ、一夜明けて戻ってみると、集落は焼け落ちてだれもいなくなっていた。
かくて彼女は、それまで知らなかった協力者の力を借りつつ、見えない敵から逃れ、その敵に戦いを挑んでいく。アクション主体の異能バトルが展開するサスペンスものかと思ったら、そういう側面もあるが、途中から彼らの「眠らない」という特質をめぐって、科学的・SF的な側面が強くなっていく。帯に「サイエンス×忍者」とあるが、おお、これは科学忍者だ!
後半の展開にはかなり強引なところも目立つが、ヒロインがとにかく魅力的だし、脇役も(過去に里から都会に出て行った人々とその子どもたち)みんなカッコいい。結末の大団円も(定番ではあるが)胸がすくような活躍ぶりに嬉しくなる。欲を言えば、この後の物語も読みたいなあ。続編は出ないのかしら。
『星系出雲の兵站 4』 林譲治 ハヤカワ文庫SF
第一部完結編。
ガイナスについてはわからないことだらけだが、それでも手がかりとなる発見はある。彼らは(といっても人間を元に作られたクローンの方だが)音声ではなく全身の神経系統をセンサーとし、無線を通じてコミュニケーションを行っているらしい。そこから意思疎通の可能性を探ろうとするが、やはりうまくいかない。前の戦闘で艦隊戦に勝利した人類が奪還した準惑星天涯だが、その地下都市にはまだガイナスたちが多数生き残っていた。そこから、謎の通信が送られてくる。だがそれは5年前に遭難した警備艦の救難信号をコピーしたものだった。
地下都市を制圧しようと展開した降下猟兵連隊は、この事実からガイナスの中に意思疎通を試みることのできる存在がいることを想定し、その存在と接触することを作戦の第一目標とする。地下都市への攻撃を開始した彼らは、激しい戦闘の末、そこで異様な光景を目撃することになる。戦闘を放棄し、唄を歌うガイナスたちだ。だがその謎は解けず、結局いくつかのヒントを残したまま、地下都市のガイナスたちは全滅してしまう。しかしこれで戦争が終わったわけではない。ガイナスによる再度の、致命的な決戦が迫っていたのだ……。
物語はその決戦の顛末を描き、一応の結末を得る。そして最後に、第二部へと続く大きな事実が明らかとなるのだ。
本書で重要なのは、意思疎通不能な敵に対し、それでもコミュニケーションの可能性を探り、どのようにすれば戦争を終結させることができるかという終了条件を見いだそうとするところだろう。星系の人類の生存を保証し、ガイナスとの戦争を終わらせて共存できるようにするにはどうすればいいのか、激しい戦争の中で、そこまでを見通そうとする。ここにはそういう大きな戦略目標がある。
何度も書いていることだが、作者は個々の戦闘の迫力ある描写だけでなく、その背後にある戦術や戦略の目標設定、タイトルにあるように兵站まで含めた全体のロジスティクスと運用、シビリアンコントロールを可能とするコンプライアンスと統制、組織と体制といったシステム面について、これでもかというぐらい詳細に分析し、描き出す。そこが最大の魅力であるのだが、そのために、個々のキャラクターについてはその意志決定の側面のみに着目することになり、システムのコマ、ノードとしての役割が重視されることとなる。本書に出てくるのはそんな「できる」人々ばかりであり、無能な人間や、これといって取り柄のない大多数の凡人はほとんど無視されるのだ。もちろんそれは問題ではない。でも大きな物語に対し、人々の物語がみな同じように、通り一遍に見えてしまうきらいがある。それでも本書の後書きにあるように、作者の思いもかけなかった物語が立ち現れてくることがあるのだ。
第二部では、いよいよガイナスの謎が明らかになるのだろう。それと同時に、魅力的なキャラクターの活躍にも期待したい。
『宿借りの星』 酉島伝法 創元日本SF叢書
512ページもあるぶ厚い長編で、著者のイラストがふんだんに入っている。著者の初長編となる。
遠い未来の異星が舞台で、著者の他の短篇にも出てくるような、人間とは違う生物たち――甲殻類や昆虫や海棲の軟体動物を思わせる――が主人公のSFである(ぼくはティプトリーの短篇を思い浮かべた)。しかも『皆勤の徒』以来の著者の特徴といえる、複数のニュアンスを重ねたダジャレのような言葉――見たことあるようなないような漢字の組合せに不可思議なルビをふって――がこれでもかとばかりに多用される。まずはそれに圧倒されて、しばらくは物語に入り込めない。けれどある時点で、不可解な用語はその上澄みだけが流れていくようになり、異星の光景と物語とが怒濤のように心を覆い尽くしていく。
その物語というのが――これは京フェスの対談で著者自身が語ったものだが――ムーミン谷の次郎長三国志なのである。もっとも登場人物じゃなくて登場生物たちはムーミンみたいなもふもふ系ではなくて、ごつごつトゲトゲした連中ばかりなのだが。
主人公はマガンダラ。堅い甲羅をもち、足が4本腕が2本、前と後ろに2つずつ目がある、ズァングク蘇倶(ぞく)と呼ばれる巨大なヤドカリみたいな種族だ(表紙の絵)。この星――御惑惺様(みほしさま)――読む内に普通の惑星ではないことがわかってくるが――には姿形も異なる様々な生物たち〈蘇倶(ぞく)〉が共存して、いくつかの都市国家的な国――倶土(ぐに)――を作っている。マガンダラはその中のひとつ、ヌトロガ倶土(ぐに)で、賜盃(しはい)方というそれなりに高い地位についていたのだが、あるとき誼兄弟を殺してしまうという罪を犯して、倶土(ぐに)を追放される。砂漠のような――咒丘(じゅきゅう)をさまよって死にかけていたところを、ラホイ蘇倶(ぞく)のマナーゾに助けられる。ラホイ蘇倶(ぞく)は小柄で、腕が4本、2本足で直立する蘇倶(ぞく)である。本来はズァングク蘇倶(ぞく)に食べられるような存在なのだが、彼はマガンダラを助けた上、「兄貴」とまで呼んでくれるのだ。二人は誼兄弟となって以後行動を共にするようになる。言葉遣いもそうだが、これがこの物語に、股旅物の道中記というユーモラスな雰囲気をもたらすのである。
マガンダラたちは放浪の後、かつての知り合いであるドソチ師に出会い、恐ろしい秘密を聞かされる。この星ではかつて植民してきた卑徒(ひと)と諸種族との間で激しい戦いがあり、卑徒(ひと)は駆逐されたと思われていた。ところが卑徒(ひと)は姿を変えて生き延び、今や卑徒䖝(ひとむし)となってマガンダラたちに寄生している。そして彼らは再び逆襲の時を待っているのだという。
マガンダラはそれを阻止するため、ドソチ師の命を受け、マナーゾと、仲裁人と呼ばれる卑徒(ひと)の意識を持つ謎めいた中立の存在、それに全身が棘だらけのカドゥンク蘇倶(ぞく)の女、ガゼイエラがお目付役になって、故郷のヌトロガ倶土(ぐに)へと戻って行くことになる。このガゼイエラがいい。寡黙だが強く、そしてなぜか博打の腕前が抜群なのだ。
異星生物ののほほんとした日常風景が続く中に、不穏に紛れ込んでくる本格SF的な背景。前編「咒詛(じゅそ)の果てるところ」と後編「本日はお皮殻(ひがら)もよく」にはさまれる「海」というパートが、いきなり卑徒(ひと)の――つまり変貌を遂げた人類の視点からの、まさに本格SFといえる物語となっていて、度肝を抜く。
遥か未来に生物としての姿を変えてしまった人類というテーマは、古くはジェイムズ・ブリッシュの「表面張力」があり、その後も様々なポストヒューマンの物語として描かれてきた。だがここではポストヒューマンといっても今はやりの仮想現実やシンギュラリティ系ではなく、生身の生物としての人類の変貌が描かれている。闘いに破れて人としての姿を失い、遺伝情報となって他の生物に寄生して生きる人類の姿。人の記憶という情報もまた、生きては死んでいく無数の分身の中に分散化され、再生されていく。ときおり白日夢のように再生される、かつて人だったときの日常の記憶。何とももの悲しく、すさまじい生き方だ。
そして後編では、いよいよ顕在化してきた人類の意志との対決が、再びマガンダラたちの視点から描かれ、壮大な結末へと続く。いやあ、面白かった。満足した。
とはいえ、やはり少しだけ疑問が残る。この頻出する特殊な造語は本当に必要だったのだろうか。いや、そこを否定しては酉島伝法じゃなくなってしまうと言われたらその通りかも知れない。でもこの誤読を誘いかねない難読な漢字の多用(せめて独特な読みを要求する用語にはすべてにルビを振って欲しかった。ページの始めだけじゃなく)が、異化作用としての効果をもたらす以上に、読解を阻害する側面が大きいように感じたのだ。確かに途中からはあまり気にしなくても読めるようになる。でもそれまでが大変。ハードルが高い。もっとポイントだけに絞っても良かったのではないかと思う。もう少し抑えめにしたとしても、やはり傑作となるに違いない。
ともかく本書は、物語はストレートに面白く、エンターテインメントとして楽しく読め、キャラクターは異形ながら魅力的、その上本格SF的な要素は奥が深いという傑作なのである。