ハーラン・エリスン/伊藤典夫・小尾芙佐・深町眞理子訳
 『ヒトラーの描いた薔薇』 解説

 大野万紀

 ハヤカワ文庫
 2017年4月20日発行
 (株)早川書房
 HITLER PAINTED ROSES AND OTHER STORIES by Harlan Ellison (2017)
ISBN978-4-15-012122-8 C0197


 本書は、ハーラン・エリスンの一九五七年から八八年までの短編十三編を発表年代順に収録する、日本オリジナルの短篇集である。日本でのエリスンの短篇集は、これまで『世界の中心で愛を叫んだけもの』と『死の鳥』が出ていて、これが三冊目となる。なお、本書に収録された「睡眠時の夢の効用」(一九八八)は本邦初訳であり、SFマガジン二〇一七年四月号に掲載された二〇一一年度ネビュラ賞受賞作「ちょっといいね、小さな人間」(二〇一〇)を除けば、現時点で最新の翻訳作品である。

 ハーラン・エリスン。一九三四年、オハイオ州クリーブランドのユダヤ系家庭の生まれ。ということは今年(二〇一七年)で八三歳になる。しかし、ぼくの頭にあるエリスンは、四〇年以上前の、エキセントリックで怒りに満ち、作家としてのパワーとエネルギーにあふれたエリスンのままである。最新作の「ちょっといいね、小さな人間」を読んでも、少し落ち着いたかなという程度で、その印象は変わらない。『死の鳥』の帯にあるとおり「華麗なるSF界のレジェンド」であり、”半世紀にわたり、アメリカSF界の伝説であり続ける作家”なのである。
 その”SF界の伝説”がどんなものだったかは、『死の鳥』と『世界の中心で愛を叫んだけもの』の解説や訳者後書きをぜひ読んでほしい。『死の鳥』の高橋良平さんの解説には、作品が翻訳された当時の解説も引用されているので、その雰囲気がわかるだろう。

 とにかくやんちゃな印象だ。SF界の暴れん坊。SF大会では初対面のアシモフに喧嘩を売り「なってねえなあ!」(伊藤典夫訳)といったという。アシモフが語る原文では"Well, I think you're--a nothing!"だ。アシモフもびっくりしただろうな。アシモフは大人の対応をしたが、そのエッセイで彼の背の低いことをおちょくっている(一六五センチだからアメリカ人にしては小柄、ということだが)。
 長編第一作が(SFではないが)不良少年もので、その取材のため変名をつかい、ニューヨークでヤンキーしていたという(いや不良グループに入って、彼らと生活を共にしたという意味ですよ)。そのせいか、強面(こわもて)な印象が強い。実際、ハリウッドで活躍するようになってからも、訴訟沙汰がやたらと多いのだ。フランク・シナトラにいんねんをつけたとか、誰それと喧嘩したとか、武勇伝がいっぱいだ。
 そのころのエリスンは、小説家としても名をあげていたが、むしろハリウッドでの脚本家としての活躍がめざましい。『バークにまかせろ』、『宇宙大作戦』、『ルート66』、『アウターリミッツ』、『アンタッチャブル』、『原子力潜水艦シービュー号』、『0011ナポレオン・ソロ』、『ヒッチコック劇場』……。その昔、テレビで普通にアメリカのテレビドラマをやっていた時代の子どもたちにとって、とても懐かしい名前ばかりだ。
 当時エリスンが書いた数多くの脚本の中でも《宇宙大作戦》の第二十八話(日本では二十三話)「危険な過去への旅」“The City on the Edge of Forever”(1967) は特に傑作で、六八年のヒューゴー賞映像部門を受賞している。時の門を越えたドクター・マッコイが大恐慌時代に行き、過去を変えてしまうエピソードだが、平和を望むことが破滅を呼ぶといった矛盾が描かれていて衝撃的だった。もっとも放送されたのはエリスンのオリジナル脚本ではなく、一部が改変されたもので、エリスンはそのことを根に持っており、何度もしつこく文句を言っている。

 エリスンの小説を読んで感じるのは、理不尽なもの不条理なものに対する強烈な絶望と怒りである。憎しみ(ヘイト)ではない。純粋な怒り。その怒りと暴力は、すべてあらゆる大きなものに向けられる。成熟とか大人らしさとか、エリスンには似合わない。成熟したエリスン? そんなもの誰が読みたい?
 いつも大声で怒っているやんちゃなガキ。そんな印象があるエリスンだが、その作品には深みと強靱さがある。
 彼の作品は、今でいえば”奇想小説”という呼び名が相応しい。彼自身、自分のことをSF作家というよりも”ファンタジスト”と呼んでいる。その昔”奇妙な味の小説”という言葉があったが、それだといかにもしゃれた大人の小説っぽく、エリスンらしくない。それよりはむしろ日常をぶっこわす”SF”の方が彼にはしっくりくるというものだ。
 エリスン自身が”神話的”人物であるのと同様、彼の小説も多分に”神話的”である。彼の数多い作品の中で、その最良のものは、やはり彼の本領たる”暴力神話”すなわち”エリスン神話”を扱ったものだといえるだろう。
 「声なき絶叫」「世界の中心で愛を叫んだけもの」「バシリスク」「鞭打たれた犬たちのうめき」「死の鳥」とつづく一連の作品の主題は、まさに”エリスン神話”とでもいうべきものである。それはひと言でいえば、もう一つの神、現代にふさわしい暴力の神の復権である。それはこの狂った都市文明の神であり、血と暴力に飢えているのだ。「声なき絶叫」のコンピューター、「世界の中心――」のセンター、「バシリスク」のマルス、「鞭打たれた――」の暗黒神、「死の鳥」の蛇、これらの神々を見れば、彼がいかに現代のヒューマン・コンディションを悲観的に見ているかわかるというものだ。それは形而上学的なものというより、なまなましく具体的なものである。現代における常軌を逸した不条理な死と暴力の諸相。
 「世界の中心――」では、諸悪の根源が”天国”にあることが示唆され、「死の鳥」ではまさに”神”そのものが狂った嘘つきとして断罪される。ここでは神話は逆転し、神を生んだのは人間であり、間違った神を生んだがゆえに、人は永遠の苦痛に生きなくてはいけないのである。「バシリスク」の主人公のように、残された道は、自らの個人的正義の側に立つ暗黒の神に、犠牲を捧げて救済を祈るしかなかったのだ。癌に犯された愛犬アーブーの安楽死に立ち合ったように、エリスンは愛する地球の安楽死に立ち合いたい心境なのだろうか。
 結局”エリスン神話”なるものは、陳腐な言い方になるが次のような言葉に落ち着くのかも知れない。
 (1)現代は不条理で理不尽な死と暴力と差別に満ちている。
 (2)既成宗教は偏向しており、われわれは神の選択を誤った。
 (3)愛とは暴力そのものである。そうじゃないなら”セックス”の書き間違いだろう。

 ここでちょっと脱線を。
 年をとると昔語りをしたくなるもので、ぼくの個人的なエリスンとの関わりなどを書きたくなりました。またつまらない昔話をと思う方、興味のない方は読み飛ばしてくださいね。
 一九七〇年代半ば、学生のころのぼくらにとっても、エリスンはすでにカリスマ的存在だった。アメリカSFのニューウェーヴを標榜する、エリスン編の巨大アンソロジー『危険なヴィジョン』Dangerous Visions(1967)、『危険なヴィジョンふたたび』Again,Dangerous Visions(1972) はすでに出ていたし、『最後の危険なヴィジョン』The Last Dangerous Visions はまだ出ていなかったが、その内容は知られていて、そのうち出るはずだった。ぼくらのSF研で、単なる会誌じゃない、海外SFの翻訳を集めた同人誌(ファンジン)を作ろうと思った時、たまたま『れべる烏賊』という題名をつけたのだが、その二冊目が『れべる烏賊再び』、三冊目(卒業年に出ることになっていた)が『最後のれべる烏賊』となることは、当然のことながら、あらかじめ決まっていたのだ。『最後の危険なヴィジョン』は結局出なかったのだから、ぼくらはエリスンに勝ったのである!
 脱線次いでにもう一つ。大学を出てもSFから離れられず、KSFAというグループで海外SFをがんがん紹介していた。その中に、半分しゃれだが『現代SF全集』なんて企画があり、仲間たちとガリ版刷りで海外SFの翻訳短篇集を五冊くらい出したはず。その中にエリスンの短篇集もあった。
 あまり知られていないが、Partners in Wonder (1971) という短篇集があった。これはエリスンが、シオドア・スタージョン、サミュエル・ディレーニイ、ロジャー・ゼラズニイ、ロバート・シルヴァーバーグなど十四人の作家と合作した、合作短篇集である。そうそうたるメンバーが並んでいるが、どちらかといえばお遊び企画だった(中には傑作といっていい作品もあるが)。たとえば、スタージョンとの合作 "Runesmith" は、スタージョンと「コードウェイナー・スミスのオマージュ作品を書こう」といって書き始めたはずが、なぜかC・A・スミスのオマージュ作品になってしまったというしろものだし、ディレーニイとの合作 "The Power of the Nail" は、二人ともが認めている通りのひどい駄作である。パーティの席で座興で書いたものなのだ。しかしどの作品にもエリスンの楽しい前書きがついていて、SFファン活動の楽しさが伝わってくる。なお、このKSFA版『現代SF全集』には月報もついていて、水鏡子による「エリスン=ブラッドベリ論」なんてものも載っていた。着眼点は面白いが、今読むとあまりにもとんでもない内容なので、ここでは触れないでそっとしておこう。
 とにかく、エリスンという作家は、その小説も魅力的だが、それにもまして作家本人がクールでかっこよく、アメリカSFのファニッシュな楽しさにあふれていたのである。

 最後に、本書収録作品について、初出と簡単なコメントを述べようと思うが、その前に、十三編のうち六編が掲載された雑誌〈Men's Club〉と、二編が掲載された〈日本版オムニ〉について書いておきたい。
 〈Men's Club〉はいわずと知れた大人の男性向けファッション雑誌で、一九五四年に創刊され、今も月刊で発行されている。その一九六五年七月号から、ほぼ毎月のように、伊藤典夫さんによる英米SFの短編が翻訳掲載されていた。レイ・ブラッドベリ、リチャード・マシスン、ロバート・F・ヤングなどの軽めの作品が多かったが、しだいに本格的な作品も載るようになり、エリスンをはじめ、アーサー・C・クラーク、J・G・バラード、トマス・ディッシュ、R・A・ラファティ、ジェイムズ・ティプトリー・Jrというように、AMEQさんの詳細な翻訳作品集成(http://ameqlist.com/)によれば、六五年から九一年までに何と一七〇編が訳されている。どういう経緯があったのかはわからないが、SF雑誌ではないファッション雑誌にこれだけの海外SFが掲載されていたということは、大変なことである。
 〈日本版オムニ〉は、一九八二年から八九年まで、八四冊出た大判の月刊科学雑誌だ。アメリカで七八年に男性雑誌〈ペントハウス〉の出版者によって創刊された雑誌の日本版である。この当時ちょっとした科学ブームがあったのだ。この雑誌はもともと科学記事とともにSF小説を掲載しており、オースン・スコット・カードやウィリアム・ギブスン、ジョージ・R・R・マーティンなどが執筆していた。日本版でも、これまたAMEQさんのサイトによれば、連載やノンフィクションも数えて八九編が翻訳されている。
 海外SF短編の翻訳が、短篇集やアンソロジーを除けば、ほぼ〈S-Fマガジン〉だけになってしまった現在、こんな時代があったのだなあと、ため息が出る思いだ。

 以下、収録作について。

「ロボット外科医」Wanted in Surgery (If 1957/ 8) 〈S-Fマガジン〉 1969年5月号
 最も初期の作品であり、今読むとさすがに古めかしさを感じる。しかし、素朴な機械嫌悪に見えて、エリスンの怒りは単なる道具にすぎないロボットよりも、多様性を抑圧し機械的な均一化を押しつけようとする人間の体制の方に向かっている。AIに仕事を奪われるという話が、現実のこととして週刊誌に載る現在、あらためて読む価値はあるだろう。それにしても、現代の老人ホームで人間よりロボットの方に癒されると話す老人を見たら、当時のエリスンはどう思っただろうか。

「恐怖の夜」The Night of Delicate Terrors (Gentleman Junkie 1961) 〈Men's Club〉 1970年12月号
 この作品と「死人の眼から消えた銀貨」は、その当時も、おそらくは現代のアメリカにもある黒人差別の不条理と恐怖を描いている。ここでの対象は黒人と白人だが、差別するものとされるものはそれに限った話ではない。またアメリカだけの話でもない。そんな普遍性がある。

「苦痛神」Paingod (Fantastic 1964/ 6) 〈Men's Club〉 1978年12月号
 これまた”エリスン神話”の一編である。先に書いたように、エリスンの怒りは、大きくていいかげんで不条理なものに対して向けられる。その最たるものが”神”だ。宇宙の生きとし生けるものに”苦痛”を与えている”苦痛神”。だがここでの苦痛とは、生きることそのものであり、神の子はそれを知ることによって、大人になる。何と”大人”だ。皮肉なことに、それはエリスンの最も嫌うものではなかったか。

「死人の眼から消えた銀貨」Pennie, Off the Dead Man's Eyes (Galaxy 1969/11) 〈Men's Club〉 1978年9月号
 現代の黒人差別を扱った物語ではあるが、普通小説のようでいて、とても象徴的で神話的な物語となっている。人と人の”差異”とは何か。この作品のように、表面的には差のないものが、どうして差別されることになるのか。死人の眼に置かれた銀貨は、天国への通行料の意味があるそうで、日本でいえば六文銭ということだろう。またこの主人公にはどこか超常的な影を感じる。

「バシリスク」Basilisk (F&SF 1972/ 8) 〈S-Fマガジン〉 1974年4月号
 ベトナム戦争を背景に、帰還兵問題を扱っているのだが、これも”エリスン神話”の一編。人間の理不尽な残虐さと偏狭な差別への怒りが、ここではバシリスクの死の息として表れる。ここでのおぞましい敵とは、すでに権力者や特別な存在ではなく、ごく一般の民衆そのもの、歪んだ「人間性」そのものとなっている。クライマックスの大殺戮にはある種の爽快感があるが、それは何の解決にも至らないのだ。

「血を流す石像」Bleeding Stone (1973) 〈Men's Club〉 1978年7月号
 エリスンにとって、戯画化されたキリスト教原理主義は”敵”なのかも知れない。本当のところはわからないが、それに立ち向かうのは”エリスン神話”の神々である。この怪獣映画のような血と破壊のカタルシス! ほぼそれだけの作品であるが、このパワー感覚はものすごい。

「冷たい友達」Cold Friend (Galaxy 1973/10) 『ギャラクシー』下巻 創元SF文庫1988年
 あの傑作「少年と犬」でもわかるように、エリスンにボーイ・ミーツ・ガールのホンワカした物語を求めてはいけない。突然人がいなくなり、ごく狭い範囲を残して消滅した世界。そこに一人生き残ったのは、たまたま病院で仮死状態だった少年だった。SFではありがちなシチュエーションだが、少年の前に少女が現れ、典型的なボーイ・ミーツ・ガールの物語になるかと思いきや……。うん、これでこそエリスンだ。

「クロウトウン」Croatoan (F&SF 1975/ 5) 〈Men's Club〉 1979年2月号
 七十六年のヒューゴー賞短篇部門2席と、ローカス賞を受賞した傑作。エリスンはクラリオン・ワークショップで、小説家を目指す生徒たちに”失われたものが全ていく国をテーマに小説を書け”と課題を出し、それがヒントとなって自ら書き上げた作品だという。マンホールから入った地下に広がる迷宮世界は、いつしか神話的な、内宇宙の広がりに変わっていく。ここでは怒りよりも罪の意識がまさっている。だが主人公が行くのは単なる地獄ではない。まさに”失われたものが行く国”なのである。

「解消日」Shatterday (Gallery 1975/ 9) 〈Men's Club〉 1978年5月号
 自分が二人いる。そんなところから始まる奇想小説だが、曜日の名前をだじゃれにした章題がついていて、伊藤さんはその訳にとても苦労したと語っている。原題の Shatterday は土曜日のだじゃれなのだが、翻訳では解消日=火曜日にずらされている。またこの主人公にはエリスン自身が反映しているのかも知れない。

「ヒトラーの描いた薔薇」Hitler Painted Roses (Penthouse 1977/ 4) 〈SF宝石〉 1981年6月号
 ヒトラーは、地獄で美しい薔薇の絵を描きながら、話の初めと終わりにちらりと姿を見せるだけだ。この作品にも、天国や地獄を”管理している”連中への静かな怒りが満ちている。お屋敷の女中だったマーガレット、殺人犯の汚名をきせられ、リンチされて殺され、地獄へやってきた彼女。真犯人は生き延び、死後はなぜか天国へきている。こんな理不尽があっていいのか。冷酷な役人のような神。しかし彼女の怒りは伏流し、爆発することもなく、そしてヒトラーは地獄の門に美しい薔薇を描きつづける。

「大理石の上に」On the Slab (Omni 1981/10) 〈日本版オムニ〉 1986年1月号
 ロードアイランドのリンゴ園の中に突然現れた身の丈九メートルの一つ目の巨人の死体。興行主が手に入れてシビックセンターの大理石の上に展示する。ある夜、巨大な鳥が巨人を襲い、その心臓をついばむ。そう、これはあの神話の再来だ。今度の彼は人々に文明ではなく”品格”をもたらすのだ。今の人類にはそなわっていないという”品格”を。
 シチュエーションはJ・G・バラードを思わすが、ずいぶんと違う話になるものだ。

「ヴァージル・オッダムとともに東極に立つ」With Virgil Oddum at the East Pole (Omni 1985/ 1) 〈日本版オムニ〉 1985年5月号
 ローカス賞受賞。エリスンには珍しくストレートなSFである。百二十年ほど前に人類が入植した惑星メディア。ここには一種のテレパシーで人類とイメージを交換できる人馬という種族が住んでいる。わけあって辺境の地に一人暮らしている男のところに、謎の男が現れる。彼はほとんど言葉も話さず、ふらりと氷原の向こうへ一人出かけてはまた戻ってくる。人馬族に崇拝を受けている彼は、いったい何をしているのか。いつものエリスンの怒りは影を潜め、美しく崇高なイメージが広がる作品だ。

「睡眠時の夢の効用」The Function of Dream Sleep (Asimov's mid-Dec 1988) 初訳
 一九八九年ローカス賞中編部門受賞。本邦初訳である。多くの知人を亡くした男の胸に突然開いた口、そこから噴き出す風。もちろん医者にはその口は見えない。セラピストをたより、ついに彼を助けようとする謎の団体にまでたどり着くのだが――。これは死と喪失の物語。記憶と忘却の物語である。エリスンの若い頃の怒りはもう薄まって、まるで悟ったような結末だが、でもそれを信じていいものか。胸に開いた口からまた何かが吹きだしてくるのではないだろうか。

 『死の鳥』が好評だったおかげで、この三冊目の作品集が出た。まだまだ単行本未収録の傑作は残っている。ぜひとも四冊目、五冊目が出ることを期待したい。

2017年3月


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