大野万紀「シミルボン」掲載記事 「このテーマの作品を読もう!」

第12回 ありえない現実に立ち向かおうとする人々――破滅SF・パニックSFを読もう


その昔の中国。杞の国の人たちは、天が落ちて来はしまいかと心配したという。そんなの現実にはありえないと、人々は彼らの取り越し苦労を笑って、杞憂という言葉が生まれた。

 でも、そんなありえない現実をとことん追求したいのがSF作家と呼ばれる人たちではないだろうか。杞憂を追い求め、誰もがありえないという起こりそうもない危機が、もしかしたら実際にあるかも知れないと警鐘を鳴らす。そしてその現実となった危機に立ち向かう人々の姿を描く。破滅SF、パニックSFと呼ばれるのはそんな作品だ。いや、まあその壮絶なスペクタクル自体に魅了される面も多々あるのだけれど。

 しかしわれわれは、ありえないと思っていたことがわりと簡単に現実になることを知っている。天が落ちてくるのも、恐竜の絶滅や、ついこの前のロシアの隕石のことを思えば、現実にありえることだ。巨大地震や津波も実際に経験した。自然災害ばかりでなく、高層ビルに突っ込む旅客機、メルトダウンする原子炉、地下鉄に毒ガスをまくカルト集団、人々を奴隷にし現代に中世的宗教帝国の復活を目指す人々、隣国との国境に壁を築こうとする人物が超大国の大統領に選ばれる――まさかそんなことがと思っていたようなことが日々のニュースで流されている。まさに現実は、ありえないほどSFだ。

 そんなわけで、世の中何が起こるかわからない。そんな現実に立ち向かうには――まずは、オーソドックスに、破滅もの、パニックSFから読んでみよう。
 遥か未来ではなく、明日にでも起こるかも知れない、文明が、人類が滅びるような大災厄――小惑星の落下、急激な地殻変動、全面核戦争や、致命的な疫病、そして宇宙人の侵略まで――SFの黎明期から無数に書き続けられてきたそんな作品の多くでは、災厄に巻き込まれて悲惨な運命に陥る膨大な数の人々、何が起こっているかはっきりとわからないまま、目の前の悲劇に勇気をもって立ち向かう人々、そして何らかの避難所に逃れ、文明の再建を目指しつつ、災厄をより上の立場からやや冷静に見ようとする人々(政府高官だったり科学者だったり、勇気ある個人だったり)が描かれる。

 ジョン・ウィンダムの傑作『トリフィド時代』はそんな破滅SF・パニックSFの頂点ともいえる作品である。緑色の大流星雨を見た人々が翌朝にはみんな盲目となり、一方で植物油採取のために栽培されていたトリフィドという植物が人間を襲い始めるようになる。混乱と狂気に覆われ、次第に崩壊していく文明。そんな中で盲目にならなかったわずかな人々を組織し、それに立ち向かおうとする主人公たちの姿が描かれる。暗く絶望的になっていく世界で、彼らの地道な活動はささやかな希望となり、人類の未来へ続く一筋の光明となる。

 だが、SF作家で評論家のブライアン・オールディスは、このような破滅SFを「心地よい破滅」と呼んで皮肉った。
 確かに、破滅にはロマンチックな一面もある。あなたが生き延びられるなら。あるいはみんな一緒に滅びるのなら。
 オールディスの皮肉にも関わらず、こういうSFは今でも魅力的である。そこには小さくても希望がある。ボーッとしていて何もしなければ滅びてしまう。だからこそ、例え絶望的であっても恐ろしい現実に立ち向かい、希望を求めて前に進もうと苦闘するヒーローやヒロインたちの姿は美しい。そしてこういった作品では(それが本当に可能なのかどうかはわからないが)そのための具体的な方法も示していることが多いのだ(あわてて付け加えるが、希望もなくひたすら厳しい現実が続き、さらには最後に追い打ちをかけるような作品にも、むしろ読み応えのある傑作が多い。要は読み方次第だろう。残酷なリアルを深く深く掘り下げていくのか、いくぶんご都合主義的であっても、ほんのわずかでも明るさのある話がいいか――ちょうどパンドラの筺を開けるように)。

 そんな作品の例として、小松左京の最も初期の長編の一つである『復活の日』をあげよう。細菌兵器により人類がほぼ全滅し、たまたま南極にいて難を逃れた人々が、人類の復活を目指そうとする物語である。そこに核兵器による第二の絶滅も迫ってくる。前半の、静かな破滅のイメージが何ともいえない。普通のインフルエンザのような症状からどんどん人々が死んでいき、世界に絶望が広がっていく。それに対して、われわれは何もすることができないのだ。でもそんな絶望の中でも日常的に小さな勇気を示す人々のエピソードがいくつもあって、それが本当に心を打つ。アマチュア無線での交信が効果的に描かれ、こんなありえない現実の中に放り込まれたごく普通の人々の、日々の生き方が読者の目の前に迫ってきて、涙なくしては読めない。その背景にあるのが、科学知識への、理性への信頼である。そして後半、運良く生き残った少数の人々の物語。彼らは主に科学者やエリートたちであり、人類の復活に真剣に取り組もうとする。男女の人数のあまりのアンバランスさもあって、とうてい「心地よい破滅」という気にはならないのだが、本書もまたウィンダムの後継といえる最良の破滅SFの一つだといえるだろう。

 このようなタイプの破滅SFは今はどうなっているのか。恐怖やサスペンスに重点を置くリアル志向の作品や、大破壊後の世界でのもう一つの文明を描くファンタジー寄りの傑作が大量にある中、やや影が薄れているように思っていたが、最近読んだニール・スティーヴンスン『七人のイヴ』がまさに『復活の日』を思い起こすような、そんな破滅SFだった。詳しくはこちらに書いたので読んでもらうとして、いやあまだこの手の話も滅びてはおらず、書き続けられているのだなと嬉しくなった。

 さて、とはいうものの、エリート科学者でも宇宙飛行士でも政府高官でもないわれわれは、そんなパニックの中でいったいどうするのか――そういうリアルで日常寄りのSFもしっかり書かれている。ここで紹介するのは、伊藤瑞彦『赤いオーロラの街で』だ。ハヤカワSFコンテストで最終候補作となった新人作家の作品だが、これが徹底的に現場の一市民の視点で描かれたパニックSFなのである。起こるのは巨大太陽フレア。実際に数百年に一度くらいは発生する規模のものなのだが、百年前ならさほど大きな問題にならなかったものが、あらゆるものが電気に依存している現代社会では致命的となる。全世界で電力網が破壊され、電力、通信、交通がすべてストップ。完全復旧には数年かかるという「世界停電」が本書のテーマだ。でも大地震などと違い、普通の人々からすればただの停電で、それが長引くというだけだ。危機感はそれほどでもない。しかし現代文明を支えている電気というインフラが長期間復旧の見込みがないことは、市民生活にも徐々に深刻な影響を及ぼしていく。主人公は中年のWEBエンジニア。東京の小さな会社に勤めていたが、仕事に倦み、テレワークの体験で北海道・知床の斜里町へ行く。そこで巨大太陽フレア災害に遭遇するのだが、赤いオーロラを見たことと、停電と、スマホが使えなくなったくらいで、何が起こったかもわからない。そんな中で、彼を迎えてくれた斜里町の人々と、現場の知恵でできることを少しずつ実現していこうとする。そんな物語である。大所高所から論じるのでなく、目の前の現実を、その場その場で何とかしていこうとする人々の小さな動きが、とても印象的だ。これなら、もしかしたら自分でも何かできるかも知れないと思えるから。

 人類や世界全体が変容してしまうような〈破滅〉とは違い、もっと限定的な範囲だが――ひとつの町とか、学校とか、家族とか、それがこれまでの現実とはまったく違う現実に突然放り込まれてしまうような物語も昔から数多く書かれている。ファンタジー寄りの作品が多いが、がっちりと書き込まれたSFも少なくない。そもそもタイムスリップして過去や未来へ飛ばされる話もそうだし、並行世界や異世界へ転移してしまう話もそうだ。一人か数人が異世界へ飛ばされる話はファンタジーになり、都市や町、学校などの一地域がそのまま異世界へ転移する物語はSFになる。おおざっぱにそういうこともできるだろう。集団が関わると、リアルに社会を描く必要が出てくるし、そうなるとあちらとこちらの関係性について、その中で人々がどう生きるかについて、様々なインフラも含めて考察しなければならないからだ。キャラクターたちはリアルな自然や社会のルールに制約を受け、自由気ままに動き回ることはできなくなる。
 そんな作品で、最近読んで印象に残っているものに森岡浩之『突変』がある。関東の地方都市の一部(ほとんどひとつの町内のみ)が、「突変(突然変移)」と呼ばれる異常現象で、異世界の地球へそのまま転移してしまう。そこはほとんど地球そのものだが、脊索動物(われわれ脊椎動物を含む)の代わりに有笛動物と呼ばれる独自の生物が繁栄しているような世界(裏地球)である。それまでごく普通の日常生活を送っていた町内の人々は突然、表の世界から切り離され、この世界で協力し合って生きていくことを余儀なくされる。本書は、そんな三日間の物語である。スーパーヒーローはおらず、非現実的な冒険やとんでもない驚きは描かれないかわりに、作者らしいとことん考え抜かれた設定と、この現実に立ち向かわざるを得なくなったごく普通の人々の、いかにもありそうな行動、細やかに描かれたキャラクターたち、そしてところどころでのギャグと、異生物への愛がとても印象的だ。

 個人のレベルでいえば、一台のトラックが突っ込んでくるだけで、それまでの日常があっという間にありえない現実に変わってしまう。もっとも最近では、トラックが突っ込んでくると異世界に転生して、スーパーマンになれるのだそうだが。そういう作品を否定するわけではないが、ちょっと都合が良すぎてあんまりのめり込めない。割り切って読めば中にはとても面白い作品もあるのだけれど。
 異世界に飛ばされて、そんなに都合良くいくわけがないと思うのは、小野不由美の傑作〈十二国記〉を思い起こすからだ。そのシリーズ第一巻『月の影影の海』では、平凡な(と思っていた)女子高校生の陽子が、異世界へとひとり放り込まれる。自分に何が起こったかもわからず、ありえない現実の中で彼女はパニックに陥り、(当然ながら)すさまじく悲惨でハードな体験をする。悪意に満ちた全くの未知の世界で、足元を見られ、裏切られ、運命に翻弄され――心が折れそうになりながらも、彼女は自分にできることを行い、それに立 ち向かっていく。だからこそ、その後のカタルシスが強烈に心に響き、たまらなく嬉しいのだ。

 異世界への転移を描くパニックSFには傑作が多い。枚数が多くなったので、それらはまた別のコラムで扱ってみたい。

(19年3月)


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