大野万紀「シミルボン」掲載記事 「このテーマの作品を読もう!」

第2回 SF――人類進化テーマからポストヒューマンへ


生物は進化する、人類も進化する、新人類はすでにわれわれの中におり、いつか取って代わる機会を狙っているのだ。犬も進化する、ナメクジも進化する。ポケモンも進化――あれはちょっと違うか。

 ちなみに、犬が進化するのはクリフォード・シマック『都市』、ナメクジが進化するのは手塚治虫『火の鳥・未来編』だ。
 進化は、SFの大きなテーマだった。人類進化テーマというサブジャンルがあったくらいだ。もっともここでいう〈進化〉の多くは、本来の科学的なダーウィン進化論とは違う、もっと物語的でロマンチックな、いわゆる「神への長い道」(小松左京)としての進化である。

 そもそもは、テイヤール・ド・シャルダンのキリスト教的進化論から始まる。宇宙は生命を生み、生命は知性を生み、知性はやがて新たなる〈オメガポイント〉へと向かうという、定向的、合目的論的な宇宙観によるものである。単純なものから複雑なものへ、低級なものから高度なものへと変わっていく、それが進化というものだ。このような進化のとらえ方は、今でもむしろ一般的だといえる。ポケモンが〈進化〉するというのもそうだろう。

 こういった俗流進化論と科学的な進化論の違いについては、最近読んだノンフィクションで、吉川浩満『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』が面白かった。著者は科学的進化論の立場に立ちつつも、俗流の「進化ポエム」をいちがいに否定はしない。それが実際的な害を及ぼさない限り、気にすることはないとする。進化と進歩を同一視するような進化論理解は「進化ポエム」であり、もちろん間違った理解なのだが、むしろ近代社会における日常的な人間の理解としてはそれが普通なのだという。それはダーウィン主義ではなくスペンサー主義の進化論ともいうべきで、そのミームが現代人にはしっかりとインストールされているのだ。

 SFに話を戻せば、このような進化思想は(直接ではないにせよ)オラフ・ステープルドンに引き継がれ『最初にして最後の人類』『スターメイカー』など、数百万年~数十億年にわたる人類進化の未来史を描く小説となる。そしてそれが今度はアーサー・C・クラークへとつながる。クラークの『幼年期の終わり』は、人類の子供たちが、われわれには理解のできない存在へと〈進化〉してしまう、喪失の物語である。幼年期が終わり、かれらは親から離れて宇宙的な存在になってしまうのだ。なお、ここには「個体発生は系統発生を繰り返す」という、いささか古めかしいがこれまたSF好みのモチーフが含まれている。
 ところでおそらく『2010年宇宙の旅』まで、クラークはこのテーマを引きずっていたが、それ以後はすっかり決別した――超知性への進化の階梯などはなく、単に並列的な異なる知性があるだけだと。『2061年宇宙の旅』と読み比べると、その落差には驚かされる。

 初期の日本SFでも、手塚治虫や小松左京が代表的だが、進化はより高度なものへの指向を意味していた。小松左京は、おそらくそれが科学的な進化論とは別のものだということを理解していただろう。だが小松は繰返し、宇宙の進化、生命の進化、人類の進化を、より進んだ存在への指向性として描いた。「神への長い道」がその代表だが、はるかに巨大な視点、何万年も何億年も続く視点から、「人類よしっかりやれ」さらには「宇宙よしっかりやれ」と呼びかける。
 一方よりカジュアルに、人類進化をメインテーマとして描いた傑作が『継ぐのは誰か?』である。そこではむしろダーウィン的な小さな進化こそが人類社会を変容させていく、その様子が描きだされている。
 小松左京が、進化とは環境への適応だと、本来の意味で理解していたことは「静寂の通路」『物体O』に収録)という短編を見ればわかる。これは変化した環境への適応として、人類が知性を放棄し、ネズミのような動物となって生き延びる話である。それもまた進化なのだ。ぼくはパオロ・バチガルピ『第六ポンプ』を読んだ時、この作品を強く思い浮かべた。

 人類進化テーマには、『継ぐのは誰か?』もそうだが、はるかな未来の話ではなく、現代や近い未来に、すでに人類に混ざって存在している進化した新人類を描くものもある。というか、こっちの方が数は多いだろう。そのほとんどが、超能力者テーマと重なっている。どう進化すればテレパシーやテレキネシスのような超能力 が使えるようになるのかはわからないが、とても人気のあるテーマだ。そこまでの超能力でなく、『継ぐのは誰か?』のようにわずかだけ異なっている場合でも、新人類は旧人類と、密かに、あるいは公然と生存競争を繰り広げることになるのである。
 このテーマは今でも多く書かれているが、最近の海外SFで面白かったものにM・R・ケアリー『パンドラの少女』がある。これはゾンビものでもあるが、結末には驚かされる。また日本SFでは福田和代『緑衣のメトセラ』を挙げておこう。超能力バトルがあるわけでもなく地味な作品だが、こちらも驚きの結末が待っている。高野和明『ジェノサイド』も、まさに『継ぐのは誰か?』を継ぐ作品だった。

 このように現代社会に生きる新人類をテーマとした作品は、エンターテインメントとしてまだまだ隆盛を保っているが、かつてのテイヤール・ド・シャルダン的、ステープルドン的な〈進化〉の考えが廃れ、より科学的な進化の考え方がSF作家の間でも主流になるにつれ、旧来の人類進化テーマは勢いをなくしていったといえる。
 今、それに変わるものは、ポストヒューマンSFである。
 遺伝子工学、人とコンピューターとの一体化、人工知能、ナノテクノロジー。そういったものが発展するにつれ、生物学的な進化ではなく、人工的な手段によって強化され、加速された進化。その結果としての新たな人類、あるいはその後継者。仮想現実空間での知性の進化もこちらに含まれる。
 シンギュラリティを越え、そのような進化の先にあるものは、かつての超存在と似たようなものに見えるかも知れない。だが決定的に違うのは、それは進化の階梯の果てにある〈神〉などではなく、あくまでも並列的なもう一つの可能性というに過ぎない。神秘的なものではなく、全ての属性において優れているというわけでもないだろう。それがわれわれに理解できるかどうかは別として。
 こういうポストヒューマンSFは、もはや現代SFの主流となっているといっていい。グレッグ・イーガン『ディアスポラ』など)を始めとする海外作家の作品はもちろん、小川一水『天冥の標』や、長谷敏司『BEATLESS』円城塔『エピローグ』など、日本でも多くの優れた作品が書かれている。
 すなわち、人類進化テーマSFは、ポストヒューマンSFへと〈進化〉したのである。

(16年9月)


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