大野万紀「シミルボン」掲載記事 「このテーマの作品を読もう!」

第3回 SF――時間テーマ:タイムパラドックスから並行世界へ


 過去へ戻ってやり直す。歴史を改変する。同じ時間を何度も繰り返す。時間テーマ(特に過去へのタイムスリップ)は、SFの王道テーマである。さらに今では、SFというジャンルを離れ、マンガやアニメ、普通のドラマでさえ、過去へ戻る話は当たり前のように描かれている。しかし、そこにあったはずのパラドックスはどうなってしまったのだろうか。

 SFがSFとなる前、マーク・トウェイン『アーサー王宮廷のヤンキー』の時代から、その時代の現代人が過去を訪れる(そして歴史を改変する)話は数多く書かれていた。そこへ現れたH・G・ウエルズ『タイム・マシン』は、謎めいたタイムスリップではなく、4次元の概念を導入し、機械によって自由に時間を移動できるというものだった。
 今につながるSFの時間テーマはそこから広がっていったといっても、大きな間違いではないだろう。とはいえ、今でも謎めいたタイムスリップの方が、意識的に時間を越えられるタイムマシンよりも、はるかに多く描かれている。これは過去への時間旅行をきちんと科学的に説明することがとても難しく、時空の歪みでもワームホールでもいいから、とにかく何らかの方法で過去へ行けるならそれでかまわないからだろう。作家が描きたいのはタイムスリップの詳細な理屈よりも、時間を越えて人間が何をするか、そしてそれが現代とどう関わってくるかということなのだから。

 しかし、そこで重大な問題が生じる。タイムパラドックスだ。要するに、過去に戻って自分の親を殺したら、自分はどうなるのかという、因果律のねじれ問題。これまで、実に多くの作品がひねりにひねったパラドックスを考案し、その解決策を探ってきた。歴史の可塑性や記憶の曖昧さによって、結局パラドックスは起こらないとするもの、過去を変えた時点で世界線が分岐し、別の未来へつながる(それは自分の来た未来世界ではないから、因果律には影響しない)とするもの。分岐ではなく、世界が変わって自分が存在しなくなるもの(この場合、自分のアイデンティティはどうなるのかといえば、それは作品によって様々なアイデアがある)。具体的な作品名を挙げるとネタバレになってしまうが、ハインラインにしろ、ブラッドベリにしろ、多くの作家がタイムパラドックスを扱った作品を書いている。もちろん日本でも数多く書かれてきた。
 娯楽SF的には、未来を好き勝手に変えられては困るので、タイムパトロールが組織され、歴史改変やタイムパラドックスの発生を未然に(何の未然に?)防ごうと戦う作品が現れた。代表的なものに、ポール・アンダースン『タイム・パトロール』がある。アシモフや、藤子・F・不二雄を思い浮かべる人もいるだろう。このような時間線を遡っての戦いも好まれるテーマで、日本でも多く書かれているが、その一つとして小川一水『時砂の王』を挙げておきたい。

 時間テーマの変種として、タイムループものもある。同じ時間を巻き戻して、何度も繰り返してしまうような物語だ。タイムトラベルとは違い、意識だけが過去に戻る場合が多い。ちなみに物理的な実体ではなく、意識など、情報だけが過去に戻る場合、物理的な世界は変わっておらず、それが変わったと認識する主体はどこにあるのかという問題が生じる。このような場合でもやはりパラドックスは発生する。未来の記憶が残っているなら、歴史への干渉が可能だからである。
 このような作品も、これまた無数にあるのだが、有名なのはケン・グリムウッド『リプレイ』だろう。日本ではなぜかこのタイプの作品に人気があり、評論家による分析も多い(例えばコンピューターゲームのリセットによるリプレイを反映したものだ、とか)。もしかするとプログラムの知識がある作家が増えて、コンピューター・プログラムのループ処理とその脱出条件をなぞっているという側面もあるのかも知れない。普通のループものでは主人公は世界がループしているという認識を持っているが、主人公にもそれがわからず、読者だけが知っているという作品もある。谷川流『涼宮ハルヒの暴走』に収録された「エンドレスエイト」では、主人公も知らないままに同じ日々が1万回以上ループする。こういうのは、本来その上位のレイヤーから割り込むとか何とかしないと、内部のゆらぎだけに頼っているのではほとんど脱出不可能だろう。
 最近では、クレア・ノース『ハリー・オーガスト、15回目の人生』がこのテーマを扱い、主人公にループを認識させながら、さらに歴史改変やタイムパトロール的なテーマまで盛り込んだ傑作である。

 時間テーマを科学的に扱ったハードSFは、実はさほど多くない。一般的な科学の常識からは、SF的なタイムトラベルは不可能だからである。もちろんワームホールによるものなど、理論的には可能とする説もある。スティーヴン・バクスター『時間的無限大』はそれをメインのガジェットとして扱い、壮大な時空の広がりの中で歴史を改変しようとする戦いを描いている。
 だが、最も真剣に科学的・哲学的観点から時間テーマを扱ったSFとして、ここではフレッド・ホイル『10月1日では遅すぎる』と、グレゴリイ・ベンフォード『タイムスケープ』の2作を挙げたい。
 フレッド・ホイルは著名な天体物理学者でもあり、『10月1日では遅すぎる』は彼の時間理論をSFとして展開した作品である。ここでは過去の世界が現在と「同時に」パッチワーク的に存在することになるが、そこで語られるのは、意識と時間に関する独自の理論であり、時間は幻想で、意識は無数の多世界の状態の中で、順番にそれを照らし出しているに過ぎないとする。その順番というのも、時間とは関係なく任意のものでよく、意識の連続性というのもまた幻想だ、というものだ。当時は理解の難しかった理論だが、数学的宇宙論やグレッグ・イーガンのおかげで、わりあい納得しやすくなったといえる。どのように過去を改変しようと、あるのは主観的な(幻想の)時間線だけで、無数の世界は何も変わらずそのままあるのだ。
 ベンフォードも本職は物理学者だ。その『タイムスケープ』は、タキオンの物理やウィーラーとファインマンの時間論を用いて、科学的にもっともらしく見えるよう書き込まれている。過去を改変しようと未来から送られてくる情報。未来が過去に、過去が未来につながる因果のダイナミック・ループは、いかにもセンス・オブ・ワンダーにあふれたイメージである。時間風景(タイムスケープ)はあらゆる方向へと揺れ動くさざ波だ。一方向に流れる川のような時間はもはや存在しない。パラドックスは吸収され、別の波、別の宇宙を形づくる。その無数の宇宙の間を、タキオンのしだいに弱まるビームが結んでいる。

 タイムトラベルは並行宇宙を生む。過去へ戻って親を殺せば、その親からは自分が生まれない、新たな別の時間線が生じる。自分が生まれた時間線とは別の世界だから、パラドックスは発生しない。昔のSF作家が想像力で考えた並行宇宙によるタイムパラドックスの回避策は、量子力学の観測問題に関するエヴェレットの多世界解釈が多くのSF作家に知られた後は(1976年のアナログ誌の記事がきっかけだったとの説がある)、もはやそれ以外に考えられないほどの当たり前のものとなった。タイムトラベルは過去や未来への旅ではなく、無数に分岐する並行宇宙間の移動ということになったのである(多世界解釈そのものが正しいかどうかには物理学者の間でも議論があるし、並行宇宙間をどうして移動できるのかということも今のところSFというしかないのだが)。
 時間テーマと並行世界をからめたハードなSFとしては、バクスター『タイム・シップ』グレッグ・イーガン『宇宙消失』ジェイムズ・P・ホーガン『量子宇宙干渉機』などがある。さらに細かい議論は飛ばして、タイムトラベルは並行世界への転移であるとする解釈は、最近のほとんどのSFで採用されているといえる。物語としての矛盾を回避しようとすると、普通にそうなってしまうのだ。しかし、そうなると、時間旅行というものが無意味になるという問題が出てくる。過去を改変したつもりが、それは別世界だというのであれば、改変した意味がないではないか。グレッグ・イーガンはそこにも立ち向かおうとしている。彼の短編「ひとりっ子」では、多世界解釈に挑戦し、可能性の分岐が起こらないような収束を、つまり多世界が一つに収束するような現象を描こうとしている。時間テーマへのSF作家の挑戦は果てしないのだ。

(16年10月)


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