大野万紀「シミルボン」掲載記事 「ブックレビュー」

壮大なスペースオペラで未来の神話。つまりかっこいいってこと!

『ノヴァ』
サミュエル・R. ディレイニー


 とっても素敵なSFだ。半世紀近く前(1968年)に書かれた作品だが、ここには若さがあふれている。
 すごく生き生きとして、鮮烈で、ちょっとナマイキで、ペダンティックで、ひとことでいえば、かっこいい! そして、とても美しく、華麗な文章。壮大なスペースオペラにして、意識の深層に響くシンボルとアレゴリーに満ちた未来の神話。タローと聖杯、超重元素と感覚シリンクス。機械と人間の一体化。登場するのは裸足のジプシー少年と、饒舌なインテリ青年と、ものに憑かれたような船長と、邪悪なプリンスと、美しく謎めいたその妹……。
 そして舞台は潮の香りと漁師の声が聞こえるイスタンブールの下町から、灼熱した熔岩の割れ目が光るトライトンの酒場へ、さらにプレアデスの凍った都市にある大邸宅から、爆発するノヴァの中心へと広がる……。
 あなたがSFファンなら、本書は一ページ一ページを読むことが快感であるような、そんなとっても心地のいいSFであるはずだ。

 これは子供の頃からスペースオペラが大好きな、同時に正統的な科学と文学に深く傾倒し、とはいっても本の虫であるよりも外に出る方を好む早熟な少年が(まあディレイニーが本書を書いたのは二四、五才の時だから、少年とはいえないが)、スペオペと芸術の統合を目指してありったけの技巧を凝らし、思いっきりいろんなテーマを突っ込んだ、マルチプレックスな青春SFなのである。こういうのって、ちょっと頭のいい野心的なSFファンなら、たいがいやってみたいと思うものなんだよね。まあ無惨な失敗をするのが目に見えているのだが。うまくいくのはディレイニーのような本当の天才の場合だけだ。

 本格SFというものはそのままでも文学や芸術でありえるかも知れない。でもあからさまなスペオペを同時に様々なレベルで楽しめるものにするには、ちょっとした気負いと技と才能が必要だ。若いディレイニーはそれをやった。だから、本書を讃えるならばそこにある複雑なアレゴリーのネットワークを分析することよりも、それをうまく明快なスペースオペラの枠組みに包み込んだことこそを賞賛すべきだろう。表面的なレベルであまりに読みやすいことを非難してはいけない。荒俣宏氏のことばを借りると、これは「サブリミナル小 説」というべきものである。各種のシンボルは無意識に訴えるために選ばれたのであり、意識的に分析されるために置かれているのではない。それは後でゆっくり考えればいいのであって、とりあえずは無意識がその深みを感じ取ってくれればよいのだ。
 とはいうものの、本書が若々しい小説であるという理由には、そういう構造を作者が喜々として開けっぴろげに語ってくれているということがある。変な韜晦はなくて、手の内を自信をもって見せてくれているのだ。さわやかな同志的友情(?)。小説の中で作者自身が楽しげに語りかけてくる。

 猫とネズミ(カティンとマウス)がディレイニーの直接の分身であることは明らかだろう。作者はギターを抱えてヨーロッパを放浪していたことがあり、本書も一部はギリシアで書かれている。マウスの感受性とカティンの才気はディレイニーその人のものである。本書はわりとストレートで私的な青春小説でもあるのだ。

(16年8月)


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