内輪 第90回 (95年10月)
大野万紀
この連載も、もう九〇回なんですね。年をとるもんだ。
年のせいか、ここんところ何かにつけパワーダウンしているのを感じます。そのぶん奥さんとガキんちょが元気だ。まあ、元気がなりより。
毎年楽しみにしている京フェスですが、今年はちょっと日程が変則的なんですね。合宿の翌日が土曜なので、家族参加は見送りです。で、ぼくだけの参加となりますが、金曜日は知人の結婚式で東京へ行かねばならず、合宿のみの参加となります。本会の方の、橋元さんの意識にかんする話なんか、興味あったんで残念だけどね。といって、このTHATTAは京フェスに間に合っているのだろうか。
大阪梅田の地下街といえば、堀さんの小説にもあるように、巨大なダンジョンとして知られていますが、この十数年ずっと通ってきただけに、ぼくの頭の中には一応マップができていて、あまり不自由なく歩くことができたのですが、今度ダイアモンド地下街という新しいでっかい地下街ができて、再マッピングしなければならなくなりました。まあ例会に行くのには関係ないけれどね。阪神、丸ビルの地下と第一から第四ビルの地下を全部つないでしまったというごついやつです。二年後くらいにここに地下駅ができるということらしい。で、この間、会社の帰りに行ってみました。壁が楽器になっていたり、色々面白いしかけがあるみたい。目当ては新たにオープンした三省堂の梅田店だったのですが、品揃えは梅田の他の大型書店に比べてたいしたことはなく、なんだこんなもんかでした。この地下街、大きいけれど梅田のメインルートからは外れているので、早く駅ができないことには、寂れてしまう可能性もありますね。
それではこの一月ちょっとで読んだ本から。
『デッドガールズ』 リチャード・コールダー
なんていうか、語り口は見事に異なるのだが、これって『ドラキュラ紀元』と同じ話だよね。『アルーア』の短編群よりはずっとSFになっているように思う。ただし、SM的なエロスがもろに吸血鬼と結びついていたり、人形趣味だって、本当の人形とSF的隠喩としてのアンドロイドとの区別があいまいで(まあナノテクは何でもありだからいいのかも知れないが)、いかにも古めかしい感じになっている。生きた少女が人形に(オブジェに)なってしまう、というのはPKD的な意味で理解できるのだが、本書のオーム真理教的な(?)救済のイメージは、見かけの新しさといかにもアンマッチだ。フェティシズムSFというのには面白い可能性があると思う。でも、本書が成功しているのかどうか、よくわからない。菅ちゃんのフィギュア・オタクの話の方が本筋のような気がする。つまり、テレビで「何でも鑑定団」ってあるじゃない。あそこで、西洋アンティックのマニアとブリキおもちゃのマニアが同列に存在する気恥ずかしさ、というか……ああ何をいおうとしたのかわからなくなっちゃった。それと、本書で飛び交う有名ブランド名にはちょっとうんざりする。これらのブランド名から喚起
されるものって、SF的未来的というより、SFオタクを驚かせる程度の役割しか果たしていなくて、はっきりいってダサイと思う。黄昏のヨーロッパのデカダンなゴージャス、というより、どっかの免税店のおばちゃんやおねーちゃんたちの大群が想起されちゃうもんな。
『キャピトルの物語・ワーシング年代記2』 オースン・スコット・カード
第一部はキャピトルの物語。ソメックという小道具が、帝国を破壊するに値するだけの重要さを持っているとは、ぼくにはとうてい思えない。それほど魅力的な小道具にも見えない。だから、この部分はつまらないアイデアストーリー(アイデアそのものが魅力的でないから、それについて苦悩する人々の心が実感を伴わない)としか思えないのだ。アブナー・ドゥーンの物語ですら、『神の熱い眠り』を読んだ後では、世界征服という言葉のもつ甘美さが味わえない。一方第二部はSF的でないぶん、神話物語のシンプルな力強さをもっていて、小説としては読ませる。でも、暗い。うっとおしい。大いなる善のためには個々のローカルな人間性をあえて否定するこれらの作品は、そういう怪しげな善なんてものに興味をもてない凡人にとって、重苦しいばかりだ。ぐいぐいと引きつけられるように読み終えたにもかかわらず、やっぱりカードは嫌いだ、というのが結論です。
『赤い惑星への航海』 テリー・ビッスン
ビッスンのストレートSF。絶賛する人が多いけど、ハリウッドが映画を撮影するために火星旅行をプロモートする、というストーリイは、はじめぼくの嫌いな安っぽい「諷刺コメディ」の雰囲気がぷんぷんと鼻につき、あんまりのれなかった。登場人物たちがきいたようなセリフを口にするのも気に入らない。「ETフォーン・ホーム!」だって、アホか。再び宇宙に乗り出す感激は、キュービー=マクダウエルの方がずっと心にしみるぞ。ところが、舞台が宇宙に移り、火星に着陸するところになると、ああこれは懐かしの宇宙SFだ。時折のはっとするようなカラフルな風景描写もすてきだった。火星の峡谷の描写など、いかにも『世界の果てまで何マイル』でアメリカ大陸を描写したビッスンだ。お約束の遺跡もOK。結末は(クラークじゃなくて)ヴォネガットじゃないか、と思うけど、許す。前半はいやだけど、後半は大好きな話になりました。もっと変なてらいなく書ければ最高なんだけどねえ。
『泡宇宙論』 池内了
ハヤカワ文庫のノンフィクション。「泡」をキーワードに天体現象を語っていくというのだが、池内さんてもう少し文章がうまいと思っていたのだがなあ……。わかりやすくしようとしてか、かえって散漫になっているところがある。でも、宇宙の大構造のあたりはすごく面白かった。
『SF三国志』 石川英輔
同じ著者の『SF西遊記』と『SF水滸伝』は読んだ記憶がある。ストーリーそのままのSFへのほぼ忠実な読み替えは、安易といえば安易だが、それでも楽しく読んだ。本書もその同じ流れのもの。三国志を宇宙へ持っていき、それを几帳面にSF化している。ずいぶんストレートにSFとなっていて、バレバレではあるが、やはり安心して読める。楽しくていいんじゃないだろうか。
『The S-F Writers』 SFマガジン十一月号増刊
SFマガジンの増刊。新井素子から夢枕獏まであいうえお順に日本作家二五人の短編が並んでいる。SFアンソロジーとしての質は高い。これであの人やあの人の作品が読めたら……と仕方のないことはいわないでおこう。それはともかく、SFマガジンという発表媒体を意識してか、しっかりとSFしている作品が多い。印象に残ったものとしては、まず谷甲州の「猟犬」。これはもうヴァン・ヴォクトじゃないですか。長編でも読みたいぞ。菅浩江「賎の小田巻」。カードのソメックに感じる違和感の理由が少しわかってきたような気がする。清水義範「バイライフ」。よくあるアイデアをうまく扱っていて、面白い。中井紀夫「絶壁」。こういうちょっと外れてしまった人たちという感覚はこの人の得意なところだな。岬兄悟「球の内側」。目覚めたら何かになってしまう話の一つだけど、こんな変なものになるとは。何になったのか実はよくわからないのだけど、納得できてしまうところはいい。眉村卓の「茅花照る」。あの震災で人は変わるか、という話。必ずしも成功しているとはいえないが、感じるものはある。その他の作品も、それぞれ面白く読めた。