みだれめも雑多繚乱II
第92回〜99回
水鏡子
みだれめも95年から後のものを、若干の手直しをして掲載します。
これ以前のもの第27回から91回(87年−94年)にかけてのものは、大森望ホームページに載っけてもらっています。会員制ファンジンに掲載した内容を不特定多数の閲覧可能なホームページに掲載するにあたっては、文脈におけるニュアンスのちがいの問題を無視できないと思うのですが、その点についての留意分は大森ページ収載分のはしがきに述べております。是非ご参照ください。
前回の掲載を94年までで区切ったのは理由があって、競馬にはまって、ギャルゲーにはまって、MTGにはまるという、どうしような不毛な人生空間に突入し、みだれめもの内容がどんどん薄味かつちょっと恥ずかしいものになってきたからであります。(事態継続中)
と思ったのだけど読み返してみると意外と御立派。裏を返せば、以前は薄味だと思ったものが立派なものに見えるほど今の自分が衰弱しているということなのでしょう。いずれにしてもこの時期だけ抜かしておくというのもなんとなく中途半端な感じもしますので、化粧なおしをしたうえで、95年以降の抜けてる部分を一挙掲載することとしました。
なお、他の方々のバックナンバー記事の一部について、不特定個人に対する掲載画面としては、配慮に欠ける面が感じられるところがあると、若干の不快感を表明しておきます。
あんまりみんなで特定個人をサカナにしれ遊ぶんじゃない!
▼ 第92回
本体、ハ−ドディスク、モニターと、怒涛の寄りでがぶるがぶるがびっしゅした。震災とはまるで関係ない。12月の話である。えーい手書きの復活だい、と貧乏人根性で頑張ろうとしたけれど、軟弱安直指向の引きが強くて、三つともども新品に買い変わった。98のXe15万円である。大野万紀情報によれば、半年後には10万で買えるという。しゃあないもんね。今ないんだもん。これで、地震でこわれていたら、物笑いのタネになるとこ。
買って帰って2週間。おまけのゲ−ムにはまってひたすら地雷原をうろついている。(マインスイーパー上級五八二がいまのところのハイスコア)
最近読んだ本から。
前田珠子『漆黒の魔性』『白焔の罠』『柘榴の影』『紫紺の糸 上下』『女妖の街』『ささやきの行方』『精霊宮の宝珠』『陽影の舞姫 1〜4』『ジェスの契約 上下』
若木未生『天使はうまく踊れない』『セイレーンの聖母』『十字架の少女』『迷える羊に愛の手を』『炎獄のデイアーナ 上下』『天冥の剣 1〜4』『XAZSA 1・2』
藤本ひとみ『愛からはじまるサスペンス』『月光のピアス』『星影のブレス』
数えてみたら、家の中にコバルト文庫が一四七冊あった。純粋にコバルトだけの数である。X文庫その他を含めていない。岩波よりも新潮よりもたくさんある。
うーむ。
前田珠子という作家は、頭が固い。なにをしでかすかわからないあやうさが、よくも悪くも欠けている。物語の発想のレベルにおいて飛躍の部分に不満が残る。本質的に凡庸である。ポール・アンダースン・タイプ。そのぶん話が安定していて、長所と短所のアンバランスにいらついたりすることもない。安定した枠のなかで目いっぱいがんばっている気配があるし、話を磨いてきれいなものにしあげようという姿勢については非常に高く評価できる。だからきらいではない。数千年の歳月を経ているはずの魔王が、どうみても精神年齢テイーンエイジャー・レベルであるとか、キャラがやたらと感極まって盛り上がるとか、〈たじろぐ〉シーンは少なくないけど、それもすべて〈お約束〉と割り切れば、そう捨てたものでもない。〈たじろぐ〉ことにもそれなりに快感めいたものがある。古本屋購入価格一冊三五円の価値は十二分にある。
とりあえずのお勧めは、本編四作、外伝二冊が刊行されてる〈破妖の剣〉。
タニス・リーの〈平たい地球〉に想を得て、菊地秀行〈吸血鬼ハンターD〉出自のヒロインがチャンバラを繰り返していく連作である。
それ以外の作品も出来としては似たようなもの。型通りの展開に刷り込まれた、思い入れとか思いのたけに同調し、楽しむタイプの小説である。
読み出すと、夢中とはいかないまでも、かなりハマれた。
若木未生の作品は、評判だけをやたら聞いてた〈ハイスクール・オーラバスター〉。行動の動機付けが思い入れ過剰に過ぎてすこしつらいところはあるけど、これもさすがに及第点。前田珠子の元ネタがわりとあからさまだったので、こちらもついルーツ探しにはまってしまい、一作目のシーンやキャラ設定にこれは漫画版『幻魔大戦』でまちがいない、みつけちゃったね、と喜んでたら、『XAZSA』の後書きで本人が自分で喋っていた。つまらん。(『XAZSA』は別シリーズ。人間になりたがっている美少年ロボットを中心にした連作集。読まないほうが正解。)
〈オーラバトラー〉、基本的には、太古から、人を食らう〈魔〉と〈魔〉を食らう〈空の者〉との戦いが繰り返されてて、その戦いに中和能力者の主人公が巻き込まれるという、伝奇物としてはありふれた設定ではじまる。三冊目あたりから、敵味方のキャラがほとんど同じ感覚で性格づけを施され、正邪善悪の単純二分法がこわれはじめる。
登場人物それぞれが、相互に相手に対する迷惑を意識しながら遠慮がちに行動の指針を模索し、自縄自縛の閉塞状況を作り出していくのを読者が楽しむといった趣向の小説で、このさきどうなるか、あんまり先は読めない。作者の性格はかなりキレやすそうである。
物語の世界に対する手ごたえを作者がつかむまでのシリーズ端緒の出来栄えは全体的に相当不安。文章の、とくに最初のころのひどさというのも、かなりのもの。ひどさというより、定番化されたヤング・アダルト口調ということなのだろうけど、こうした口調を採用しつつ、一般の女子中高生以外の読者が読もうとした時、抵抗なく読めるレベルに練り上げるには、たとえば氷室冴子クラスの筆力が必要なのだということだろう。ぼくがこのての本をこなせる理由に、あるいは大量の少女コミックで鍛えた観賞技術の助けがあるのだとしたら、はたして一般人はもちこたえることができるのだろうか。菊地誠はだめだったらしい。
いずれにしてもこの本も、途中からは、こちらも慣れてくるし作者の技術も向上して、ましになるけど、最初の一、二作あたりかなりの我慢が必要になる。心してかかれ。
コミック書き下ろし番外篇『十戒』(杜真琴)はカス。
次に読む作家は誰にしようと、少女小説読みの大ベテランであるお姐さんたち(菊地鈴々その他 3人合わせて百云十歳)に尋ねると、藤本ひとみという意外に古い名前を告げられた。
とりあえず、三冊読んで、放り投げた。
これはだめだ。
一言でいうとプロなのである。この人と比べると前の二人は、アマチュアといっていいかもしれない。読者と自分を同レベルに置いている。それが、ぼくでも楽しめる理由であると思っている。
藤本ひとみはちゃんと読者対象を女子中高生と規定して、そこに合わせて作品を書く。彼女たちに合わせるかたちで自分のレベルを降ろしていく。
この〈降ろしていく〉というのがくせものである。〈降りていく〉のでなく〈降ろしていく〉のが。
降ろしていく背後には、降ろすという使役を行なう降りない自分が存在する。読者とちがう格上の存在としての自分の影がちらついている。
その二重性、それに対象と想定される読者層と読んでいるぼく個人とのギャップが埋められないから読んでてたいへんつらくなる。これを読んでいるおまえは女子中高生であるのだよ、と作者にぼくという人間を規定されていくことだから。これは学生時代、児童文学という存在や、児童文学研究会、児童文学者というものを、実物を読みもしないで嫌悪していたころからの、作家をきらうぼくのひとつの定番である。アシモフやシルヴァーバーグを非難した昔の論旨もその流れに乗っかってのものだった。作者によって規定される読者のイメージに、ある種の見下された大衆像を感じ取り、そういう見くだされた存在に自分が置かれることに反発し、見くだす作者の人間性に反感を覚えた。(もっとも最近は、書くという行為自体にこうした上下関係は本質的に存在しており、とくに大衆小説のある種のものには、上下関係に基づく説明口調が文章技術論として絶対に必要なものであると考えるようになってきている。そのせいで、アシモフやシルヴァーバーグも許せるようになった)
たとえば『月光のピアス』を読んでいて、呪いと科学の違いについて滔々と語られる噴飯物の説明に、腰を抜かしてみせるといった楽しみかたもできないわけではないけれど、さすがにそれは著者が望んだ読み方ではないのだろう。不毛だ。(一度覗いてみるのはいいかと思う。凄いよ)『愛からはじまるサスペンス』は漫画原作者としての実体験が反映されて、それなりに味ある仕上げになってるけれど、読まねばならぬというほどのものでもない。
当面、撤退することにする。
でもまだ未読の藤本ひとみが家にあと12冊も残っている。困ったものだ。
少女小説読みの大ベテランのお姐さんたちは、当然少女コミック読みの大ベテランお姐さんたちでもある。なんでもいっぱい知っている。ギリシア神話のグライアイみたいだ。面白い少女コミックのこともご指導をいただいた。
榛野なな恵『Papa told me 1〜13』『ビッグ・キッド・ブルース』『グリーン・ロマンス』『はじめての雪の日』
加藤知子『異国館ダンデイ 1〜8』『HOLDOUT 1〜4』
逢坂みえこ『永遠の野原1〜9』
榛野なな恵は人間関係のうっとうしさと暖かさとを謳いあげる辛気臭いシリアス・
タイプの地味めの作家。けっこういろんなことを深く考えてるけれど、絵にも話にも華が欠けるというタイプ。このての人が、ひとりキャラクターを発見して、一皮剥けたというのが『Papa
told me』。ハンサムで作家の父親と父子家庭を営む小学生の知世ちゃんというのを主人公にした連作集。暗くまとまりそうなネタをソフトにきもちよく仕上げていく。一冊平均四、五篇のペースで一三冊目ということで、近作はさすがに飽きてきている気配もあるが、これはまあ、いい本だ。
だけど、『BE−LOVE』(『悪女』)だけでも周囲を意識しながら立ち読みをしていたというのに、これから同じコーナーで、『YOUNG YOU』まで見ないといけない。けっこうつらいんだよ。レデイース・コミックに比べれば少女漫画のほうが立ち読みのとき抵抗感がないというのは、これはいったいなんなのだろう。
加藤知子やや○、逢坂みえこ○である。逢坂みえこはいしいひさいち、秋月りすについで関大漫研が送り出した3人目のビッグネームだそうである。グライアイはやっぱりえらい。ウィリアム・ギブスン、ダン・シモンズ、アン・ライス、はまた今度。
【1998年からの注】現在新刊が発売されるたびに、すぐ買って読む漫画は5本くらい。『Papa told me』、『永遠の野原』(雑誌完結)、『パーム』、『おいしい関 係』(雑誌完結)、『ベルセルク』といったところ。
▼ 第93回
スーファミは12月以降『女神転生if』『サンサーラ・ナーガ2』『パワー・オブ・ザ・ハイアード』をこなし、今『シヴィライゼーション』『ユートピア』を放り投げ、『FEDA』というシミュレーションにかかっている。
コミックは遅まきながらの『バナナフィッシュ』に『吉祥天女』、藤田あつこに槙村さとるや大和和紀、坂田靖子の端切れ本、榛野ななえや伸たまきや逢坂みえこの新刊本その他たくさん読んでる。
うーむ。
なんで本だけ読めないんだろう。
毎ネタの、例の古本屋で中田雅喜がずらり並んでいるのに目を剥いた。だれかの家の書棚というならともかくも、本屋で見られる景色ではない。おまけにすぐ横に横山えいじの『おしのび倶楽部』が置いてあるのはとても偶然とは思えない。只事ではない。元関係者がこのへんに住んでいるということなのか。『空は女の子でいっぱい』と『ベッドシーンはNG』を各百円で買う。
見つけたことと読めたことが値打ちであって(けっこう探してたんだよね)中身ははっきりつまらない。『桃色日記』だけ残しておいたらそれでいいかな。
そうそう、『キーツ全詩集1』(白鳳社 二八〇〇円)という豪華本も百円で買ったぞ。
「ハイペリオン」は載ってないけど、全体の半分が長詩「エンデミオン」であるという拾い物。がっしりした造本で、74年でこの定価だから、今なら五〇〇〇円コースだろう。ただし、翻訳はとんでもなくひどい、とある人がくそみそに。たとえば、MINEを9(ナイン)と訳していたりするそうな。
有馬記念を最後にして、年明けから馬券を買うのをやめている(この前米村が横須賀から電話してきて、つい一五〇〇円ほど頼んでしまった)。競馬をするのをやめたわけではなくて、ちゃんと競馬新聞を買って、予想している。必ず負けるものだから、ママゴト上の仮設ノミ屋で金をためることにした。こうしてたまった金というのは、すべて負けてしまったはずの金であるから競馬場で勝負をすれば、勝った分はまるまる儲けになるわけである。正しいか?
『ヴァンパイア・レスタト』アン・ライス
「翻訳が悪い」「かったるい」と周りから悪評しか聞かない『夜明けのヴァンパイア』が大好きである。これまで読んだ吸血鬼小説のなかでトップ3に入れたいくらい。『フィーヴァー・ドリーム』より上位に置いてる。だから続編であるこの本は、シモンズ、ギブスンをさしおいて真っ先に読み出した。
これがなんともかったるい。地方貴族の息子であるレスタトがパリに出て行き、他の吸血鬼たちと生き方をめぐって争いをする前半は、冗長なりにそれなりに楽しめるところもあるが、種族の出生の秘密を求めて放浪する後半部がじつにつまらない。論旨の幼稚さ、ドラマのなさ、愚痴の愚劣さ。ネタの欠如に呻吟しながら、とにかく結末へと筆を進めているだけである。前作とは比較にならない。
処女作である前作は、五才にして白血病でみまかった娘を契機に書きあげられたものだという。その思いがクローデイアという少女吸血鬼に結実したと今度の本の解説に書き留めてある。それだけのものを訳云々に終始してけなすだけけなして、こんどの本を絶賛する評を散見する。訳がひどいといったって、短編ならともかく長編でしょうが。放り投げずに最後まで読み切ったならそれなりに途中で慣れも生じるはずで、訳の背後に横たわる原著の重みくらいは受けとめるのが、書評と名のつく雑文を書いてく礼儀みたいなものだと思う。こんな傑作をこんな訳でと非難するのはまだ許せる。けれども訳の悪い秀作と訳のいい愚作を並べ、読みやすかったというだけで、愚作を褒め讃え、傑作をつまらなかったと言いきるのはどう考えてもおかしくないか。
期待しながら読みだして放り投げた『魔女の刻』に対する評価も本書で再確認した。
この作家はとりあえず、『夜明けのヴァンパイア』だけでいい。
『殺戮のチェス・ゲーム』ダン・シモンズ
エレン・ダトロウ編『血も心も』の巻頭を飾った「死は快楽」が、カスみたいな話だったので、これを引き伸ばした話と聞いて、最初は買いもしなかった。『ハイペリオン』を読んで慌てて本屋に走ったら、なかなかの傑作である。序盤でトニー・ハロッドが、自分たちを彫り込んだチェス盤を目にするところで一気にひきずりこまれた。残念ながら、そのとき予感させたほどにはボーデンもバーラントも神秘的な怪物に育ちきれず、最後の決戦スペクタクルのずいぶんずさんきわまりない、いきあたりばったりの展開に、おまえらどんな勝算で動いていたの?とつっこみたくもなるけれど、印象に残るシーンはいくつもあって、娯楽アクション大作として充分及第点に達している。
それまで読んだ中短編で、こいつは根っからの長編作家で短編はダメなんだろうときめつけかけていたところだから『愛死』の出来の良さには驚かされた。大野万紀も褒めていた「歯のある女と寝た話」がベスト。あちらでの評価の高い「バンコクに死す」とか『ハイペリオン』の「司祭の物語」とかは、まるっきり退屈である。これはどうやら作品のできがどうのということではなく、ぼくの内部にホラー小説の基本的なコンポジションをまったく評価できない資質的(あるいはイデオロギー的)不感症の部分がある、ということのようだ。
例の古本屋では、けっこうへんな本を拾っている。結局買うのが楽しいのであって、読もうという気はほとんどない。重複本もずいぶんできた。重複本には、たいしたことがない本なので買ってなんかいないだろうと思ったら家に帰ってあったもの、家にあるのがボロボロなので買い替えようと思ったもの、こんな本がこんな値段で並べられているなんてと義憤に駆られて買ったものなどいろいろとある。その種のだぶった本を中心に、まきしんじにならって、売りに出す。以前から持ってる本も含めた。
一応の値打ちもの(らしきもの)だけである。ただし買手は手渡し可能な方。送ったりするのはめんどくさい。交換も可。
1 サンリオ文庫(重複)
『マラフレナ(上)』定価四八〇円 買値一〇〇円 売値一〇〇円
『影のジャック』定価四〇〇円 買値一〇〇円 売値二五〇円
『あなたを合成します』定価六〇〇円 買値一〇〇円 売値一五〇円
『バドデイーズ先生…』定価三六〇円 買値一〇〇円 売値二五〇円
『緑色遺伝子』定価三八〇円 買値一〇〇円 売値二五〇円
『悪魔は死んだ』定価六二〇円 買値 只 売値二〇〇円
『SFガイドマップ』全三巻 計一八六〇円買値 只 売値五〇〇円
『ベストSF1』定価五六〇円 買値 只 売値二〇〇円
2 HSFS(重複)
『飢えた宇宙』定価四七〇円 買値 不明 売値二〇〇円
『星殺し』定価三七〇円 買値 不明 売値二〇〇円
『果てしなき明日』定価二六〇円 買値 不明 売値二〇〇円
『宇宙軍団』定価三六〇円 買値一五〇円 売値一五〇円
『バベル=17』定価四〇〇円 買値一〇〇円 売値一五〇円
『太陽神降臨』定価三七〇円 買値 不明 売値一五〇円
『流刑の惑星』定価三〇〇円 買値 不明 売値一五〇円
『人間がいっぱい』定価四三〇円 買値二八〇円 売値一五〇円
『太陽クイズ』定価二七〇円 買値 不明 売値一五〇円
3 翻訳ハードカバー(重複)
『暗黒の廻廊』定価一二〇〇円 買値一〇〇円 売値二〇〇円
『オグの第二惑星』定価九〇〇円 買値一〇〇円 売値二〇〇円
『ワイリー/ライト』定価七八〇円 買値一〇〇円 売値二〇〇円
『君がそこにいるように』定価一六〇〇円 トム・レオポルド 白水社
買値一〇〇円 売値一〇〇円
『ダンシング・ベア』定価一二〇〇円 ジェイムズ・クラムリー 早川書房
買値一〇〇円 売値一〇〇円
『戦慄』定価一三〇〇円 アントニイ・バージェス 早川書房
買値三〇〇円 売値二〇〇円
『ヘーゲル』『ロック&ヒューム』 中央公論社 世界の名著
買値各一〇〇円 売値各五〇円
4 メイン
『大西部物語』定価不明 冊数 10冊 タイム・ライフ社
買値計一千円 売値計1万円
これが今回最大の掘り出し物。西部開拓時代を、さまざまな職業集団(?)で切り取っって紹介している大全集。資料や写真は豊富だし、中学生でも楽しく読める紙面作りはしてあるし、ビニールクロス張りにしてある豪華本で、名著ライフ・ネイチャー・ライブラリーに匹敵する逸品である。家に置いておいても充分値打ちのある本だけど、見れば見るほど、むしろ翻訳者の皆様の必携本ではないかと思いいたして、仕事のための本なのだからと派手にふっかけさせていただきます。
巻数が振ってないので10冊で完結してるかどうなのか不明なのがちと残念ですが、1万円の値打ちは充分あると確信しております。他の本の値つけからもおわかりのようにきわめて良心的な価格設定を心掛けておりまする。 各冊の題名は左記のとおり。(順不明)
『タウンズマン』『エクスプレスマン』『レールローダー』『ソルジャー』『フォーテイナイナー』『インデイアン』『グレート・チーフ』『ガンファイター』『パイオニア』『カウボーイ』
5 その他
『おやつストーリー』オカシ屋ケン太
講談社 定価一六〇〇円 91年11月 買値一〇〇円 売値 二〇〇円 『オリーブ』に10年間連載されたおかしに関するコラムを集めたもの。写真もいっぱい入っていて楽しい。
『1960年大百科』『1970年大百科』 宝島 定価計二五〇〇円
買値計二〇〇円 売値計五〇〇円
レトロ本第2弾。70年版は反体制系、60年版は面白趣味。ライター名に斎藤芳子という名前をみつけて、あ、おんなじ名前がいる、と思ったら、続いて、大森望というのもいた。
なんだ、身内本か。
『THE COMPLETE ILLUSTRATED WORKS OF LEWIS CARROLL』
買値一〇〇円 売値 一〇〇円
おなじみルイス・キャロルの挿絵入りハードカバー原書。全部で九三四ページある。
『吸血姫』『日本列島南下運動の黙示録』 唐十郎の戯曲初版本
買値各一〇〇円 売値 ?
その筋の本屋に持っていったらそこそこの値段で売れそうな気がして買ってしまった。
〈コバルト文庫〉一〇〇冊 定価3万円強 買値五千円位 売値計三〇〇円
※氷室冴子は入っていません。X文庫もすこしあります。
SFM5月号のてれぽーとの匿名投稿はわたくしめでございます。関係者にはぼくだというのがわりと見当つきやすい内容でしたが、発売日の次の日あった例会では、だれもそれについて触れようとしない。95%ぼくの仕業と思うのだけれど、5%の疑念があって、だけどそれを尋ねるのは、ぼくの仕掛けに乗せられるようで、それはけっこう業腹だ、といった気配がちらちらし、読んでるはずの人間が、だれもそちらに話題を振らない。
口火を切るのを妙にためらうじりじりした間があったりして、これもわたしの人徳のいたすところと、なかなか楽しいひとときでした。
【問題】結局、しびれを切らしたのは、誰だったでしょう?
二〇年ぶりの投稿です。
『ハイペリオン』には感動しました。オールタイム・ベストの一冊に含めたい気分です。キング、クーンツ、マッキャモンなどホラー作家の作品の、SFセンスの凡俗さに失望をくりかえしてきたこともあり、今度も眉に唾して読み出しましたわけですが、驚くほどにSFマニアの粋を集めた連作集で、目を瞠る破目になりました。
「詩人の話」と「学者の話」が絶品でした。この二つと「領事の話」が泣ける話で、このての話にけっこう弱い。あとがきで、いろんな作家がひきあいに出されていますが、ぼくが「学者の話で」連想したのはファーマーの埋もれた傑作「わが内なる廃墟の断章」(『タイム・トラベラー』所収)でした。あっちはむしろ恐怖味の強い話でしたが。
ただ、訳者や書評の方々が、一刻も早く続編を読んでほしい、読んでみたいと言うのを聞いて、個人的にはちょっとちがった感想をもちましたので一言書き添えたくなりました。
『ハイペリオン』が強い印象を残した理由のひとつは、本書がこれだけの密度とドラマを盛りこみながら、あまりに多くの謎を先送りしたことにあるのだと思います。
おかげでこの小説の世界を支える地平線は曖昧とした霧のかなたに溶けこんで、世界が広がる限界が見えなくなってしまっています。
本書を読むという体験は、『ハイペリオン』という物語を読み切るという充実感というよりも、本書という窓を通して、茫洋と広がる〈ハイペリオンの世界〉を覗き見る昂揚感といったふうなものでした。
個々の物語にしても、独立した短編として判断すると中途半端な話です。けれども本来短編ならば、書きこまれないといけないものが、とりはずされ、先送りされることにより、かえってのびのびした自然な風景にしあがったという感じなのです。
訳者あとがきからすると、続編もまた大変な傑作で、しかも相当のちからわざを見せつけてくれそうですが、それだけに、世界が完結して、〈物語になってしまう〉気がして、読みたくないなと思うのです。
今、慌てて『殺戮のチェス・ゲーム』をはじめ、片っ端からシモンズを読んでいます。まさに傑作だらけなのですが、ふしぎと『ハイペリオン』に結集したSF臭さは拭われてちがうタイプの面白さにあふれたものななっています。同じ作家の本であるのが信じられない気がします。それだけ奥が広いということでしょう。
これから本屋にキーツの詩集を探しにいきます。
(兵庫県 匿名希望)
ちょっと、遊びにきました。だれも『ハイペリオン』のお便りを書いてないようなので、少し腹も立ててます。
没になってもはっしょっても別に気にしませんので、お気兼ねなく。
ただ、もし、掲載いただけるときは、できるだけ、酒井山岸村山古沢その他、情報ネットワークには伏せてください。そのほうが載った時に楽しいですから。
地震の被害は本が千冊ほど床に落ちて、表紙に折れ目がついたくらい。
東に大断層が出来てしまって、日曜日に例会にいけなくなって、気晴らしにこんなものを書いてみたりしているわけです。
ではまた。
▼ 第94回
5月を契機に本をいっぱい読むことにした。仕事がらみのばたつきも峠を過ぎ、TVゲームも、お馬さんも少し倦き気味。こんなときに復帰できなきゃ、もう一生読書三昧の生活に戻れそうもない。ちょっと気合をいれて楽しもう。
そういうわけで。
5月に読んだ本である。
『悪霊がホントにいっぱい』『悪霊がいっぱいで眠れない』『悪霊はひとりぼっち』『悪霊になりたくない』『悪霊とよばないで』『悪霊だってヘイキ! 上下』『悪夢の棲む家 上下』『月の影 影の海 上下』『風の海 迷宮の岸 上下』『東の海神 西の滄海』『風の万里 黎明の空 上下』『銀の海 金の大地 10』『海がきこえるU』『猫ばっか』『ふつうのくま』『ふしぎねこマキャヴィテイ』『敵は海賊・海賊課の一日』『時間的無限大』『七百年の薔薇』『LAタイムズ』『サイベリア』『戦中派天才老人山田風太郎』『魔性の子』『東亰異聞』『バースデイ・イブは眠れない』
なかなか古本屋に出回らなかった小野不由美がひとまとまりに入手できたのを機会に一気読みした。(十六冊で計一千四百円)
これまでに読んでいたのは『悪霊なんかこわくない』と『悪霊がいっぱい』の2冊だけ。講談社X文庫という先入観を裏切ることない平穏無事な水準の本だった。
らしからぬ気配が強くなるのは〈悪霊〉シリーズ3作目『悪霊がいっぱいで眠れない』あたりから。蘊蓄がメリハってくる。話の軸となるアイデアにX文庫で要求される水準を越える検討を加えた気配が強まってくる。個人的にはシリーズ4作目『悪霊はひとりぼっち』の軸アイデアをいちばん高く評価したい。
問題は、資料に精通すればするほど、蓄積された〈高度な〉知識を無知な読者にかみくだいて説明するプレッシャーが作者のなかに高まってくること。夢枕獏なんかそういう技術に長けてるのだけど、そうした技術以前の問題として、そういうタイプの小説は、作者読者間に一種の高低差、上下関係設定し、読者をやや傲岸に見下すスタンスが要求される。これは作品の構造上の要求であって、作者の人格とはとりあえず関係ない。大衆娯楽小説の巨匠と呼ばれる人たちはたいていそういうスタンスで仕事をしているはずである。小野不由美のスタンスは、かなり質の高い読者を想定しつつ、そうした読者と同一目線上に物語を紡いでいくものだと思う。ついでにいえば、ヤングアダルトってのは、一部のかんちがいを除くとだいたいそういうスタンスが主流とみてまちがいない。要はそこで想定する読者の質と文章技術の問題が、ぼくらが引き込まれてしまうもの、読むにたえない罵詈讒謗の嵐になるもの、画然と分かたれることになるのだろう。
超常現象がらみの知識の蓄積を年少の読者に評価される可能性が高まるほどに、作者自身がその種の知識に深い興味をもってはいるが、かならずしも信じているわけではないのであると、社会的責任を担いつつ自己正当化を計らなければいけないと、思い定める気配が強まる。そしてそういうスタンスはぼくの好みであるわけだけど、そのせいで、小説のもつ性格が中途半端にゆがんできたように思える。最新作『悪夢が棲む家』はそういうところであまり評価は高くない。登場人物再紹介で無理をしたという面もある。
他のYA連中のものと比べれば、もちろんはるかにレベルは高い。このレベルの作品を持ちあげず、けなせることが作家に対する評価でもある。
(SFクイズ)
Q 次のタイトルを順に並べよ。
1 人形つかい
2 夏への扉
3 時の門
4 地上の緑の丘
5 歪んだ家
6 月は無慈悲な夜の女王
(答え 2 5 1 6 3 4)
4番目のタイトルのずれがポイント。なにかといえば、『悪霊なんかこわくない』の章立てタイトルである。7年前にこの本が出版されたとき、十の章立てタイトルをすべてハインラインで整えてあるのに、ちょっと話題になったりした。
こんな問題、作家の格があがってはじめてクイズとして紹介できる値打ちが出てくるんだろうね。
〈十二国〉をどう書くか、どう読者に伝えるか、ほんとうに作者がふっきれ、自信を持って書きあげたのは、昨年刊の『東の海神』『風の万里』の近作2篇においてだろう。物語世界の構想は、明らかにすでに『魔性の子』の段階でできあがっているけれど、この2作からふりかえると、前2作はまだまだ習作風で、自分の呼吸で作品に、緩急をつけ、物語を手繰る域にはほど遠い。読ませどころのシーンというのは意外と陳腐な見覚えのある予定調和のシチュエーションで充分であり、ただそれを、どれだけの自信と技術で見栄を切れるか、それだけで、同じ場面を描いたものが、感動名場面にもなれば、借用してきたつくり物と罵倒されることにもなる。書こうとされた内実では、〈十二国記〉4作はたぶん同じ重みを背負っていると思うけれども、仕上がりの質において前2作と後2作は格段の差が生じた。それにしてもホワイトハート文庫であるといった媒体への遠慮もなにもなくなってしまいましたねえ。自由に書きたいことを書いている爽快感が心地よい。
こうやってみると小野不由美が本格的に化けたのはまだほんの去年のことでしかないといえそうだ。さらには、まだ、この化けたあとの本にお目にかかってないわけで、(そのあと出たのはリライト本 まだ未読)やはり次の〈十二国〉が最終的な評価の決め手になるのだろう。
どちらを上に置くかで評価が分かれた昨年の2作。ぼくは『東の海神 西の滄海』派だけれど、作品のスケールからいえば『風の万里 黎明の空』の本伝としての風格に軍配があがる。りっぱなスケールであるぶん、まだまだ磨き込みが可能であった感じがして、小ぎれいにまとまった『東の海神』より減点法で評価を一歩落とした。仕上がりとしてはそういう評価であるけれど、ここまでのこの作者の作品としては最高傑作でありえた。水戸黄門がイヤだという大森望説はわからなくはないけれど、あのての骨格こそ大衆小説の王道である。最後の朝儀のシーンにこの長い物語が収束したのがなんといっても感動的。
「その証として、伏礼を廃す。 ーこれをもって初勅とする」という結語がとんでもなくいい。「アルジャーノン」に匹敵する。
たぶんこの小説、最初に後半ができあがったあと、世界が書き割りに堕さないよう、リアルさを与えるためだけに、ただひたすら前半が書きこまれたように思える。それでもなおもっと磨けた気配がするのがかえすがえすも残念だ。
慌てて、古本屋をはしごして、残りの本を探したけれどみつからない。(それでも『バースデイ・イブは眠れない』をみつけたのだから立派なものである)
泣く泣く新刊で『東亰異聞』『魔性の子』を買う。たった2冊で二千円を越えてしまった。残り十九冊の合計額より値が張った。
『東亰異聞』も傑作。文章の練り込みとか小話の挿入やミステリ仕立の趣向の点とか、完成度ではこの本がいちばん。
人形遣いのやりとりの語りの部分に違和感があって、どう本編部分の語りと摺りあわせるつもりかがじつはいちばん気になった。そこをうまくこなしてくれたので、展開の多少の強引さはみんな許せる。人形娘と比較して鞠乃の風情が即物的に過ぎるところが不満といえば不満かも。
『魔性の子』が『風の海 迷宮の岸』と対になった本だとは知らなかった。先にも言ったように、この本の刊行時点でまだ書かれていない〈十二国〉の大枠はすでに完成している。それを断片的に一気に講釈していくから、唐突感は否めない。しかもこちらのほうが年長向けに書かれているから、こっちを読んでから『風の海』を読むと不満が出てきそうである。確かに最初にこれを読むより、〈十二国〉を読んだあとのほうが興が湧く。(ただし、少年の正体がまるわかりということで、読者にとって本の性格そのものがまるで別物になってしまう。理想としては『魔性の子』を読み、〈十二国〉を読み、もう一度『魔性の子』を読む、という方法がいいんだろう)
『バースデイ・イブは眠れない』はデビュー作。絶版にしてしまっているようである。
氷室冴子である。小野不由美は出版媒体のイメージ枠を無視することができるけれど、じつは氷室冴子というひとは、意外とそうした大枠を大切にしている作家だと思う。シーンの演出のうまさであるとか、心理の綾への洞察の深みのせいで、とんちゃくしてないようにみえたりするけど、できあがった結果がコバルトばなれしているだけで、本人としては、コバルトといういちばんじぶんの似あいの場所で、コバルトらしい話を、ただ、物語の自走性を壊さないよう舵を取りつつ進めていっているだけなのだろう。とりあえずの設定は、凡百の異世界ヤングアダルトとそう異なったものではない。ただその世界がリアルに伝わるためには、どれだけのことが必要か、要は、そのあたりの視野と思考と文章力が、他の同類項の作家たちとはちがう結果を生み出しているというだけのことだといっていい。
『金の海 銀の大地 10』はいよいよ次回が第1部の最終巻。本人自ら宣言する疾風怒涛の展開で大どんでん返しもあったりするりっぱなものだが、どんでん返しの解き明かしが、生まれたばかりの赤子が大人顔負けの知性でもって知的情的操作を行なったせいだというところに、さすがにつらいものがある。あそこで作品が薄っぺらくなった。書き急いだというか、もう少しうまくごまかしようがなかったものか。
『海がきこえるU』は楽しく読んで、たぶんすぐに忘れる本。最後まで前の本がどんな話だったか思い出せなかった。
『敵は海賊・海賊課の1日』
今回はヨウメイの出番が少ない。唯一の対抗軸がでてこないからアプロが好き勝手をやっている。
『猫ばっか』『ふつうのくま』『ふしぎねこマキャヴィテイ』佐野洋子の絵本。
『戦中派天才老人山田風太郎』関川夏央によるよもやまインタビュー集。掲載誌が「鳩よ!」ではしかたがないか。
『七百年の薔薇』○ 『LAタイムズ』×
▼ 第95回
本を読むということの、じつのところのいちばんの重たい機能は、著者/読者(自分)/他の読者とが織りなす文化的な一体感、共属意識を味わうことにある。
作品として、明示的に書きこまれているその小説固有の幻想世界を共有し、味わうことも、もちろんそのひとつであり、常識的にはそのことこそが読書の第一義的な目的であると考えられているわけである。
そしてそういう固有の幻想世界を、どれだけ立派に確立し、構成し、伝えうるか。日常世界からどれだけ屹立させうるか。ときに構図、構造と呼ばれ、あるいは思想性とか情念とかと形容されるもの、はたまた文体などの名のもとに評価されていくものも、煎じ詰めれば幻想世界にリアリテイを付与し、屹立させていく様々な〈技術〉についた名前にすぎない。
書評というのは、結局はそうした種々の技術について、過去に蓄積されてきたそれらの技術体系に照らし合せて、今回の技術の運用が適性かどうかを判定していく作業である。あるいは逆に生み出されているリアリテイから、評価すべき(あるいは批判すべき)技術を発見抽出し、既知の技術体系に帰属させていく作業である。
けれどもじつは読書においてそれ以上に重要なのは、書物というのが読まれることを前提に存在しているさだめのうえにあることであり、書物を書きあげるにあたり、著者が(著者自身を含む)想定読者層を設定し、その読者層にむけて世界を呈示していることにある。想定された読者集団は基本的には文化的小集団である。一部は理念型であり、一部は著者の実体験によるものである。本を読むということには、精神的文化背景として持つそうした秘義的文化小集団に、読者個々人が帰属することを結果的に許可していくことになるというイニシエーション構造がある。(こんな単語が日常用語として使える時代になってしまった。善哉善哉)
それは、読者がはじめて目にする文化集団であることもあれば、ノスタルジックに帰還を許された世界だったりすることもある。畏れおののきおずおずと参入していく場所であったり、幼さにほほえみながら覗きこむ場所であったりする。同じ世界が読者サイドの過去の経験によって読者にとってはまるっきりちがう性格のものに変化する。すぐれた書物というものは、そうした多種の読者の異なる接近にみあった技術をちりばめたり、あるいはすべからくの読者を力わざで強引に一色に染めあげひきずりこんでみたりする。
さらにはかなり多くの場合、設定された読者層というものが、ふんぞりかえった作者によって設定された蔑視はなはだしい集団であることもある。提出された読者層に反映される作家の心性の貧しさに、怒ったり、嗤ったり、自省したり、はかなんだりを、楽しむという読み方もこれはこれでわるくない。
それがいわゆる〈スタンス〉といった言葉であらわしたくなる構造なのだと思っている。
もしくは目線という言葉。
作者の本に対するスタンス。作者が本を通じて向かう読者に対するスタンス。あるいはこれまでに書いてきたいくつもの本に対する思いを踏まえたうえでの今回の本に対するスタンス。読者の本に対するスタンス。本を通じて作者に向ける読者のスタンス。本を通じてジャンルに向ける読者のスタンス。対象物への距離と姿勢と目配りの重ねあわせたことばとしてのスタンス。(さらに翻訳ものの場合、これらの間に訳者のスタンスという問題が挟まって、ベクトルがさらにややこしいものになる)
作者が、自分の想定している読者層にどれだけ敬意を表しているか、逆にどれだけ蔑視しているか、それをどういうかたちで表わしているか、隠しているか、じつはそういうことが作品の内容以前のところにおいて前もって作品の評価を決定づけることもある。眼高手低の作品の志を評価して高くほめあげる一方で、安定した技術の所産を一刀のもとに切り捨てたりする。(ただし想定する読者層に対して畏敬の念を抱きつつ、かつそのことに萎縮せず、むしろ自分もその一員であるのだと誇りをもち、その証しとして仕上げられる作品は、当然作者がそのように高く評価している読者たちのお眼鏡にかなうよう常にも増した努力が傾けられることになる。ときには一般読者にとってピントはずれの方向に熱意が傾注されて、出来をわるくすることもかなり高い確率で存在しているわけだけど)
『ハイペリオン』『ハイペリオンの没落』で、まずなによりもうれしかったのは、最近じつは自分でもいささか自信喪失気味だった、自分を含めたSFファンという存在へのダン・シモンズが表わす高い敬意、『殺戮のチェスゲーム』や『サマー・オブ・ナイト』より明らかに1ランク質の高い読者層を想定し、その人たちにおずおずと作品を差し出してくる手つきにあった。もともとSFとはそういう娯楽性と高級性を兼ね供えた質をもつ、志の高い読者に支えられた文化集団だと思いこんでた時期があり、そうした読者の一員にぼく自身含まれているつもりだったりしたんだよなとプライドをくすぐられる心地好さに満ちた作品だった。
(ダン・シモンズの本のなかでは『愛死』が同じく読者としてのプライドをくすぐる読者設定と手つきをもっている。但し設定された読者層はまるで異なる文学系。SFファンの気配がない。このへんにこの作家の本質がどのへんなのか、見えてこない不安がある)
そしてここでダン・シモンズが、想定している読者層(SFファン)の中核部は、かなり時期的に限定された集団だ。
六〇年代後期、エース/ギャラクシー系の戦闘的読者集団である。ハーラン・エリスン、サミュエル・ディレイニー、ロジャー・ゼラズニー、ジャック・ヴァンス、フィリップ・ホセ・ファーマー、ラリイ・ニーヴン、キイス・ローマー、フレッド・セイバーヘーゲン、フランク・ハーバート、ロバート・シルヴァーバーグ、フリッツ・ライバーなどなど。P・K・ディックはあんまりないな。R・A・ラファテイも関係なさそう。コードウェイナー・スミスもたぶんいない。ゴードン・R・ディクスンはいそうだ。
アーシュラ・K・ル・グインはかかるかもしれないけれど、全体的に女流作家ははじかれている。六〇年代後期といっても『危険なヴィジョン』や『オービット』、イギリスNWでなく、あくまでギャラクシー系である。イフが3年連続ヒューゴー賞を授賞したころの同誌を熱狂的に支持していた読者層を想定し、おれもそのひとりだったと宣言している本として受け取った。酒井先生はジャック・ヴァンスを連呼しているけれど、ぼくとしてはハーラン・エリスンが気になる。とりわけシュライクが前面にでてくる『没落』はテーマ的な大枠にハーラン・エリスンが大きく影を落としている。「世界の中心で愛を叫んだけもの」「声なき絶叫」『デス・バード・ストーリーズ』なんかのかなり決定的な影響を感じる。
あとで、解説その他でデビューがらみのエリスンとの結びつきに気がついたけど、人脈的な経緯を考慮するまえに本を読んでて感じた印象であり、さらに人脈的知識と照らし合せて感想に自信を持った。
作品構造としては、かっちりまとまった『ハイペリオン』をなかに包みこむかたちでシューマイの皮のような『没落』がある。リニアーな続編でなく、話が何度も『ハイペリオン』に引き戻される。
『ハイペリオン』は1冊で完成本だが、『没落』は2冊セットで1冊の長編本である。年末のベスト選びに際しては、どういう取り扱い方をすべきか、編集部からあらかじめ指示を出しておくべきだろう。
場面構成、展開等の技術は並みのひとではないけれど、他の作品を読むかぎり、これだけの長さを緩みなしに書きあげられる文章力はないと思う。酒井訳日本語版は原書より文章的に相当に潤色されているとみている。たぶんまちがいない。
とりあえず傑作。オールタイム・ベスト級といっていい。読んでる間は勢いで欠点がほとんど目につかない。
ただし、これ以上長い本だとちょっとつらいだろうな、という感想をひとまず横に置いといて、話が駆け足すぎて重厚にしあげきれなかった印象は残る。咀嚼するたび印象がうすっぺらくなっていく。序破急の急というのはドライヴ感の維持の問題であり、書きこむことで壊れるものではないはずだ。
総体的な印象としては、『果しなき流れの果に』を連想した。
この本のせいで枕元にしばらく『宇宙のなかの神の場』『自然のなかの人間の位置』とティヤール・ド・シャルダンの本が2冊鎮座した。結局読まなかったので、読みたいひと貸します。
だけど、たとえば酒井先生にしてもぼくにしても、そしてたぶんザッタ周辺にたむろする読者連にとっては、ダン・シモンズの想定読者というものに、世代的に我が意を得たりといったところにあるだけに、そうした文化背景を持たない読者というものにどれだけ支持を広げることができるのか、つかみきれない不安もある。ぼくらにとっては、還ってこれたSF世界であるけれど、そのひとたちには連れてこられた世界なわけで、この文化集団がかれらにとって親和的か排外的か、排外的なものだとしたらそれを抑えこんでまでひっぱりこむだけの技術がダン・シモンズにあるのかどうか。
そんなぼくにとっては関係ないことに思いがいってしまったのも、『ブレイクの飛翔』という本が、ウィリアム・ブレイクとその時代についての、やはりかなり質の高い読者層と触れあうことを意識しながら書きあげられた気配があって、作品的には気にいったものの、作者の想定読者層からははずれてしまう疎外感を少し感じてしまったからだ。
解説でなんの言及もないけれど、このひと、P・K・デイックの最初の共作長編『ガニメデ乗っ取り(未訳)』の相棒で、ジュディス・メリルの年刊傑作選に収録されて、伊藤さんの「マガジン走査線」で紹介されて、日本版では削られて、その後集英社文庫『ショートショート秀作選2』に収録されて、やっといそいそ読んでみたけど、ちっとも面白くなかった「朝の八時」を書いたレイ・ネルソンである。
とんでもなくすごい気がするのが谷川俊太郎。
想定読者がみえない。7才から70才まですべての年齢層の読者に対し、同じ目線で敬意をもって作品を差し出してくる謙虚さがある。読者として思わず伏しいただきたくなる謙虚さだ。
日頃百円本しか買わないぼくが、『谷川俊太郎詩集』『谷川俊太郎詩集 続』に大枚二千二百円(定価四四〇〇円)をはたいて買って例会に持っていったら、昔から持っている人間がふたりもいやんの。やーねえ。
家に帰って調べたら持ってる角川文庫版『空の青さをみつめていると』の元版だった。まあいいや。セコさで定評のあるこのぼくが、べつにしまった!と思わないところがこの詩人の人徳だろう。
それにしても前にも一度書いたのだけど、この人の詩って、ほんとSFのエッセンスになっていて、頭を抱えてしまう。幻想的とかシュールとかじゃなく、根本的にサイエンス・フィクション的。
こういうものがSFだ、と言いきりたくなるのがうぞろむぞろに並んでいる。
昨日の奥の十億年
明日の奥の十億年
アンドロメダ星雲とオリオン星雲との
地球に関する事務的な会話
机の下のヒヤシンス
おやつのチヨコレエト
せいぜい無限ほどの体積しかもたない
人間の頭脳
しかるが故の
感情の価値
(「周囲」)
シオドア・スタージョンの「孤独の円盤」をつい思い比べる表題作が収録された第1詩集『二十億光年の孤独』のなかの一篇。(おそろしいことにこの詩集の発表年度は一九五二年である。こっちのほうが古い)
この人の大衆性と高踏性、知性と感性、文章とメッセージといったもののブレンド風味の絶妙さこそ、正しいSFの在り方であると、またもや感じいってしまった。
この第1詩集のいくぶん素朴なSF的感性が、『わらべうた』の言葉遊びのメタフィクション的知性へと昇華していく課程というのも、ちょっとSFの進展の方向的必然みたいなものとだぶってイメージした。
大学のコンパに行って、HソフトとSLGをもらって帰って驚いた。最近のソフトって手順通りにハードデイスクにインストールしてしまうと原版ってぜんぜん不用になってしまうのが少なくないんですねえ。海賊版でないかぎり、起動の時くらいは必要だと思っていた。
だけど、4本もらって帰って、インストールとしたら、そのうち2本が動かない。やっぱりコンピュータは難しい。(現在稼働中のソフト。『同級生』『トキオ』)
古本はあいかわらず増殖を続けている。ついにコミック本につづきコバルト文庫のダンボール箱行きが決定した。
▼ 第96回
唐突に多岐川恭にはまってしまった。
古本屋で50円で拾ってきたカバー無しの文庫本(『用心棒』新潮文庫)を軽い気持ちで読み出したら、文章がいい。文学的とかいうのでなくて、抑えの利いた職人肌の文章で切れ味がいい。最初に連想したのは半村良だけど、文体越しに伝わってくるある種のストイシズムとダンディズムは、むしろフリッツ・ライバーである。ソフィステケートされた反骨精神が伝わってくる。時代ピカレスクと冠されるタイプの話が評判のようだ。〈悪党〉が〈悪人〉を懲らしめて、上前をはねる話と要約したのは宮部みゆき。捕物帳も多数あるが、正義をふりかざす刻苦勉励型主人公はきらいみたいだ。捕物帳が多いというのはつまりは連作短篇集が多いということで、長編型の作家にくらべて一気読みするのは少ししんどい感じだ。代表作は『ゆっくり雨太郎捕物控』というシリーズで何回か版を変え、内容を組替えて出直している。最新版は徳間文庫版全6巻。週間新潮に読切連作のかたちで昭和42年9月から43年7月、47年9月から48年6月まで2度に渡って連載された。ショートショートに近い読切のアイデア・ストーリー的な連作で、盛り上がりには欠ける。じっくりと全編片付けるとじわじわ利いてきてそれ
なりに堪能できそうな気配はあるけど、そういうかたちで浸りこむ読書スタンスにはなっていない。いまのところ最初に読んだ『用心棒』を越えるものにはであっていない。あっというまに四〇冊ほどの本が棚に積み上げられてしまったので、まあ、しばらくは、ぶらりぶらりとつまみ読みをすることとして、わかるかぎりの作品リストを掲げておこう。
多岐川恭作品不完全リスト
(再刊本については追補分を含むもの、組替えしたものあり)
*『』は再刊組替え本 ◆印が手に入れた本
「みかん山」『宝石』5312月号
*懸賞原稿佳作入選作
◆『氷柱』58 河出書房
84 講談社文庫
◆『濡れた心』58 講談社
*第四回乱歩賞
77 講談社文庫
◆『落ちる』5811 河出書房
*短篇集 「落ちる」「猫」「ヒーローの死」「ある脅迫」「笑う男」
「私は死んでいる」「かわいい女」 表題作直木賞
85 徳間文庫
◆『虹が消える』5911 河出書房
85 徳間文庫
『私の愛した悪党』60 講談社
◆『静かな教授』6005 河出書房
85 徳間文庫
『変人島国物誌』60??
『黒い木の葉』短篇集
『好色の窓』短篇集
『死体の喜劇』短篇集
◆『異郷の帆』6106
77 講談社文庫
『女人用心帖』61 新聞連載60−61
徳間文庫
◆『イブの時代』61 中央公論社
*SF 69 日本SFシリーズ
77 ハヤカワ文庫JA
◆*『現代推理小説全集 11 多岐川恭集』6108 東都書房
収録作 『濡れた心』『静かな教授』「わたしは死んでいる」「かわいい女」
◆『処刑』??
77 文華新書
『孤独な共犯者』62
文華新書
『五右衛門処刑』63
*短篇集
『江戸の犯科帳』??
◆『紅い蜃気楼』??
78 徳間書店
『甘いホテル』64
◆『明暦群盗図』65 桃源社
90 徳間文庫
◆『消せない女』65 講談社ロマンブックス 新聞連載64年
86 光文社文庫
『江戸三尺の空』68
『江戸の犯科帳』68
◆『江戸悪人帖』6804 桃源社 *連作短篇集
収録作「後れ毛の女」「箱根搭之沢」「手習い塾」「空き家の呪い」
「死んだうぐいす」
84 双葉文庫
94 徳間文庫
『戦国雑兵出世噺』??
『姉小路卿暗殺』??
『武田軍団玉砕す』70
『首打ち人左源太』?? *連作短篇集
『柳生の剣』71
『ふところの牝』??
89 光文社文庫
◆『消えた日曜日』7104桃源社
85 光文社文庫
◆『深川売女宿』(改題『出戻り侍』)7202 桃源社 *短篇集7篇
収録作「深川売女宿」「上州からの客人」「牢の女」「出戻り侍」
「宿場の大盗」「討たれる男」「お半呪縛」
94 光文社文庫
◆『男は寒い夢を見る』7206 桃源社
88 光文社文庫
◆『元禄葵秘聞』7211 講談社
92 徳間文庫(上下)
◆『宿命と雷雨』7305サンポウ・ノベルス
87 光文社文庫
◆『目明かしやくざ』(改題『江戸妖花帖』)7308桃源社 短篇集
収録作「目明かしやくざ」「餌差しの辰」「髪結い藤吉」「斬る」
「雪と月と花」「同病三人」「夢の新左衛門」「貞女の淫」
93 光文社文庫93 収載時、表題作を『目明かしやくざ』92に既収録としたことから表題作を外し、改題して刊行。
◆『練塀小路のやつら』(改題『練塀小路の悪党ども』)7309講談社 *連作集5篇
収録作「薬研堀の狼」「石町の銀鼠」「池之端の蝮」「鉄砲州の小猿」
「向島の傷千鳥」
92 新潮文庫
◇『悪い連中 ゆっくり雨太郎捕物控』7312新潮社
*連作集30篇 *徳間文庫全6巻が現行形
◆『悪の絵草紙』7502講談社 *連作集5篇
収録作「平河町の隠居」「淡路屋の用心棒」「叶屋の毒花」「蓮華庵の隠者」「牡丹屋敷の奥女中」
91 徳間文庫
◆『江戸妖花帖』(改題『目明かしやくざ』)7506桃源社 連作短篇集
収録作「力士の妾宅」「裸屋敷」「蟻地獄」「心中者は花の香り」
「狂った長屋」
92 光文社文庫収録時に「目明かしやくざ」と単行本未収録だった
「居候の失敗」を加え、完成版とし、それに合わせて改題
◆『色仕掛 闇の絵草紙』7610新潮社 連作短篇集
収録作「あぶな絵の女」「筋書は狂った」「心中者比べ」「カモがきた」
「絵絹は玉の肌」「女按摩お京」「塩から仁兵衛」「蜜の滴り」
「若衆人形は雪の肌」「責め絵草紙」
89 新潮文庫
◆『的の男』78 実業之日本社
85 ケイブンシャ文庫
◆『13人の殺人者』7810講談社
*短篇集13篇
◆『用心棒』7811新潮社
88 新潮文庫
◆『闇与力おんな秘帖』7905講談社
*連作集8篇 90 徳間文庫
◆『お丹浮寝旅 色遊び』8005サンケイ出版
*連作集24篇 91 光文社文庫
◆『冨太郎捕物ばなし』80 桃園書房
*連作集8篇 改題『四方吉捕物控3 肌に覚えが』93 徳間文庫
◆『色仕掛 深川あぶな絵地獄』80
90 新潮文庫
*『蔦屋の心中 ゆっくり雨太郎捕物控』8011光風社
*連作集18篇
『岡っ引き無宿』81
9105徳間文庫
◆『江戸智能犯』8106桃源社 *短篇集7篇
89 大陸文庫
◆『鼠小僧の冒険』8106光風社 *連作集6篇 改題『色懺悔 鼠小僧盗み草紙』
91 新潮文庫
*『二人の浪人 ゆっくり雨太郎捕物控』8107光風社
*連作集18篇
*『犬を飼う侍 ゆっくり雨太郎捕物控』81 光風社
*連作集?篇
◆『暗闇草紙』82 講談社
92 新潮文庫
◆『お夏太吉捕物控』8203実業之日本社
93 徳間文庫
*『からくり茶屋 ゆっくり雨太郎捕物控』8201光風社
*連作集18篇
*『人形屋お仙 ゆっくり雨太郎捕物控』82 光風社
*連作?篇
*『天狗の使い ゆっくり雨太郎捕物控』82 光風社
*連作?篇
*『狙われる奴 ゆっくり雨太郎捕物控』8207光風社
*連作集16篇
◆『後家ごろし 四方吉捕物控』8208光風社
*連作集7篇 92 徳間文庫
◆『毒のある女 四方吉捕物控』8209光風社
*連作集6篇 改題『四方吉捕物控2 後家の愉しみ』92 徳間文庫
『お江戸探索御用』8312光風社
◆『追われて中仙道』8403光風社
『地獄のカレンダー』8511実業之日本社
*連作集8篇
『片手斬り同心』8702双葉社
『長崎で消えた女』8703講談社ノベルズ
*『ゆっくり雨太郎捕物控 1』8706徳間文庫(組替え決定版)
*連作18篇 ◆
*『ゆっくり雨太郎捕物控 2』8707徳間文庫
*連作18篇 ◆
*『ゆっくり雨太郎捕物控 3』8708徳間文庫 ◆
連作18篇
◆『首打ち人・偽りの刑場』8509双葉社
88 双葉文庫
*『江戸三尺の空』8805大陸文庫
*『ゆっくり雨太郎捕物控 4』8805徳間文庫 ◆
*連作集18篇
*『ゆっくり雨太郎捕物控 5』8806徳間文庫
*『ゆっくり雨太郎捕物控 6』8807徳間文庫
*連作集18篇 ◆
『仙台で消えた女』8807講談社ノベルズ
*『追われて中仙道』8809大陸文庫
*『柳生の剣』8901徳間文庫
『お江戸捕物絵図』8902光風社
*『片手斬り同心』8902双葉文庫
◆『晴れ曇り八丁堀』8904双葉社
91 双葉文庫
*『女人用心帖 上下』8908徳間文庫
◆『江戸の一夜』8911光風社
95 新潮文庫
◆『春色天保政談』9006新潮社
93 新潮文庫
『長崎で消えた女』9006講談社文庫
『居座り侍』9007光文社文庫 ◆
*短篇集10篇 ◆
*『仙台で消えた女』9103講談社文庫
『昼下がりの殺人』9105光風社
『殺意を砥ぐ』9108光風社
『紅屋お乱捕物秘帖』9109双葉社
94 双葉文庫 ◆
『落花の人』9111光風社 NF
『罠を抜ける』9204光風社
『心中くずし−紅屋お乱捕物秘帖』
9205双葉社
94 双葉文庫
『不運な死体』9207光風社
『ご破算侍』9305光文社文庫 ◆
*短篇集10篇
『情なしお源−金貸し捕物帖』9401双葉社
『江戸の敵』光風社9406
*『闇十手−大江戸捕物絵図』9410祥伝社(文庫)
欠落はまだ大量にある。とくに主軸であるはずのミステリのほうはボロボロである。
年代不明の作品は解説等に書きこまれていた作品を適当に放り込んでいるだけで、書込位置はほとんど無意味である。
87年以降の8年分は、『ブックページ』で拾い出しができたので、ほぼ完璧かと思う。
SF以外の本のリストを作ろうとすると、どんなにたいへんか改めて納得した。
【1998年からの注 追加資料をもとに途中まで修正していたけれど面倒になって 途中放棄。そのうち再修正してもうすこしちゃんとしたものに作り直すかもしれない】
▼ 第97回
8月25日(金)
仕事が終わったあと、いつもの古本屋に行く。今日の百円本はなかなかの収穫。『アラブが見た十字軍』『バルバリア海賊盛衰記』というリブロポートが出している叢書が2冊、竹中労の反創価学会キャンペーン批判本『仮面を剥ぐ』、夏目房之介『消えた魔球』など。知り合いの本屋さんに見せに行く。
この本屋さんも古本漁りがけっこう好きで、お互い戦利品を見せあったりしている。最近ぼくとの雑談からキーツあたりに手を伸ばし、原書を読んでは研究書をけなしている。菊池先生と同じがっこでバイトをしたりもしたことがあるらしいのだけど、本人がごまかすのでよくわからない。
コーヒーを入れてもらって、なんだかんだと雑談をする。神戸の老舗の古本屋、後藤書店の震災傷み本のバーゲンの話などをする。ぼくも今週神戸に寄った折に百円本を3冊買った。(N・コールダー『感情をもつ機械』、外山滋比古『修辞的残像』、H・E・ベイツ『近代短篇小説』)
ここの本屋さんには、ぼくの買うような本は、ほんとうにないので、近くの本屋に行って、SFマガジンと『ねじまき鳥3』を買う。コンビニに行って、競馬新聞を買う。
家に帰ると戴き本が届いている。ここんところ同じ訳者から難しそうな本が毎月届く。なんで読むスピードが訳すスピードに負けるんだろう。昔は自分の文章を書くのが嫌いだと言っていた人だけど、ここんところたいてい立派な訳者あとがきがついている。
本と雑誌の解説とコラム類にひととおり目を通す。テレポート欄に鳴いてる雉子を見つけて、撃とうかなとむずむずするけど、結局怠惰に流れる。書いてもみだれめも95の焼き直しだしね。クーンツについてだって、95の読者層論の運用で、こんなレベルの想定読者層に自分が組込まれるのはやなんだよねでかたづいちゃう。
米村秀雄に電話して明日の馬券を買ってもらう。投資14000円。回収3200円。
パソコンでHソフト『闘神都市U』をクリア。これで『同級生』『同級生2』と3つかたづけた。いずれもこのジャンルに抱いていた先入観を拭い去るのに充分な質の高さと、送り手と受け手間の交感密度の濃さを感じる。もうしばらくジャンルの散策を続けることにする。
8月26日(土)
朝生をだらだら見ていたせいで、起きたら昼である。TVをつけて競馬中継を見終わったら夕方である。
パソコンでHソフトをやり、競馬新聞を読んで1日が暮れる。こんなことでよいのだろうかと反省しながら競馬新聞を買いに行く。
つらつら反省した結果、明日は、競馬で5万円を使いきることにした。小倉日経オープンで休養明けの実力馬フジワンマンクロスに勝負を賭ける。それで負けたら、競馬場から歩み去り、放牧されることにした。秋のGTが始まるまでの約2ヵ月の予定である。
8月27日(日)
朝1番に家を出る。
元町に行く。小倉馬券を買う。
大阪に行く。函館馬券を買う。
OS系劇場の無料チケットを持って「耳をすませば」を見にいく。なんと大阪のOS劇場はジャッキー・チェンをやっていた。日を替えて神戸のシネモザイクにいくことにする。例会までの時間が余ってしまったので、古本屋めぐりをする。そこそこの百円本を手に入れる。(『猫たちの聖夜』『マックス・ビアボウム』など。ブルース・スターリングの『ハッカーを追え!』を一三〇〇円で買う)
フジワンマンクロスは来なかった。函館のメインレースで一〇〇〇円をけちって万馬券をとりのがす。8万円になっていたのに!
5万円を投資して3万円回収。放牧決定!
コールダー『デッドガールズ』、風太郎対談集『風来酔夢談』を買う。
『ねじまき鳥クロニクル 第3部』
朝日の時評欄で蓮實重彦が、あまりに「読みやすすぎる」ことにうろをきたしている。
ぼくも最初に思ったのは、やはりすらすら読めることだった。想定する読者層というものが、自分より年少の、たぶん20代30代の女性に偏移した数十万のオーダーで設定された言葉づかいが原因だろうと、まず思った。当然プロとして、そこに主軸を置いたスタンスは正しいのだけど、そのときの第1読者としての作者自身の扱いにどう決着をつけているかが、この本のぼくにとっての興味と評価の要となった気がする。
これは、傑作かもしれない。錯綜するいくつもの物語が、最後まで関連性を示唆されるだけで、ついに説明を加えられない。もののけめいた何人もの登場人物たちの正体が解き明かされることもない。
様々な謎と錯綜した筋を誇る物語というものは、提出してくる世界について、それぞれ他者と異なった固有の魅力やイメージを孕んだものであることが、多々あるにもかかわらず、それらを収束させ強引に結末へと導いていこうとする小説美学の要請に膝を屈する結果として、ともすれば、読み終えた時の印象から、世界の持ち得た固有の幻想性が薄らいで、いつか何度も見た記憶のある、結末へ向かう手順を踏んだ段取りの美学を味わう感動に、それはそれでひとつの、しかしべつの種類の感動に、すりかえられてしまうという、ある意味での失望がいつころからか読書体験の一部に刻みこまれてしまっている。世界を観賞するはずが、美学的手順のあざやかさ、作者の〈技術〉を堪能することに変化してしまうということに、ある種の理不尽さを感じるようになっている。
作者のまとめの見事さに感嘆しつつ、技術に感動することで、まちがった読後感を抱えこまされたと不満を残すというわがままで、ぼくの記憶のなかでだと、そういう不満を自覚的に感じた最初の作品は、山田風太郎の『幻燈辻馬車』のあたりだったと思う。
『ハイペリオンの没落』を読む前に危惧し、半ば的中した不安というのも、じつはそういうことだった。『ハイペリオン』自体、小説の構成としては完成しており、あとがなくても充分に堪能できる作品だった。
というような意見を改めて言葉に置き換えたくなったのも、作品内の脈絡が、作者のうちに残されたまま、ほとんど説明のないままに完結させられた、そしてそれがほとんど読者の(というかぼくの)欲求不満として残ることなく、物語の完結とともに解消される離れ業を演じてみせた『ねじまき鳥クロニクル』の物語のありかたに、かなりの感動を覚えたからである。
かってSFMのレビューにおいて『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』でけなした不満がみごとに解消されている。
『ノルウェイの森』ではじまったほとんど出たとこ勝負といった感じの自然体がみごとにきまり、あまりにすらすらとした自然体でありすぎて、傑作のような気がするけれど、傑作と呼ぶにはある種の気負いというか風格に欠けるような気がして、そうか傑作には、なんかそういう権威的なものが必要なのかもしれないななどと思ったりしている。
そして同時にちょっとしたジレンマを感じているのは、こうしてできあがった村上春樹の小説は非常に好感のもてるファンタジイであり、これが『世界の終わり』のようにSF仕掛けのものであったら、むしろたぶんけなすかたちに仕上がってたと、そんな気がするところである。
それにしても、蓮實重彦のこの本の文芸時評は面白い。文章の端々に、敗北感が漂っている。ほめたらいいのかけなしたらいいのか最後の最後まで決めかねながらの文章で、この批評家をしてここまで迷わせたという点だけでも、この本にはそれ相応の重みがある。
▼ 第98回
競馬の本質はバクチである。
紳士のスポーツとか疾走する男のロマン、血のドラマ、いろんな言葉が連ねられてはいるけれど、根幹にあり、そうしたすべてを結びつけているのは、賭博行為という反社会的原理である。
賭博行為が反社会的であるのは、汗水垂らして働いて得た財産を一瞬にして分不相応に使い尽くすことであり、ときたま分不相応に還元を受けることにある。賭博の快感というものは、勝った負けたということ以前に、日常生活のルールとは異なる形態の消費行為であることによる。
人は常になんらかの反社会性に浸ることに快を見いだし、その行為の反社会性を糾弾されることに脅え、糾弾される可能性と快楽との綱渡り的感触に興奮する。
あくまでもそれが根幹である。
問題は、そういう根幹を暗黙裏の了解事項として不問にしつつ、参加者に参加に関する社会的正当性を与えることができるかである。
理論的、情緒的、全員渡行赤信号型容認まで、さまざまな仕掛けを組み込み、本質において反社会的行為であることに変わりはないものに、社会的行為の幻影を与えていくこと、これがエンターテインメントの大衆化と呼ばれる文化構築課程である。
とりわけ、そのジャンルに女子供を巻きこもうとする営業戦略のなかでは、この手続きを必要不可欠な要素となる。
温泉旅行に始まって、ビアガーデン、競馬、パチンコ、麻雀、カラオケ、かってのサラリーマンの娯楽文化が女性、学生文化に変容していく過程において、同じ手順が繰り返された。
それが、それらそれぞれのジャンルにおける文化構築であり、そうした手続きの中で生み出されたものを文化であるといってしまっていいかもしれない。
むろん、そうした方向性を、本質を歪め、商業主義に毒された堕落と捉らえ、より反社会性を強める主張をまた生じてくる。ヤング・ジャンプやビッグ・コミックの大資本の商業路線にかたくなに反発したコミック・マニアの意識というのがよい例で、ことさら資本の網から抜け落ちた3流エロ劇画のブームとか、中小出版、同人誌市場などを演出していくことになる。
面白いのは、それらに対して、やはりどこかで(反社会性を認知しつつも)参加者に参加正当性を与える努力をすることであり手順的には、一回り小さな市場においての大衆化だと言ってしまってかまわないという点である。
ただ、こうやって、本来的な反社会的毒を温存しながら、育ててきた市場が、無視し得ないほど巨大化したとき、資本は毒を咥えこんだまま社会的流通を図り始める。いつのまにやら、やおい本やらエロ本が表文化の顔をして闊歩する事態が招来されるのである。
SFについては、逆の手続きがなされたものと考えている。
SFにおける反社会性とは、本質的には、荒唐無稽な夢物語〈ガキの読み物〉といった地点にあった。
たぶん、そんなことはない、SFはもっとすごいものである、などと主張しながら、心の片隅ではそうかもしれないと思っている部分があったような気がする。逆にそうした負い目があったからこそ、SFは、他のジャンル読者の蔑視に立ち向かうかたちで文化資産の開拓と蓄積に努力して、一定の認知を受ける成果を生み出してきた。
ところが問題は、こうして得た社会的評価の対象となった文化資産が、他のジャンル、他の業界でそのまま応用できたことである。さまざまなジャンルでSFの資産が流用されたことにより、本来のSFのフィールドだったあたりには、〈どこにでもある〉SF出自の文化資産にくりまれた〈本質である〉ガキの読み物としかみられなくなってしまった。
もしくは逆に社会に対する教育が行き届いてしまった結果として、自他ともにSFは本質において〈ガキの読み物ではない〉〈難解さを抱え込んだ〉〈文学〉であると思い入れ、その思い入れに従わない部分を排除しようとしてしまったところがある。
この相矛盾するふたつの現象が互いに互いの利点を拒否しがちなところがSFというジャンルのポテンシャルの低下を招いているように思えるのだ。(懐かしい! ポテンシャルなんて単語を使ったのは二〇年ぶりくらいだぞ!)
たぶん〈ガキの読み物〉であることを表面的はともかくとして、暗黙裏の状態において否定してはいけないのだろう。いかに様々な文化資産を蓄積しようと、コミックも競馬も本質は維持し続けている。
エンターテインメントはなんらかの〈反社会性〉を核に持っていることが第一義であり、〈反社会性〉を内部了解しつつ糊塗し、参加者に〈参加正当性〉を与えることで繁栄していくものである。
と、じつは、これはなんだったかというと、ここ数箇月でかたづけた、Hソフトの批評をする枕の予定だったのである。
いやあ、枕を書いてて疲れましたね。どうせ続きは、ここまでで書いたことがアダルト・ソフトにもあてはまり云々、といったなぞりの文章で、大衆化路線を睨んでいるソフト会社にエルフ、アリスなどがあるけど、そうした戦略的方向性をもっているのはこの2社くらいで、市場が狭いだけにむしろ反社会性で売りをかける会社の方が多そうだけど、そっち方面にはやっぱり近づきたくなくて、大衆化をめざす無難な大手の方向しか手が出ない、なんて調子で批評していく予定でした。
次回で単品単位で紹介、批評していきます。
●遅ればせながら佐藤亜紀『モンティニーの狼男爵』読了。ただ物語が物語られることだけをすなおに味わい、なにが書かれているのであるとか、どう書かれているのであるとか考えずに済むような、そんな小説というものが、なにをどう書くかについて、作者の強靱なまでの計算と意志と方向感覚の所産であると(勝手にかもしれないけれど)思い知らされるという点で、あいかわらずの佐藤亜紀である。あるいは石川淳とかに近いスタンスの作家のような気もするなどと言うのは、やっぱりちょっと石川淳マニアがこわいか。
●古本屋で原書初版ハードカバー(ほとんどは非SF)をいっぱいみつけて、『幼年期の終わり』(バランタイン版)、ウィリアム・テンのアンソロジー、J・D・マクドナルドの長編などを百円で買う。『幼年期の終わり』は大野万紀に買値で売る。
●遅ればせながら「耳をすませば」を見る。見ている方が恥ずかしくなって、「おいおい」と突っ込みたくなるセリフやシーンはたくさんあるけど、まあ、そういう話であるのが最初からわかって行ってるんだから、それはそれで、まあ、きらいではない。ちっちゃい子供がたくさんいるのにしんと静まりかえった館内もけっこう感動的だった。ただ、シナリオがボロボロ。前半の人物配置はなんだったのかとか、つぎはぎで詰込みで、どこででもエンド・マークを出せそうな情けない繋ぎ方。わたしゃなんども終わり間近と間違えて姿勢を正してしまったぞ。
●山田風太郎『室町少年倶楽部』読了。中編2篇からなる。前の「室町の大予言」はどうでもいい。後ろの「室町少年倶楽部」が山田風太郎ひさびさの傑作。ひさびさに凄みを感じた。ほとんど10年ぶりくらい。でもこれが1巻本の分量に膨らまないところがこの人の老いかもしれない。
●ジェフ・ライマン『夢の終わりに…』読了。SFとは関係なかったが、いい小説である。たとえば36ページ、「ドロシーは憎みかたを覚えた」なんて章の結びをはじめとして、小説を読む醍醐味はこんな一節にぶちあたることかもしれないと思い当たる言い回しに事欠かない。
とはいえ、陰々滅々とした話であって、当然救いはあるものの、救いに辿りつくまでの道のりがあまりに長く暗すぎる。救い自体も小説美学の予定調和の域を出ず、作者の主眼はあくまでも、ドロシーを中心とした〈オズ〉を巡る人々の暗く悲しい人生に、寄り添うことのなかにある。
救いを期待して読むといった俗っぽい読み方ができる本ではない。純文学と呼ぶには全体が娯楽小説で、娯楽小説になるにはあまりに話が暗すぎる。
タイミングよく遺作が刊行された三原順を話題にしながら、『はみだしっ子』という読書体験を経ていたからこそ、この本を読み切れたのかもしれないと唐突に思いついたりもした。(西村寿行の『虎狩笛』あたりとも近いけれども、あちらはさすがに救いがうまい)
これを売るのはたいへんだなあと、ほとほと編集者に同情する。
どういうスタンスで読者が接したらいいのか、著者の指示待ち小説ばかり読んできている人たちには、かなりつかみづらい小説でもある。頭に精神科医のビリーのエピソードでももってきてたら、ビリーの視点で世界に向い合うよう読者に指図するかたちになって、少しはアプローチが楽になった気がする。ただし、そのぶん小説自体は安っぽくなったことだろう。ジュディ・ガーランドの話も外伝風に巻末にくっつけるか、間奏曲として挟みこんだ方がよかった。有機的関連のある短篇として悪い出来ではないけれど、ほかの話とどうつないでいくつもりなのかとずっと気になりつづけた。
川本三郎の解説も結果論として失敗の部類。
距離を置いての解説が似あうタイプの本ではない。ぼくの知ってる範囲だと、佐野洋子、高橋直子あたりなら売り上げ増にも結びつくいい〈感想〉が書けてた気がする。
●久方振りの狂い咲きがうれしい今年のSF出版だけど、それでも独歩高はしかたがないと覚悟していたダン・シモンズ。その牙城が揺るぎそうな気配がしてきた。
テリイ・ビッスン『赤い惑星への航海』はとんでもなくもてなしのいいサイエンス・フィクション。『ハイペリオン』が大どころをうならせる『幼年期の終わり』型の大作とすれば、こちらはファンの琴線に触れる、『夏への扉』だと矮小化されすぎだな、うーむ、『中継ステーション』型の名品。
『世界の果てまで何マイル』には世代的思想の表明に類したスポークスマン的野心がちらつき、それはそれとしてかなり好きな部類であるけれど、結果、語られる世界が語られる世界として立ち上がるのに紗をかけているところがあったのだなあ、とこの本を読みながら、はじめて前の本に諸手をあげられなかった理由について思い当たった。言い換えるなら、本書においてはそんな気負いがぬぐわれて、もちろんそうした思想背景は話に反映されてるにきまっているわけだけれども、あくまで自然当然に、空気のように漂っているから、心地いい。
最初から最後まで奇跡のようにもてなしのいいSFで、この本が準古典的位置を占め、末長く売れつづけないようであるなら、ジャンルSFに将来はないと断言しよう。
あるいはジャンルSFを維持したいと願う立場にある人間は、ことあるごとにこの本を引合いに出し、本書をもって世界の中心を定めることに努力すべきとさえ思う。
【1998年からの注 今年のSFマガジン3月号に掲載された過去の年刊ベスト作品の一覧表を覗いてみると、『赤い惑星への航海』は品切れ直前である。そういうも のだ。】
▼ 第99回
あけましておめでとうございますです。
昨年を反省しての今年の年度目標は、とりあえず二〇〇冊以上の本を読むこと。馬とHゲーにかまけて去年は六、七〇冊くらいしか読んでいないと思う。漫画本は含めない。YAは勘定に入れる。カウントダウン方式でここに記録をつけていく。
200『悪魔の挑戦』ピアズ・アンソニイ FT文庫
〈新ザンス〉第1巻である。
言われてみないと気がつかないが、言われてみるとたしかにこれまでのザンスと組み立てが少しちがっている。ハンフリー消失の謎が少しも解決されず以下続巻的結末を迎えるところはたしかにこれまでになかった欠陥だけど、それだけだったら、長期連載シリーズによくあるたぐいの手抜きにすぎない。
今回の作品の特徴はなんといっても作品密度、というとすこしちがうなあ、エピソード密度とでもいうべきものが非常に濃いというところにある。新シリーズ開幕の意気込みによる一過性のものかもしれないが、とにかくパズル味の強い小話がぎゅうぎゅうにひしめいている。小話をレンガみたいに積み上げて物語を造り上げている感じ。当然、反面、メイン・ストーリイは場つなぎ的な役割に甘んじている。クライマックスの大決戦も盛り上がりに欠けている。このあたり新シリーズの意図的な小説作法なのだろうか。
それから主人公グループの人数がこれまでの倍くらいいる。そのひとりひとりに自分さがしや連れあいさがしをやらせるのだからたいへんだ。もともとこのシリーズは主人公たちの、ハンフリーの館への旅立ちにはじまり、自分さがしとラヴ・ロマンスとを成就してザンス存亡に係わる最後の大決戦に勝利するというのが筋立てが基本になっているのだけれど、この自分探しやラヴ・ロマンスに意識的と思える性的言辞の多用が見える。艶笑譚への傾斜である。『キルリアンの戦士』のあのピアズ・アンソニイである。4、5巻めから顕著になったお子様向けヴァージョンからの脱皮というのがめざす理由のひとつかもしれない。
出来はいい(と思う)。楽しい。登場人物中では骸骨のマロウがいい味を出していた。気には入った。でも年度ベストには入らない。
199『読んでるつもり』ぽにーてーる編 双葉社
文学作品アンチョコ本。百円購入本の1冊。教養としての読んでおくべき本でなく、女の子との会話なんかでかっこつけるための本というコンセプトに好感。ラインナップ海外編には『蜘蛛女のキス』『百年の孤独』『ガープの世界』『アルジャーノン』なんかが入っている。『マディソン郡』や『ワイルド・スワン』も入っている。日本文学編はもう少しいかがわしいものがほしかった。ページ面の構成はぼくの趣味とは合わないが、目次だけでもそこそこ楽しめる本だった。
とかなんとか意見をまとめていたら巻末の執筆者一覧表に三村美衣がいた。なんだ。
198『翡翠の夢1』前田珠子 コバルト文庫
〈破妖の剣〉シリーズ8冊目。このシリーズはけっこう楽しんで読んでいる。
197『翡翠の夢2』
昨年末のドラクエY発売日のことである。かったるさにいらいらしながら、それでも6時間ほどゲームをこなして、同じ日に設定されてた神戸大SF研の忘年会に顔をだしたら、だれもドラクエを話題にしていない。SF以上にゲームに造詣のある集団なのにね。時代は変わってきているのだろう。
かわりに盛りあがっていた話題というのが、Hゲーム。おお、シンクロニティ! なんぞというほど神秘的なものではなさそうだ。わたしも神大SF研も、茶羽というゴキブリ髭を生やした同じ震源元からデータを供給されたというだけのことらしい。
Hゲームの渉猟はソフト会社〈エルフ〉を中心に展開される大衆化路線に限定し、反社会性の強い鬼畜モードには近寄らないと宣言したら、西葛西在住のザッタ関係者S氏(本人の強い強い希望によりあえて名を秘す、なおこのひとは「てらさんは名探偵 西葛西マッド・ティー・パーティー事件」で三月ウサギに擬せられた西葛西在住ザッタ関係者S氏とは別人である)が嬉々として、鬼畜モードの秀作を廻してくれた。こういう世界に造詣ある方々は、ザッタのなかに何人もおられることがよくわかった。こっちが言わないと、何年もやってるくせしてみんな黙っている。
じつは、穏健化路線の旗振り役である〈エルフ〉と、鬼畜モードの雄〈シルキーズ〉のふたつの会社が、同じ版元の別ブランドであるのだと事情通から教わって、頭の中の業界パースペクティヴが木端微塵に砕けてしまい茫然としている。
名作の誉れの高い『同級生』には、女の子のセリフのなかに、うっとうしさのきわみみたいな発言がまぜてあって、そのあたりのシヴィアさがシナリオの隠し味としておいしくて、評価を高くする理由でもあったのだけど、同じシナリオ・ライターの手になるらしい鬼畜モードのゲームだと、こうした一種の女性嫌悪思想が前面展開全面展開されていて、遊びながらどんどん気分が落ちこんでいく。こちらが本音かもしれないと思ってしまうと『同級生』系ゲームまで、それまでみたいに気分よく遊べなくなった。
もともとぼくがHゲーへはまったのには、Hゲーから裏返しに見えてしまった、ファミコン・ソフトのある種過剰な、ただし家庭用玩具としてはやむをえない倫理規制というものから、解放されている(あるいは反発している)世界をみつけたことによる、新しい世界律との遭遇、一種のセンス・オブ・ワンダー、そこまでおおげさなものではないか、まあ、それでもある種のノヴェルティを味わえることにあったようなので、それはもう〈穏健化路線〉だけで充分なのである。社会通念的小市民的倫理規制というものは、そこにある欺瞞性について了解だけはしておいて、それなりに積極的に尊重しておくべきものだというのが保守的なぼくの思想的立場であるのだ。
もっとも同じ鬼畜モードでも、型にはまった反社会的言辞と行動を展開しているソフトのほうなら、そこそこ耐性が備わっている。女性嫌悪タイプ、攻撃性はこちらのほうがはるかに強かった。シナリオの深さの差だけかもしれないが。
とりあえず、〈エルフ〉と〈アリス〉、それに〈エルフ〉系列と噂される〈シルキーズ〉と〈ミンク〉について一応の俯瞰地図を作っていきたい気分はまだ残っているけど、滅入ってしまって、一気に仕上げる元気はなくしてしまった。
ここまでの入手ゲーム。
終了分
『同級生』『同級生2』『ELLE』『ドラゴンナイト4』『メタルアイ』『メタルアイ2』『遺作』(以上エルフ)、『闘神都市U』(アリス)、『ようこそシネマハウスへ』(ハード)、『FIGU』(シルキーズ)、『クリスタルリナール』(ディーオー)、『学園ソドム』(PIL)
未了分
『ドラゴンナイト3』『天神乱魔』『RAIーGUN』(以上エルフ)、『ランスV』『ランスW』(アリス)
未了分の理由には、ソフトのインストールができなくてにっちもさっちもいかなくなっているという馬鹿な理由もあったりする。
それにしてもエルフのシナリオのSFセンスはたしかに一見の価値がある。とくに『ドラゴンナイト4』と『ELLE』。SFマニア感動もののストーリイである。それから『ようこそシネマハウスへ』という映画制作シミュレーションは、ゲームの仕組みや発想が(ぼくにとっては)オリジナルで感動した。ゲーム自体はやや平板。あとここ2、3年の操作性の進歩には目を見張るものがある。今年出たソフトをやったあとだと去年のソフトはほんとうに動かすのに苦労する。『メタルアイ』のシリーズはお勧めしない。何が悲しゅうて、Hゲーの世界に行って、オーヴァーキルのRPGをせにゃならんのじゃ。
さて。
くだんの『ドラクエY』である。
非常につまらなかった。
神は細部に宿り給うという格言は、まさに至言であって、大量の細部の詰めの甘さがそのままこのソフトのつまらなさとなった。
当初予定し、切り捨てられたシナリオの、残滓とおぼしき無意味なものが山のようにある。ミレーユはいつ実体になったのか。彼女の笛はどうなったのか。トム兵士長はどこで生きていたのやら。悪徳大臣ゲバンは無意味に牢屋のなかから登場するし、いなくなった町長の家の女の子は勝手に町長の息子が連れて帰ってくるし、戦闘には参加できないくせ治癒をどんどんしてくれる馬車の仲間はほとんど馬車システムの意味を無くしてしまっている。転職システムは、キャラの個性や役割を無意味にする危険をクリヤーできなかったし、いろんなさとりがあるといものだから、そのときに備えていっぱい一般職ではげんだら、勇者どころかバトルマスター★★★★段階で大魔王とお目もじし、おわっちゃったじゃないか。ちいさなメダルの隠し方なんかも非常にずさんな処理だったし(97枚めっけ!)
とにかくなんか全体に粗っぽい仕上げが目につきすぎた。大急ぎで出すだけだして、つぎの新ゲーム機用の『ドラクエZ』に全力を傾けることにしたのだとかんぐりたくなる。夢の世界とうつつの世界をめぐっての、物語の基本コンセプトそのものは、まあ子供を対象にしたゲームとしては頑張っているほうかもしれないけれど、なんせ無意味なエピソードのきれはしが多すぎる。
ギャング団の娘のとことか、事件が解決しても植物が育たないカルカドの村とかに、こいつらいったいいつ仲間になるんだろうと、わたしゃ何回無駄足を運んだことか。
ドラクエ・シリーズ最低の出来である。
昨年読んだ本から。
●『ドラゴンの戦士』G・R・ディクスン
『ドラゴンになった青年』の続編である。解説を書くのに、もっていない『ドルセイ』ものを本屋に拾いにいったら、なんとディクスンが一冊もない。創元SF文庫と改名してから出直してないんじゃないのかい。
話がすこおおおし冗長なのと、エピソードがぶつぎれるのと、考証癖がくどいところを除けば、それなりに愉しい。けなしているようにみえるかもしれないけれど、ほんとうに愉しんだんだからね!
●『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』『狂骨の夢』3冊合わせて狂骨夏匣と語呂合わせができる(cてらさん)京極夏彦本を遅まきながら読了。5冊めまでを続けると「京極夏彦でーす、よろしく(狂骨夏匣鉄鼠絡新婦)」とおさむちゃんみたいになるかしら。
得意技をいくつも持ってて、安心して読ませて感動させていただける作家である。
どれもが『死者の代弁者』小説である。もちろんオースン・スコット・カードみたいにいやらしくない。人生に闇を背負いこんだ美女をまんなかにして、渦を巻き、拡大していく関係者たちの妄執を、京極堂が〈代弁〉によって解きほぐしていく、そういう小説構造にどれも収斂させている。
人の出会いについては、奇跡的再会を多用する。御都合主義的と言われかねない設定を宿命的邂逅にすり替えてドラマ性を高めている。
「影の船」的どんでん返しが大好きである。幻想的風景や文学効果、夢の景色と思わせて、じつは生の光景だったと驚かせる。いちばん成功しているのは『魍魎の匣』の挟みこみだろう。
『狂骨の夢』は風呂敷を広げすぎて、収拾の手ぎわに不満を残した。
『魍魎の匣』がいちばんいい。
SFとの関係でいうと、『姑獲鳥の夏』は境界線上、『魍魎の匣』は内側、『狂骨の夢』は外側(伝奇小説)である。
四作めが待たれる。
196ということで、4冊め『鉄鼠の檻』(講談社ノベルズ)である。近頃あんまり一気読みしないのだけど、これだけ厚い新書本だと時間をかけると背骨がそりかえってしまいそうで、それであわてて一気に読んだ。
『狂骨の夢』よりもいい。ただし今回は、〈小説・禅宗入門〉本になってしまって、今までの3冊で主役を張っていたヒロイン役が物語の片隅に押込められた。作者もここまで禅の話で占められるとは思ってなかったはずである。せいぜい『狂骨の夢』の精神分析レベルの比重で構想していたのだろう。
ただそちらが出張ってきた段階で、構想を修正したのは正解だと思う。鈴がらみの話をやっつけで終わらしたことに評価が分かれるだろうけど、了然がらみの話だけでこれだけの分量である、あちらもきちんと片付けようとすれば、長さもさることながら、話が分解してしまう。考えてみると、『狂骨の夢』の不満というのは、ヒロインばなしに比重をとられて、教団ばなしがやっつけでおわってしまったせいだったからみたいな気がしてきた。
今回は、だからその逆。どっちを評価するかはたぶんその人の読んできた本の趣味に基づく。SFファンならたぶんこっちのほうが面白がれるのではないか。
195『禅門の異流』秋月龍眠 筑摩書房
禅を窮め、教団批判の一生を送った4人の禅坊主、盤珪・正三・良寛・一休について書いた本。『鉄鼠の檻』の参考文献の1冊。ちゃんと本棚から出てくるところが凄い。例の百円購入本の1冊である。こんなにえらい人だったんですよと、拝み書かれているところがしんどい。金子光晴の自伝を読んだ時にも思ったけれど、破戒型の偉人伝には、同じような生き様をして、世間に罵られながら極貧のなかでのたれ死にをした人間が成功した人間の何十倍もいたはずだと思うところがあるものだから、なんでもかんでもそのひとの人生をありがたがって語られるとちがうんじゃないのと突っ込みたくなってくる。
194『競馬ペーパーオーナー必勝攻略本』須田鷹雄・丹下日出夫 ワニブックス
おっと早くも掟破り本。去年までなら読んでも挙げなかったんだけどね。二〇〇冊クリヤーのためにはなりふりかまっていられない。 3歳新馬の仮想馬主になって、仲間同士で勝敗を競うペーパーオーナー・ゲームという遊びの解説本。昨年の7月に出た本だけど、むしろ今くらいの時期に3歳馬状況を俯瞰する補助資料として読んだ方が楽しそう。
いつのまにか百冊近くたまってしまった馬関連本(デイック・フランシスなんかも含んでだよ!)のなかでも、相当楽しい部類に入った。
193『注文の多い競馬場』高橋直子 筑摩書房
競馬エッセイ4冊め。知っている馬の名前がでてくるようになった。最初の2冊は書かれることで彼女の現在が納得されて見えてくる、そんな値打ちのある本だった。(そういう意味では『お洋服がうれしい』も似た性格の本だった。)3冊め、4冊めは見えてしまった現在の現況報告。ふーん、そう、で済ませばいい本。次のも出たら買うけどね。
本を読むと決めたのに、『タクティクス・オーガ』につかまって、えんえん時間が潰れている。前作『伝説のオーガバトル』もそうだったけど、このシリーズ、構想やひねり方にすごく好感を持てるものがあるのだけれど、ゲームのダイナミズム面への配慮に欠けるところがあって、相当に疲労困憊してくる。公爵の指示に従い、無辜の住民を虐殺すれば〈ロウ〉キャラになり、拒否すれば〈カオス〉キャラになるなんて設定はざぶとんをあげたくなるのであるのだけれどもね。一応必須イベントからははずしてあるけど、たとえば〈死者の宮殿〉なんて地下百階、セーブポイントなし、である。しかも、一度の挑戦で重要なアイテムをすべて手にいれることができないときている。無茶苦茶である。百階クリアしてもう一回潜らないといけないとわかったときの脱力感とか作者はわかってないみたい。でもドラクエよりもずっと好き。