内輪 第94回
大野万紀
連休が明けてからというもの、何だかとっても忙しくなって、風邪もちっともなおらないし、お疲れさまな日々が続いています。夏か、うっかりすると秋頃までこの忙しさは続きそうで、うんざり。 前回PCをレベルアップするぞといっていたけど(あれは何時のことだ?)、今、この原稿はペンティアム100メガの入ったPC9821/Xa10で、ウィンドウズ95の秀丸エディタを使って書いています。旧型番のを安く買ったわけ。前の四八六マシン、PC9821/BPはディスプレイを買い足して、奥さんのパソ通と家計簿と同人誌データベースの専用マシンとなっています。よかったよかった。 買ったPCは旧型番で、ウィンドウズ95が出る直前のやつなので、内蔵OSはウィンドウズ3.1。だもんだから、ちゃんとCDロムでのアップデートインストールというやつをやってみました。まあ、事前にできるだけ調べておいたので、大きなトラブルはなかったのですが、さすがにこれは人には勧められないですね。買うなら初めからインストールされてるやつにしないと大変です。しかし、CDロムのディレクトリーの奥の奥にひっそりと危ない補足説明のファイルが隠れていたりして、面白いもんです。
それでは、最近読んだ本から。
『オタクと三人の魔女』 大原まり子
この本は好き。面白かった。短編集かと思ったら、一応連作長編なのね。魔女というと、「奥様は魔女」や「可愛い魔女ジニー」で育った世代には、何かロマンチックでセクシーなイメージがある。肯定的なイメージですね。日常の秩序に属さないで、かといってそれを破壊するでもない、どこか浮き世離れたような。本書の三人の魔女も善い魔女だが、どちらかというと日常を破壊するほうだ。でも本書のような世界だと、日常の方もあらかじめ破壊されているのだから、それは別に魔女のせいでもオタクのせいでもないわけだよね。あー何を書いているのやら。ところが「これは面白いっ」と読んでいると(特に「呪術とテクノロジー」の章は面白かった)、「感覚と無意味」の章であらっ? となる。あれー、どうなってんの? これは、例の敵に破れてしまったということじゃないのかい? だとしたら、ちょっとやだなあ。
『トンデモ本の逆襲』 と学会編
ニャントロ星人の陰謀だの、精神病はお化けのせいだの、笑えるトンデモ本の世界第二段。ただ、やっぱし小説をトンデモ本として扱うのはなんだかなー。トンデモ本を面白がるというのは、いってみれば人生幸路のぼやき漫才と同じノリだと思っている。「太陽が冷たい? ほんなら、何で昼が夜よりぬくいんや。わけのわからんことぬかすんやない。責任者出てこーい!」しょーもないことに突っ込んで笑うのがいいんで、真面目な批判は別の形でやるべきだと思う。だからと学会の方向はそれでいいと思うのだが、でも、本書を読んでも、どうも無条件に楽しめない部分があるんだなあ。いやーバカですねえ、面白いねえといってる内はいいんだけど、やっぱしそれが本当に相手を馬鹿にした、さげすむような嘲笑となると、これはあんまり気分良くない。「さよならジュピター」の映画で小松左京を笑うなんていうのは、おかしいんでないかい。あまり知られていない奇人・変人の奇説・怪説を愛情をもって紹介し、おおらかに笑うというのが正しい態度だと思うんだけど。
『英文法の謎を解く』 副島隆彦
ぼくも翻訳なんかやっているんだけど、学校英語以上に英語を勉強したわけじゃない。英文法の知識は高校までのものだ。だから本書はとても新鮮で面白かった。専門家から見てどうなのか、とかはよくわからない。著者は「欠陥英和辞典の研究」で物議をかもしている人だし、本書の文章も妙に過激なところがある。まるっきり信じていいのかどうだか。でも・だからこそ・面白い。それにさすがプロの予備校教師(代々木ゼミ)らしく、実用にもなる。巻末の「これだけでわかる英文法表」もおとく。
『M・D』 トマス・M・ディッシュ
ディッシュのホラー小説。前半は、超自然の力をもてあそぶ少年が、思わぬその反作用にさらされるという、ありがちだが恐いストーリー。登場人物が比較的日常的な人々であることも効果を上げている。でも、だんだん話が長くなり、人物が多くなり、錯綜してきて、追いかけるのがしんどくなる。後半、主人公が変わってしまって、どこに視点をおけばいいのかわからなくなってしまう。これって、やっぱり失敗作じゃないのかな。
『宇宙最後の3分間』 ポール・デイヴィス
草思社サイエンス・マスターズシリーズの一巻。宇宙がはたして無限に続くのか、ビッグクランチがあるのか、といった宇宙の終わりについての(おそろしく長いタイムスケールでの)最新の仮説をもとにした科学解説。始めはわりと知っている話題が出てくるが、後半が著者の面目躍如。フリーマン・ダイスンもびっくりというくらいのとんでもなくスケールの大きな話になってくる(何しろ宇宙の終わりなのだ)。1000億年なんてアッという間。相手は「無限」なのだ。それだけ長いとさすがの知性体も疲れるだろうと思うのだが、いいや、知性体は無限をも目指すといった具合。SFもびっくりだろう。エントロピーの増大と宇宙の進化(複雑さの増大)は矛盾しないといったあたりは、カオスもからんで面白かった。
『ゴルゴン』 タニス・リー
幻獣夜話と副題が付いていて、幻獣たちがあらわれる短編集である。タニス・リーといえば耽美的ファンタジーというわけだが、前半はどちらかというと現代的なファンタジー、というか、幻想小説といった方がいい内容だ。一方後半に多くあるのは、むしろフォークロアという感じの物語で、ぼくはこっちの方が面白かった。SFといってもいいような、人をくったショートショートも悪くない。
『ヒトはいつから人間になったか』 リチャード・リーキー
サイエンス・マスターズの3巻。人類の進化について、とてもわかりやすく、いろんな論点が整理されている本だ。とりわけ現世人類(ホモ・サピエンス)とネアンデルタール人との関係をめぐっての論争など、すごく面白かった。
『この不思議な地球で・世紀末SF傑作選』 巽孝之編
ポスト・サイバーパンクのアンソロジーということだけど……。正直いって、その具体的姿というのはよくわからない。カオスだね。七三年の話も含まれていて、どうしてそれがポスト・サイバーパンクなんだろう。で、ぼくも古くなったせいか、あんまり面白いというか、好きといえるような話は少ない。ギブスン、スターリング、マーフィーといったあたりはそれなりに面白く読める(でも軽い話だ。ギブスンには確かに世紀末の風景が鮮やかに描かれていて読みごたえがあるが、後はただのSF的ジョークだろう)。一番読みごたえがあったのは何とカードだ。小説がちゃんと書けているからねえ。ディケンズだのコンスタンティンだのはつまらないし、陳腐。ハンドは好きではないが、それなりに印象的ではある。皮肉なバラードの作品は好きだ。冒頭のギブスンと照応するのはいい構成だといえる。
『女神の誓い』 マーセデス・ラッキー
ずいぶん前にいただいた本だ。まあストレートなRPG小説。連作短編みたいな、エピソードの連続でできている。女剣士と女魔法使いというキャラクターで勝負していて、ドラマとしてはもうひとつ。最後のエピソードだけは、緊迫感があって、ハラハラドキドキさせてくれる部分があるが、他のエピソードは一応の水準には達しているとは思うものの、いかにもしろうとっぽくて、ドラマの盛り上げ方も知らんのかい、という感じ。ご都合主義、予定調和、描写不足、一本調子てなもんだ。まあヒロインたちがそれなりに魅力はあるので助かっているけど。
『惑星へ』 カール・セイガン
セーガンの一般読者向け科学解説。宇宙開発の当事者として、納税者に対する宇宙開発の意義を(できるだけ押しつけにならないようバランスよく)納得してもらおうとしている本である。もっとストレートにいっちゃってもいいんじゃないか、と思うところもあるが、噛んで含めるように説明するというのも、必要なことなんだろうなあ。特に宗教と対決しないといけない場合は。今、科学と宗教というのが深刻な問題で、けっしておろそかにしてはいけないんだろうということがわかる。わかるけど、やっぱりうっとおしい。原理主義者はこんな本なんて読まないんだろうから。で、話がボイジャーや、惑星探査のことになるとぐっと楽しくなる。SF的なテラフォーミングの話は嬉しい。でも、セイガンが小惑星の地球衝突を防ぐ技術の開発に懐疑的なのはちょっと意外だった。
『永遠なる天空の調』 キム・スタンリー・ロビンスン
何だか読むのに時間がかかったなあ。千年以上未来の太陽系グランドツアーという設定は楽しいし、各惑星の描写はいかにもSFしていて嬉しい。古典的といっても、こういうのは好きだなあ。でも壮大な宇宙論的理論を体現する音楽、というアイデアは陳腐すぎてついていけない。そんな頭でっかちな音楽が面白いわけないでしょ。ここらへんがぼくには全くのれなかったところだ。ほんと、グランドツアーの部分はステキなんだけどね。
『軌道通信』 ジョン・バーンズ
これは傑作。とても読後感のいいSFだ。十三歳の少女の日記体で宇宙の生活がつづられているが、ハードSF的な描写がみごとに溶け込んでいるし、社会や意識の変革もきちんと描かれている。水鏡子はそれを「オームの社会だ」などというが、そんなことをいうのはイヤだなあ。あんまりこれまでのアメリカSFらしくない社会の描き方である。昔なら陳腐なディストピアものになった(今でもそうだろう)ものが、それなりの現実的な社会のあり方として肯定的に見えてくる。翻訳もよくできている。超、正値、といったところ(でも〃ワープ〃というのは何だか違和感あるなあ)。つい、わが家の十二歳の娘を思い浮かべたりして。モロ親馬鹿。