内 輪   第433回

大野万紀


 クリストファー・ノーランの「オデュッセイア」をIMAXレーザーで見て来ました。
 いつもはケチって普通サイズのスクリーンで見ることが多いのですが、これはIMAXレーザーの大きい画面(と音)が正解。大迫力で楽しむべき映画です。
 ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』を元にした映画ですが、とても素晴らしかった。トロイア戦争のスペクタクル(ハリボテじゃない木馬、そこから出て城門を開きギリシア軍が突撃してくるシーン)や、キュクロプスなどの神話的怪物とオデュッセウスの冒険も良かったけれど、それよりも彼の指揮官としての人間的な悩みや戸惑い、そしてイタカで待つ王妃ペネロペと王子テレマコスの聰明さ、ペネロペと再婚しようと宴会に明け暮れる求婚者たちの醜悪さなどが強く響きました。幻覚か夢のようにオデュッセウスに付き添う女神アテナもとてもよかった。そして後半の、イタカに帰還したオデュッセウスが求婚者たちと戦うアクションシーンの凄まじさ。ノーランの作品ですから、そこに戦争と虐殺、生き残った者のPTSDといったまさにこの現代のテーマも含まれています。それはトロイアでの戦争のシーンだけでなく、神話的ファンタジーの部分においても繰り返されているのです。
 そして(部分的には)これは犬の映画でもありました。ワンコたちがとても可愛い。
 歴史ファンでもあるぼくには、海の向こうから恐ろしい敵が来て文明が滅びるということが何度も口にされるのがツボでした。それは紀元前12世紀ごろ、まさにトロイア戦争の時代に「海の民」によって地中海の青銅器文明が滅び、暗黒時代の後、鉄器時代が訪れる(まあ実際はそんな単純じゃないようですが)という現実の歴史を反映したものです。そしてトロイアを滅ぼしたギリシア人たち(ミケーネ文明の担い手たち)こそ、その「海の民」の一員でもあったという歴史の皮肉。ノーランはその辺りもちゃんと拾い上げているようです。
 ところでぼくは、以前SFファン交だったかでクリストファー・ノーランのことをSF/ミステリ作家のウィリアム・F・ノーランと言い間違えて大森望に「これだから年寄りは」と苦笑されたことを今でも覚えています。うわあ恥ずかしい。ま、ノーランといったらやっぱりウィリアム・F・ノーランでしょ(まだ言うか)。
 3時間の大作なので年寄りにはトイレが心配だったんですが、エンドロールが出るまでは何も問題ありませんでした。それだけ集中できたみたいです。3時間が退屈しない映画でした。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
 なお『反ミーム部門は存在しない』は9月のSFファン交流会で扱われるのを知って、本来予定していた順番を飛ばして先に読みました。
 短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします。


大滝瓶太『花ざかりの方程式』 河出書房新社

 2026年3月刊行。9編が収録された短編集である。なお収録作の内「騎士たちの可能なすべての沈黙」「ソナタ・ルナティカ Op.69」「演算信仰」「コロニアルタイム」の4編は、2017年に惑星と口笛ブックスから電子書籍で出た『コロニアルタイム』に収録されたもの。

 作者は『理系の読み方』という本も出しているくらいで、本書の作品には物理学や数学からインスパイアされる世界が根底にあるようだ。初期の円城塔と比較したくなるのもそのためだが、こちらはもっとふんわかして叙情的な印象を受けた(円城塔作品が叙情的じゃないというのではないので、念のため)。またそれぞれの作品に直接の関連はないが、各作品を通して同じ人物や用語や概念が出てくることにより、より上位のレイヤーの存在を想像することができる。おそらくはそれが作者の思う数学的宇宙なのかも知れない。

 「未来までまだ遠い」にはとりわけそんな雰囲気がある。アキナとアキマサは田んぼと自然に囲まれた田舎に住む幼なじみの(たぶん)小学生。テレビの科学番組で、いつもハーフパンツをはいているおじさんが「未来とは物質なのだ」と語っている。時間は粒子であり、過去を夜空に放つと降り注ぐ未来と衝突し、それはそれはきれいな流れ星となるのだという。
 家庭にちょっと問題のあるアキナはその夜アキマサの家に行く。テレビは今夜各地の天文台から発射されるという結晶化した過去の話題でもちきりだ。過去は小さな大砲のような発射装置で1時間から15分おきに夜空へ射出され、時間軸のあちら側からやってくる未来と衝突して流れ星のようなものが見えるでしょう、とあのハーフパンツの物理学者が言っている。無限に広い宇宙にはすべての実現可能な世界が含まれていて、過去も未来もその中に結晶化しており、その過去が未来とぶつかる一瞬が現在なのだそうだ。流れ星が見えたら願い事を言おうと待ちかまえる二人に、カウントダウンがはじまる――。
 何とも可愛らしくすてきな話だ。女の子と男の子の暮らす田舎の夜の、田んぼの匂いやカエルの声が聞こえてくる気がする。だがその背景にどうしても想いが及ぶ。過去と未来が衝突するなんてバリントン・ベイリー『時間衝突』の世界かと思うが、そんな超科学的な話ではなく、ぼくが思い起こしたのはルーディ・ラッカー『ホワイト・ライト』だ。無限の可能性をもつヒルベルト空間の世界。それと時間論に関しては今ちょっとはやりの、時間は存在せず、あるのは個々の事象(イベント。ここでは結晶化した時間)の連鎖だというやつ。昔々フレッド・ホイルがSFで書いていて、今ではカルロ・ロヴェッリなど、わりとよく見かけるようになったものだ。作者がどういう意図だったのかは正直わからないが、そんなことまでを考えさせるお話だった。

 「騎士たちの可能なすべての沈黙」の主人公「ぼく」の父は変わり者の数学者、岡崎忠邦である。ぼくは父から「ナイトツアー」という、N×Nのマスをチェスの騎士(ナイト)が動いて、全てのマスを一度だけ通って盤面を旅するという問題を教わった。だがぼくが大きくなってそのアルゴリズムを見つけてしまうと、父は興味を失った。
 父、岡崎忠邦は戦前にパリに渡って論文を発表していたが、どこに所属していたのかとかその足取りははっきりしない。多数の論文の中で最も評価されたのは「農耕空間に関する23の定理」で「農耕空間は108次元であることをコシヒカリの栽培を例に証明した」のだそうだ。そのころ生まれたぼくは、母の故郷である四国の村にいたが、戦争が終わるとぼくは父にさらわれるように連れられて海外へ行った。ぼくは父が岡崎忠邦であることは何となく知らされたがそのことを父は積極的には語らなかった。
 数学的な話は聞かされた。その一つが「エルゴード仮説」である。「無限の時間を仮定すればすべての可能な状態がこの宇宙のどこかで発生する」という。ここで先の「未来までまだ遠い」のヒルベルト空間のイメージが重なる(実際、エルゴード仮説をつきつめて数学的に扱うとヒルベルト空間が現れる――んじゃなかったっけ。もう忘れたけど)。
 ここで描かれる父の数学的空想に満ちた都市の描写が素晴らしく美しい。ちょっと京都に似たその数学的都市には昼は実数の陽光が、夜は虚数の月光が降り注ぐ……。
 1986年に父は死んだ。残されたチェス盤には「キングを亡くしたナイトがひとりたたずんでいる」。「かれの眼前には、ただただすべての可能な有限だけが広がっていた」。こういう文章にはしびれるなあ。

 「ソナタ・ルナティカOp.69」は「禁じられた遊び」などに続いて多くの人が知っている有名な曲だと書かれている20世紀の音楽家カニーノの架空のギター曲名。1962年に初演されたとある。音楽家にも曲にもモデルがあるのだろうが、クラシックに疎いぼくにはわからない。有名ではあるが、つまらないと作中では書かれている。
 この作品はカニーノとそのまわりの人々を中心に描いた(架空の)評伝であり、20世紀の音楽史の片隅を語って(騙って)いく。
 1901年、フィレンツェで生まれたカニーノ少年は、9歳でフィレンツェ音楽院のピアノ課に進学するが、ピアノの才能はないことを自覚していた。卒業してパリへ行き、作曲の勉強をする。1919年には首席で卒業するが、彼の曲を演奏する者は誰もおらず、カフェや教会で小さなコンサートをすることで生活していた。だがそこで彼はエリック・サティに出会う。サティは「若くしてこれほどつまらない音楽を完璧につくれるというのは才能だ」と言い、サティとの交流が始まる。その後メキシコ出身の作曲家ポンセがカニーノの曲を誉め、彼にギターを勧める。大恐慌の年、ギターの二重奏で世界を回り始めたジュリアード音楽院出身の若い二人、プティとマルタンの演奏が評判となり、ポンセはカニーノに二人を紹介する。彼はプティに一目惚れしたのだが……。
 第二次大戦が始まり、虚無的な生活を送っていたカニーノは、プティのためにソナタ・ルナティカを書き上げ、そして40歳で首をつって自殺する。人手に渡っていたその楽譜を入手したポンセはそれを世に出すのだが……でもつまらないのだった。
 様々な人々の運命の中で、楽曲そのものではなく、その周囲に漂うものや関係性によって有名になり、様々に語られつつも「だからつまらない」と言われる存在。でも、だからこそ面白いのだ。作品より作家が面白いということは実際よくあることだ。

 「誘い笑い」ではある夫婦漫才師に惹かれ、就活そっちのけでのめり込む大学生が描かれる。主人公のぼくは「良い大学」の就活生。しかし全然やる気が出ない。真面目に計画して就活している友人にいわれるまま就活サイトにも登録したが、プロフィールを埋めるのがダルい。なのでYouTubeばかり見る。そこで以前も好きだったお笑いの世界を再発見することになる。そんなことをしていて同棲している恋人からも呆れられるのだった。
 脳みそ弱夫・弱子は1967年に結成された漫才コンビ。二人は形だけの結婚をして夫婦漫才師となる。二人の漫才はかなりアバンギャルドで、『見えない都道府県』というネタは、イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』を引用する。二人がそのネタでぼけ倒しても(ツッコミは無し)観客からはちっとも笑いが上がらない。最後はSF的というか形而上学的な世界へと突入する。一般受けしないが、ぼくはそこに優れた批評性を感じているのだ。
 出版社のグループ面接に参加したぼくは、そこでも呼ばれるまで弱夫・弱子のYouTubeを見ていた。晩年の傑作、古代ギリシアの哲学者をモチーフにした「ふたりの賢者」だ。序盤が終わると最後まで弱夫は笑い続け、弱子は泣き続けるだけ。ぼくは面接でその話をしようと思った。
 この漫才は本当に見て見たい気がする。きっと面白くはないだろう。でもその壮絶さには心引かれる。

 「ザムザの羽」はSFマガジン初出、アンソロジー『異常論文』で既読。カフカの『変身』を題材に、小説(に限らず人間の創り出す全ての表現)においてゲーデルの不完全性定理を立ち上げようとする論文のような物語である。
 語り手はアルフレッド・ザムザという「無名であることで有名な」数学者(この無名でかつ有名というあり方は本書の他の作品で何度も出てくる)。だがそれは途中で「私」と「妹」の家族の物語を語る自己言及的な小説となり、また論文に戻るものの、結局小説となって終わる。
 論文の部分で小説の無矛盾性を論じるのに対角線論法が出てきたり、想像可能な物語の数は不可算無限であるとか、理系ジョークみたいな面白い話題が出てくるが、いや、だって小説とか人格とか物語とか、そもそも数学的な推移律を満たさないし、形式化できないでしょとすぐに疑問がわく。ところがこの作品ではそういう疑問にもちゃんと査読コメントと回答がついている。正直この回答はそれで本当に妥当のかよくわからないのだが、無限のエピソードは想像可能・記述可能なのかという問いに、記述している私が存在しており、その死は確定していないのだから(私は無限に生きるかも知れないってことだね)記述可能であるとか、無限を無限で割って有限な極限値に収束したとして意味があるといえるのかという質問に、少なくとも本稿が存在可能となると返すとか、気が利いていて面白かった。とりわけ人間をエピソードの連鎖と捉えて無限の濃度を作り上げる議論には(つまりどんな物語でもこの対角表の中にあるのだ。本作そのものもまた)ラッカーの『ホワイト・ライト』味があってよかった。

 「演算信仰」は本書の中核ともいえる物語で傑作。東京オリンピックの開会式で自爆テロを行った大学生、鮫島康人の物語であり、かつ神の視点をもつ語り手による「演算信仰」の解説書でもある。
 それは「オラクル理論」とも「完全演算定理」とも呼ばれ、若き数学者、ウェイ・アイゲンベクターが発表した論文に始まるもので、ひと言で言えば「この世の全ての事象、過去も未来も現在も全ては演算によってあらかじめ決定している」という理論だ。
 これはいわばラプラスの悪魔の復活であり、現代の物理学ではとうてい受け入れられない決定論のように思われるが、そこは「騎士たちの可能なすべての沈黙」に出てきた岡崎忠邦の理論も援用して突破している。となるとやはりヒルベルト空間の無限性が根拠となるので、実際問題としては人間には無限の演算ができない以上、自由意志による決定ができると「錯覚」して問題ないのだろう。いや、だから「信仰」なのか。
 またこの演算をするにはこの宇宙の計算をするのに別の宇宙を計算してという自己言及的な繰返しの無限後退が発生する。それが「セルフリファレンス関数」で、この名前にはしびれた。ホフスタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』以来、自己言及はぼくの大好物なのだ。
 物語ではここで「ソナタ・ルナティカOp.69」の主人公カニーノの生涯の演算による再現も描かれる。もちろんそういう理論の話だけではない。この小説では「演算信仰」にはまった鮫島康人の日常生活と自爆テロへの道筋がいかにもそれらしく描かれている。それはラプラスの悪魔に導かれたある理系学生の意思決定の道程だったのかもしれない。

 「コロニアルタイム」はもしかしたら「演算信仰」の応用編なのかもしれない。冒頭にウェイ・アイゲンベクターの「あらゆる可能性はすべてこの宇宙のどこかに場所として存在し、我々は演算結果である」という意味の文章の引用がある。
 物語はいきなり「この時間がとおい未来に占領された」と始まり、「河原でひろった左手はまだふかいねむりから目覚めていなかった」と続いて、まるで詩のような幻想的なことばで語られる。しかしこれは幻想というよりまさにその通りの現実なのである。左手は本当に左手で、ねむりから覚めるとわたしに指を振ってみせる。わたしはかれにレフティと名前をつける。一方で描かれる日常や生活はまるで我々の知っている「普通の」日常や生活のようにも見える。わたしがテレビのニュースや会社のメールで見たりする物事はごく普通だが、そこにも不可解でこちらの世界の理解では追いつかない内容があからさまに現れている。わたしの語るエピソードにもまた。レフティと本を読む少年の話。未来からやって来た人々。まだ訪れていない過去。神さまに見せる映画を作っているセルビア……。
 どうやらここでは「あらゆる可能性世界」が重なり合ってしまったようなのだ。直線的な時間は流れていないが、語られる物語はどれも少し哀しく、そして美しい。

 「白い壁、緑の扉」にはH・G・ウエルズの短編 The Door in the Wall(1906)(創元推理文庫『ウエルズSF傑作集1』では「塀についたドア」、ハヤカワ文庫『H・G・ウエルズ傑作集2』では「塀のある扉」)が、著者の翻訳で作品中にそのまま(太字で)本文中に組み込まれている。
 主人公はイギリスに暮らしている日本人の小説家で、突然小説が書けなくなったわたし。わたしは古い友人のライオネル・ウォルスにそのことを相談する(彼はウエルズの小説の登場人物だ)。ウォルスは自分が体験したという白い壁にあった緑の扉の話をしてくれる。まるで幻想小説のような話だが、わたしはそれが本当にあったことだと思う。
 わたしが座右の銘としている夏目漱石「夢十夜」にあった、彫刻家は仁王像を鑿で作るのではなく、初めから木の中にあった仁王像を掘り出しているのだという話のように、物語も最初から存在しており、それを発見してことばで掘り起こしているのだとしたら――現実にあり得ないような話も全ては存在しているのだ。
 彼の話では、街の中に白い壁がつづいているところがあり、その中に緑の扉がある。そこに入りたい誘惑に駆られるのだが、かろうじて思いとどまる。そんなことが幼少期から何度もあり、ついに心を振り払って扉の中に入ると、そこは美しい庭園で、心から幸福感が溢れてくるようなところだった。庭園には二頭の豹がおり、背の高いきれいな女の子がいた。そこは広大で、街角にあるような広さではなかった。そこには現実の全てを書いた本があり、ウォルス自身もそこにいた。だが先を読もうとすると、そこは元いた寒々とした街角だった……。
 扉の中の世界は仁王像と同様、全ての可能な現実の中から掘り出されたものだったのかも知れないとわたしは思う。それは一つの「翻訳」ではないのか。わたしが小説を書けなくなったのはその翻訳のことばを見失ったからでは。
 わたし自身にも自分の「緑の扉」がある。屋上の緑の扉を開けようとする少女。少女はそこでおばけを見る。彼女はのちに数学者になり、方程式に花を咲かせる(いずれも本書にある)。
 ウォルスの話とわたしの小説が、無限の可能性世界の中から掘り出されたものとしてクロスし、世界を認識する見方が図表で示される。ウエルズの作品とコラボしつつ、著者の小説の書かれ方をあらためて確認するような作品である。

 「花ざかりの方程式」はSFマガジンが初出。冒頭にカート・ヴォネガット「死圏」(『カート・ヴォネガット全短編1』に収録)からの引用がある。
 「死圏(タナスフィア)」とは成層圏の上にある死者の魂が集まる領域だ。数学者、桜塚八雲の最後の論文には希薄気体のナビエ・ストークス方程式には花が咲くことが記載されている。これはメタファーではなく現実であるという。論文を査読した有識者にもその花が見えた。
 どういうことかと思うが、例えばあの『三体』でも世界中の科学者の視界にカウントダウンの数字が見えたのだから、そういうこともあるのだろうと思える。見えてしまったのなら仕方がない。
 話は言語学者の父親に育てられているミサとサクの姉妹に移る。ミサは高いところが好きだが、屋上の扉からマンションの屋上に出てみたとき、そこで知らないおじさんの飛び降り自殺を目撃してしまう。また宇宙飛行士が好きなサクに、お父さんは地球と宇宙の間には幽霊たちがいて、不思議な話をするというお話をしてくれる(しかし、お父さんは本当に二人の父親なのだろうか。いや、二人はいったいどんなレベルで実在するのだろうか)。
 次には桜塚八雲の生い立ちについて語られる。飛び級でアメリカの最高峰の大学へ入学した彼は、そこでやはり飛び級で進学したウェイ・アイゲンベクターという少年と出会う。二人は大学で起きた殺人事件の犯人を捜すプログラムを開発し、友人となった。やがてウェイは世界のすべてを演算するシステムを確立することになるのだ。ウェイは早世したが、ネット上にはその人格情報があり、今でもフェイスブックを更新している。
 世界にはこの世とあの世、そしてその間の死圏の三つの世界がある。その距離は遠く、三途の川で隔たれている。そこには魂が流れているとお父さんは話してくれた。八雲はナビエ・ストークス方程式を三途の川に適用して一般解を得た。
 ミサとサク、八雲とウェイの話が続いた後で、今度は姉妹の父、秋津恒夫に焦点が移る。彼もウェイの完全演算定理によって世界が変わってしまった一人だ。秋津の離婚した妻はハルナ。同い年の大学院生だった。ハルナは八雲の方程式を言語に、意味に接続し、翻訳を可能にし、そして方程式に絡みつく蔦を、そこに咲く花を見る。そんなハルナを恒夫は見る。
 ここの描写の息を呑むほど美しいこと。世界が違うだけで、認識が違うだけで、はじめからみんなここに、いわば緑の扉の向こうにいる。生まれなかった子どもたちもまた……。「わたしたち、ここにいるよ」と。傑作。

 エルゴード仮説の果て、無限に広がるヒルベルト空間には全ての可能な現実が、可能な空想が、可能な物語がある。そのことは日常に生きるわれわれの心を励ましてくれるけれど、同時に絶望をももたらす。その狭間にこそ、きっと方程式の花は咲くのだろう。


ロバート・ジャクソン・ベネット『記銘師ディンの事件録 木に殺された男』 早川書房

 2026年3月刊行。桐谷知未訳・あとがき。これは評判通りの面白さだった。基本は異世界を舞台にした犯罪ミステリ。だがその異世界がファンタジーというよりはほとんどSFの異星世界のように緻密に設定されており(超自然的要素はない)、犯罪の根幹にもその設定が深く絡んでくる。そして探偵役、助手役をはじめとするキャラクターがとても生き生きと描かれていてすごく面白く読める。本書には続編もあるようで、続きを読むのが楽しみだ(もちろん翻訳されるよね)。

 舞台は神聖カナム大帝国という中世というよりはちょっと18~19世紀の西欧列強を思わせる帝国。だがこの帝国は毎年海から襲ってくるリヴァイアサンと呼ばれる巨大な怪獣に悩まされている。帝国は堅固な長城を4重にめぐらし、上陸してくる(突破と呼ばれる)リヴァイアサンに備え、大きな被害を出しながらもこれまで持ちこたえてきた。だがリヴァイアサンは毎年巨大化し、こちらも超巨大な大砲を建設するなど備えているが、これが帝国存亡の最重要課題となっている。

 毎年のように海から襲ってくる大規模な自然災害といえば、日本ではこれは巨大台風であり、それを巨大怪獣に置き換えた物語も、映画やマンガ、SFとして数多く描かれてきた。「進撃の巨人」を引合いに出した紹介もあったが、確かにそんな既視感がある。

 だがこの設定は本書ではあくまでも背景にすぎない。リヴァイアサンとの闘いが中心に描かれるわけではなく、本書でもっと重要な設定は、そのような生物学的脅威から派生してこの世界で発達したSF的科学技術とその応用なのである(魔法ではないのだ)。それは主にリヴァイアサンの血によって変異した動植物をもとに作られた様々な道具(ランプや建物など生活のあらゆるところに使われる)であり、さらに人体に応用して特定の能力を強化したり、脳を改変して見たものを全て記憶できるようにしたり(主人公のディンはそんな記銘師の一人だ)、複雑な計算を瞬時におこなったり(数理師)、反射神経を極端なまでに増強したり(瞬発師)、そういう様々な強化能力をもつ人々がいる。彼らは〈卓越者(サブライム)〉と呼ばれ、多くは政府の要職に就いているのだ。

 主人公のディンは司法省の捜査官助手になったばかり。まだ20歳そこそこの青年で、顔立ちは少年のよう。優秀だが心にある秘密を抱えている。彼の上司は天才的なベテラン捜査官(でも変人)のアナ。中年女性で周囲のノイズを嫌い、いつも目隠しをしていてほとんど自室から出ることはなく、犯罪捜査からお茶を煎れることまで、何でもディンにやらせている。ディンはアナの命令で海岸近くの辺境、ダレタナで発生した政府高官の変死事件の調査に赴く。帝国有数の富裕な地主貴族であるハザ家の屋敷で、高官は体から突然巨大な木が生えてきて死亡したのだ。その現場の緻密な調査を行い、情報を頭に銘記してアナに報告する。アナはそれをたちどころに分析・推理し、事件を殺人事件として何が起こったか解明するのだが、事件はそれで終わりではなかった。

 ダレタナで起こった変事はそれを発端として、東にある都市タラグレイでの技官10人の突然死(高官同様、身体から木が生えて殺された)へとつづく。その結果、臨界防壁の一部が破壊される事態となり、おりしもリヴァイアサンがやって来る時期とも重なって大問題となる。これもハザ家と深い関わりがあり、さらに帝国の過去にあった重大な出来事とも繋がってくるのだ。本格ミステリなのであらすじを詳しく書くわけにはいかないが、錯綜する様々な事実が二転三転しつつディンが大活躍し、最後は名探偵であるアナがズバリと核心を突くスッキリした結末へと向かうのである。

 ディンとアナの二人だけでなく、脇役もいい。特に途中から捜査に協力する別の州の捜査官助手、戦争の英雄だったというミルジン大尉がいい。彼は乱暴でデリカシーのない物言いをするが、思いっきり頼りになる男である。ぼくは『三体』の警察官、史強(シー・チアン)を思い浮かべた。ディンとの掛け合いが楽しい。他にも軍司令官の副官で、ハンサムでエリートっぽいストロヴィ大尉もなかなか良い役割を果たしている。そんなキャラクターものとしても楽しめた。


qntm(クォンタム)『反ミーム部門は存在しない』 ハヤカワ文庫SF

 2026年7月刊行。鳴庭真人訳・あとがき。作者のqntmことサム・ヒューズは1983年生まれのイギリス作家。本業はソフト開発者だという。訳者あとがきで詳しく書かれているが、本書は初めネット上にあるSCPプロジェクトという英語圏で始まった創作プロジェクトで発表されたものを大幅に改稿の上書籍化したものである。SCPプロジェクトは日本でも知られているが、ぼく自身はあまり詳しくない。SCP財団という超常的な存在を回収・秘匿している組織を題材にして、それぞれの作者が自由に作品をアップしているというもののようである。というわけで、本書もこの世界に存在する超常的な脅威〈不詳存在(アンノウン)〉を収集して調査・研究し、人類に危険を及ぼすものであればその対策を講じる〈機関〉と呼ばれる秘密組織の物語である。登場人物は共通だが、それぞれのアンノウンを描く連作短篇のような形式で描かれている。それが後半になると驚くべき形に収束し、すさまじい怒濤の展開を見せるのだ。基本はホラーだが、ここに至ると本格SFともいえる展開となる。
※より詳しくは訳者と編集者の登場する今号の「SFファン交流会レポート」をご覧下さい。

 この世界には様々なアンノウンがいるが、それらにはU-XXXXというコードネームが振られていて本書でも主にその名で呼ばれている。これがちょっとわかりにくい。名前がついているものもあるが、U-XXXXで呼ばれるとどんなアンノウンだったかすぐには思い出せないことがある(ぼくだけかしら)。「番号なんかで呼ぶな」というプリズナーみたいなアンノウンだっているかも。

 主人公は〈機関〉の反ミーム部門を統括するマリー・クイン。中年女性である。その夫のアダム・クインも後半で大きな役割を演じることになる。他にマリーの上司で英国とアイルランドの〈機関〉総責任者であるマーロや、こちらも後半で重要となる反ミーム部門の研究員エドワード・ヒックスがいる。

 物語はマリー・クインがマーロに呼ばれて出頭するところから始まる。マーロはいきなりクインを拘束し、お前の正体は何だと問う。彼女が反ミーム部門の部門長だというと、そんな部門は存在しないというのだ。ここでクインは反ミームについて彼に説明することになり、それが読者への説明ともなる。

 〈ミーム〉といえばドーキンスが提唱した概念で、遺伝子のように複製され、人々の間に伝わり広がっていく模倣される情報の単位素のことだが(今ではネット上で拡散するネタの意味で使われることの方が多いけれど)、ここでいう〈反ミーム〉とは関係する情報を隠匿し、消去し、人の記憶や物理的にデータとして残された記録さえも喰ってしまう存在である。これはヤバイ。後で出てくるが建物のすぐ近くにある巨大な岩が反ミームで、誰にも気づかれない(気づいてもすぐ忘れ去られる)というものもある。さらに危険なのが積極的に人間を襲うやつらで、とてもやっかいな存在だ。

 最初から出てくるのがすでに収容されているU-0055という代表的なε級アンノウン(アンノウンは危険度によってクラス分けされている)で、収容ユニット内で見たり記録することは出来るがすぐにその情報が記憶や記録から失われるというものだ。このため、〈機関〉の要員は記憶を固着するための固着薬を定期的に服用している。それを服用しないと……。

 そんなに危険でない反ミームもいる。U-4987というアンノウンはマリー・クインにつきまとう見えないペットのような存在で、記憶を食べるのを好むが、わざと美味しそうな記憶を用意して食べさせることでコントロールできるのだ。ちょっと可愛いし、その性質が役に立つこともある。この子は後半で重要な役割を担うことになる。

 続く第二章には危険なε級アンノウンU-7175が登場し、サスペンスフルなホラー短篇として描かれる。反ミーム部門のリーは、部門のカフェテリアでエイドリアン・ゲージと名乗る謎めいた男に出会う。ところが誰もその男に気づいていない。そいつが自分の記憶を喰らうアンノウンだとわかったリーは逃げようとするのだが、男は障害物も突き抜けて悠然と追ってくる。ダンジョンのような部門の地下深くへ逃げるリー。過去に何人もの部員が殺されていることがわかるが、倒し方は不明だ。そして……。単独のホラー短篇としてもよく出来ており、面白い。自分自身の記憶が失われていることによるあやふやさ、過去に何があったのかという謎めいた感覚も、不条理感や緊迫感をかもし出す効果を上げている。

 第三章では、今は退職し死亡直前の反ミーム部門の創設者アンディ・ヒルトンをマリー・クインが訪れ、致死的な記憶固着薬を使って、死の直前でしか引き出せないある記憶を得ようとする物語が描かれる。反ミーム部門は歴史上何度も存在した。忘れ去られまた創設されて。アンディはその話をする。反ミーム爆弾の開発のこと。あるカルト集団にそれが使われたこと。アンディには収容できなかったアンノウンがいる。そいつはその存在を知ることによって強力になるようなやつだ。そしてクインがアンディの記憶を蘇らせたことによってそいつもまた蘇る。そして……。
 ここでは何も解決せず、ただ過去と現在の因縁だけが残される。それは本書の最初にもつながり、また後半ともつながっている。というか、時系列というものが人間の心にしか存在しないとすれば、それはほとんど意味をもたず、意識という切り口からは複数の記憶(すなわち複数の世界)が同時に並列的に重なりあっていることを示唆しているようにも思える。とはいえ、この章だけ読んでもよくわからないというのが本当だろう。

 この章の後に、U-2256というアンノウンの説明がある。それは”ごくゆるやかに歩むものたち”と呼ばれる超巨大なアンノウンで(身長千メートルにも及ぶと書かれている)、南太平洋に生息し、今は絶滅したとされる。U-2256は鉛筆でしか記録を残せず、写真を撮られると死んでしまうのだ。

 第二部に入り、第一章は先に述べた巨大な岩石のアンノウン、U-9429-Bの話となる。ここでは遥か太古に人類が別の文明を築き反ミームの都市を建設したが、最終的には敗北して滅び去ったらしいということがクインから新人のモーガンに語られる。クインには見えないが、モーガンは巨石の背後に巨大な蜘蛛に男が乗っているのを目撃する。怪物はモーガンを捕らえて……。さらに怪物に乗っていた男は支局の地下に戻ったクインの前に現れる……。これだけ読んでも蜘蛛や男の正体は判然としないのだが。

 第二章ではマリー・クインの夫、アダム・クインが帰宅するが、クインは一緒に暮らしている彼を覚えていない。アダムは民間人のヴァイオリン奏者で、アンノウンU-8051に襲われたところをマリーに助けられたのだ。それ以来親密になり、結婚し、部下たちもみんな知っているというのに、今のマリーはそんな記憶もない。あの可愛いペットU-4987のせいなのか? そしてついに、マリーはアダムと袂を分かつ。

 第三章は後半で主役となるU-3125が登場。支局の地下に収容されているが、いつ確保されたのか、何の情報もない。中に入ったスタッフはそこから出る時に記憶を消去されるとあるだけ。クインはリーが止めるのも聞かず、そこに入る。そこで知ったのはここがU-3125がいない唯一の場所であって、U-3125はここ意外のあらゆる現実世界に浸透しているということ。そいつはあの蜘蛛でもある。そいつは目と目があったとき、あなたを殺す。あなただけでなく同じように思考したものを物理的距離に関係なく全て殺す。すでに世界中の反ミーム研究チームは消滅し、反ミーム部門もあとわずかの人員しか残されていない。知ることによって発現する脅威からどう逃れればいいのか。マリーは決断する……。

 そして第四章。マリー・クインは支局の地下深くへ降りて行く。それ自体がアンノウンである(反ミームではない、ふつうの超常的なアンノウン)U-7381というアノマリーな光線銃を持って。U-3125の脅威は顕現し、支局員たちは記憶を無くして互いに殺し合っていた。クインは心の中でU-3125と対話し(いやU-3125に知性はなく、これはクインの心の声だ)、U-3125という概念よりさらに優れた概念でもってそいつを倒そうと考える。そしてついに……。

 その後、U-2200という人間とテレパシーで交信できるが、反ミーム特性としては自転車の乗り方の記憶のみを喰らうだけというアンノウンとクインとの会話が記される。その会話はこの後の重い展開に向けて、ほっとする息抜きとなるのだが。
 第二部の最後では、とうとう最悪の事態が起こり、人類と反ミームとの最終決戦が幕を開くのだ。

 そして本書の半分近くを占める第三部。ここから最後まで、アポカリプス後の世界での物語が続き、章は分かれているが一つの中編となっている。寂寥感のある壮大な本格的SFとして読める。

 第一章からアダム・クインが再登場する。クインはオーケストラの公演中に彼以外の団員がみな何者かに入れ替わっていることに気づく。そして黒塗りの伏せ字だらけの文が続き、第二章に入ってようやく彼は意識を取り戻し、アンノウンらしい煌めく陽光に誘われて行く。クインは図書館で陽光に本を読んでやり、読み終わるとその内容は忘れてしまう。アンノウンはあのU-4987、アダムがサンシャイン(陽光)と名づけたものだった。

 廃墟となった街に巨大な影がある。その影は彼に気づいたようだ。彼は逃げる。陽光はクインをどこかへ導くようだ。ここはすでにవの世界となっている(この「వ」はU-3125のことだ。南インドのテルグ語で使われる子音(va)の文字で、そのユニコードが3125なのである)。
 U-4987、サンシャインに連れられ、クインは反ミーム部門の支局へとやってくる。部分的に破壊されて死体が転がっているがただのオフィスビルだ。クインはやつはここから出てきたのかと思う。サンシャインの光が強くなり、彼はついにマリーの遺体を見つける。そして録画を見てこれが人類が敗北し、U-3125に呑み込まれた世界であることを知る。彼女の残したデータベースを調べ、クインは〈機関〉本部にもう一つあるとわかった別の保管庫へと向かう旅に出るのだ。

 第五章で、12年前のエドワード・ヒックスの話が語られる。U-3125の危険性が明らかとなりエプシロンより上のカテゴリー・ガンマであることがわかる。マーロとの会議でそれを知ったヒックスは、すでに対抗施設が完成し、あとはヒックスがそこに閉じこもって十年くらいかけて仕上げるだけだと知る。だが会議は汚染されていた。U-3125に乗っ取られた一人がヒックスを射殺する。マリー・クインはその場で反ミーム部門の責任者となりマーロをそこから脱出させる。だがヒックスは蜘蛛となって復活していた。彼はヒックスの模造死体に乗り移り、地下シェルターへ……。

 第六章では再びアダム・クインの冒険が描かれる。彼はようやくもう一つの支局に到達し、そして仮想空間でクインとヒックスは出会う。そしてマリーの姿も……。概念となって復活したマリーは概念空間を上昇し、U-3125と出会い、そしてヒックスがシミュレーションした計算により、U-3125に勝利する……。このシーンは宇宙的な広がりをもち、まさに本書の圧巻となっている。

 ところどころ断片的でピンとこない、わかりにくいところはあるが、ぼくには後半のポストアポカリプスな描写、赤黒い太陽の下、陽光といっしょに歩んで行くアダムの姿がとても印象的で心に残った。


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