ラファティ短篇集『とうもろこし倉の幽霊』の作業が一段落ついて、“次はいかにすべし”と考えた時、迷いなく心に浮かんだのが「さあ、『メルキセデクに優るもの』をやろう」でした。
時は流れ、訳を終えたのは2024年春、なに分の大作、二年以上を費やしてしまいました。そして本編発表に伴って公にすることを想定し、執筆したのがこの『メルキセデクに優るもの』作品解説でした。(ご推察の通り)訳稿はいまだ陽の目を見るに至っておりません。物語内容の理解を前提に書かれていますので、本編未読の読者には、ただ想像して読んでいただくことしかできない部分が多々あるのは、言うまでもありません。それでもここに書かれていることから、この重要なラファティ作品に思いを馳せていただくことは、十分にできるものと思いました。
そんなこんなでTHATTAにお願いしてみたところ、気持ちよく掲載を決めて下さいました。もちろん、この作品論が人の目に触れることによって、何かに繋がってほしいという下心があることは言うまでもありません。とりあえずは、ラファティ愛読者、またそうではない方、どちらにも、作家ラファティの魅力、長編『メルキセデクに優るもの』の魅力を少しでも伝える、そんな役割を果たしてくれれば、当初の目的は果たされたものと思っております。
追記:
本長篇訳出には More Than Melchisedech (United Mythologies Press, 1992) を使いました。この版は三分冊で刊行され、それぞれの巻は“Tales
of Chicago”、“Tales of Midnight”、“Argo”と副題が付けられています。ちなみに本作品は全十三章からなり、第一巻副題は第四章(「シカゴの物語」)、第二巻副題は第八章(『真夜中の物語』)、第三巻副題は第十三章(「アルゴ」)のタイトルがそのまま使用されています。
(井上)
「これらの怪物たちは、大聖堂のガーゴイルにうってつけである。私自身はガーゴイル彫りに専念しなければならない。それしかできないからである。天使やアーチや尖塔は他のものに任せる」
上に掲げたのはR・A・ラファティの長篇『メルキセデクに優るもの』の中盤に見つかるチェスタトンからの引用である。本作著者が、自ら敬愛する著述家の口を借りて、自身の創作活動についての思いを吐露した感がある。
ラファティの物語には謎が満ちている。私たちの前にあるラファティ長篇中で最長の大作も、その最たる実例であると言えよう。主人公メルキセデク・ダフィとはいったいだれであったのか?“魔法使い”と呼ばれるメルキセデク・ダフィ、そのダフィが持つ“魔法の力”とは? メルキセデクとは“始めも終りもないもの”とされ、ダフィには(時の流れを越えて)いくつもの生があり、人生の中に“隠された七年”を持っている。と同時に、どこにでもいる、何の変哲もない私たちの隣人の一人。メルキセデク・ダフィの謎。
ジーン・ウルフがSF史上だけでなく、文学史上で最もオリジナルな書き手と見なしてよいと、その名を呼んだR・A・ラファティ。この不世出の作家ラファティが世に問うた中でも、まさに旗艦的作品と呼ぶに値する“アルゴ三部作”、その“完結編”というより、まさに“中核”を占める『メルキセデクに優るもの』――その作品解説を始めるにあたり、潜在的な読者に向けて訳者が書いた売り文句二つを、まずここに掲げることにする。
「著者ラファティの生涯を形づくる二十世紀アメリカの日常(年代的には世紀初頭から末期まで、地方的には中西部・南部を中心した歴史世界)と、この宇宙(そしてこの宇宙を越えた宇宙)全体の始まりから終りまでを、目くるめくトポロジーの力を借りて、一つながりの見事な織物に織り上げてみせた恐るべき想像力の産物」
「創作物語としての面白さ、その類いない個性を満喫するという観点からすれば、注目すべき著者作品は他にも目白押しである。しかしそんな中でも、ラファティとはだれであるか、作家自身の人間観、世界観、物語観をより深く理解したいと望む読者にとって、本作品は他に勝るもののない最高の糧を提供してくれる」
こう書いた理由、根拠を説明しなければならない。
時間とは何か? 時の中で営まれる人間の生とは? 命とは?――古代から人間の哲学が飽くことなく取り組み続け、この現代二十一世紀にも野心的/本格SFが追求してやまない最大のテーマ――これが、本作品が正面から挑むテーマでもある。
本作は先行する長編『アーキペラゴ』『悪魔は死んだ』とともに三部作を構成している。三部作といっても、歴史的流れに沿って物語を三部で展開するのではなく、一つの時代に属する物事を三つの異なる観点から語る、作者の言うところの“同時小説”を成している。この三長編は著者自身によって、“アルゴ神話”あるいは“アルゴ伝説”三部作と呼ばれた。この命名の背景、由来をたどるとともに、三作の関係を確認することから始めよう。
この三作には、中心となって活躍する“主役”のグループがある。そしてそのメンバー一人一人は、“冒険船アルゴの乗組員”“アルゴの英雄たち”であるとされるのだ。
第一作『アーキペラゴ』の主役は“札付き五人組(ダーティファイブ)”と呼ばれる若者のグループである。母国アメリカの第二次大戦参戦に伴い、南太平洋に送られた兵士たち――その部隊の中で出会い、親密な友人同士となった五人組。その中でも最も重きを置いて描かれる一人は『悪魔は死んだ』の主人公フィネガンである。この三部作第一作の文学的舞台仕立ては、基本的に自然主義のそれをはみ出すものではない。それでも往々にして、登場者たちの謎めいた人生の歩みが語られる。ある時には五人の一人(ヘンリー)が一隻の船の夢を見る。その船は(他にも多くの船であると同時に)世に知られたアルゴ号であったとされる。また別の場所では“札付き五人組”のそれぞれが、ギリシア神話“アルゴ号の航海”に加わった航海士、神話的人物のだれか一人であると(また同時に、それ以外の物語上、歴史上の存在でもあると)語り手によって同定される。加えて、時折り、行きずりのものが彼らのアルゴ航海士としての側面に(物語の深層を発見したかのごとく)気づいたりする。直接にはこの程度の“アルゴ”との結びつきが示されるにとどまっている。
第二作『悪魔は死んだ』は、五人の仲間の一人フィネガンの“もう一つの生”の物語である。フィネガンは二つの生を持っていた。そのうちの一つは、フィネガンが他の仲間たちと共有する世界、いわば普通の人間が生きている当たり前な世界の人生である。しかしフィネガンには、それに並行するもう一つの生があり、そこで彼は、世界の“隠された素性”に翻弄される人生を歩む。彼は二つの生のあいだを往来しているかのごとく描かれる。このもう一つの生にあって、彼は謎の船“ブルンヒルダ”で、“悪魔”に先導された一団と航海をともにすることを余儀なくされる。この船は正体を隠した“アルゴ号”であるかもしれないのだ。(『アーキペラゴ』と『悪魔は死んだ』二作はともに、フィネガンの死が目前に迫ったところで幕を閉じる。ところがこの出来事には、二つのあいだで、まったく異なった時と場所が与えられている。)
そして第三作『メルキセデクに優るもの』について、著者ラファティは先行するに二作を一つに結びつける役割を果たす作品であると述べた。ここで語られるのは、フィネガンの二つの生にとどまらない、メルキセデク・ダフィのいくつもの生である。メルキセデク・ダフィは他の二作、主には第一作『アーキペラゴ』に、“五人組”の年長の友人として登場する。ダフィの持ついくつもの生のうちの一つ(いわばそのすべての中でも、お互いを結ぶ架け橋のような役割を有する一つ)にあって、ダフィこそは、文字通り、時間を越えて航海する冒険船“アルゴ”の航海士、操舵士であったことが示される。彼のこのアルゴでの航海は、彼が人生の中に隠し持つ“失われた七年”と深い結びつきを持っている。
以上のごとく、その中に、メルキセデク・ダフィの“いくつもの生”、“隠された七年”、“アルゴ号の冒険航海”、それ以外の諸々を含む総体が、“アルゴ”三部作全体が繰り広げられる、複雑に入り組んだ物語世界を形成しているのである。
さて“アルゴ連作”は、いわゆる“並行世界”譚の一種であると見なすこともできるだろう。この種のイマジネーションは、フレドリック・ブラウンの古典『発狂した宇宙』から、当代では気鋭テッド・チャンの幾つもの作品、わが国にあっても脱SF的な村上春樹『1Q84』から新鋭伴名練「なめらかな世界とその敵」に至るまで、物語的想像力を活発に刺激してきた。ここにあるラファティの作品も、一側面ではこれらの流れにあるものと見なすことができよう。しかし、これらそれぞれ創意に富んだ作品群の中にあっても、“アルゴ連作”でラファティが見せるアプローチは、オーソドックスな“並行世界”譚の枠に収まらない、曲者・個性的な趣向に溢れている。
何はさておき、読者は(ここに差し出された)作者ならではの奔放の極致、途方もない想像力の産物を、ただ驚き呆れる夢物語、ファンタジィ、おとぎ話、ほら話として満喫して楽しむことができる。それが一つの読み方である。そして、それをさらに越え、随所に散りばめられた、というか、ぎゅうぎゅう詰めになった“隠喩的”なメッセージ、寓意を掘り起こし、汲みつくそうと試みる。そんな刺激的な時間を過ごすことができる。もう一つの読み方である。だが私たちが前にした手ごわい相手ラファティは、そういういわば“神話的作品”の読み方で、その中身、その意図を十全に理解したという自信さえ、読者にやすやすと与えてはくれない。
作中賢者たちの“重量級お話し会”の中で、マクギーガン神父は、ダフィの親友ストラナハン(父親)が語る「ダフィの人生物語」が、“隠喩を事実であるかのごとく扱う逸脱”についてあげつらう。対するダフィは、それを言うなら“事実を隠喩であるかのごとく扱う逸脱”であろうと論をひっくり返す。――本作の冒頭近くで描かれた“マヌア湖岸の事件”で、未だ五才のダフィは、“魔法”のごとき力を発揮して、本当に“邪悪な男”を溺れ死にさせたのだろうか? いや、もちろんのこと、そんなのはただの偶然の一致にすぎなかったのか? いや、それとも、ここで語られている不思議な出来事は、見かけを越えた、隠された意味を持った“謎の真実”であるのか?――時が流れたあと、十二人の仲間の一人、アブサロム・スタインは、ダフィの持つ力についてふり返り、「覚書」の中で困惑のうちに告白する。“自分はたいていの時、ダフィの魔法の力(人を造る力)なんか信じてやしない。ところが、その同じ自分が、別の時には、本気で信じているのである”と。はてさて、物語全編で繰り広げられていく油断のならない語りに対し、一体どんな態度で臨むべきなのか、読者はくり返し混乱の中に引きずり込まれる。何が“事実”で、何が“象徴”、“比喩”なのか? まるで、いろいろな読み方を同時に行え、そのどれもが正解なのだ、と裏に表に命じられて、翻弄されているような気分を味わわされる。
アルゴ連作の“謎”の鍵を握る人物、メルキセデク・ダフィとはだれであったのか? この“はかない今”を生きる我われとちっとも変わらない普通の人間。しかし同時に、時を越えて生きる“始めも終りもなきもの”(しかしすでに“五才の子ども”として世に生まれたもの)、奇跡を行う力を身につけて古代の世界にこども王として生きたもの、今もそうであり続けるもの、複数の過去を持つもの、“心を強奪する”力の持ち主、“失われた七年”を生きたもの、時間の旅人、そして“お守り棒”の力を通して、人間を“造る”力を持ったもの。このようなすべての側面を合わせ持って、“魔法使い”であるもの。
思い起こしてみれば、あらゆる人間は(少なくとも子ども時代に)魔法使いであることを夢見たのではなかったか。実際、このダフィの魔法使いとしての“自己理解”、あるいは“妄想”は、不適応の兆候を見せるあらゆる子どもが心に懐く“夢”であると、作中の精神分析医レイフェルソンによって断ぜられる。
一方、物語の語り手は、世界の成り立ちを説明する十億ある異なる観点のうち(物理学法則? 魔法? デミウルゴスの働き?)一つとして真実でないものはないのだ、と読者に訴える。レティティア・ダフィ(コッホ)は姉とダフィに“世界の全体は、人間一人一人の主観的な投影が集まって出来ている”のだと知恵を授ける。はたまたバグビィは、だれかが“時間の外”について説明するのは、おしゃべり中毒の男が、生まれつき視力を欠いた男に、さまざまな色の微妙な違いについて、とめどなく話し続けるようなものである、と言ってのける。
ここで次に、魔法使いメルキセデク・ダフィこそは、このとんでもない物語の作者、“もうろく魔法使い”ラファティ自身の仮の姿である、という読み方を取り上げてみよう。だれの目にも分かりやすい読み方の一つである。
外面的にも、ダフィとは、作者ラファティの作り出した数多くの物語、その作中人物のうちで、ことのほか作者自身の面影を深く宿した人物であるということ。――二十世紀の始まりとともに生まれ(この点では、自らの叔父世代の背景を借用しているかもしれない)、大陸中央部を生活拠点にして育ったアイルランド系アメリカ人。多くの芸術分野の生来のパトロンにして、自ら芸術創作物の商いを営む。ラファティは(エリスン編『危険なヴィジョン』に寄せた印象的な自己紹介文で)自称アメリカ中央党のただ一人の党員で、そのうち小説の中にその綱領を書き込みたいと述べた。実際彼は、連作第一作『アーキペラゴ』の中で、メルキセデク・ダフィこそが、アメリカ(カトリック)中央党のただ一人の党員であるとして、綱領の要点を短く述べている。
主人公ダフィには、自らの普通の人間としての営みを上回って、いくつもの不思議極まりない生を生きる力があった(その代表例が人生の“失われた七年”)。これこそ物語作者(ラファティ)が、その途轍もない想像力によって、途轍もない物語を夢見、生み出す能力であると読み替えることができるだろう。“いくつもの生を生きる”とは、人間が想像力によって、自分が実際には経験していない物事を、まるで生きたかのごとく経験できる力である。他人の心を強奪するとは、想像力によって、自分がまさに別人になったかのごとく経験する力である。時間を越えて行き来するとは、想像力によって、まるで自分が今ではない違う時代に生きているがごとく経験する力である。いくつもの世界を行き来するとは、想像力によって、この世界ではない別の世界に生きているかのごとく経験する力である。これがまさしく“語り部”たる人間に与えられた力なのだ
このようにして、メルキセデクの“魔法の力”とは、物語作者(ラファティ)の持つ“創造的”想像力を比喩の形で表わしているのだと捉えることもできる。
しかし私たちは、ここで立ち止まることも許されていない。そんな理解からさらに先に進んで、人間の想像力、物語を夢見る能力こそは、本物の“魔法の力”ではないかと、教え諭される。人が“物語る力”とは、人が真実に別人になる能力であり、違う時代に生きる能力であり、別世界を造りだし、その中で人々を生かせる能力であると、そう文字通りに受け入れるように促されているのではないか。
ラファティは作中で(本作、また他の作品でも)、ある人間が“トポロジー的反転”を経験する能力について語った。この内側と外側の世界の逆転現象は、“現実世界”と“創造的想像世界”の反転であると見なすこともできよう(反転する二つの世界――すべての“並行世界”――が存在論的に等位であるかどうかは、ひとまず横に置いておこう。)
今や、物理学的宇宙論においても“マルチバース”が存在を承認されるようになってきた時代――“この世”は数えきれない世界の一つかもしれない、という“科学”仮説が片方にある。そんな時、数多ある世界のうちで、人間にとって最も“意味ある”並行世界が、他でもない、“文学的”“物語的” 世界ではないのか、という問いかけ。物語作者は文字通り、並行世界を生み出す。物語作者の紡ぐ物語、文学作品こそは、真の意味で“並行世界”に相違ならないのではないかという洞察にたどり着く。(ただし、これは“科学的証明”の問題ではない。“世界とは何か”という“根源的な問い”に、人がどう答えを与えるかの問題だろう。)これがダフィの“いくつもの生”、“魔法使いとしての生”は隠喩ではなく、“隠喩のように語られた事実”であった、という言明の一つの意味であろう。
そしてまた、ダフィは“お守り棒”の力によって、十二人(およその数)の仲間たち、“輝かしい被造物”を造ったと語られる。だが、その一方で、反対に、十二人の仲間の方が、ダフィを造ったのかもしれない、とも訴えられる。創造、被創造は双方向に働くものかもしれないと示唆されるのだ。
そう、ここにおいても、まずは、物語作者が有する能力――物語世界の中に、実在の人間に劣らぬ存在感のある人間グループを、自らの想像力によって創造する能力――について、比喩的に表現されているのだと解釈することができよう。
そして、力ある物語作者は往々にして、自分の造りだした作中役柄が、作者を離れ、勝手に動き出すのを経験する。自らの想像力の産物であるはずのものが、独立した命を得、自立した存在になって生き始めるという不思議な体験をする。そんな時、進行する物語は、物語作者と、作者の“作中被造物”たちとが共同作業で、協働して創造を担っていくものになる。ダフィの“お守り棒”の働きとは、そういう物語創作活動の在りようを比喩的に表わしている、と見なすことができるかもしれない。
だがここでも再び、単なる比喩表現を越えて、“魔法の真実”が語られているのに、読者は目を開かせられるかもしれない。
ここで、ラファティの物語が体現する“分身”観に目を向けよう。
時に、人はだれであれ、自分が複数の人間(人格)の共同体であることを発見する。(一人の人間が複数の人間から出来ているという考え方の、現代における代表的な表現は、ユングの理論にみられるだろう。)人間(物語作者)が自らの内に潜ませて持つ、そんな幾つもの人格が、作者が語る物語の中では、さまざまな物語中の役柄として、別々の独立した人物として、姿を現わす。――“可能性”の自分である。どの一人が“主”で、どの一人は“従”、と思える区別があるとして、どの程度決定的であるだろうか。逆転もあり得るだろう。――そして、彼らは(ある意味)物語作者の分身であると見なし得る。潜在的な自分が形を取るのだ。
そして想像の世界でのみならず、現実世界、目に見える世界の中においても、自分の別の人格(分身)が姿/形を取ることがある、と作者は考えている。――ラファティは(彼ならではの半寓話的)エッセイ中で、人が、文字通り、分身を生みだす途轍もない力について語っていた(注:『翼の贈りもの』、「後書き解説」参照)。――ある場合、“分身”はこの世界にすでに生まれて普通に生きている(自分ではない)別人、他人、隣人であるかもしれない。そんなだれかが同時に、ある人間(自分)の分身であるかもしれない。本作中には、ダフィの分身の影を背負った人物が幾人も登場する。その代表格はバグビィであろう。またダフィが北端酒場で出会ったマイク・メルキアデスのエピソードには、著者の分身観、その一端が如実に表われている。そしてまた“お守り棒の十二人”、分けてもその中の“札付き五人組”は(一人一人それぞれの点で)魔法使いダフィにとって“分身”的な絆を持った仲間たちであったことが見てとれる。
人だれしも、“自分”の多くを、周囲でともに生きる人間に負っているという事実に気づく。この(ある意味)当たり前である、その当たり前さの中に(より深い)“人間性”の真実が隠れて潜んでいるかもしれない。私たち、だれしもにも、(ダフィの場合と同じく)自分の周囲にいる人間たちの中でも、特別な関係にあるもの、特別な絆を感じる人間たちがいるものである。――そう、これがラファティの描く“人間のアーキペラゴ”である。
そんな中でも、一人の人間にとって、特異なつながりで結ばれたものがいる。そんなだれかを、ラファティは時に“分身” と見なす。――人は自分の分身を見つけ出す(造り出す)能力を持っているのだ。
さて、物語作者ラファティにとり、自らが想像力で生み出した魔法使いダフィは、作中人物として、最も自分に近い存在だった。だからその物語の中で、ダフィが造り出したとされるダフィの分身は、ラファティの分身の分身、“又分身”の存在であることになろう。“札付き五人組”こそはその代表格、物語作者ラファティ自身が生きたかもしれなかった(生きてみたかった)人生を生きた人間たち(いわば“理想形”)ではなかっただろうか。――“可能性世界”の中のもう一人の自分、何人もの自分である。
以上のような観点から、作中でこれら人間グループを自ら“造った”(少なくとも、通常世界のレベルでは、“精神的父親”であった)ダフィこそ、“物語作者としてのラファティ”の分身(鏡に映った自身)であることが確認できよう。
このようにしてみれば、作者ラファティは“もうろく魔法使いダフィ”の人生、その歩んだ道、さまざまな遍歴を物語ることによって、“もうろく魔法使いラファティ”自身が現実に生きてきた世界、その中で生きてきた自分をどう捉えてきたか、その鏡像を描き出そうと試みたのだと見なすことができよう(もう一つの見方をすれば、ダフィの物語は、トポロジー的に常にラファティの内側にありつつ、ラファティの人生に並走した世界であることになる)。長編『メルキセデクに優るもの』には、人間ラファティにあって、並行世界、可能性世界としての顔が備わり,現実世界(の比喩)としての顔が備わっている。(ラファティはインタビューにおいて、『アーキペラゴ』について、これは私たちが生きてきた“近・現代史”を写し取った書であると述べたのだった。アルゴ三部作はその拡大版である。)
それでは、作者の“分身”メルキセデク・ダフィはこの途方もない物語の中で、どのような道を歩んだのだったか。そこには(可能性世界であるとともに)ラファティ自身の自分が生きてきた、生きている世界の理解が投影されていることになる。それは、まったくもって尋常なものではなかった。かくなる“とんでもない”人生が、いかにして“真実”であり得るのか。
本作の冒頭では、迫りくる破滅の淵で、この世界を支え守っているものたちの働きについて語られる。その超人的な使命を負ったものこそ、“魔法使い”の名で呼ばれるものたちである、と宣言される。ダフィとは、そのような“魔法使い”(ニセモノではなくて、真正な魔法使い)であるとの紹介がなされた。物語『メルキセデクに優るもの』とは、まさしく、(そんな魔法使いたちが)この世界を滅びから救い守ろうとする冒険の物語、世界の危機とその危機の克服の物語だったのだ。それでは、その世界が直面している危機とはいかなるものであったのか。
この世界には、世界を滅びへと導こうとするものたちがいる。私たちが対峙する“敵”である。ではこの敵とはいかなるもので、私たちはいかにしてこの敵と戦うことができるのか。それは、まったくもって、生易しい企てではなかった。この長編、あるいはこの“アルゴ三部作”の全編、いやもしかすれば、ラファティの生み出した物語のすべては、(ある意味)この容易ならざる戦いのありさまを描き出そうとしていたと言い得るかもしれない。
作中には世界の危機、及びその克服(魔法の力の何たるか)について、さまざまな洞察、表現(“喩え”であり、真実である)が与えられている。
十二人の仲間の一人であるメアリー・ヴァージニア・シェーファーは、御神による“世界の造り直し”のヴィジョンについて書き留めた。八つの世界の失敗のあと、この世界は神の九回目の試みであるというのだ。そしてダフィは、そんな失敗し捨てられた世界からこの世界へとさまよい出してきたものではないか、そんな自らのパラドックスによって世界との衝突に定められた怪物ではないのか、と問われるのである。
かたやダフィが助っ人を依頼される、ウルスライン・アカデミー女生徒たちの学校劇“七つの道”がある。この七つの道は、七つの世界の終末(あるいはその回避の試み)を描いていた。この“七つの道”(預言の賜物であるらしきもの)と、ダフィの“失われた七年”のあいだには深いつながりがあることが含み示された。
そんな一方で、静かなる炎の人、マーガレット・ストーンに与えられたインスピレーションによれば、この世界は夜ごとくり返し、終末の危機、最後の審判の現場に置かれている。今この時、人々(彼女、そして我われ)が生きている世界は、真にその存亡が懸かった試みの前に立たされている。そして私たちには、毎晩、この世界を救い直す使命が課せられているのだ。彼女は自らを捉えたそんな思いを捨て去ることができないでいる。
これら背後には、以下のような世界観、人間観があると総括することができるだろう。
ダフィ(私たち)の住む世界とは、実はいくつもある世界、多重世界の一つである。すべての世界は滅びの危機に晒されている。いつ滅んでも不思議ではない。実際に滅んだ世界も多くある。しかし、この世界は“魔法”“奇蹟”“特別な力”によって、辛うじて救われ、持ち堪えてきた。世界は絶えずくり返し終末を乗り越え、再構築されなければならない。人間は、そんな“世界を救う”役割を負って存在している。
ではこの“世界を滅びから救う力”“世界を再構築する力”とは何であるのか? 私たちは(世界の存続をかけて)それを手に入れることはできるのか?
ここで私たちは、本作の根元にあると最初に訴えた、“時間とは何か? 時の中で営まれる人間の生とは何か? 命とは何か?”という問いに連れ帰られることになる。
ここで、このラファティの作品『メルキセデクに優るもの』が持つ、“いくつもの結末”について取り上げておくのが適当な場所となろう。
UMP版の『メルキセデクに優るもの』には、編集者のダン・ナイトによって、末尾に、一種の“付録(アペンディクス)”があてがわれている。すでに結ばれた作品に、著者ラファティ自身による“もう一つの結末”部が示され、さらに編者の求めに応じて、著者自身が、この作品にあり得た“いくつもの結末”について説明するエッセイが付け加えられている。“もう一つの結末”しか示されていないのに、なぜ“いくつもの結末”なのか? 長編出版後、別の機会に執筆された編集者ダン・ナイトのエッセイによると、実はラファティのこの長編には、それが出版された時点で六つの(!)異なる結末部分があった、というのである。
しかし、実のところ、こんなことはラファティにあって、初めてであるとは言えない。“アルゴ連作”の出版順第一作である『悪魔は死んだ』には、出版後、別の機会に公にされた「ガルベストン島におけるフィネガン伯爵最後の一日について語る“外典”的な断片(不詳な事情によってスタンダード版『悪魔は死んだ』から欠落)」というのがある。「版元エイヴォン・ブックスに急いで届けたが、出版に間に合わなかった」という(例によって)虚実定かでない作者コメントもつぶやかれている。
しかし、そんな伝説的な説明を伴う、それなりに長さのある「断片」を読んでみると、長編本編のためのさらにふさわしい結末というより、いわばこの長編の、“拡大アルゴ連作世界”中における座り心地をよくする役割、架け橋のような役割を果たしている内容であることが分かる。実際にそうなったように、本編とは離れた形で読者の目に触れるのが一番ふさわしい性質のものだったと思える。“外典”はまさによい言葉である。
今回『メルキセデクに優るもの』のために作者が書いたという、標準版とは異なる五つの結末についても、上の『悪魔は死んだ』の場合と同様である、との思いを訳者は抱かずにいられない。正式版の結びと付録版の結び以外、残りの四つについても、上記ダン・ナイトのエッセイに、あらましが記されている。これらは本編とは別の機会に読者の目に触れるのがふさわしい性質のものであろう。
さて、それにしても、この『メルキセデクに優るもの』には別の終り方があり得たという事実(加えて言えば、ダフィにはいくつもの生がある事実、“アルゴ三部作”が“同時小説”である事実)は、この作品世界の土台となっている“時間観”“人間観”を理解する上で、一つの大切な手がかりになるだろう。
“世界を救う”とは?――私たちは未来に向かって生き、“未来を救おう”と企てる。(世界を救うとは、未来を救うということである。)そもそも、未だ訪れていない“未来”とは、そもそも“時間”とは何なのか?
本作ではメルキセデク・ダフィの、時間の流れに逆らって行き来する力が描かれる。またアルゴ英雄たちによる“冒険航海”そのものが、往々にして“未来を変える、未来への旅”であることにも注目したい。この物語に底流する“時間観”とはいかなるものであったか。
さてここで、我らが主役ダフィその人が、とうとう“時間の外側”への敷居に足を掛けるあたりで、語り手が“時間”について述べる内容を、少し長くなるが、そのまま引用させていただくとしよう。そこではいくつもの異なった“未来”のかたまりが、“水差しの注ぎ口”から押し合いへし合い、先を争って外へ流れ出そうとする様子が描写される。そして、人間が生きる“現在”とその“未来”のあいだには、両者を分けるとても薄い“境界被膜”があるのだと指摘される。人はこの境界被膜を突き破って進む力を持っていることに目を開くよう促される。かくして:
『メルキセデク・ダフィ…は、唯一絶対の“現在”の前に立った。そしてそれから、親指の幅だけその先へと進んだ。それはダフィ…が未来へ入ったということか? いいや、そうではない。彼…が、まったくもって捉えどころのない、“不確定の世界”に入ったということである。現実が引き裂かれる。メルキセデク・ダフィが引き裂かれる。
どんな時にも、未来から漏れ出して、現在へとやって来る、一定量の非現実というものがある。やがてその“非現実” は 否定され、“現実”が再生されなければならない。この“現実の再構築”こそは、われわれが“世界の再構築”という名で語ったことであった。
ダフィは今までに“未来”を訪れたことがある。不規則に、行ったり来たり、一度は七年間も。彼はこの同じ七年間に向かって、何度も訪問を繰り返した。ただそれでも、ここで“未来を”というのは、厳密には正しくない。そこでは未来と過去と現在が混じり合っている。それは時間の外に取りだされ、別の場所に取り置かれた“空隙”、あるいは幾つもの“空隙”のつながりだった。空隙の“七年”は、通常の時間に編入される必要がなかった。それが何度も再訪のできる理由でもあった。なにも現実を引き裂いたりはしない。そうではなく、現実から遠く隔たった、向こう岸に存在するのだ。』
(ch10, p9、太字・筆者。)
過去、現在、未来と流れる“時間”とは何だったのか? あるいは、過去、現在、未来と展開する人間の生とは? ダフィの世界では未来は一つではない。未来が分裂、世界が分裂を起こす。これはいわば“マルチバース”の世界(並行世界)である。ラファティはなぜこのマルチバース世界を描くのか、そのどこがユニークであるのか、という点に今一度戻ろう。
ダフィの人生は分裂し、いくつもの未来、不確定世界が、その実在、“現在化”をかけて競い合っている(“雷仔馬”の一族が出現する世界があり、“偉大なる日”が明けた世界があり、反キリスト・ケィシィが勝利する世界があり…)。ダフィには、さまざまな“選択肢”の中から、“望ましい”“正しい”未来を、滅びの闇ではなく光の中にある世界を、真実の世界を選び取る使命が課されている。これはすべての人間(物語作者)が、その魂の力(創造的想像力)によって、新しい命に生かされた世界を(心の中に)生みだす営為と重ね合されている。(本作世界像の中にある並行世界、トポロジー反転の世界、時間の外の世界とは、“物語想像力の創造世界”と等位だったことを思い出そう。)
その営みの現場こそは、ダフィとその仲間たちの戦場、恐るべき敵(世界を破滅へと至らせる、なきものにすることを企てる敵)を相手に立ち向かう戦場だった。――ジーン・ウルフは、ラファティの物語は、まさしく“人生の予行演習”であると語った。すべてのよい文学作品は、何らかの形でそうなのであろう。
ダフィと仲間たち(私たち)は、その魂は、そこで敗北し、命を失うかもしれない。世界は終末を迎え、滅びるかもしれない。あるいは命を得、世界を滅びから守り、新たに生まれ出させることができるかもしれない。(これは同時に、喩えであり、真実である。)
そしてこのダフィの物語、アルゴ英雄たちの戦いの物語(そして物語作者の生みだした、その他の物語)こそは、“もうろく魔法使い”ラファティ自身が、“生身で生きる世界”の並行世界(“トポロジー反転の世界”にして“未来”)として常に自らの傍らに置きつつ、頼りなくも危なっかしい“現実”の人生を歩んできた、もう一つの世界だったのだ。そして、このすべてを生きる中で、いったいかにして――だれから、どこから、どんな助けを受け――辛うじて自らの歩みを保ってきたのか、この一人の“もうろく魔法使い”、“物語作者”は、まわりにいる仲間たち、私たち読者に自分の経験、学んだ知恵、教訓を語り伝えようとした。いかにして敵に立ち向かい、勝利に向かって歩み続けてきたか――敵の戦術とは、その戦術に打ち勝つ力とは?
敵は私たちを欺こうとする。私たちの生きる生を、“時間”を見誤らせようとする。――時間とは? 時間の中で生きるとは?
本作中でラファティが用いた、印象的な、“琥珀の中に捕らえられたハエ”の喩えがあった。欺きの時間、欺きの世界。人を欺く媒体。それが“時間”?
固体のように――まるで琥珀のよう――粘度の高い超低速な流動媒体の中に捕らえられて、死にゆきつつあるハエ。一秒(瞬間)を百万年(永遠)であるかのように欺いて(高速度に)経験する。しかし、実は世界は昨日始まったばかり、ゆっくり一日(瞬間のごとき時間)しか進んでいなかった。単に、自分を欺いて百万年(永遠のごとき時間)の歴史が過ぎたと思い込んだ(自分で自分を欺いた)。敵は(そんなニセモノの)永遠は、実は人が死に捕らえられた瞬間(無時間)だったと信じ込ませる。地獄の中に目覚めさせる。
ここで時間は、私たちの魂を閉じ込めた“牢獄”に成り変わる。“始まりも終りもない永遠”は、“始まりも終りもない無”であるというウソで騙す。物質が魂を騙す。
前述、本長篇に付された“もう一つの結末”はいわば、時間の外に(物語の本来の道から)分かれて出た傍流を語ったのであるが、その中で著者はそんな語りさえ突如中断、横において、一セクションを“時間論”の開陳に費やしている。ラファティ研究家、グレゴリオ・モンテージョによれば、この時間の議論は、トマス・アクィナス、スコラ哲学に基づいている。そこで論じられるのは“時間(タイム)”、“永劫(アイオーン)”、“永遠(エタニティ)”、この三つの違いについてである。
「“時間”とは物質的な被造物の持続を測る物差しである。継続する物質的な変化に番号を振ることである。」
「“永遠”には始めと終りがない。永遠は継続とは無縁の瞬間である。しかし測り得ない深さを持っている。永遠は完全であり、追加・補完とは無縁である。永遠は一つである。…永遠は“無時間的な全体(インスタネアスリイ・ホール)”である。永遠は揺るぎなきものの物差しであり、時間は変化するものの物差しである。」
そして「“永劫(アイオーン)”とは(“時間”が物質的な被造物の持続を測る物差しであった一方)非物質的な被造物(注:つまり“霊”)の持続を測る物差しである。トマス(アクィナス)によれば
“永劫”は“無時間的な全体(インスタネアスリイ・ホール)”であるが、後と先を持って存在する点で、“永遠”と異なっている。」
「人間は部分的に物質であり、部分的に非物質であるので、ある場合は時間の中におり、ある場合は“永劫”の中にいる。」
霊としての人間は“永劫(アイオーン)”の中にいる。物質としての人間は“時間”の中にある。人間とは“永遠”と“時間”のあいだに宙吊りになった存在である。二つの方向に引き裂かれたものである。そのような理解。
“始まり”があり、“変化”するもの(時間現象)は、時間の外にその起源となるものを要求する、とはアリストテレスの議論であった。アクィナスにあって、その“起源となるもの”とは唯一なる創造主、永遠である神だった。人間とは永遠である神から発し、“変化”する時間の中に置き去りにされた存在である。永遠なる創造者が、時間の中に囚えられた被造物を取り戻すため、そのための架け橋として創造したものこそが人間だった。人間とは本来的に“アイオーンに生きるもの”として創造された。(言い換えれば、人間とは本来、“魂”として創造された。)しかし人間は、その自分に与えられた役割、力を忘れ去ってしまった。
敵の戦略は、人間に“おまえは琥珀に閉じ込められたハエである”と思い込ませること。(“物質としての時間がすべてである”という欺き。)そして“時間”を“人間を閉じ込める謎の檻”(地獄)にすり替える。“時間から自由な魂”であることを忘れさせる。
人間にとって、“夢”、“想像力”とは、マルチバース、並行世界に等しいものだった。それは悪夢、地獄、死の世界の罠となり得る。この物語作者は、そんな敵の欺きの戦略を暴き、その戦略に打ち勝つ力を、魂に覚えさせようと努めたのである。約束のしるしを、“世界”の中に刻み入れる。それなしに、“勝利の力”を思い出すことはできないような。――“アルゴを思い出せ。”
命とは何であるか。それを忘れ去らせようとするもの。それを私たちに思い出させる力。
ダフィの生はラファティの生だった。ダフィはいくつもの生の中で、悪夢の生に閉じ込められて滅びに至るかもしれなかった。しかし彼は魔法使いとしての歩みを守られた。悪夢の並行世界から逃れ出すことができた。どのようにして?
ダフィの傍らには(ニューオリンズの居宅のテーブルの上には)いつも、灰の入った不思議な壺が置かれていた。その壺は“未来”から(“アルゴの冒険”から)持ち帰れた壺であった。壺の中の灰は、ダフィ自身の体が焼かれた灰に他ならなかった。
“アルゴを思い出せ”との声が響く。アルゴの航海とは“敵”と闘う冒険の旅である。その物語を語る“文学伝統”(想像力の生み出したもの)であり、並行世界であり、“現実”の世界でもある。ダフィ(ラファティ、私たち)はアルゴに乗っていくつもの“未来”へと旅し、敵の力を挫く使命を負って、その役目を果たした。しかし、その(冒険の一つの)中で、敵の力に屈し命を落とした。そして、残された死体が火に付され、灰となり、“現在”を生きるダフィのもとに届けられたのである。(ダフィ、自らの堕落と敗北のゆえに、未来の死ですでに死んでいる者。)
ダフィ(人間)は二つの世界に属している。しかし、常にそのことをよく覚えているとは限らない。“この世界(日常世界)”と“アルゴの世界”(“表層の世界”と“深層の世界”)。ダフィは、どちらの世界においても、死に定められている。しかしダフィは、アルゴを思い出し、その死から解き放たれ、自由になって、アルゴの冒険を続けることができた。真の“魔法使い”に与えられた“魔法の力”によって。(人間、自らの“堕落”、“敗北”にもかかわらず、なお、恵みの約束のうちに、“やり直し”の機会が与えられている者。)
アルゴの冒険航海とは、魂が生きる世界である。――それは私たちの生きる世界をも包み込む世界。それは未来でもあり、創造的想像力が架け橋する世界でもある。――死に勝利した力に支えられた冒険、命の賜物である。
何がダフィにアルゴを思い出させる役割を果たしたか。この物語の字義通りの展開のなかではミスター・X、ダフィに自らの体を焼いた灰の入った壺をもたらした男、どこか道化じみた存在である。彼は十二人の“輝かしい被造物”の一人に含まれながら、“アルゴ英雄航海士”には含まれない、本物の魔法の力を持たない、時を越えたいくつもの命を持たない(一回きりの生しか持たない)ものであるとされる。死すべきものの影、呪いの影を背負った謎の人物(道化)。そもそも彼がもたらした“体が燃えて残った灰”こそは、“呪われた死”のしるしではなかったか。
しかし“人々のあいだ”には、アルゴの“記憶”、アルゴを“想起する力”を与えられたものがいる。二つの世界に跨って生きるもの、二重性に目覚めている者がいる。自らが呪われたものであることを知り、それでもなお、その“呪いからの自由”に目覚めている者。
ミスター・Xだけではない。このラファティの物語の中にあって“英雄たち”はみな、どこか二重性を背負っていた。一九四六年五月最後の土曜日、セントルイスで、最初で最後に一堂に会した“輝かしい被造物”たち、“ダフィ一族”たちは、まさに理想形であることを仄めかされながら、まるでステレオタイプ化された“乞食たちの群れ”“ジプシー楽団”、異界からの怪物たちといった連想の中に描かれる。醜きジウリオ、“地の民”たち(つまりネアンデルタール人)とひと連なりのものたち、ガーゴイルの仲間たちである。彼らもまた、呪いのもとにありながら、呪いに勝利したもののしるしを負っている。彼らの多くは、“今”という時、この地上の生に縛られながら、“もうろく魔法使い”ダフィに与えられた徴(しるし)を通して、地上を越えた“アルゴ”の記憶の断片を身につけている。
――それにしても、メルキセデク・ダフィのもとには、灰の入った壺の他に、彼が過ごした“隠された七年”から持ち帰り、その失われた年月のしるしとなっているものがもう一つあった。いや七つあった。これまた、そのどれをとっても、一見、奇妙で怪しげなものだった。そのすべては、不思議なキリストの像であった。そして、どの一つをとっても、人生に一度の機会で見いだされた“値段など付けようのない宝”なのだと語り手は語る。
アルゴ航海士たちの冒険航海は波乱万丈、常に命をも脅かす危険に晒されている。そんな彼らが絶望に呑まれそうになった時でさえ、いつも彼らを守り、行く手を導いてくれる“海図室”があった(時に人はその“海図室”の在り場所を見失ってしまうとしても)。神に集められた人々の集い(エクレシア)、敵に対峙するものたちの砦である。そしてそこには、冒険航海のための知恵が記録された航海日誌を見いだすことができた。そこにははっきりと“隠された宝”、“黄金の毛皮”、“命の力”の在りかが示されている。そして、このアルゴ号を支配する秘密の船長がいた。それは首吊り縄が首にかかった“呪われたものたちの主”、“始めも終りもない”というメルキセデク(詐欺、欺き、山師? 比喩? 真実?)に優るもの、死に勝利して生きるもの。水の上を歩く力を与えるもの。
アルゴとアーキペラゴ。
魔法使いダフィには、お守り棒の被造物たちを“目覚めさせる”役割が与えられていた。
お守り棒の被造物たちとは、この現在の世界(我われみんなが生きている日常的現実、アーキペラゴ、陸地の上)にあって、敵と対峙し、敵との戦いに臨むものたちである。――しかし陸で生きる彼らもまた、二重の生を生きる約束を受けている。
アルゴの冒険とは、定められた死を越えて(死にもかかわらず)、いくつもの生(未来)を生きる力。終りを越えて、さらによき終りを探して、いくつもの生を生きる力。世界を分裂した状態に保つ。“時間”の内にいるか、外にいるか、どっちつかず。
人間(“神の似姿”の被造物)には、“永遠”を、自らに与えられた可能性、未来の“自由な魂による選択”として生きることができる。これこそが、世界の再構築、世界をま新しく立ち上げる力、企てである。アルゴの冒険(幾つもの世界、未来に跨る冒険)は、アルゴ英雄たちが“世界”を破滅から守るために果敢な戦い、魂の戦いを続ける舞台である。
しかし、そのアルゴ号、アルゴの英雄たちには、なくてはならない、命の再充填の場所、命のものたちの住まう地上の園があった。この園、楽園の島、アーキペラゴ、つまり、今ここ、私たちが(よき仲間とともに)生かされている現実こそは、(復活の主の徴をおびた)永遠、天の国の影、先取りに他ならない。(セントルイス、シカゴ、ニューオリンズ…今あなたの生きている場所。)
命とは何であったか?
ダフィの若き日の仲間との交友、どんな人間でも持ち得る(よき隣人たちとの)交友を描写する中で、作者がさりげなく述べた言葉があった。「お互いがお互いの中に、これがまさに真実だったのだが、この世のものではない命の輝きを認め合っていたのだ。」
命とは、地上の世においては“見えざるもの”、“天の国”の影である。この世を越えたものが、この世の中に顔を出している。――私たちは、この世界を、天の国の“比喩”にすべく生かされている。
私たちはみんな、“アルゴ冒険航海”と“アーキペラゴ”、二つの世界、両方を同時に生きている。この人間の生、冒険の生にあって、アルゴの仲間たちは、お互いがお互いを支え合い、ともに力を合わせて、敵と戦うことが期待されている。それだけではない。御神が終わり方を決め兼ねておられる――まだ終わり方を決めておられない“世界”にあって、私たち、アルゴ/アーキペラゴの仲間たちは、御神と共同作業でこの世を新しく創造してゆく、その素晴らしい役目を与えられている。
以上、このラファティの大作について、訳者の個人的な一つの読みを差し出しているに過ぎないことは言うまでもない。
さて、最後から二番目。ここで、かくなるラファティの作品と、それを取り囲む同時代の文学作品との関係に思いを巡らせることにする。
ラファティの作品一編一編は、すでに論じた観点から、全ラファティ創作という多重世界、その中で繋がり合った一断片として読むことができよう。そんな彼の作品は、往々にして、奔放な想像力によって生み出された、超自然、超現実な要素が溢れた、夢の世界の物語の様相を呈した。しかしそんな傍らでこの作者は、基本的には自然主義的と呼んで差し支えない、“比較的おとなしい”物語をものにする時もあった。作家ラファティが自ら好んで読んだ文学作品としてあげるものには、普遍的な古典作品、文学史を飾る多くの“主流文学”的な作品も含まれていた。
主流文学的作品に対する自らの作品の位置に関連して、作者自身が本作中に書き込んだエピソード――全芸術分野の守護者たるダフィにまつわる一つのエピソード――がある。ここには著者自身の視点が明瞭に表われているようである。
ダフィが“擬兄弟”バグビィとともに訪れた、ニューオリンズの美術品店で、バグビィの心を捉えて離さなくなった一作品があった。エルロイ・レッドハートの自伝的制作「四つの部屋を持った赤い心臓」である。そこに描かれた“私たちの心にいるジル”、“私たちの心にいるジャック”の生涯、その遍歴は、ラファティの時代の多くのアメリカ人(そして世界の人々一般)の心を把んだ物語作品(例えばフィツジェラルドやヘミングウェイなどが浮かぶ)の典型表現として見ることができるように思える。ラファティはそんな作品の何たるかを知っていた。(小説を読むとは、自分にとって、人の心の盗み聞き活動である、とコメントをしたことがあった。)それは、『アーキペラゴ』の“札付き五人組”にとり、彼らが生きたのと同じ世界、同じ時代の人間の物語だった。(五人組にとって、それは“天の織物の裏側の縺れ絡まった眺め”だっただろう。)ラファティはそのような物語を書こうと思えば書くこともできた。だが彼はそれが自分の作家としての役分であるとは考えなかった。そして自作中の一隅に、一つの戯画、喩え、エルロイ・レッドハートの制作物として書き込んだだけだった。それに対し、ラファティ自身が自らの賜物として語り続けた物語は、作者自身の分身たるダフィが、エルロイ・レッドハートの作品に対峙させるように、憑りつかれるように生み出したという制作物、粘土、小麦粉やコーンミールのパン地で作り上げたという制作物に相当するものだったに違いない。
そこには:『ダフィの始原の人生、王としての統治したありさまが描き出された。そしてまた、この二十世紀の彼の子ども時代、彼の人生が再現された。そのうち、たいへん大きな広がりを持つ、シュールレアリスティックともいえる一つの組は、アブサロム・スタインの言葉に従えば、メルキセデク・ダフィの人生の隠された七年を表現することを意図されていた。でも、七つの部屋に分けられていたわけではない。そこは異なる時間の支配下にあるのかもしれない。……彼はおそらく一万に及ぶこれら小品を作り、テーマ別の展示、独立した一つ一つの領土、館を満たしていった。さて、このようにして生み出されたものの中には、ただ単にダフィの個人的な必要をみたすためだけのものもあっただろう――』
そうダフィ個人の、そしてラファティ自身の、そしてまた私たち読者の、必要を満たすものであっただろう。
作家ラファティは短編に対するのと勝るとも劣らぬ精力を費やして、長編執筆に勤しんだ。最後にもう一度、ラファティ作品にあって、作者自身にとって、短編と長編はどのような関係にあったのかを考えてみたい。長編に託された役割、その力とは何だったか。
ラファティの短編作家としての圧倒的力量は見誤りようがない。しかしその一方で、まったくもって個性的な短編に魅せられて読者になったものが、往々にして、ラファティの長編に接し、いったいどう楽しんだらいいか分からない、と戸惑ってしまう姿が目に浮かぶ。ラファティの短編と長編は「猫とパイプオルガンくらい違う」とは、日本ラファティ紹介史に刻まれた、大森望氏の名言である。
ラファティの短編は空前絶後、究極のエンターテインメントである。ラファティは、もしかしたら、「物語の霊」にひらめきを与えられて、一つの短編を、歓喜に充たされて、一気に書き上げたかもしれない。しかし長編を書くためには、自らがそこに書き込むべきことを最も効果的に書き入れるため、七転八倒しながら全体を編み上げて行った姿が思い偲ばれる。長編は、短編の背後にある精神、何がそんなエンターテインメントを生み出す力の源になっているかを、明らかにしてくれるとさえ言い得るのではないか。
ここで、アルゴ連作が成立した経緯を追うことにより、著者にあって、長編創作と短編創作のあいだにどんな関係があったかを、垣間見ることができる。
この「アルゴ連作」には代表的長編三作とともに、その周辺に散らばりつつ、それぞれ独立して発表され、独立して読むことができる中編、短編がいくつも含まれている。これが単に“アルゴ三部作と呼ばず、“アルゴ連作”と呼んでいる理由でもある。
ラファティは1950年代後半、短編、長編両方の執筆に同時に取り組み始めた。そのうちでも一番早い時期に取り組み始めたものがアルゴ連作第一作『アーキペラゴ』だった。長編三部作はほぼ並行して執筆が進められた。しかし『メルキセデクに優るもの』は他の二作に十年遅れて1977年に、今の形に完成を見るに至った。この三部作最後の一作は、1975年に一度書き上げられた後、1977年にその二倍以上の長さを持つ現在の形に書き直されて完成をみた。その際に複数の中短編を内に取り込んだとのことだった。(この長編が遂に出版されたのは1992年。)
本連作に含まれる中・短編は、発表当時はまったく孤立した中短編として読者に提供されたものだった(と多くの読者には思えた。そもそも、著者の全作品は何らかの遠戚関係にあると思わせる作風にあって、どの作品にも、他の作品とどんな関係が隠れているかもしれない)。信じようと信じまいと、これら当初独立した作品と思われた中短編、そのそれぞれの内容には、当初読者が少しも思い及びもしなかったコンテキスト、意図があったことが明らかになった(そのよい例は既訳『偉大なる日、明ける』(牧眞司編『ラファティ・ベストコレクション1』所収)と本作の関係に表われている)。中には、個々に発表された中短編が(適切な書き直しをともなって)本作の中に直接取り込まれてしまう場合も生まれた(よい例が本作第十一章と中編「From the Thundercolt’s Mouth」である)。
以上の経緯は、この連作の枠組み内の問題にとどまらず、ラファティの短編一般と長編一般の関係として、読み替えることもできるのではないだろうか。独立して魅力いっぱいだった短編、しかしその短編には、その個々の秀逸なアイデアを越えて、一目瞭然ではなかったさらに深い意味、意図が隠されている。そんな含蓄、読み方が、長編として表現された、より大きな物語、世界像のもとに置かれることにより、光を当てられ、明確になるのだ。
さて、最後の最後。“ラファティの謎”に戻る。
アルフレッド・ヒッチコックが“マクガフィン”という作話手法について語ったという。だれかが傍でマクガフィンという、聞き慣れない不思議なものについて話しているのを耳にする。何のことかよく分からない。分からないから余計に関心を掻き立てられ、さらに知りたくなる。話の断片から、いろいろ推測してみるが、やっぱり分らない。その正体は、いつまでもはぐらかされたまま続く。実はマクガフィンなんてものはなくて、ただ聞き手を引きつけるためのハッタリだったかもしれない、というワケである。――ラファティの謎は“マクガフィン”であったのだろうか?
否、ラファティの作品こそは、その対極、アンチ・マクガフィンであったと言ってみたくなる。世に蔓延るマクガフィンのトリックの化けの皮を、爽快に剥いでみせる企て。作家の第一短編集表題作で、ラファティ短編の代名詞になったかのごとき「九百人のお祖母さん」が例にとれる。登場する“九百人のお祖母さん”こそは、“マクガフィン”を弄して、主人公の若者を人生の奈落に突き落とした“敵”の仮の姿に他ならなかった。若者を取り囲む“婆さま”たちが笑いころげた“万物の始まり”とは、いったい何であったというのか…。世の中には、中身の空っぽな“謎”が溢れている。マクガフィン。(その手法は、何も物語作話手法にとどまらず、世に蔓延っている。)思わせぶり、中身を装う。ジョーカーがハートのクィーンを装っている。でもそれはコケおどしのペテン。―—その正体が暴かれなければならない。
ラファティの短編は空前絶後の謎解きエンターテイメントだった。“謎ごかし”の謎を解いて一掃してくれる醍醐味! だが“ラファティの物語”の魅力、真骨頂はこれに尽きなかった。
ラファティの“分からなさ”は長編において極まる、との見方がされた。
長編において、ラファティの謎は重層性、複雑な構造を呈していく。私たちが対峙する“敵”は手ごわい。油断をすれば、もはや一巻の終り。――“ペテン師をペテンにかけるペテン師をペテンにかけるペテン師を…”――逆転を重ね、どこまでも続くパラドックス。
ケイシィ・シマンスキィはユダ、反キリストであったのか。“悪魔を救うため、悪魔と魂を交換して、悪魔の身代わりになる”ことを受け入れたもの。“ユダの謎”はラファティがくり返し立ち戻る主題である(つまるところ、“敵”とは、私たちの“分身”だったのだろうか?)。だがこれらパラドックスこそが、人を囚らえこむ“謎ごかし”であるかもしれない。この世はそんな怪しい“謎”に覆われている。ラファティの物語にあって、重要度の高い役回りを引き受けたものの方が、引き受ける謎の度合いも深くなった。フィネガンしかり、ケイシィしかり、テレサしかり(テレサについては、第一作『アーキペラゴ』でより多くが語られる)。――繰り返し訪れる瞬間ごとに、私たちは天国か地獄を選び取るのだと、作中の言葉は述べた。――ここにこそ、アルゴの冒険、アルゴの戦いの深淵が口を開けているのだとも言えよう。しかし謎が深み、複雑さを増す方が、謎解きの楽しみも増すというもの。語り部ラファティは教えるだろう。リアルな人生の中でも、夢見られた物語の中にあっても同様である。
魔法にも“本物”の魔法と“ニセモノ”の魔法がある。しかし、本物の“魔法”を用いても、再現することの難しい素晴らしいマジシャンの“手品“があり得ると、ダフィは感慨を述べたのだった。そして謎にも“真正な謎”があり、“食わせ物の謎”がある。
一九四六年五月最後の週、セントルイスで、摂理の中にあるダフィとフィネガンの最初の出会い。フィネガンはダフィに語った。「一番の冗談はだ、ダフィ、あなたの造ったうち、中心を占めるものってのは、実は中身が空っぽだということ…これがすべての謎ごかしの後ろに控えている皮肉である」
さて、本当に、“謎ごかし”の中身は空っぽだったのだろうか? ラファティの全作品がこの謎解き、謎の答えであろう。
※本稿はHTML用に編集してあります。オリジナルのPDFはこちらにあります。