今年のSFセミナーは、ゴールデンウィーク最終日の5月6日(水)に、東京御茶ノ水の全電通労働会館ホールでの開催となりました。
ゴールデンウィークの東京で合宿なしというのは地方在住者としてはちょっと厳しいものがあり、これまで皆勤の水鏡子は古本行脚のついでに当然のように参加しましたが、ぼくは残念ながら現地参加は諦めました。
ところが嬉しいことに今年はPeatixでのライブ配信があるということで、そちらを申込み、おかげさまで全企画を楽しむことができました。
ところが残念なことに配信トラブルがあり、音声は問題なく聞こえたのですが、動画は正常に配信されませんでした。ログインした瞬間の画像は静止画面となって表示されるのですが、そのまま動きません。再ログインするとまたその時の画像が静止したまま表示されるという状況でした。
というわけで会場で表示されていた資料画像等は見ることが出来ませんでしたが、音声は問題なかったので各講演自体は聞くことができ、楽しく興味深いイベントとなりました。出席者、スタッフのみなさん、ありがとうございます。
なお、以下のレポートはメモをもとに記憶をたどって書いていますが、記憶違いや不正確な点もあるかと思います。不適切なところがあればお知らせ下さい。すみやかに訂正したいと思います。
また画像はログインした時にたまたま表示された静止画像のスクリーンショットです。不都合がありましたら対応しますので、ご連絡ください。
※後日、SFセミナー事務局より、配信チケットの購入者には当日の動画をYouTubeにて視聴できるように対応していただきました。以下のレポートには反映していませんが、これで音声だけではよくわからなかったところもわかるようになりました。どうもありがとうございました。
ライトノベル・インターセクション~「ライトノベル史」研究のいま~ 山中智省
最初の企画ですが、この時点では再ログインするとその時の画像が静止画で表示されるとわかっていなかったため、画像はありません。
山中智省(やまなかともみ)さんは、白百合女子大学人間総合学部児童文化学科という、伝統的な児童文学からライトノベル、アニメ、ゲーム、マンガといった様々なサブカルチャーを研究する学科に所属され、主にライトノベル史を研究して『ライトノベルよ、どこへいく 一九八〇年代からゼロ年代まで』や『ライトノベル史入門 『ドラゴンマガジン』創刊物語―狼煙を上げた先駆者たち』といった書籍を出版されている。
まずは「ライトノベル」とは何かから。
「ライトノベル」とはなんぞやというと、まだ明確な定義はなされていない。ひとまずの定義として、『日本近代文学大事典 デジタル版』に載った「ライトノベル」の項目では、「漫画・アニメ風のキャラクターイラストをはじめとしたビジュアル要素を伴って出版される若年層向けのエンターテイメント小説」となっている。
「キャラクター小説」という別名もあり、様々な特徴をもつ出版物が多様化している。また現在では若年層向けとも言えなくなってきている。
「ライトノベル」という言葉自体は90年代のパソコン通信から生まれた。それが一般に流通するのはだいたい2000年ごろ。それまでのヤングアダルト、ティーンズ小説、ジュブナイルなどを全部ひっくるめたような呼称となっていった。
ライトノベルの歴史をとらえようとするとこのような多様性があるので、著者のスタンスによるということになる。様々あるなかから、ここでは書籍ベースで紹介していきたい。
まず2004年の『ライトノベル完全読本』に三村美衣さんが、作品、作家、レーベルを軸にライトノベル30年史という形でまとめられた。また2008年には「ダ・ヴィンチ」誌で特集があり、年表が掲載されている。
この年表を見ると、作家、作品、レーベルなどの情報に加えて、その周辺にアニメ、ゲーム、マンガといった様々な当時のトレンド作品、流行作品などが影響しているのかが図示されている。ライトノベルの歴史というとき、このように小説だけ見たのでは捉えきれない。
2000年代後半からはアカデミックな方向からも捉えようとする動きが出てきた。富士見書房の本などを定点観測的に押さえていくといったものである。2020年代になると『ライトノベルの新潮流』のような周辺動向も含めた通史的な入門書も出ている。これは近年出た本の中では特にわかりやすく有用な本だといえる。
さらに特定の出版社、企業に着目したものもあり、とりわけ『KADOKAWAメディアミックス全史』は元々は社史として出たものがあまりに反響が大きかったので一時的に電子書籍として配信された。
最近出たものとしては2026年の『ライトノベル大全』がある。1977年にソノラマから出た『クラッシャー・ジョウ』を始まりとして500作品を紹介している。作品ガイドを重ねながらライトノベルの歴史を作品から捉えたものとなっている。これだけの数をまとめて紹介するというものはこれまでなかった。
私自身の捉え方について。
作品、作家、レーベルの歴史を考えると、果たして作品分析から特徴を捉えられるのか。そこにライトノベルらしさを抽出できるのか。面白ければ何でもいいので様々なところから取り込まれるものであり、そこにライトノベルのエッセンスがあるといえるのか。ライトノベルとして出たものが一般書として評価されるものがあり、児童書として出たものにアニメ絵をつけてライトノベルレーベルから出たりもする。
そこでライトノベルというものを、コンテンツの中身よりそれを生みだす場、作り出す環境から見たいと思う。
笹本祐一『妖精作戦』の創元文庫の新装版に谷川流さんが解説で、おそらくライトノベルというのはジャンルではなく、小説媒体に発生した新種のメディアであり、もはやジャンル論で語ることができない存在となっていると書かれていた。例えば、映画はメディアだが、映画の中にSFやミステリーやホラーやファンタジーがあるように、メディアとしてのライトノベルの中に多様なジャンルがあるのだとすれば、メディア的な側面から論じることによってのみ、議論できるだろうとの指摘だった。
またSFマガジンで泉信行さんが、用語としてのSFやスペオペ、超能力ものはジャンルを表すが、それらと同じ意味でならライトノベルはジャンルではない。そこで活躍する小説家たちをミュージシャンに例えるならライトノベルは音楽ジャンルよりも、いわゆる箱、ライブハウスなどに近い、場や客層の傾向に大きく依存している手法なのだ。つまり、様々なジャンルを迎え入れてきた領域を指してライトノベルと呼ぶことができると指摘されていた。
私はその指摘に納得できるものがあった。中身を一個一個探るよりも、むしろそういった多様なものを受け入れる受け皿、箱としてのライトノベルというようなところに目を向けてはどうかという発想。
またライトノベルは複合的な文化現象であるという意見もあり、そういう中身を生みだす外側を、多様なジャンルを複合した出版メディアとして捉えたいと思う。
そう考えたとき、まず文庫本というものの歴史がライトノベルに非常に強く関わっている。もともとは古典を普及させるために出たのが文庫本だったが、若者向けに本を売るための安価なメディアとして展開されるようになってそこにライトノベル・レーベルが乗っかってくる。そんな、若年層向けのエンターテイメント小説を展開していたレーベルの走りは、秋元文庫、ソノラマ文庫、そして集英社文庫のコバルトシリーズこの3つあたり。もともと新書や四六版で出していたものを文庫に再録するような形で、あるいはその時に新たに漫画・アニメ風のイラストをつけるような形で展開する。だいたいこのあたりで、現在のライトノベルにつながる出版メディアとしてのライトノベルの特質、文庫というメディアをうまく使いながら、若者に訴求力のあるコンテンツを生み出すメディアとしての特質が徐々に確立していく。
具体的にはソノラマ文庫、コバルト文庫、徳間のアニメージュ文庫、富士見書房の富士見文庫、さらには角川スニーカー文庫、富士見ファンタジア文庫、電撃文庫、あとは講談社X文庫、あるいはティーンズハート、ホワイトハート。
まず、朝日ソノラマのソノラマ文庫。ソノシートで得た収益をもとに新たなジャンル展開をしていった。漫画やアニメに触れた世代に小説をというコンセプト。当初はなかなか苦戦していたようだが『宇宙戦艦ヤマト』のノベライズが売れ、高千穂遥、夢枕獏、菊地秀行といった新人若手作家を投入して80年代に一世を風靡した。SFとも非常につながりのある文庫レーベルだった。
80年代の若者向け小説というと少女小説も見逃せないが、それが集英社コバルト文庫。元々は、いわゆるジュニア小説を再刊して文庫展開していたが、新人賞を公募して若手作家を続々デビューさせる。代表が氷室冴子や久美沙織。さらにノベライズや海外SFの翻訳があり、そして新井素子の登場。少女小説の世界にSFを広げる立役者となった。
1992年のSFマガジン臨時増刊号では、一つの潮流として「ヤングアダルト」が挙げられている。これはメディアミックスを含み、今のライトノベルに該当する領域を示している。実際一部でライトノベルという言葉も使われていたがまだ一般的ではなかった。
富士見ファンタジア文庫やその母体となった〈ドラゴンマガジン〉もSF、ビジュアル、ゲームといった新しい潮流を指向しているが、ビジュアル・エンターテインメントを売りにしつつ、テキストとマッチングして小説の面白さを体験してほしいというコンセプトがあった。そこに新人賞を展開し、非常に戦略的に使っていた。そこから『スレイヤーズ』などが出てきた。そんな特質をさらに徹底し先鋭化したのが電撃文庫だといえる。
今回お話できなかった内容も含め、現在ライトノベルのメディア史を『若年層向け文庫レーベルの誕生と発展』と題して執筆中です。また詳細が出ましたらご案内いたします。
「ティプトリー、その生涯を追って」 海老原豊、紅坂紫
ジュリー・フィリップス『男たちの知らない女 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの二つの生涯』が翻訳され、ティプトリーの生涯の全貌が日本人読者の前にも明らかとなった。この企画はSF評論家の海老原豊さんと、作家であり翻訳者の紅坂紫さんを迎えて、ティプトリーとは何者だったのかを改めて考えるというもの。
海老原:これ結構なボリュームの2冊本です。実は1巻では作家としてのティプトリーは全然出てこない。2巻になってやっと出てくる。70歳ぐらいで亡くなるんですが、作家としての人生は、彼女の人生のずっと後半だったというのを改めて感じました。
あと強く感じたのは、彼女、アリ・シェルドンという人は、書く必要があったのか、なかったのかっていうことで、その狭間にずっとある人だったのかなと感じました。作家として生計を立てなきゃいけないから書き始めたってわけじゃない。彼女の人生を追っていくと、
SF作家として男性の筆名を使って書かざるを得なかったのじゃないかと思う。書かなくてもよかったけど、書かざるを得なかった。とりあえず最初の感想はそんな感じです。
紅坂:私も入手した時はボリュームに圧倒されていたんですけど、一つ一つのチャプターがすごく短くて読みやすくなっているのと、本当にドラマチックながらも客観的なイメージを解きほぐしながら進められていくので、一気に読めました。母と娘、ジェンダーとセクシャリティ、抑鬱状態みたいな人生、ティプトリーの人生、アリスの人生を通して、このテーマが一貫して出てくるのはすごく面白いなと。
「二つのの生涯」というタイトルなんですけれども、 二つどころか、たくさんの名前やペルソナがあった人なのに、フィリップスは一貫して彼女を「アリ」って呼んでいたのが、本来の姿に迫ろうとしていたようで、すごく良かったと思いました。北川依子さんの訳でも、ティプトリーとして手紙や小説を書いている時は文体も男っぽくなっていて、アリスとその二つの生涯にすごい迫っています。
海老原:お母さんとの関係っていうのも、読んでて思いましたね。お母さんは有名な作家なんですけど、この母親は善良な人であったというように書かれていて、毒親的な感じで支配したっていうわけではないところがまた苦しい。すごく良かれと思ってやってて、アリスにお金を出してあげたり、応援してあげたり、キャリアを心配したりとか、すごく良くやってくれるんだけど、逃れられないっていうのは、難しいなって思いました。
紅坂:そもそもSFを読み始めたのが高校3年生ですけれども、オールタイムベストに何度も入っているティプトリーは読まなければならないなと思い、『たったひとつの冴えたやりかた』を入手しました。この時点で私はティプトリーが女性であるということを全く知らずに読み始めて、全部読み終わった後に浅倉久志さんの訳者解説を読んで、ちゃんと衝撃を受け……ティプトリー・ショックをこの時代に経験できたのは良かったなと思います。
海老原:私も『たったひとつの冴えたやりかた』から入ったんですが、その時は前情報としてすでに知っていたんです。私よりも上の世代の方は当然リアルタイムで経験されたって、その解説とか読んだ上で読んでしまっていたので、いわゆるティプトリー・ショックっていうのは自分の中になかったんです。あとは短編集を買い集めていって、大学のサークルなどで読んできましたね。後期の話も好きなんですが、前期というんですかね、「接続された女」であるとか、「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」とか、「愛はさだめ、さだめは死」とか、そうたものが好きで読んでいました。
紅坂:海老原さんは卒業論文でティプトリーを扱ったとうかがったんですが。
海老原:何を書いたか、あんまり覚えないところがあるんですが、中心的にはジェンダー理論を参考にしつつ、男性の書き物、女性の書き物の社会的構築性みたいな話と、作品で論じたのは、「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」とか、あと「たおやかな狂える手に」も論じたかな。やっぱりジェンダー理論とか批評理論とか学んだ時に、男性性、女性性のいわゆる構築性っていうのを学んで、その一つの例として、だから生物学的には女性であるけれども、男性として通ってしまう一人の作家っていう位置づけでした。でもそれから20年経ち、この評伝を読むと、私自身の考え方もだいぶちょっと変わんなきゃな、変えなきゃなって思いました。
紅坂:そうですね。社会も変わってきている中で、この評伝が20年越しに翻訳されたっていうのは、すごい意義あることだと思います。
海老原:ティプトリーはすごく文通が好きで、男性としてあるいは女性としてジョアンナ・ラスとか、アーシュラ・K・ル=グィンっていう人たちと文通をしている。そこでフェミニズムの議論をして、ジョアンナ・ラスから厳しく責められたり、批判されたりっていうのがあります。ジョアンナ・ラスはティプトリーよりも若い世代で、若い世代が唱えるフェミニズムというものに対してティプトリーの戸惑いがあったとすごくよくわかりました。
私が学生の時に、ジェンダーの構築性みたいなものを学んでいたと先ほど言いましたが、この本を読み直して20年経ってみると、自分の体から離れた書き物って存在しないと思いました。こっちに女性のアリ・シェルドンが、こっちに男性のティプトリーがいて、それぞれが別々にあって、本体がそれを上手に操ってるみたいな図式で考えてたんですけど、当然そんなことはない。書かれたティプトリーにも実は身体性が存在しているし、あるいはティプトリーっていうものを作りながら、アリ・シェルドンという女性も、自分のアイデンティティとかセクシャリティとか、ジェンダーの問題であるとかで、自分のアイデンティティを上書きし作り直していったっていうのを改めて感じました。
文通相手を惑わされるために意図的にティプトリーの身体性を使ったっていう表現があるんです。自分が男性であるっていう体で手紙を書くんですけれども、男性を想起させるような表現を意図的にアリスは使っていて、読む方としてはきっと男だな、ああいう風に自分の体を言ってるんだなという風に受け取るんです。だから身体性っていうのは、ティプトリーには生身の体はないんですけれども、テキスト上でそういったものが出現している。文学でよく身体性って言われるんですけど、その身体性そのものもフィクションというか、身体性って何なんだろうって考えさせられました。
紅坂:私が評伝を読む前に知っていたのが、男性の筆名を使っている女性で、夫と無理心中をしたというところだけでした。ちょっと伝説的になってしまっていたところはあると思うんですけれども、その伝説の隙間というか裏側とかを解きほぐすようなところがあって、私が印象的だったのは、上巻では自分探しの旅をしたりとか、本来いるべき場所やアイデンティティを探し求め続けていて、中年期に入ってからは作家たちの文通を通じて議論を繰り返し、心理学者としての居場所や、 SF作家としての居場所を見つけたり、アリス・シェルドンとしても、自分の性やジェンダーを考え直したりしているところにちょっと希望を持てて、若い頃に居場所が見つからなくても仲間、フィクションを作る仲間、特にル=グィンとの文通とか、本当に感動するものが多くて、性やジェンダーで悩んでいる方にも読んでいただきたいなと思います。
海老原:ジェリー・フィリップスの本だと、セクシュアリティについても踏み込んでいて、表現は難しいんですが、アリス・シェルドンの中に抱えるレズピアニズムみたいなものについても、手紙やら日記やらを参考にしながら、私が常に夢中になるのは女性ですと本人が言っていたり、あるいは母親とのすごく親密すぎる瞬間とか、そういったものにも言及しています。
紅坂:そのレズピアニズムとか、アセクシャルの面もちょっとあるのではみたいなところまで踏み込んでいて、かつ夫が2人いたっていうところで、ジェンダー性について分かりつつも、より分からなくなる面があります。本人も分かっていなかったジェンダー、セクシュアリティの悩みを自分で見つけていくという過程が、本当に深掘りされていて興味深かったです。
海老原:フィリップスの表現だと、アリスは社会的な役割として「男性と母親」という軸をもつ。男性と女性じゃなくて男性と母親っていう軸。「たったひとつの冴えたやりかた」はある意味母になりきれなかった少女の話とも言えるので、そうした時に少女の運命は死なざるをを得なくなる。この「男性と母親」というキーワードが頻繁に出てきて、アリス自体もそれに取り憑かれている感じがします。
紅坂:「たったひとつの冴えたやりかた」の3編目「衝突」でも最後に若い女性が死ぬのが気になって、もっと年齢を変えたり性別を変えたりもできたはずなのに。結局コーティーといい死ぬのは若い女性で、母親になれなかった人っていうのが、なるほどと。
海老原:さて現在ティプトリーを読む意義はどの辺にあるのか、というところをちょっと考えていきたいんですけど、お勧めの作品はありますか。
紅坂:まずは先ほど言及した「たったひとつの冴えたやりかた」の3作目「衝突」が特に気に入っています。表題作が注目されがちではあるんですけれども、言語学SFにはまったきっかけというか、「あなたの人生の物語」と合わせて言語SFが今もずっと好きなきっかけになった作品です。
海老原:実は最近ティプトリーが手に入りにくいという問題があるんですが、とりあえず一つ勧めるとしたら「接続された女」です。何度読んでもいいなと思って読むたびに、読む時代によって感じることがすごく変わる。すごくおすすめですね。
紅坂:現在ティプトリーを読む意義についてはどうでしょうか。
海老原:やっぱり進化とか生物学的な生き物としての人間像っていうのがティプトリーの中にはあると思うんですよ。それはやはり当時の70年代のジョアンナ・ラスとかル=グィンとか、フェミニスト作家たちとのやり取りで度々批判されたものでもあると思います。男性はこういう風に生まれついてるんだ、女性はこういう風に生まれついてるんだ、だからこういう役割をしなきゃいけないっていうようなものは70年代のフェミニズムでは厳しく批判されたものだし、ラスもそういうところに対してはティプトリーを容赦なく批判したと思うんです。
ただ今、それからさらに半世紀くらい経って見てみると、ジェンダーなどの社会構築性というのは当然あるにはしても、人間は人間としての物質と身体を持って生まれてきている以上、生物学的な、遺伝子的な、身体的な影響っていうのはあるよなーって思うんですよね。それは先ほど言ったティプトリーっていう想像上の、いわゆるバーチャルな作家が、アリス・シェルドンという生身の身体にも影響を与えたっていうのと、多分つながっていると思うんです。今読むと、生物学的にプログラムされた人間とか、生き物の悲しみというか愚かさというか、そういったものが染みてくるものもあるのかなって思いました。
紅坂:時代が進んできて、ジェンダーやセクシャリティについて断定しないっていう流れも、完全ではないですけど定着してきたのかなと思うので、それがティプトリーが求めていたものだったら、今の時代に生きてたら叶えられたのかなと思います。
海老原:我々の時代だと、SNSとかで自分の情報をある意味作りながら発信していくわけですよね。そうするとSNS上でやり取りする自分のアバターみたいなのが出て、すると今度そのアバターによって、生身の自分自身が制約されてきたりする。それっていうのは、アリスとティプトリーの関係とも近いのかなと思います。このテーマは完全に「接続された女」のテーマであって、作家の人生と作品も絡んでいます。そしてある意味我々がSNS上に作られるキャラクター、アカウントとも絡む。アカウントと自分が乖離してしまうっていうのは、ちょっとティプトリー味があるかなって思いました。
ティプトリーを一言で言えばどんな作家かといえば、自分の中にあるものを出さないといけない呪いみたいなものがあって、書かなくても良かったんだけど、書かざるを得なかったっていう作家なのかなと思います。
「空想映像文化論 SFアニメ編」 氷川竜介
『空想映像文化論 怪獣ブームから『宇宙戦艦ヤマト』へ』を上梓されたアニメ特撮研究家の氷川竜介さんに、 SFアニメが昭和末期に果たした歴史的な役割を語っていただく企画。特に同書のベースとなった雑誌〈熱風〉の連載「昭和アニメージュの功罪 テレビまんがの死と再生」から、単行本ではカットされた章「SFがアニメ特撮の卒業を阻止した」の内容をベースに、「SF
アニメ」の変革とこれからを考える。
ご紹介にあずかりました氷川竜介です。東工大を出て、通信技術者を20年ぐらいやっていました。現在はZEN大学という、通信制度大学の教授をやっています。あとは認定NPO法人アニメ特撮アーカイブ機構というアニメ特撮の中間制作物、フィルムが完成すると捨てられちゃうようなものを保全するような活動もしております。
『空想映像文化論 怪獣ブームから『宇宙戦艦ヤマト』へ』は、去年KADOKAWAさんから発売された本です。空想映像文化ってなんだろうって不思議に思うかもしれませんけど、テレビ漫画のことです。テレビ漫画っていう概念がですね、実はアニメと特撮を内包しているんです。
「テレビアニメは昔テレビ漫画と言われていた」これは○なんですね。だけど、「テレビ漫画はテレビアニメの古い呼び方である」これは×なんですよ。なぜかっていうと、そっちの概念には親集合で特撮が入ってきているからです。「宇宙戦艦ヤマト」はもちろん「アマゾンライダー」とか「ロボコン」とか、なんでもかんでもテレビでやっていた子供向けのものが「テレビ漫画」と呼ばれていた時代があった。それを補助線に使わないと本当のことが特に70年代ぐらいまでに起きたことが分かりづらいのではないかと。そういう主張の本です。
そもそもはスタジオジブリが出している〈熱風〉という小雑誌に書いたのが元です。そこで、テレビ漫画って呼ばれているものがいつの間にかアニメだけを指すようになったのは、その犯人がいるとしたら鈴木敏夫じゃないかって書いた。これは鈴木さんをディスるんじゃなくて、むしろ喜んでくれるだろうと思ってのことです。78年の「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」が公開されるとき、〈アニメージュ〉という雑誌ができます。アニメージュっていうくらいなので、特撮を排除したんですね。アニメだけの雑誌を作った。だからちょっと自分の後輩たちを見ても、だいたい5歳ぐらい下から先は、物心ついた時に〈アニメージュ〉があるんでアニメオンリーの世界観に生きている。でも自分とか庵野秀明監督もそうですけど、さっき言ったようにごった煮の世界で生きてたので、なんでアニメだけを取り出すのみたいな感じがあってそこに結構溝があったりするんです。
その第8回に「SFがアニメ特撮の卒業を阻止した」と書いたんですが、単行本ではまるまるオミットしました。なぜSFを外したかっていうと要素が3つあるからなんです。昔、アニメと特撮は一緒の箱に入ってました。これは分かりやすいんですね。エビデンスもあるし。でもその上にSFという上位概念があったって話をすると要素が3つになって、若い人が読んだ時にここでなんでSF出てくるのって混乱すると思ったんで、分量の問題もあるし断腸の思いで落としました。本当はこれが一番訴えたかったところでもあるんですけど。僕たちはアニメや特撮も、物の見方を変えればちゃんとしたSFだっていうような再評価がされて、無事に一つの傘の下に収まると思ってたんですよ。ところが実際に起きたのはSFと特撮とアニメがバラバラになるっていう事態で、今やもう言語が通じないぐらいの世界になってるんじゃないのかな。そうじゃない人もいっぱいいるんだとは思いますが。
アカデミアの方法論って素晴らしいんだけど、穴もあって、基本的に私はこの専門ですって宣言し、研究テーマを決めてそれについて掘り下げていくっていうスタイルなんですね。ただこの専門って言葉がくせ者で、門を作ってフィルタリングするってことです。つまり専門の裏には排除の概念がどっかにある。『宇宙船ビーグル号』に出てくるネクシャリストのように、横通しの科学みたいなものっていうのが必要じゃないかっていうのが、このテレビ漫画って概念に求めたものなんです。
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の映画はとてもよく出来ていて面白かったんですけど、原作のSF小説として面白かった所を全部捨てている。ストーリーは全部拾っているのに、アストロファージは何かとか、異星人とどうコミュニケーションするかというような、SF的にとても面白く科学的に手続きが進んでいくところがどんどん飛ばされていく。こういうところにSF小説とSF映像には不整合な溝があるなと思ったんです。
SFアニメについても、いつかハードSF小説に並ぶようなものが作られて文化の一翼を担うんだと思っていたんですけど、50年くらいたってもそうなっていない。ならない理由はあるんだなと、そこを掘り下げてみようというのが今目の前にある問題意識です。
アニメと特撮の作り方それ自体がSFなのじゃないかって、これも20年来思ってることです。アニメも特撮も全部理詰めで作らないと成立しないんですよ。どっちもテクノロジーの塊なので。誰か一人でもロジカルに積み重ねてる仕掛けが分からなければ、特撮の現場でも失敗するし、アニメの場合でも変な映像ができちゃったり、そういうことが簡単に起きる。徹頭徹尾技術の産物なんです。科学的なセンスと手続きでやっていかないと、きちんとしたものができない。監督を見ると宮崎駿から始まって、富野由悠季も押井守も、みんな理屈をきちんと持っている。その理屈の上にフィロソフィー的なことを載せているから何かが伝わる。そこでSF的な考え方でアニメと特撮を洗い出すことには価値があるのではないかみたいなことをずっと考えてます。
このきっかけは「電脳コイル」っていう作品がSF大賞を取ったとき、受賞式で監督の磯さんから、僕はSFのつもりで作ってないと言われて、すごく困ったんです。ちょっと前の「地球外少年少女」でもそう言われた。何でかというと、SFの人たちは揚げ足を取るからと。アニメの人にそういう風に思われないようにしたい。
そこで僕の造語ですが「世界観主義」という言葉を考えました。世界観という言葉はゲームでも良く使われているんですが、本来はキリストの世界観、マルクスの世界観のように人間の世界や社会を見る見方です。じゃあアニメの世界観って本当はなんだろうって言った時に、アニメも一つのフィクションなので、みんなの見知っているものをちょっと変えてみる。すると物の見方が変わる「異化効果」じゃないかと。そのために別世界を構築する。これSFの皆さんご存知の定番の手法ですね。じゃあこの「世界」ってなんだっていうと、これもSF用語なんですけど「時空連続体」のことです。時間と空間がつながっている。映画やアニメでそれってなにか。絵コンテってありますね。ここ何秒、こういう芝居をします。このセリフを受けて行動します。そのコマでの空間と時間が指定してある。それがどういう風につながって、はい、お話始まり、はい、終わりっていうところまで見せるかというものです。この絵コンテが時空連続体だと気づいたんですよ。だからそれが世界なんだ。世界の一つの表れなんだ。じゃあこのお話の中では主人公たちはこの世界の中をどう体験していくか、それを前提に作者が彼らにこういう体験をさせたいと考えるのが本当の世界観であろうと。そう思った時に、それが科学的かどうかということが一つ分かれ目になるのだろうと考えました。つまり様式、発想、考え方が科学的であるかどうかってことですね。その反対には恣意的って言葉があって、作者の都合でねじ曲げるチートみたいなのはそれが前提であれば楽しめるけれども、やはりアウトでしょう。
これ宮崎駿が流行らせたんだと思うんですけど、嘘は一つだけって言われてることが多いですね。たった一つの嘘を信じ込ませるために他は全部本当で固めるんだっていう手法が、少なくともアニメには結構知られている。特撮ですが「シン・ゴジラ」なんかもそうですね。ゴジラというたった一つの巨大生物を信じ込ませるために、あと全部本当で固めてる。するとゴジラも信じられるようになり、そのゴジラからさっきの異化効果で鏡像みたいに跳ね返ってきて政府のバカバカしさとか、人間の愚かしさ、それを乗り越える叡智みたいなものも反映されているわけです。優れている作品と言われているものには必ず科学的な手続きが行われていて、その価値っていうのは科学性にあるのではないかっていうのが一つの仮説です。
で、特にSFアニメが多いっていう理由がここにあるんですよ。だから、 SFとしての世界観整備、それを支えるアニメとしての整え方、それをある種のお客さんに伝える手続きとしてのプロトコルみたいなものを全部テクニカルに、テクノロジカルにやって、その上の上の上ぐらいに、ドラマで感動させるとかってあるよなと、そういう風にずっと思ってるんです。
(以下、具体的にスライドを使ってのテクニカルな説明が続くのですが、動画が見られなかったので言葉だけでは内容がわからず、残念ですが割愛します)
「ジャンルSF誕生 百年の宴」 中村融、渡辺英樹
1926年4月にヒューゴー・ガーンズバックによる世界最初のSF雑誌〈アメイジング・ストーリーズ〉が創刊され、今年で100年。本企画は、翻訳家の中村融さん、 SF書評家の渡辺英樹さんによる、雑誌という大衆メディアによって形成され著しい発展を遂げた、ジャンルとしてのSFの黎明期の様相を振り返るものである。
渡辺:〈アメイジング・ストーリーズ〉が創刊されてから、今年で100年を迎えます。これを機にSFの始まった当初の雰囲気を振り返り、現代に生かしていくべきところは何かというところまで考えていければなと思います。
よく中村さんと話をするんですけれど、一度SF100年ですねっていう話をしたらちょっと怒られまして、SF100年の前にちゃんとSFの歴史はあったんだよとたしなめられたことがあるんです。まずはその100年の前の話、一体どんな風だったのかというのを教えていただきたいと思います。
中村:面白い話がありましてね、科学者、サイエンティストってものができたのが1834年なんです。わりかし新しいことになるんですね。それまでは自然哲学者って呼ばれたんです。天文学とかそういうことを研究した。その目的は自然界の秩序を調べることによって神様がそういう風になされたってことを証明すること。要するに神の栄光を讃えるために科学的な研究をしてた。
そうではなく、神学的なくびきから解き放たれた研究には新しい言葉を作らなくちゃと、初めて科学者ができたんですよ。要するに、その時に科学のイメージが変わったってことですよね。そうすると、文学界にも科学に取り憑かれる人がいっぱい出てきて、初めて科学的な要素を小説にする人が生まれる。例えばドイツではエルンスト・ホフマンという人が1817年に『砂男』を書きます。イギリスではメアリー・シェリーが有名な『フランケンシュタイン』を書きます。これが18年。1834年にフランスでバルザックが『絶対の探求』という科学者の話を書きます。で、35年にエドガー・アラン・ポーがアメリカで『ハンス・プファールの無類の冒険』という月世界旅行ものを書き、ポーの影響力がすごく強くて、俺もポーみたいな小説書きたいと思う人が世界中に生まれるわけですよ。その一人がフランスのジュール・ベルヌ。この人の小説はすごい人気を博して、世界中で翻訳されたりして、影響力がすごかったんです。俺も書きたいっていっぱい出てくるわけ。
1890年代にイギリスにそういう人たちがいっぱい出てきて、書き始めるんですけど、この時はたまたまイギリスで雑誌の黄金期が始まっている時期で、差し絵入りの雑誌がどんどん創刊されたわけです。作家が出てくる場がそこにあったんで、初めてジャンルになるわけですね。その科学的な小説を「サイエンティフィック・ロマン」って言います。まだサイエンス・フィクションはないです。サイエンティフィック・ロマンスっていう言葉自体は1886年に、ハワード・ヒントンっていう人が「サイエンティフィック・ロマンス集」っていう本を出して、初めて使われるんだけども、面白いのはね、四次元とかをテーマにした小説と、それをテーマにしたノンフィクションが半々で入ってるんです。要するにイギリスにおいては、最初のサイエンティフィック・ロマンスというのは、小説と科学的エッセイが同格であり続けた。この系統が1940年代までイギリスは続きます。それは小説とノンフィクションがほぼ等価だったっていう、すごい面白いジャンルなんですよね。
いろんな作家が出てきてその中の最後の一人みたいなのがH・G・ウエルズというわけです。H・G・ウエルズはそこから出てたんだけども、どうもそういう作家と自分が一緒にされるのが嫌だったらしくて、俺の小説に科学ロマンって言葉を使うなって嫌がったんです。
で、話がアメリカに移るんですけど、同じ頃にアメリカでいろんなジャンル、ウエスタンとか歴史冒険小説とか恋愛小説とかごちゃまぜに載ってる大衆小説誌が生まれます。この中からSF的なのがポツポツ出てくるんだけど、一番有名なのが1912年のエドガー・ライス・バロウズ『火星のプリンセス』。これは〈オール・ストーリーズ〉という雑誌なんですけども。それにあやかってレイ・カミングスとかマレイ・ラインスターっていうSF的なものを書く人が〈オール・ストーリーズ〉とか〈アーゴシー〉っていう大衆小説誌を舞台に活躍するわけです。
だからSF的なものはあったんだけどアメリカでもジャンル系はなかった。SF雑誌が創刊される前に、そういう流れがあったんですね。
ここで初めてヒューゴー・ガーンズバックって人が登場して、この人がポーとかベルヌの小説が大好きでして、自分もそういうの書きたいし他の人にも書いてほしいと思ってて、なんとか小説雑誌を作ろうと、最初〈モダン・エレクトリックス〉っていうラジオの専門誌にSF特集をやってみたり。でもなかなか創刊までは踏み切れなかった。1926年になって初めて創刊したのが、この〈アメイジング・ストーリーズ〉っていう雑誌なんですね。今、絵が映ってると思いますけれど、これが創刊号です。
(ここから渡辺さんがSF雑誌や当時のファンジンの書影を映して中村さんと掛け合いしながら説明したり、中村さんが試案を作った1920年代と30年代のSFアンソロジーを紹介しているのですが、動画が見られなかったので以下、言葉だけで面白そうなものを紹介します)
渡辺:この書影は、金沢に在住のSFコレクター、〈宇宙気流〉ですとか〈宇宙塵〉の初期メンバーであった森田さんという方の所有されている雑誌をスキャンしたものになります。大変貴重なものです。
これがアメリカの〈オール・ストーリーズ〉の1919年2月15日号ですね。大衆向け娯楽雑誌で、イラストがふんだんに載っています。
中村:一コマ目のライトノベルの企画でありましたが、やはりテキストとイラストの相乗効果というのは大きいので、実はラノベの前にですね、もう100年も前にこれはあったんだと、ちょっと強調して言いたいんです。こういう絵入りの大衆向け娯楽雑誌がSFもよく載せていました。これはメリットの『ムーンプール』の続編です。
渡辺:これもヒューゴー・ガーンズバックの出していた技術雑誌〈サイエンス・アンド・インベンション〉の1923年8月号です。下にある通り「サイエンティフィクション」特集ですね。この頃はもう「サイエンティフィクション」でいいんですね。ロマンスではなく。小説が6編載っています。
そしてようやく、ヒューゴ-・ガーンズバックの〈アメイジング・ストーリーズ〉です。こちらは1926年4月号で創刊号、次は同じく1926年の10月号、パウルが巨大ザリガニ型エイリアンと地球人とのファーストコンタクトを描いています。これ面白いのは、なんか友好的ですよね。仲が良さそうな感じがします。襲われてる感じではないですね。今の『プロジェクト・ヘイル・メアリー』のロッキーとグレースに近いんじゃないかという気もしますね。
渡辺:ここからファンジンを紹介します。これは世界初のSFファンジン、〈ザ・コメット〉というファンジンの1930年の5月号。編集はレイモンド・パルマー。後の〈アメイジング〉の編集長です。
次は、後にDCコミックスの編集者となるジュリアス・シュワルツが編集した〈ファンタジー・マガジン〉 1934年の9月号。プロもどんどん書いている立派な雑誌で、メリットの小説、それからラインスターのインタビューが載っています。中村さん、これにC・L・ムーアが書いてますね。これ中村さんの翻訳で創元から出てる『大宇宙の魔女 ノースウェスト・スミス全短編』におまけで入っています。
今までのは東海岸ですが、これは西海岸のラスファスという、ロサンゼルス・サイエンス&ファンタジーソサエティが出していた〈イマジネーション〉の1938年6月号、表紙はなんとブラッドベリです。ブラッドベリが手書きでこんなイラストを描いています。これは〈マーベル・サイエンス・ストーリーズ〉という雑誌が出たので、それをドラを打ち鳴らして喜んでいる。これをブラッドベリが描いているので、大変微笑ましいですね。
渡辺:以上、書影の紹介でした。それではここからいよいよ本題です。皆さんお手元の資料をご覧ください。『アンソロジー20世紀SF 1920年代と30年代編』ということで今回この企画のために中村融さんが目次の試案を作ってくださいました。
中村:その前にちょっと話が戻りますけども「サイエンス・フィクション」って言葉、「サイエンティフィック・ロマンス」が「サイエンス・フィクション」に変わっていく過程っていうのがあります。まず、〈アメイジング〉ができたときにガーンズバックは、自分たちはポー、ベルヌ、ウエルズが書いたような小説を目指すって巻頭言で宣言したわけですよ。それを「サイエンティフィクション」という名前にした。要するにサイエンティフィックのFICとフィクションのFICを重ねて「サイエンティフィクション」という言葉にしたのね。この言葉はもっと前から使っててるんだけど、ここで初めて自分たちの目指す理想として打ち出した。これが〈アメイジング〉1926年。
でもこの言葉ってあまりにも言いにくいし、かっこよくないですよね。あんまり広まらないうちに「サイエンス・フィクション」に変わるんです。なんと〈アメイジング〉の中ですら、書評の中で「サイエンス・フィクション」が使われていて、〈アメイジング〉がガーンズバックの手から離れて〈ワンダー・ストーリーズ〉って出来るんですけども、その時に「サイエンス・フィクション」を大々的に使うようになって、それが29年の6月号です。その時から「サイエンス・フィクション」が一般化した。それまで使われていた「サイエンティフィック・ロマンス」とか「サイエンティフィクション」はこの時に廃れていったというのが順番です。
渡辺:やっぱり言いにくいですよね。「サイエンティフィクション」って、みなさん言って見てください。
それでは本題いきます。まず『20世紀SFの別館1』ということで1920年代。画像も出てますので一緒に見ながらどうぞ。
中村:まず巻頭はマレイ・ラインスターの「The Mad Planet」です。これは〈アメイジング〉創刊より前にSFがあったことを示す例として。どういう話かっていうと、未来の地球で巨大昆虫がのさばってて、人間はもう小さくなっちゃって細々と暮らしてるんですよ。原始人みたいなのになって。当時そういう原始人ものっていうのがあったんだけど、それを未来に持ってったっていうそういうジャンルです。大変人気があって、1950年代に続編と一緒に本になっている。
渡辺:それが確かジュブナイルで出てますね。『わすれられた惑星』という題で日本でも翻訳されました。ある意味、『地球の長い午後』の先祖みたいなところがありますね。巨大昆虫と戦うという、パターンといえばパターンですね。
中村:戦わないんだよ、やられてるだけ。
渡辺:やられてるだけですか、弱いですね、人類は。
中村:〈アメイジング〉創刊以前に〈ウィアード・テイルズ〉が3年前に創刊されて、これは怪奇小説の専門誌だったんだけども、当時はSFと未分化だったんで、SFもいっぱい載ってたんですよ。SFというと宇宙ものってイメージあると思うんだけど、昔のSFはそうじゃなくて、マッド・サイエンティストものとか発明発見ものが圧倒的に多かったわけ。そのマッド・サイエンスティストものの例として〈ウィアード・テイルズ〉からフランク・ベルナップ・ロング「千の足を持つ男」を入れます。
渡辺:確かこれは、マッド・サイエンティストが作った箱の光を浴びると、千本の触手を持つ怪物に変身してしまうという、大変怖い話でした。
中村:〈ウィアード・テイルズ〉でSF的なホラーをいっぱい書いていた人にH・P・ラヴクラフトがいて、今はクトゥルー神話でカルト的人気を誇ってますけども、いわゆるSFとホラーの中間みたいなのをいっぱい書いてたんですよ。ただそれはね、〈ウィアード・テイルズ〉は受け入れられなかったんですね。なかなか載せてくれない。それで〈アメイジング・ストーリーズ〉ができたっていうんで、喜びいさんで送ったら採用されて。それがこの「異次元の色彩」。「宇宙からの色」とかいろんな題名がありますけども、放射性物質の恐怖みたいなものの走りとも取れる、宇宙から変なものが落ちてきてそれによって人間が変わっていっちゃう、すごく怖い話です。
渡辺:そうですね。人間というか、まず周囲の植物や生き物がどんどん変化していって、崩れていって、灰色の世界にみんな変わっていく中で、不思議な色を放つ、異次元の色彩を放つ物質があると。これが周りのものをドロドロの生物に変えてしまうといういかにもラヴクラフトの原点にあるような、これラヴクラフトは自分でも評価してたんですよね。
中村:だから創刊間もない〈アメイジング〉に載ったっていうのが、一つポイントなんです。ただ、〈ウィアード・テイルズ〉って原稿料が安いんで、ラブクラフトは投げたんだけど、それよりも安かった。もう二度とガーンズバックとは仕事しないっていうくらい、ラブクラフトを怒らせたって。これね、本当に惜しいと思うんですけどここでラヴクラフトにガーンズバックが高い原稿料を払っていたらもっとガンガン書いてたんですよ。歴史の分岐点です。ガーンズバックがケチであったということがやはりその後の歴史を変えてしまっているわけですね。良かったか悪かったか何とも言えませんけれど。
渡辺:これも〈ウィアード・テイルズ〉ですが、ドナルド・ワンドレイ「赤い脳髄」。
中村:これはさらにSF度が増してて、はるか未来の話でね。銀河が崩壊する、銀河がなくなっちゃうんで何とかしようと、新しい生物を作り出してそいつらに何とかさせようとする。そういう、もうなんか凄い話なんです。
渡辺:地球も太陽系ももう滅んじゃって塵となってアンタレスのみが残った。で、その惑星の周囲に巨大な水晶のドームを作って観察を続けているんですが、地球生物ではないんですね、この赤い脳髄たちは。黒くてネバネバしてるその中に、赤い脳髄っていうのが生まれてくるんですけれど、その赤い脳髄にみんな期待するんです。赤い脳髄こそがこのアンタレスの惑星を救ってくれるんじゃないかって。オチまでいっちゃっていいのかな。オチまでいってしまうと、その赤い脳髄は狂っていたというすごい一文で終わるんです。救わないんです。非常に暗い、ペシミスティックな小説です。
中村:これなんかも宇宙の終末っていうか、そういうのにみんな取りつかれた例なんですよね。ウエルズなんかもそうだけど、やっぱりいつか宇宙の熱死みたいになって、銀河も宇宙も人間もみんな滅ぶ、それはもう宿命なんだみたいな感じがずっとあって、そういうのが小説に出てくる。これが面白いことに〈ウィアード・テイルズ〉に載った怪奇小説なんだけども、こんなコズミックな巨大なスケールを持っててステープルドンと全然変わんない。
渡辺:今回僕も初めて読んで、これステープルドンの宇宙哲学と通じるものがあるなと思います。やはり〈ウィアード・テイルズ〉、恐るべしです。
中村:ステープルドンって孤高の巨人みたいに言われるけど、全然そんなことなくて、同時代には似たようなことを考えている人がいっぱいいる。面白いことに、これドナルド・ワンドレイっていう怪奇小説作家のデビュー作なんですけど、このとき19歳だったらしい。
渡辺:なるほど。ちょっとさっき話したんですけど第一次大戦の影響ってやっぱりあるんですかね。
中村:ありますね。ていうか要するにヴィクトリア朝というか19世紀末が第一次大戦までずっと続いてるんです。そこで世界変わっちゃったんだよね、ヨーロッパにおいては。
渡辺:なるほどね、本当に大量の死者が出た戦争がありましたのでね、そういう若者の考えに影響を与えているのかもしれませんね。これは今何で読めるんでしたっけ。
中村:一番新しい訳が、新紀元社の『幻想と怪奇』13号に載ってます。
渡辺:次はデイヴィッド・H・ケラー「歩行者族の反乱」です。〈アメイジング・ストーリイズ〉掲載です。
中村:これはあの、なんていうか、自動車に乗る種族と歩く種族が全く別の民族に分かれちゃって、もう対立してという、そういう未来を書いた話で、非常に風刺的な面白い話ですね。「健脚族の反乱」とか「歩行者族の反乱」ていう題名で翻訳出てますんで、なんとか探して読んでください。
渡辺:僕初めて読みましたけど、とても面白かったですね。自動車に乗るようになって足が退化した自動車族が支配種族で、健脚族を馬鹿にしてこき使っているわけです。お前らなんだ歩くのか、こんな野蛮な奴らめって言って馬鹿にしてるんですけど、結局最後はその健脚族が反乱を起こして、そちらが勝つという。
中村:これなんか明らかにウエルズの『タイムマシン』に出てくるエロイとモーロック、資本家が進化して妖精みたいな退化した人間になっちゃったのと、労働者が地下で人食い人種になっていくっていう、あれの亜流なんだけど、そういうのをガーンズバックが好んでいたってことがわかる小説なんです。これ、デイヴィッド・H・ケラーのデビュー作なんですけど、ケラーは医者で、わりかし科学的な話を書く一方で、精神医学みたいなのをテーマにしたホラー小説をいっぱい書いていて、そういうのは〈ウィアード・テイルズ〉に載ってる。〈アメイジング〉でデビューして〈ウィアード・テイルズ〉で活躍したっていう珍しいパターンの人。
渡辺:結構怖い話も書いてるっていうことですね。一つ思い出したんですけど、「頭脳の図書館」っていう同人誌に翻訳されたデイヴィッド・H・ケラーの小説がありまして、これが確か脳髄を全部つないでコンピューターのネットワークみたいにして一つの、集合的な知性を作り上げるっていう小説を、もうこの時代に書いていたということで話題になったことがあったと思います。
中村:SFの母体として「秘境冒険小説」があったんです。H・L・ハガードとかエドガー・ライス・バローズとか、ああいうすごい「秘境での冒険」をテーマにして、これをSFに持っていくっていうのが当時のSFの流行だったわけです。それが代名詞になるのはA・メリットの作品なんだけどメリットの作品に影響を受けたのがこの「メタル・マン」ジャック・ウィリアムスンのデビュー作。
渡辺:〈アメイジング・ストーリイズ〉の1928年12月号に載ってます。メキシコに赤い砂の中、緑の霧が立ち込める噴火口があります。そこに飛行機で着陸した主人公が、金属になっていくんですよ。怖い話です。しかもその金属になっていく自分、最後はもう金属になってしまって意識もなくなるその自分が、ある友人のところへ送られてくるんです。そっからストーリーが始まるので、ちょっと面白い作りになってます。今読んでも楽しめると思います。入手しにくいのが残念ですね。
中村:『パンドラ効果』っていう大昔出た短編集に入っています。
渡辺:次は〈ウィアード・テイルズ〉1929年2月号。これにスペースオペラが載っているという。エドモンド・ハミルトン「太陽強奪」です。
中村:SFといえば宇宙もののイメージになったのは1930年代なんですね。これはE・E・スミスの『宇宙のスカイラーク』っていうのからそういうイメージができるんだけど、それより前にもスペースオペラはあった。エドモンド・ハミルトンといえば〈キャプテン・フューチャー〉がスペースオペラの代表だけど、これが最初のスペースオペラといっていいでしょう。これより一個前にも「激突する太陽」ってあるんだけど、それは太陽系が舞台になる。こっちの方は初めて銀河に出てくるっていう話。
渡辺:この円錐型の異星人見えますね。あの円錐型の異星人が重力を操って暗黒星を太陽系に近づけて太陽を盗もうとするっていうものすごいスケールの話なんです。で、この半裸の女性と男性の説明をちょっと。
中村:話には出てきません。
渡辺:これ出てこないんですよ。これひどいですよね。こんな半裸の男性や女性が宇宙空間で生きられるわけがない。
実はこれに影響を受けたのがジェイムズ・ティプトリー・ジュニアです。先ほどの企画と連動しますが、ティプトリーは親に隠れてSF雑誌じゃなくて〈ウィアード・テイルズ〉をこっそり買ってました。評伝に出てきますけれど、それで初めて買った号がこれです。これにティプトリーはもう衝撃を受けてですね。で、
SFへの目覚めがあったという。SFの歴史から見ても大変貴重な号です。
中村:次に、これはイギリスなんですけども、オラフ・ステープルドンの「最後にして最初の人類」です。ステープルドンはさっき言ったサイエンティフィック・ロマンスの流れをついでいる1920年代の終わりに出てきた人で、これなんか完全にウエルズの子孫ですよね。ウエルズに「世界史体系」っていう、太陽系ができた時から、生命が誕生して、哺乳類ができて、人間が生まれて、という歴史をずっと、1920年代まで書いたっていうとんでもない本があるんですけど、それの続編になっているのが、この「最後にして最初の人類」なんです。要するに、1920年代から始まって、銀河が終わるまでの20億年をずっと歴史を書き続けるというとんでもない未来の歴史書で、小説じゃないです。
渡辺:すごいですよね。一応このアンソロジーの案では金星のところ、人類が月と地球が破壊されていくので金星に脱出をする。第何期人類という言い方がされているんですが、ここでは確か第6期人類として栄えていたものが、飛べるようになって第7期人類へと進化していく。
中村:要するに人間が宇宙に出ることによって形を変えていくんです。もうどんどん人間とは似ても似つかないものになっていく。だからこれ、キリスト教者からすると、もうとんでもない危険思想で大反駁をくらう。C・S・ルイスなんかには口を極めて罵られる。でもこれアメリカでも読まれてて、ステープルドンがアメリカに講演旅行に行った時に、自分にファンが付いてるっていうのにすごくびっくりして喜んだって話がある。
渡辺:微笑ましいエピソードですね。とにかくこれはスケールがでかくて、1ページで2億年の時が平気で過ぎます。ぜひ読んでみてください。これは今ちくま文庫で読めます。
中村:先ほども言ったように、ステープルドンは孤高の巨人ではなくて、似たようなことを考えていた人は当時いっぱいいました。
渡辺:本当にこんないろんな話があったんだなと、当時を振り返ってその先見性に、現代でも通用する現代性にびっくりします。やっぱり100年ぐらいで人間って変わらないですね。ステープルドン読むとそう思いますよ。2億年経つと変わるけども。だからクラシックSFを馬鹿にしたりせずに、やはり読み直すこと。現代的なSFとして読み直すことが必要だと強く思いました。
渡辺:次は架空アンソロジー1930年代編です。まずはローウェル・ハワード・モロー「Omega,The Man」。
中村:これもね、ウエルズの子孫みたいな話。〈アメイジング・ストーリイズ〉1933年1月号掲載。どういう話かというと、もう人間がみんな滅びちゃって地球最後の男女2人が残ってる。これが地球に最後に残った、乾燥しちゃって水がそこにしかないっていう湖に行って、そこに首長竜のような生き残りがいて、それと水を巡って争うって話なんですけど、そういう自然と人間との戦いみたいなのが最後まで続くっていうひどい運命の話、最後人間の方が負けちゃうっていう話なんです。
渡辺:これも暗いんですよ。だけど面白くてですね、この2人が夫婦なんですけどその夫婦にせっかく子供ができるんですけど、その子供が恐竜に食べられてしまうという。これぐらい言ってもいいと思うんですが、この後さらにまだまだ続くんですね。そして最後に水がなくなっていく場面。水と雲がなくなって蒸発していく。その場面で私はクラークを連想しました。クラークの『銀河帝国の崩壊』のプロローグ。雲がなくなっていく場面があるんですが、これね明らかにこれの影響を受けてるんじゃないかと思ったんですが、考えすぎですかね。
中村:考えすぎです。そういう滅びのビジョンっていうのはいくらでもあります。当時の人は我々が思ってる以上に滅びに魅せられている。
渡辺:次はC・L・ムーア「シャンブロウ」。
中村:〈ウィアード・テイルズ〉1933年11月号なんですけど、C・L・ムーアという女性作家は、元々SFファンなんですよ。SF描きたくてスペースオペラみたいなのを描いたんだけど、最初〈ワンダー・ストーリーズ〉に送ったんだけど、これは怪奇色が強くてうちに合わないと言われて〈ウィアード・テイルズ〉に送ったら採用されたっていう、スペースオペラ。火星に行ったら変なものがいたみたいな、そういう話だから。あまりにも描写がエロくて、あの、これ僕が新訳したんですけどね、もうすごく大変でした。
渡辺:創元SF文庫の『大宇宙の魔女 ノースウェスト・スミス全短編』ですね。素晴らしい訳でした。僕が忘れられないのは、それまでの訳ではシャンブロウは実は服を着てるんですけど、その服は皮膚だったって今までは訳されてるんです。ところが中村さんはそれを服であると、皮膚ではないということをきちんと訳されています。本当に素晴らしい訳業ですので、中村さんの訳でぜひ読んで欲しいと思います。
渡辺:次は〈ワンダー・ストーリーズ〉1934年7月号です。
中村:これはスタンリイ・G・ワインボウム「火星のオデッセイ」ですね。これ当時としては画期的な小説なんですよ。人間とは全く違う思考をするんだけども、いい宇宙人が初めてここで出てきた。それまで宇宙人は姿形は人間と全然違うけれど、考え方は人間とそんなに変わらないことが多かった。ここで初めてそうじゃない宇宙人が出てきて、当時の人たちはものすごいショックだったんだけど、我々にとっては、「葬送のフリーレン」の「ゾルトラーク」ってやつで、もう当たり前すぎて一般化しちゃってて、どこがすごいのかさっぱりわからないとなっちゃってるんですよね。ただ、話は人類初の火星探検隊がこの鳥型の宇宙人に出会って、こいつの助けによって火星探検するって話で、一種ファーストコンタクトテーマであるし、それなりに面白いんですけどね。
渡辺:とても面白いですね。このダチョウ型エイリアンと主人公が友情を深めていく。意思の疎通が全然できないけれどコンタクトをしていく。これまるでですね、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』のロッキーとグレースを思わせる展開なんですよ。言い方も似ていてですね。このダチョウ型異星人に人間の言葉を覚えて喋るのがイエス、イエス、イエス、ノー、ノー、ノー、 3回繰り返す。これもロッキーと似てますね。ぜひまた読みたいなと思う作品です。はい、次行きましょう。
中村:ラルフ・ミルン・ファーリィ「液体生物」これは〈スリリング・ワンダー・ストーリーズ〉1936年10月号。SFが大衆化した時点で雑誌が増えるんだけども、その増えた雑誌の中の一つで生まれてきた。液体生物、本当にね、水が意志を持って動き出すっていう、そういう話です。面白いのはね、科学者が3人出てきて、その水と喧嘩するんですよ。水が逃げ出して人間を襲い始める。そういうモンスターパニックもの、1950年代に映画で大発展するモンスターパニックもの原型がここにあるということなんですね。
渡辺:本当に映画化するといいなと思いました。なかなか面白いですね。次お願いします。
中村:次はエドモンド・ハミルトン「フェッセンデンの宇宙」です。これは〈ウィアード・テイルズ〉1937年4月号です。SF雑誌じゃなくて〈ウィアード・テイルズ〉に載りました。
渡辺:意外にもそうなんですね、〈ウィアード・テイルズ〉。だからイラストもヴァージル・フィンレイです。フィンレイが描いたこの爬虫類は何ですか。
中村:フェッセンデンの宇宙、小さい宇宙の中にいる知的種族の一つです。これが人間と似た種族と隣り合わせに住んでて、両者が競争するんだけども、このワニが勝つと。
渡辺:そういう話か。私は見てですね、これひょっとしたら我々の、人間の宇宙を作ったのがこのワニ型エイリアンだっていう、そういうイラストなのかなと思ったんですけど違いますね。
中村:そうではないです。
渡辺:はい、考えすぎでした。じゃあ次お願いします。
中村:これは1938年にジョン・W・キャンベルという人が〈アスタウンディング〉の編集長になって改革をして、これが後に花開いて、今我々が見るSFの形ができるんだけども、そのキャンベルが、ドン・A・スチュアート名義で書いた最後の傑作小説っていう感じですね。「影が行く」っていう題もあるし、『遊星からの物体X』という題でホラー映画の原作しても有名です。南極に行ったら、変な宇宙生物の氷漬けの死体があって、これを溶かしたらさあ大変っていう、そういう話なんだけど、Frozen Hellっていう長編が最近発表されて、これの原型だって言われてるんだけどね。読んだんですけどね。何かっていうと、この長編版は、南極で死体が発見されるまでのところが延々と書いてあるだけ。南極探検するところが克明に書かれている。短編版は要するにそこを削ってこの形にしたの。なんでかっていうとね、もっと原稿料がいい大衆小説誌に原稿を売り込もうとして、そういう長編を書いたんだけど、本当は死体を発見してからが面白くて、短編では発見するまでの過程をものすごい短いセリフに落とし込んでうまいこと処理してる。なのに長編版は南極探検を克明に書いてるだけだから、今更っていう感じですよ、本当に。
渡辺:なるほどね。わかりました。はい。それでは次へ行きましょう。
中村:A・E・ヴァン・ヴォークト「黒い破壊者」。もうこの辺になると現代SFになってくるんですよね。これなんで選んだかというと、ヴァン・ヴォークトってカナダの人なんですが、SFに興味あるんだけど、ボルトとナット小説、今でいうハードSFの質の悪いものに飽きが来てSFに興味なくした時に、さっき言ったキャンベルの「影が行く」を読んで、あ、
SFでもサスペンスを全面に押し出す小説を書けるんだと気が付いて書いたのがこの小説っていう。
渡辺:ちょっと本当に意外だったんですが、やっぱり「影が行く」があって、それからこの「黒い破壊者」が出てきたっていう流れなんですね。どっちも化け物がやっぱり出てきますもんね。こちらの方が有名です。
中村:ケアルっていう宇宙生物と、ビーグル号っていう4千人ぐらい乗ってる地球の大宇宙船がファーストコンタクトして、このヒョウみたいな動物がものすごく頭良くて、なんとか実は乗っ取ろうとしてるっていう、そういう。丁々発止の頭脳戦をやるっていう。
渡辺:そうですね。ケアルという生物ですが、イラストも見ましょうか。これがイラストですが、有名ですね。ケアルです。実際は耳が渦巻き状なので、ちょっと違うと思いますけれど。
中村:キャンベル時代にデビューした人が後々SFの基礎を作るんだけども、それがこのヴァン・ヴォークトであり、ロバート・ハイラインであり、デビューじゃないけど、デビューに近い形としてアイザック・アシモフであり、L・スプレイグ・ディ・キャンプでありっていうんで、そのディ・キャンプ作品を選びました。
渡辺:はい、ありがとうございます。最後は8番目、「ブルー・ジラフ」です。
中村:これどういう話かって、やっぱり秘境探検ものの流れなんですけど、アフリカで青いキリンが発見される。探しに行くとわかるんだけど、放射性物質の影響によって突然変異を起こしてるんですよね。周りの動物がいろいろ変化してて、ヒヒが人間みたいになってて、それに探検隊が捕まるって話なんだけど。
渡辺:イラストにありますね。ヒヒがしゃべるんですよね、これ。暗い中で最初はなんだかわからなくて喋ってて、日が昇ったらヒヒだった、びっくりしたっていうところがありますけれどね。
中村:面白いですね。だから放射性物質を使った事故みたいな話がもうこの時代から書かれてるってことですね。これ1939年です。この1年後か2年後ぐらいにハインラインが「爆発のとき」っていう原子力事故の話を書いて、もうちょっとするとレスター・デル・リイが『神経線維』っていう原子力発電所の事故の話を書く。この時代からもう原子力事故みたいなのが始まっていたっていうそういう例です。
渡辺:非常に先見性があったということですね。そしてあとは放射能によるその突然変異を色で表したっていうところがなかなか面白くて、青いキリンとそれから緑色にピンクの斑点のついたカバとかですね、そういうのが出てくるんですね。非常に印象に残る話だと思います。これディ・キャンプのデビュー作ですか。
中村:いや違います。ディ・キャンプはもっと前から書いてて、それなりに実績があります。
渡辺:それでは以上で、1920年代と1930年代の目次を紹介したということになります。見ていて読んでいてわかることはですね、やはり20年代、まだ20年代だとSF恐怖小説、冒険小説、そういうものが未分化の状態でごっちゃになって現れている。そこに今読んでも、エネルギーを感じますね。ものすごいエネルギーです。それは想像力ということだと思うんですけれど、この想像力のエネルギーの強さっていうのを非常に感じたんですけれど、どうですか、その辺。
中村:まあ、おっしゃる通りです。
渡辺:これらの作品が、じゃあ古いからといって読まれなくなっていいのかいや、そんなことはないと私は強く思いました。皆さんどう思われるか実際に読んで判断してほしいと思いますので、なんとかここに挙がっている作品を図書館に行ったり、いろんなところで手に入れて読まれるといいかなと思います。私からは以上です。
中村:読むとがっかりします。