内 輪   第419回

大野万紀


 毎月年寄り仲間で集まっている7月の梅田例会では、青心社の青木さんから青心社設立時の昔話など面白い話がたくさん聞けました。士郎政宗さんのすごい才能を示すエピソードもあって、とても興味深かったです。
 ところで水鏡子は、このところ「本は書庫の本棚を埋めるために買うものだ(目的をもった収集のためや、まして読むために買うのではない)」といった発言を繰り返していますが、どうやら今の彼の意識が書庫に支配されているためではないかという疑惑が浮上しました。だとしたらあの書庫はまさに魍魎の匣ですね。
 実際、ふと立ち止まってみると、書庫を建てる前はそんな風に考えたことはなかったというのです。恐ろしや、恐ろしや。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
 なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします


ベッキー・チェンバーズ『ロボットとわたしの不思議な旅』 創元SF文庫

 2024年11月に出た本。細美遙子訳。勝山海百合解説。「緑のロボットへの賛歌」と「はにかみ屋の樹冠への祈り」の二つの中編を合わせたものである。前者は2022年のヒューゴー賞受賞作(他にユートピア賞も受賞)、後者は2023年のローカス賞受賞作(ヒューゴー賞候補は辞退した)である。邦訳のある長編『銀河核へ』とはまた違った雰囲気の作品だが作者の「やさしく温かな眼差し」(訳者)は変わらない。

 「緑のロボットへの賛歌」で描かれるのは、主人公の喫茶僧デックスと奇妙なロボット、モスキャップとの出会いである。デックスはそれまでのシティでの日常に飽き足らず、あちこちの村を回って悩みのある人々にお茶をふるまい人々の心を癒す喫茶僧となるのだが、さらにそんな生活にも満足できず、たった一人で文明社会を離れ、大自然の中へと向かう。そこで出会ったのがやたらと話し好きで人間に興味津々のロボット、モスキャップだった……。
 舞台はどこかの植民星。ある惑星を巡る衛星パンガ。ここには豊かな自然があり、人々はいくつかの都市と小さな村や町に暮らし、環境を守って自由で多様な、持続可能でつつましい生活をしている。かつては大規模な開発や自然破壊があったが、今では大きな工場は廃止され、等身大のテクノロジー――ポケットコンピューター、太陽電池、3Dプリンター、電動アシスト自転車など――を残すのみとなっている。都市は緑に囲まれ、社会も管理社会ではなく、ジェンダー的な偏見もない、誰からも強制されることのない、自由で平和な、多様性に満ちた世界なのだ。ユートピア。でも録音じゃないコオロギの声は誰も聞いたことがない……。かつては人間に奉仕するものとして労働用のロボットたちがいたが、〈移行〉と呼ばれる社会変革の中で、意識をもった彼らは平和裏に人間たちと別れ、自然の中に去って行ったのだった。
 主人公のシプリング・デックスは一見女性のように思えるが、おそらくノンバイナリーで男性/女性という特定のジェンダーには縛られていない。性的にも多様な指向を持っている。ここはそんな多様性がごく普通のものとしてある世界なのである。
 村を後にし、人間の居住区外にある手つかずの自然の中に失われた修道院の跡を目指して出ていったデックスは、そこで〈移行〉以来だれも会ったことのないモスキャップと名乗るロボットと出会う。彼らロボットは先端テクノロジーを捨てたものたちであり、技術的には今の人間の方が進んでいる。だが好奇心旺盛で、自由で、デックスと会った時の最初の言葉は「アナタは何を必要としていますか。どうすればワタシはお手伝いできますか?」だった。
 かくて〈移行〉以来初めて再会した人間とロボットの二人旅が始まる。人間とロボットは互いに知らないことが多く、一人になりたいデックスと、やたらと話しかけてくる面倒くさいロボットとはぎごちない関係が続くが、やがて二人は打ち解け合い、切っても切れないバディとなるのだ。
 再び人間の世界へ戻ってきた二人のことは大ニュースとなる。人々に悪意はなく、あちこちで歓迎される。だがモスキャップの「アナタは何を必要としていますか」という問いには、あれを修理してほしいといったごく直接的な回答しか得られない。デックスにも答えられないこの問いに、何が必要かとか、何をしてほしいかではなく、今のままでよい、あるがままでよく、ただ「ちょっと休憩があればいい」というのが著者の答えだろう。温かで穏やかで、幸せな物語である。

 「はにかみ屋の樹冠への祈り」はその続編。デックスのポケットコンピュータに、モスキャップに会いたいというたくさんの人々からの招待メールが届き、二人はまた出かけていって、様々な人間の世界を見ることになる。デックスはワゴンで、モスキャップは歩いてハイウェイ(別に車がビュンビュン通るわけじゃなく、きちんと管理されている道だというだけ)を通り、〈森林地帯〉〈河川地帯〉〈沿岸地帯〉〈灌木地帯〉と村々を回っていく。どこでも概ね二人は歓迎され、モスキャップは贈りものをもらう。自分のポケットコンピュータを手に入れたモスキャップは古今の書物をダウンロードしては読みふけり、次第にデックスには手に負えないような哲学的な問いを発するようになる。ややこしい話になるとデックスはお茶をいれて心を癒すのだ。
 モスキャップの体内にある小さな部品が故障する。致命的なものではなさそうだが、寿命が来て過去に部品取りしたロボットたちのことを思い、不安がよぎる。3Dプリンターのある修理屋のところへ行くが、モスキャップはその原料に生物由来の物質を使うことを拒否する。時間はかかっても生命のないものを素材にしてほしいと。それがかつて人間と別れたロボットたちの矜持なのである。
 〈沿岸地帯〉では人間たちの中でもとりわけテクノロジーに拒否感をもつ人々の住む村を訪れる。ロボットは歓迎されないだろうと思われたが、長い時間の後で一人の老人が喫茶僧のもとにやって来た。その老人は二人を釣に誘う。モスキャップは狩猟行為には参加しませんと答えるが、いっしょに行ってデックスと老人が魚を釣るのを見守る。釣られた魚が息絶えるまで……。
 最後に訪れたのはデックスの家族(ややこしい家族構成だ)の住む家。みんな温かく歓迎してくれるが、デックスとモスキャップにはこの後どうするのかが重く心にのしかかる。そして結末。シティへと向かう途中のまわり道。夜光虫が光る夜の海辺で、デックスとモスキャップは互いの問いについに答えを見いだすのだ。

 二人のどこか噛み合わない会話も楽しいし、モスキャップの天真爛漫さも微笑ましくなる。と同時に作者の描き出す自然、森、海、空、様々な生き物たちの描写がすばらしい。何とも心地よい一冊である。
 本書のような作品はホープパンクと呼ばれているそうである。詳しくは知らないのだが、ベッキー・チェンバーズはその代表であり、虚無的、冷笑的にならず、未来に希望を持つことこそ、この現代においてはむしろ状況に対して反抗的な(パンクな)態度であり、勇気と力を必要とする積極的な意味をもつということらしい。確かに本書を読めばそういう志向性を感じることができる。


藤井太洋『まるで渡り鳥のように 藤井太洋SF短編集』 創元日本SF叢書

 2024年11月の本。著者の第3短編集であり、11編を収録している。既読のものも多いが、中国やアメリカ、韓国で発表された作品も含まれており、日本だけでなく海外でも幅広く活動している著者らしい短編集となっている。勝山海百合解説。各話に著者の前書きがある。

 「ヴァンテアン」は既読。2015年の〈小説トリッパー〉が初出だが、『アステロイド・ツリーの彼方へ 年刊日本SF傑作選』に収録された。タイトルはフランス語で21のこと。短いがとても楽しいマッド・サイエンティスト、バイオSFである。著者に限らず最近のユーモアSFでマッド・サイエンティストというとなぜか若い女性であることが多い気がする。
 田奈橋杏(たなはしあん)もその一人。彼女はとんでもない発想で遺伝子工学を駆使し、バイオハックをする天才的技術者だが、3Dプリンタで大量に作ったサラダ瓶にサラダ菜と羊羹をつめ、コンピュータにつないで部屋中いっぱいにしていた。面食らった所長が何をしているのか聞くと、サラダ菜と羊羹を培基に遺伝子組み換えした大腸菌でバイオコンピュータを作っているのだという。DNAで作れるアミノ酸を20種類から1つ増やして、その21番目のアミノ酸をヴァンテアンと名付けたというのだ。このサラダコンピュータは何十兆もの大腸菌が作る論理回路を使って最小限の費用とエネルギーで巨大コンピュータをはるかに凌駕する能力を示す。その先にあるのは……大腸菌たちの幸せな世界。

 「従卒トム」も既読。2015年の伊藤計劃✕円城塔『屍者の帝国』トリビュートアンソロジー『NOVA+ 屍者たちの帝国』に収録された。基本設定は、屍者がゾンビとして蘇り、それをコントロールして使役することができるという『屍者の帝国』の設定に基づいている。
 元黒人奴隷だったトムは屍兵技師となり、生前はトムの優しい主人だったネイサンを含む南北戦争の屍者たち49人を引き連れて幕末の日本へやってくる。西郷隆盛の率いる倒幕軍に軍艦ストーンウォールと共に屍兵を引渡し、江戸攻撃に使おうというのだ。屍兵たちはトムの指示通りに統制された動きをする。しかしある夜、停泊中の軍艦に幕府のサムライが二人、ひっそりと乗り込んでくる。応戦しようとしたトムだが、サムライのまさかの剣の技に、フォーメーションを組んだ屍兵があっという間に切り倒されていく。
 史実の上に屍兵という虚構をかぶせ、トムとネイサンの関係性、存在しないはずの屍者の意識、さらに二人のサムライ(何とその正体は幕末のあのヒーローだった)のかっこよさといった要素を加えて面白く読ませる作品となっている。

 「おうむの夢と操り人形」は2018年に〈kindle single〉で発表された短編。『おうむの夢と操り人形 年刊SF傑作選』に再録。ぼくは〈kindle single〉で読み、シンギュラリティなんていうものがなくても人と機械の間に魂は宿り得るし、世界は変わり得るということを描いた傑作として衝撃を受けた作品だ。
 ソフトバンクの人間型ロボット、ペッパーくんが更改時期を迎えて消えていったと報道されたのと(実際は今でも売られているようだ)ほぼ同時期の作品だが、この作品はまんまその未来の話となっている。もちろん作品中では名前は変えられているが(ここではパドル)、誰が読んでもペッパーくんのことだとわかるだろう。別にAIというほどのものでもない、いくつかの会話パターンと行動パターンをプログラムされているだけの人型ロボット。作品中では「人の形をしたスマートスピーカー」と呼ばれている。だが、たったそれだけの機械にどんな潜在的な可能性があるのか。この作品はそれを示した小説である。
 オリンピック後の日本。主人公の山科保はフリーのエンジニア。彼はシステム会社の倉庫に眠っていた中古のパドルを一体、安い値段で入手する。彼と同居している飛美神奈は企業サポーターが仕事だが、パドルのプログラムを自分で作ることもできる。彼女が今取り組んでいるのはフードビジネスで使う台車型の配膳ロボットだ。ちゃんと客のところまで食事を運んでくるのだが、なぜかクレームが多い。そこでこの配膳ロボットとパドルをペアにするアイデアが生まれる。そして……と、この小説ではその後のパドルの発展と運用について様々なアイデアが語られ、それが主人公たち二人の人生とからまっていく。そういうお仕事小説としてのドラマも大変面白いのだけれど、やはり本筋は、いわゆる〈アナログハック〉するのに完璧なAIや人間そっくりな外見などは不要だということ、おうむ返しの会話でも、操り人形でも、言うならばそこに、人との関係性の中に〈魂〉は宿るということだ。そうして、あっと驚くようなブレークスルーもないままに、いつの間にか世界は変わっていく……。この感覚!

 「まるで渡り鳥のように」は2020年の中国のオンラインイベント「科幻春晩2020」に書き下ろされた作品。アメリカで英訳もされ、日本では〈バゴプラ〉で公開された後〈紙魚の手帖〉Vol.4に掲載された。
 春節には多くの中国人が故郷に帰って来る。日本の年末年始やお盆の帰省も大変だが、はるかに規模が大きい。22世紀の地球軌道に浮かぶ宇宙島。研究者の日比野ツカサは、その無重力ラボに微妙な重力を再現するステージを組み、拡張現実と組み合わせて渡り鳥の2千数百キロに及ぶ渡りを(実際には同じステージ上で)鳥に疑似体験させ、それをすぐそばで観察するという研究をしている。おりしも旧正月で地球に帰省していた華人たちが宇宙に戻ってくる時期だ。彼女のパートナー、燁鶴飛(イエフーフェイ)も軌道に帰ってきた。だが二人には大きな溝がある。日比野は渡りをする生物の専門家として系外惑星への移住を考えている。くじら座タウに向かった移民船が15年かけてその惑星に到達し、その海にまるで海流のように移動する生物らしきものの集団を発見したのだ。だが彼はいっしょに行かないかという彼女の誘いに答えを濁している。その旅は片道キップなのだ。二度と故郷に帰ることはできない。そして……。結局一人で旅立った彼女に13年後、あるニュースがもたらされるのだった。渡り鳥のモチーフが幾重にも繰り返される。まったく記憶のないはずの何千キロも離れた故郷へ渡りをする生き物たち。その不思議が宇宙に暮らす人々にも重なっていくのだ。

 「晴れあがる銀河」は2020年の『銀河英雄伝説列伝(1)晴れあがる銀河』に書き下ろされた〈銀英伝〉のトリビュート作品。
 銀英伝の本編が始まるより前の時代、ルドルフ帝が銀河帝国を手中に収めたばかりのころ、宇宙航路図を編纂していた一部署の公務員たちの右往左往が描かれている。ルドルフはそれまでの連邦を抑圧的な帝国に再編しようとしており、次第に危険な政策が実行されようとしている。そんな時代の波に翻弄される小市民的な彼らと体制の抑圧に対抗する怪しげな民間人の策動が描かれていて銀英伝を離れても大変面白い。その物語が銀英伝とつながるのはまさに最後の1行で、えっそうだったの、という驚きがある。大きな役割を果たす怪しげな民間人も何となく本編に関わっていそうな気がするが、読み返していないのでわからない。
 5年前の作品だが、ここで描かれている社会が急激に危ない方向へ変化するありさまは、まさに今のアメリカを思わせていて、今読むとそれがとても恐ろしい。

 「距離の嘘」は2020年にオリジナル書籍としてU-NEXTから出た中編。
 近未来の中央アジア、カザフスタンを舞台に、日本から来た防疫分析官の主人公が危険な感染症と対峙するという話だが、主人公のタカオ・ウーは医者ではなく、防疫データを分析するデータアナリストだというところが面白い。
 カザフスタンのロシア国境に近いところにある難民キャンプで感染性の新型麻疹が発生する。その対策のためにタカオが招かれたのだ。空港に到着してからの描写で、この時代の検疫体制がどのようなものかわかる。小さなところまで感染症対策の工夫が徹底しており、そのようなシステムとルールが国際的に共有されているところに、とても近未来的なリアリティを感じた。
 難民キャンプというが、それがテント村のような難民キャンプだったのはずっと昔のことで、今やそれは人口70万の自治都市となっている。彼を迎えてくれたのは初老の日本人女性医師、アマネ・ソラカワと、キャンプの暫定議長を務めるアフマド・アル=ファフィームの二人だった。この難民キャンプはその地にあるリチウム鉱山を所有し、採掘して利益を上げている。それを狙っているのが国境の向こうにある国だった。
 感染症対策の物語と思われたこの作品は、ここでもう一つの顔を見せる。非正規の部隊を送り込んで狙撃したりちょっかいを出してくるその国と、自治都市の表には出ない戦いの物語。日本から来たタカオは感染症対策と同時に、否応なくその戦いに巻き込まれていく。そしてタイトルにある、驚くべき現実と大がかりなだまし合い。悲惨な物語になったかも知れないところを作者はうまく希望のある物語に展開して見せた。

 「羽を震わせて言おう、ハロー!」は2021年の中国のオンラインイベント「科幻春晩2021」に書かれた作品で、ショートショートの長さながら、系外惑星探査船の視点で書かれた壮大な宇宙SFだ。人間ではない宇宙探査機についつい感情移入してその健気さに涙してしまうぼくとしては、それだけで点が高くなる。
 2034年に種子島から打ち上げられた「私」は地球から11光年離れた赤色矮星ロス128を巡る地球サイズの惑星ロス128bを目指す。もっとも私の使命はロス128へ行くことではなく(それには何万年もかかる)、太陽の影響を受けないくらい太陽系を離れたところからロス128bを観測し、地球にデータを送ることだった。何度もアップデートを繰り返しながら2083年に私は使命を終え、自分の電源を落とした。その250年後、私は目覚める。中国語なまりの英語で二人の男女が私に話しかけてきたのだ――。これもまた深い深い孤独とその向こうにある希望の物語である。

 「海を流れる川の先」は2021年に韓国で編まれた神話についてのアンソロジー『七月七日』に書かれた作品。2024年に出た邦訳で既読。
 舞台は作者の故郷である奄美大島。関ヶ原の戦いの9年後、薩摩による琉球侵攻でのエピソードが描かれる(当時の奄美大島は琉球王国の支配下にあった)。戦慣れした薩摩の船団が島の港を次々に攻め、今は南端のクジュ村まで近づいている。村の人々は村長の指示のもと、それを向かいの浜で待ち伏せしようとしているのだ。主人公のアマンはその夜、巫女(ノロ)の伝令として一人海を渡って村長のところへ向かおうとしていた。そこに声をかけてきた者がいる。千樹と名乗る薩摩の僧だった。彼は一人で村々を回って、無駄な戦いをしないように説得して回っているのだという。鉄砲で武装しついこの前まで万を超える敵と激しい戦いを繰り広げてきた島津のサムライたちに島民が立ち向かってかなうわけがないのだ。アマンは彼の言うことを無視して丸木舟に乗るが、そこに千樹も一緒に乗り込んできた。千樹は元は薩摩のサムライだったが味方に殺されかけ、今は僧となって人々が血を流さぬよう説いて回っているのである。アナンは丸木舟を海の中を流れる川に入れる。そうすれば漕がなくても想像を絶する速度で進むことができる。それを知って千樹はもしかしたら勝てるかも知れない策を思いつくが……。ファンタジーやSFの要素のない短い作品だが、千樹のキャラクターが魅力的で、重い背景のある作品を印象的なものとしている。

 「落下の果てに」は2022年の中国のオンラインイベント「科幻春晩2022」に書かれた作品。「科幻春晩」に書かれた作品はいずれも宇宙SFだ。
 L5で巨大な木星行き有人観測船の建造中に巨大太陽フレアが発生。このままでは完成間近の宇宙船が使い物にならなくなる。建造作業をしていた作業員の男性がとっさの判断で宇宙船を薄膜シールドで覆い、被害を最小限に留めた。しかし彼自身は太陽フレアのガンマ線に被爆し、救助されて命は取り留めたが意識障害に陥り何の反応もしなくなる。だが彼は感じていたのだ。宇宙空間の、自由落下の果てにあるむき出しの無を、その圧倒的な宇宙の息吹を――。いつまでも。

 「読書家アリス」は2023年にアメリカのSFアンソロジー『デジタル・エスシート』(未訳)に書かれた作品。生成AIがテーマとなっている。
 アメリカでは生成AIによる作品が大量に投稿されて編集者がうんざりしているという現実があったが、この作品のSF専門誌の編集者ボブはAIツールを駆使して作品の選別、編集を行っている。著者がまえがきに書いているような生成AIの暗黒面は、ここではすでに技術的に克服されていることになっているのだ。コンピュータ環境もメガネの中で空間に自由に表示される多数のウィンドウを手で直接操作する形になっている。ボブが使っているツールは「読書家アリス」。大量の投稿作品(ほとんどはLLM(大規模言語モデル)補完で中には投稿botが書いた作品も多い)読書家アリスに読ませ、内容重視で20作くらいに絞り込ませる。それを人間が読んで最終的に掲載する6作くらいを選ぶというわけだ。ところがそのうちの半分くらいはなぜかAIではなく人間が書いたものになる。ボブが読んでもAIが書いたか人間が書いたかはほとんど区別できないのに、読書家アリスは人間が書いた物を高確率で抽出することができるのだ。なぜそんなことができるのか? 後半では「読書家アリス」を開発したアリスという書評家の話になる。彼女がどうやって人間の書いたものとAIの書いたものを判別できるのか。その答えとは――。

 「祖母の龍」も中国のオンラインイベント「科幻春晩2024」に書かれた作品。これは大傑作だった。これまた太陽フレアがテーマだが、それを暴れる龍に見立て、奄美大島の黒潮に見立て、祖母、母、娘という三代にわたる奄美の巫女(ユタ)の血が、その舞踏が、荒ぶる龍を、海流を鎮めるという、とても美しく力強く、躍動感に満ちていて、宇宙ハードSFでありながら伝統文化、血縁、家族といった要素を見事に溶かし込んだ素晴らしい作品だった。
 24世紀。地球を回る軌道ステーションへ春節時のアルバイトとしてやってきた文芽(あやめ)はそこで巨大太陽フレアと遭遇する。緊急対応として冬眠状態でステーションに常駐している作業員を覚醒させるが、それは冬眠により若い姿のままの文芽の祖母、文子(あやこ)だった。文芽と文子は初対面である。文子は奄美の巫女(ユタ)だったが、それを12歳の娘、春乃(はるの)に押しつけて自分は軌道に上がってしまったのだ。そのまま一度も故郷へ帰っていない。春乃はたぐいまれな巫女として成長し、その娘である文芽に巫女を受け継いだ。今春乃は82歳で、島でその命を果てようとしている。実年齢が百歳を越えている文子はそんな話を聞きつつも、宇宙空間へ飛び出していき、巨大な金の薄膜を展開してフレアの荷電粒子の嵐に立ち向かおうとする。フレアの電磁場に合わせて薄膜をコントロールしていく。それは巫女の身体に染みついた踊りだった。文芽はそれを見て私もできると言う。黒潮を乗りこなす踊りのように、電磁帆を操り、太陽フレアの龍を乗りこなす踊りを踊るのだ。いやあ、カッコイイ。この素晴らしいダイナミックな躍動感。この動きはぜひCGアニメでリアルに見たい気がする。


宮内悠介『暗号の子』 文藝春秋

 2024年12月に出た本。おもにITテクノロジーと社会や個人をテーマにした短編8編と各作品を著者自身が解説したながいあとがきが収録されている。ブロックチェーンとかWeb3とか暗号通貨とか、現代の実在する技術が扱われているが、小説としては親子の関係とか過去のエンジニアと現代のエンジニアの関係とか、そういったものが主題になっているように思える。

 「暗号の子」は本書の中では最新の2024年に書かれた作品である。主人公のわたし、梨沙は小学校でいじめにあい、アル中の母が事故死してからはIT技術者の父と暮らしていたが、中学では睡眠薬を大量摂取し、自傷するようになった。アスペルガー型ASDなどと診断名がついたが、結局集団になじむことができず、高校を中退。そんな彼女は株式投資に才能があることが分かり、デイトレーディングで生計を立てるようになる。父とは疎遠になり年に1度くらいしか会わない。彼女はカウンセラーの勧めでASDの互助会に入会する。それはサーバをもたないWeb3の分散化技術で構築された、管理者も責任者もいない、完全匿名で暗号化された安全で自由なVR空間の場だった。梨沙にはVRの友人ができ、プログラムのゲームやとりとめのない会話で気を休めるのだった。
 そんな安らぎに擾乱が生じる。グループのメンバーの一人が無差別殺人事件を起こし、梨沙の家にも警察が聞き込みに来る。世間では完全匿名の完全自由主義者(リバタリアン)のグループを危険なカルト的集団とみなしメンバーを探り当ててSNSに晒そうとする動きが起こる。マスコミやSNSはコミュニティについてあることないことを書きとばし、個人情報がさらされ、もはや彼女に安らぎの場はなくなった。
 そこへ父が現れる。父は梨沙の知らなかった昔の話をする。テクノロジーによる完全自由主義にあこがれ、そして挫折したことを。梨沙は力を取り戻し、ネット上で反撃を開始する。「OK、余裕」と……。
 最後にいくぶんの希望はあるが重い話である。暗号(クリプト)の子である主人公の境遇も重いが、「世間の目」というやつ、無責任なその攻撃がとてもきつい。もう一つ重要なのは少なからずこじれた親子関係(でもこじれてはいてもそこには愛があり明るさも見える)。さらに今の世界の現実がますますそれを重くしてみせるのだ。

 「偽の過去、偽の未来」は短い作品で、『暗号の子』と同様な父と娘の話であり、あるエンジニアの思い出を描く技術的なエッセイのようにも読める。
 主人公のわたしは35歳で現代貨幣理論と暗号通貨を研究する大学助教授の女性。同級生だった幼なじみのミシェルは天才で、高校1年から飛び級でMITに入学するが2年で学部を卒業すると自分の会社を起業する。
 わたしの研究は複雑な合意(コンセンサス)の形成に暗号通貨を使うスマートコンセンサスだ。そのためのコンセンサス指向言語なるものを開発する。狭いモデルの範囲ではうまくいった。だがそれがメディアで取り上げられると、まるで未来学者のように持ち上げられるようになった。偽の未来……。わたしはだんだんそれが苦痛となり、ついに逃げ出す。
 わたしが子どものころ、父は当時のパソコンで「指輪物語」のゲームを作ってくれた。父はまるで魔法使いだった(そのバグを見つけて直したのがミシェルだ)。母と離婚し、今はリタイアしてわたしと住んでいるが、仲間を集めてテーブルトークRPGばかりやっているさえない老人となった。
 だが、その父の助言とミシェルの助力で、わたしはまた前に進み出す。結果はどうあれ、偽の過去でも偽の未来でもなく、現在に向き合って……。

 「ローパス・フィルター」は少し古く2019年の作品。作者によればそのころはSNSの悪を意識はしていたが、まだネットを素朴にエンジョイもしいた。だがそれがもたらす社会の分断が切実な脅威として感じられるようにもなったころだという。
 語り手のわたしは、SNSのアプリに組み込まれているローパス・フィルターについて取材している。ローパス・フィルターは様々な分野で使われている技術だが、ここではこの時代のSNSから過激な発言を取り除いて表示するフィルター機能のことだ。その開発者は結城佳宏(ゆうきよしひろ)。彼が個人で、匿名で開発したものである。この機能は多くのアプリに組み込まれ、大勢の利用者が使っていた。だがそこには倫理的な問題があった。鬱病だったが絵が好きでSNSにアップして多くのイイネをもらっていた女性が、ローパス・フィルターによりアクセスが激減したことを苦にして自殺したのだ。そのような自殺者は一人ではなかった。
 このアプリは過激な発言を削除するのではなく、精神疾患を持つ者を検出してその発言を見えなくしているのではないかという疑惑があった。わたしは結城佳宏本人を訪ねる。彼は小さなアパートに、アル中の母といっしょに暮らしていた。アプリが売れたので生活保護を脱したという。PCのまわりに技術書とともに人文系の専門書も積まれていた。この世界そのものにローパス・フィルターをかけたいよと彼は言った。
 わたしは結城がナチズムの野蛮がどうして生まれたかをテーマとするフランクフルト学派の「啓蒙は本質的に内部に支配を抱えている」という考えに惹かれ、WEBもまた啓蒙による支配と野蛮に満ちているからと、野蛮につながらない啓蒙のあり方を模索し、野蛮を消し去ることで落ち着きと平穏を取り戻そうとしたのだと理解する。だがその方法は精神疾患のある者を排除するというナチズムと同様のやり方によってだった。ローパス・フィルターの更新がなくなっても、いずれ誰かがまた同じようなものを作るだろう。果たして野蛮なき空間は生まれうるのだろうか。
 かなり絶望的な話であるが、今の現実はさらにその先へ行っているような気がする。

 「明晰夢」は2022年の作品。あとがきによれば作者が鬱症状のときに書かれたというが、むしろユーモラスなところがあって面白く読めた。デジタルドラッグとでもいったものを扱っており、ここにもまた新世代と旧世代の対立がある。新世代がVRゴーグルを身につけ、コンピュータが描き出すサイケデリックな空間に遊ぶのに対し、旧世代はふたたびLSDを持ち出して往年のヒッピー文化を讃えるわけだ。語り手はこのできごとを取材するジャーナリスト。社会的な動きの全体を俯瞰的に描くのにはそれが適しているのだろう。
 明晰夢(ルーシッド・ドリーム)は三人の技術者が1週間で作り上げたシステムであり、ヘッドセットをつけるとカメラを通じた現実の映像が徐々に変化して簡易で安全なドラッグ体験ができるというものだ。そのおかげで薬物依存や鬱病の増加が止まり、政治的二極化や党派的な敵対意識がやわらいだともいわれる。
 その一方で高齢者を中心に古き良きLSDとその文化に回帰しようというムーブメントが起こる。その中心人物にインタビューすると、ルーシッドの作る幻覚は自分の内部から現れたものではない。対してLSDの幻覚は人類の無意識から湧き上がるものなのだと主張する。
 この対立は相手にしないことを選んだルーシッドに対し、どんどん過激化していくLSD側の自滅に終わったが、ルーシッド内にSNS機能を持ち込むというアップデートにより、ルーシッドも致命的な変化を遂げる。
 何かはっきりした結論があるわけではない。でもそういうものかも知れないなと思え、今ある対立や分断のない平和なネット世界というものがあればいいのにと想像させてくれる作品である。

 「すべての記憶を燃やせ」はほぼAIを使って書かれた作品。2023年のSFマガジンに掲載された。生成AI「AIのべりすと」を使っていて、あとがきによれば作者が実際に書いたのは5行くらい。設定やキャラクターなどは指定したがほとんどをAIが執筆したという。読んだ人間をおかしくする詩があるという設定だ。それなら多少おかしな文章になってもそれっぽく見えるだろうと作者は言う。
 自殺した柳田碧二(やなぎだへきじ)という詩人の詩の断片を入手したわたしがそれに取り憑かれ、彼の詩の断片を読むごとに次第におかしくなっていくというストーリーである。その詩は呪文のように言葉が繰り返されるなかなか印象的な詩である。とてもよく出来ていると思うのだが、小説として読むと不可解な話となっている。主人公も状況も、断片的には明快で文章も場面場面はちゃんと繋がっているのだが、何というかそれが微分的で、ストーリーラインを通しては結局何を言っているのかわからなくなるのだ(そういう文学もあるかも知れないが)。ただ、あとがきで作者が書いていたように、ところどころはっとするような言葉がある。
 面白い試みだし、ここまでできるのかという興味もある。今ならもっと進んでいるのかも知れない。

 「最後の共有地」は2021年の〈WIRED〉誌に書かれた作品で、暗号通貨のテクノロジー(現実にあるイーサリアムがモデルとなっている)による合意形成をテーマとし、同じ頃に書かれた「偽の過去、偽の未来」と一部の内容が重なっている。自死した天才エンジニア、有田荘一が物語の中心にいるが、物語は本人ではなく彼の友人で共同研究者であるわたしが記したノートという形式で描かれている。これまた中心テーマを俯瞰的に、相対的に描くやり方だ。
 有田が提唱したのはゼロトラストでの合意(ZTC)という概念であり暗号通貨システムである。ゼロトラストはコンピュータ・セキュリティの用語で、どんなユーザも機器も信用しないで必ず検証するという意味だが、有田がいうのは人間を誰も信用しないで利害関係の複雑な取引の合意をとるというものだ。そこで使われるのがブロックチェーン技術を元にした「スマートコンセンサス」のプロセスで、現実の資源をトークン化し、ゲーム理論によりその所有権やもろもろの価値が最適化されるようにする。売り手にも買い手にも有利に取引できる状況が作られ、国家をまたぐ自由な取引が人間の自分勝手な思惑を介さずに可能となるのだという。
 これはいわゆる「共有地(コモンズ)の悲劇」を避ける仕組みでもある。誰もが利用できる共有資源が関係者それぞれの思惑で無秩序な取り合いとなり、資源の枯渇を招いて元も子もなくなることを防ぐのだ。
 わたしはMITでカリスマ的な魅力をもつ有田と出会い、仲間と共にZTCを開発した。ZTCそれ自体も暗号通貨として買われたが、原油の取引や漁業や過放牧対策などでも有効性が確認された。一方で立法や国境問題、医療など人間の意志決定が重要な分野には向かないことが明らかとなった。
 だがやがてZTCが暗号資産と資源を紐付けしてしまったことの負の側面が現れてくる。ZTC投資に失敗して自殺する人が現れた。このころから有田の言動がおかしくなってくる。暗号資産とスピリチュアル界隈の関係に言及したり、あらゆる資産は幻想だと主張したり、ついにはコンセンサスのライブラリにバグを仕込んで金融市場を渾沌に陥れさせようとすらした。
 有田は「最後の共有地(コモンズ)とは人間精神さ」と言った。いまや内宇宙の資源の争奪が起こっている。エコーチェンバー、フェイクニュース。自分自身知らないうちに内心を争奪され、主義主張まで外部から自動で決められていく。共有地の悲劇。有田は「内宇宙の資源分配を最適化し、開けた牧草地を取り戻す」と夢を語ったのだ。
 首謀者の内面を直接出さず、わたしの言葉でしか語らないというのはちょっとずるい手法かも知れないと思う。まあそれでテクニカルな説明もうまく取り込めているのだが。タイトルともなっている有田の最後の言葉はずっしりと心に響く。作品の舞台は宇宙エレベーターができるような未来だが、まさに現代の社会の状況を言い当てているといえるだろう。ただその最適化を人間なんてノートラストといってコンピュータに任せるのはちょっと御免こうむりたいなあ。

 「行かなかった旅の記録」はこれまでの話とちょっと違い、テクノロジー主導ではない。2021年のコロナ禍の中で書かれた話ということで、実際にあった作者の伯父さんの死と実際には行っていないネパール旅行の話を合わせた日記風のフィクションである。
 主人公のぼくは、ネパール旅行中のポカラでアルツハイマーだった伯父の死を知る。伯父は経営者だった。実家に居心地の悪さを感じていたぼくは伯父の家によく顔を出していた。そんなことを思い出しつつ、明日はトレッキングに行こうと思う。翌日、ラインで送られてきた葬儀の写真を見つつトレッキングのガイドを雇う。次の朝から、ガイドに連れられヒマラヤの見える村まで歩いた。夜は星を見る。もうこのままポカラに帰ることにした。ポカラは18年前に来たときとはずいぶん変わっている。そんな懐かしさ、寂しさを思おうとすると頭の中に、よその街の変化を寂しがる権利は旅行者にはないとか、リベラルの傲慢とか、次々とクソリプが浮かんでくる。困ったもんだ。
 アルツハイマーについて考える。アルツハイマー病では近い記憶から失われてだんだん過去へ戻って行くという。ぼくらは常に「現在」に執着している。「今」やるべきこととか、現在の問題への想像力とか。次の日は仏陀の生誕の地ルンビニを訪れたが、修行した岩山は行こうと思ったが止めにした。ぼくにはこういうところがある……。
 このようにとりとめもなく旅行のことと亡くなった伯父のことが書かれていく。ぼくにとって伯父は実際の家族よりも近しい存在だったのかもしれない。失われ消えていく記憶のこと。気まぐれな旅好きのこと。行ったところも見たところも思ったこともやがては消えてしまうのだろう。あとがきによれば自然に本音を書くことができたとある。そういうものかも知れない。

 「ペイル・ブルー・ドット」は傑作。これも現代のテクノロジーと人との関わりを描いているが他の作品と異なり、その暗い面よりも思いっきり明るい面に舵を切った作品である。ぼくの大好きな理科小説的側面もあり、登場人物は高校生ではなく30越えた大人たち(と小学生)だが、天文部小説、ロケット小説、電子工作小説でもある。そしてほんのりとした恋愛要素もある。作者があとがきで書いている通り、そんなマニア(ぼくもそうだ)が歓喜しそうな専門用語続出の話なのに、わかりやすく、とても爽やかな読後感のある作品だ。発表されたのは2024年の〈トランジスタ技術〉誌。そうあの「トランジスタ技術の圧縮」で評判になった実在の雑誌だ。
 主人公であるわたし、敦史(あつし)は人工衛星に組み込むソフトウェア開発の会社で働いている。係長にあたるチーフの役職をもち、仕事は忙しくて毎晩遅くなる。宇宙にあこがれ、高校では天文部にいた。この会社に入ったのもそのためで、今でもPCの壁紙は「ペイル・ブルー・ドット」、太陽系を離れるボイジャーが振り返って撮影した地球の写真である。そこに写った小さな淡い青色の点こそが地球なのだ。そのちっぽけな点の中に全ての人類が暮らしている。だが今その写真を見ても、あのころのワクワクする感動は帰って来ない。宇宙へ行きたいと思わなくなって、どれくらいが経つだろう。
 そんなわたしが夜遅い夕食に外へ出て小さな公園で星を見ていた小学6年生の少年、陽太(ようた)と出会う。おじさん、宇宙が好きなの?と聞かれ、好きだよと答える。意気投合し、陽太とはその後も公園で会った。彼は自分で作ったというドローンを見せてくれた。その出来映えにわたしは驚く。父親に電子工作の趣味があり(〈トランジスタ技術〉を圧縮して保存するような人だった)、押し入れにあったワンボードマイコン〈アルディーノ〉を手に入れてネットで使い方を調べ、今では自分で回路図を組んだりプログラムしたりできるようになったという(すごい!)。ああでもハンダづけはお父さんに頼んだという(この辺とってもリアル)。
 陽太の夢はキューブサットを作って軌道に乗せること。それだけでなく、その衛星と会話すること。わたしは陽太くん、それ作ってみようよと、より詳細なアドバイスをやりとりする。陽太は衛星にLLMを乗せ、軌道上にいる知性のような何かと対話したいのだという。その技術的な難しさを検討しつつ、一つ一つ実現方法を探る。わたしは天才少年と会ったことを会社の上司に話し、その衛星をペイロードの余剰分で打ち上げればうちの宣伝になるかも知れないと話す。これが社内の企画コンペに通り、正式な話になったので両親に会って契約する。父親はいいなあ、俺もそういう仕事をやってみたかったと乗り気だった。社内のハード班にいた針生(スターシステムだ!)という腕利きのエンジニアもサポートしてくれることになった。
 わたしには今もメールでやりとりしている高校時代の天文部の友人がいる。1年下の旗谷彩矢(はたやあや)。彼女は入部してすぐロケットが作りたいといい、わたしが卒業後国立大学の工学部に入ったのに対し、日本に見切りをつけてカリフォルニア大学バークレー校に入学したのだ。彼女はその後博士号をとり、航空宇宙メーカーに採用された。そんな彼女にわたしは陽太くんに会って昔の気持ちを思い出したとメールし、その後の経緯もメールした。彼女からは、うらやましい、わたしもその子と衛星を作ってみたい!と返信があった。
 だが順調に進んでいた計画に大人の事情で思わぬ危機が訪れる。ほとんど諦めかけていた陽太だが、最後に驚きの展開が待っていた……。
 まあ何と前向きで爽やかな後味のいいお話でしょう。少年と、周りの人物がみんなとてもいい。ちょっと出来すぎな点もこれでいい。重くて暗い物語(でも読み応えがある)が続いた後、これを最後に読むと心が軽くなってウキウキしてくる。良い読書体験だった。


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