内 輪   第409回

大野万紀


 単館上映から始まり人気が高まってたちまち全国で上映されるようになった話題の自主製作映画「侍タイムスリッパー」を近所のTOHOシネマズで見て来ました。面白かった! 幕末の侍が現代にタイムスリップし、とまどいながらも時代劇の斬られ役となって生きるという物語ですが、時代ギャップによるほっこりしたユーモアと主人公たちの捨てられない侍の魂の対比が印象的でした。とにかく殺陣がすごい!
 主人公たちもよかったけれど、主人公を居候させるお寺の住職夫婦がとてもよかった。とくに奥さんが最高。これはもうホンマもんの関西のおばちゃんです。こっちがツッコみたいところを全部先回りしてツッコんでくれるんですもん。
 幕末の会津の侍が果たしてポスターの算用数字を読めるのかという疑問もありますが、戊辰戦争での会津の悲劇を知りその上に今のこの世界があることを知る。それが結末の真剣勝負に生きてきます。そういうシリアスな部分も心に染みました。
 ここでのタイムスリップにはSF的な要素はほとんどなく、あくまでも二つの時代を結びつけて文化の違いとそれでも変わらない人の心と日常、そして自分の大切なものへの思いを描くための道具として使われています(最後にはギャグとしても)。それでも二つの世界を通常ではあり得ない形で強引に結びつけること、それをSFだといってもいいのではないかと思います。
 観客の入りもよく反応もよくて、あちこちでクスクス笑いが聞こえていました。

 この前の梅田例会で、水鏡子が古本の『戦中戦後紙芝居集成』を買ってきたのをきっかけに、老人たちの子ども時代の話に花が咲きました。紙芝居、貸本屋、ろばのパン屋、パルナスのピロシキ……。テレビの前でハリマオのまねをしてベルトを振り回したらテレビの前の拡大レンズが割れて水が流れ出し驚いたとかいう話も。フレネルレンズのペラペラの拡大鏡は見たことがあるるけれど、中に液体の入ったレンズをテレビにつけていたことがあるのは知りませんでした。ネットで見ると今でも中古品を売っているのですね。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
 なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします


立原透耶編『宇宙の果ての本屋 現代中華SF傑作選』 新紀元社

 23年12月刊行。『時のきざはし』に続く立原透耶編の日本オリジナル中国SF傑作選。15編と編者による序文、林譲治による解説がついている。分厚さに驚くが、1段組で読みやすい。

 顧適(グー・シー)「生命のための詩と遠方」は短いが海洋汚染とその対策の未来形を描く本格SFだ。作者は若手の女性作家。『月の光』に収録された「鏡」は良かったが、『走る赤』の「メビウス時空」はあまりピンと来なかった。でもこの作品は面白かった。海洋汚染への対策として各種のマイクロ・ロボット群によるシステムを考案したがうまくいかずに放置されていた。それが何年かたって明らかに効果を発揮していることがわかる。アイデアそのものはありがちなものだが、語り口が面白く、最後の一言「僕たちがもうプラスチックごみを出さなければいいんです」が気が利いている。

 何夕(ホー・シー)「小雨」は未来の芸術家の話。一人の女性をめぐる仲のいい二人の芸術家の三角関係の話を叙情的に描いたものと思いきや、最後にコンピューター用語がでてきて唖然とする。いやそれは解決にならないでしょう。だけど印象的な情景描写は美しい。『時のきざはし』に載った「異域」はある種の怪獣SFでとても面白かったが、これはまたずいぶんと印象が異なる。

 韓松(ハン・ソン)「仏性」もロボットSFだが、ここではロボットたちが仏教に帰依し、解脱を求める。とはいえユーモアSFではなく、ロボットに意識が生じるのなら、輪廻からの解脱を求めそれを実践することもあり得るのではないかと、チベットを訪れたエンジニアを語り手にかなり凝った文章で哲学的に述べた物語である。ぼくは科学を学んだ優秀な学生たちがオウム真理教に惹きつけられていったあの事件を思い起こした。ラマ教の寺院で化身ラマとなったロボットとの出会いにはホラー小説のような不気味さがあり、さらになぜかケルアックの詩集からチャーリー・パーカーのくだりが引用される。不可解な物語ではあるが面白かった。

 宝樹(バオ・シュー)「円環少女」。『時間の王』『三体X』の宝樹の短編は、ある少女と父親の物語。少女には5歳以前の記憶が無く、早くに亡くなったという母親の記憶もない。年齢が上がるにつれて、少女は父の行動に、そして自分自身に疑問を抱くようになる。父が自分に良くしてくれ愛情を持って育ててくれていることには間違いない。だが父は本当に自分の父なのだろうか。自分は一体何者なのだろうか。中学に上がり、アメリカから来た新しい英語の先生、エリーに出会ったことで事態は急展開する。彼女は昔アメリカで少女にそっくりな女の子と友だちだったことがあると言うのだ。エリーは少女の相談にのり、調査を始める。そして驚くべき真相が明らかとなり、結末ではまたそれがひっくり返されることになる。SFミステリとして大変よく出来ており、SFを読んでいればすぐ思いつくような「真相」はすぐに正しくないことが明らかになる。本当の「真相」はSFのアイデアとしてはむしろ古めかしく感じるが、人間にそんなことが起きるかどうかは別にして、科学的には事実であり、日本でも研究が進んでいる(Wikipediaによれば、日本のテレビドラマや田中光二の小説にもこのアイデアが使われたことがあるそうだ)。

 陸秋槎(ルー・チウチャー)「杞憂」は歴史SF。天が落ち地が崩れることを死ぬほど恐れた杞憂の故事は有名だが、これは杞憂は正しく、それが決して取り越し苦労ではなかったという話である。春秋時代の中国、斉の国には木製のロボット兵たちがいたし、邯鄲の城塞は車がついていて城ごと疾駆するし、秦には風に乗って空を飛ぶ人間がおり、楚の国ではドリルで穴を掘って地下を進む兵器や、天に撃ち込んで天蓋を砕こうという巨大な弓矢も作られていたのだ。古代中国すごい! 各国を回ってそれを目の当たりにした杞の国の学者が、自分がいかに井の中の蛙だったかを知り、将来を悲観したという話。原註を見るに、これは古典の記述をちょっと曲げてSF風に解釈するとこうなるってことかしら。まあ同じような時代の古代ギリシアでもSF的に解釈できる発明や事件が色々とあったようだから、この時代って本当に面白い。19世紀にデジタルコンピューターがあるようなスチームパンクの世界観と紀元前にロボットや巨大兵器があるような世界観とはリアリティレベルとしては同等な気がする。

 陳楸帆(チェン・チウファン)「女神(ガデス)のG」は子宮と外性器が生まれつき欠落している女性、ミスGが、脳を刺激する実験的な手術を受け、表皮がグロテスクに変貌すると共に全身で強烈なオーガズムを得られるようになる。そしてそれをホログラフィックな方法で多数の観衆に発信することができるようになるのだ(このあたりの仕組みは正直よくわからないのだが)。確かにティプトリーの「接続された女」を思わせる話である。世界的な熱狂があり、狂騒的に事態が広がり、悲劇が起こるが結末はある種のハッピーエンドとなる。セックスとジェンダーがテーマの中心だが、エロティックではない(もうちょっとエロスがあっても良かったと思うのだが。中国では難しいのかしら)。実際の性行為を経験しないまま性の女神となった女性のとまどいと悩み、ゲームマスターとしての自負と誇り、自分を道具として使われることへの嫌悪。そんな個人の思いが人類の生殖能力の衰退という性的な危機と関わってSF的な広がりを見せる。最後にはそれがまた個人へと戻って行くのだ。

 王晋康(ワン・ジンカン)「水星播種」。金属でできた自己増殖可能な人工生物を水星に播種する。何千万年、何億年もかけてその進化を見守るという、子どもの頃に手塚治虫「火の鳥未来編」にはまったぼくとしては、大好きなテーマだ。ブリッシュ「表面張力」やフォワード『竜の卵』から最近ではチャイコフスキー『時の子供たち』までこういうSFは多く、異生物の生存への苦闘、知識の獲得と文明の発達、そして未来への希望あふれる眼差しと、ワクワクする魅力に溢れている。この作品もその現代版の1つといえるだろう。亡くなったおばさんが科学者で、水星環境で生きられる人工生命の設計図(テンプレート)を残していた。それを遺産として相続した主人公はおばさんの希望を実現しようとするが、多額の資金がかかる。だが謎の人物(後で超のつく大金持ちとわかる)が支援してくれることになった。彼には彼の思惑があったが、主人公はそのことも含めて支援を受け入れ、ついに水星に人工生命を播種する。それから何億年かが過ぎ、播種されて進化した水星人の科学者が物語の主人公となる(話は途中から並行して描かれる)。彼は自分たちを創造した神が北極で眠っているという聖書の教えを確認しに、聖職者たちと共に北極探検を試みる。そして……。途中までは科学技術こそ現代的だがいくぶん古風で懐かしい感じの雰囲気があったが、予定調和にならないこの展開にはちょっと驚いた。でもまあ、生命の長い歴史にはストレートにはいかないこともあるということだろう。最後には希望が描かれてホッとする。

 王侃瑜(レジーナ・カンユー・ワン)「消防士」は機械の体に人間の心の入ったアンドロイド消防士の語る哀しい物語。ある時、心療内科にファニーという名のアンドロイドの消防士が訪れ、悩みを聞いて欲しいと言う。彼女が人間だったころ、尊敬する勇敢な消防士の兄が森林火災で殉職した。ファニーは兄の思いをついで自分も消防士になろうとしたが女性には危険な重労働はできないとして事務処理しかさせてもらえない。しかし機械外骨格が開発され、彼女は熟練した操縦者となって火災現場で活躍するようになった。一方でAIロボットの消防士も開発されたが、AIではどうしても限界があり、アンドロイドの体に人間の意識をアップロードしてはどうかという話になる。そしてファニーは気がついた時アンドロイドの体になっていた。ある火災現場で重傷を負い、意識をアップロードするしか彼女を救う方法がなかったのだという。初めは怒っていた彼女だが、再び有能な消防士として働き始める。しかし政府の方針が変わり、人為的ではない自然の森林火災は原則として放置することとなった。このため彼女の出番は減り、生きがいがなくなったのだと言う。そして悲劇が起こる……。短い話だが、AIと意識、ジェンダー、仕事の意義、環境問題、そして生きることの意味など、多くのテーマを含んだ作品である。

 程婧波(チョン・ジンボー)「猫嫌いの小松さん」はチェンマイの外国人が集まる小さな別荘地での物語。そこに小松さんという日本人の老人が何十年も一人で住んでいる。別荘地の住人はみな仲が良いのだが、小松さんだけは偏屈で人嫌い。嫌われているというほどではないがあまりにも愛想がないので自然に遠ざけられている。小松さんはまた猫嫌いで有名で、そのため別荘地の人は猫を飼おうとしない。でも中国から来た主人公の一家はたまたま猫を飼ってしまい、その猫が好き勝手に別荘地をうろつき回ってついに小松さんの家にまで入り込んでしまう……。小松左京へのオマージュのはずだが、小松左京は有名な猫好き。ほのぼのとした日常的な話が続き、いつSFになるのだろうなと思っていたら、なるほどそうくるか。主人公も小松さんも実はSF好きだとわかる展開があり、小松さんも時々通っているサナトリウムの話が出てくる。そして小松さんの真実の姿が明らかとなるのだ。やはりほっこりとするいい話だった。

 梁清散(リァン・チンサン)「夜明け前の鳥」。傑作歴史SF「済南の大凧」の作者だが、「焼肉プラネット」というドタバタコメディ(これも傑作)も書いている。本作は清朝末期の政変(戊戌政変)をテーマにした地味な歴史SFで、こういう作風が作者の本来のものなのだろう。SFとしては牛の皮を動力にして動くドローンが出てくるくらいで、袁世凱や西太后、光緒帝といった実在の人物(主人公の譚嗣同(たんしどう)も実在する)が登場する架空歴史小説である。ぼくは袁世凱や西太后は知っているが、日清戦争後の清国でこのような事件があったことについては全然知識が無かったので、詳しい訳注があって助かった。お話としては改革派の譚嗣同のところに袁世凱がお忍びで光緒帝を連れて現れ、官憲に見つからないよう秘密裏に光緒帝を城内へ帰してほしいと頼む。時はまさに西太后が改革派へのクーデターを仕掛けようとしている最中だった。譚嗣同は知恵を絞ってその難題をやり遂げる(城内で見張りの宦官を避けるところなんか、昔のゲームでダンジョン内のモンスターの出現を予測しながら避けて通ったのを思いだした)。ところが……。その悲劇的な顛末は現実にあったもので、ネットで戊戌政変を検索すればわかる。知らなかったが、譚嗣同という人は実際にヒーロー然とした人だったのだな。

 万象峰年(ワンシエン・フォンニエン)「時の点灯人」は時間SF。しかし解説で林譲治さんが書いているがこんな風に時間を扱ったSFは初めて読んだ。ネタバレを恐れず書いてしまうと、これは「時間剥離」という現象が発生し、時間が物理量から剥がれてしまった――簡単に言えば時間が止まってしまった世界の物語。それを予見して開発された世界にたった1つしかない時間発生機「提灯」を持つ「提灯守」は、彼の周囲にだけ時間を発生させることができる。彼の妻を傷つけた囚人や、時間発生機の複製を作ることを依頼した科学者たちを彼が訪れるとき、暗闇の中を灯りが照らすようにそこだけ時間が流れる。彼が離れるとまた時間は停止する。そのようにして提灯守は少しずつ彼と少数の人々の時間を細切れに進めながらもう一つの時間発生機の完成を待つのだ。彼の「提灯」はいつまでもつかわからない。その灯が消える時、世界は停止して二度と時間は戻らなくなるだろう。静かに淡々と進む短い物語だが、とても奥深く強い印象が残る。

 譚楷(タン・カイ)「死神の口づけ」。作者はSF雑誌の編集者でこの作品は1980年代に書かれたSFだが、1979年に旧ソ連で実際に起こったバイオハザード、スヴェルドロフスク炭疽菌漏出事故を元にした作品である。この作品ではそれをさらに大規模にし、まさに新型コロナのパンデミックを先取りしたような小説となっている。炭疽菌の研究者、生物兵器製造工場の工場長、その父親で細菌兵器の責任者である将軍の三人が中心人物で、恐るべき炭疽菌の被害者となって悲劇的な死を遂げる女性たちはいずれも彼らの関係者であり、結婚を目前にした恋人、かつて愛した人、そして孫娘なのだ。そういう物語は確かにドラマチックではあるが、事件そのものの政治・社会的な問題を掘り下げる方がSFの批評性としてはより重要だったろう。将軍を型どおりの悪者にすることでその点が曖昧になっている。そのあたりには確かに物足りなさを感じるし、やや古めかしさを感じるところだ。とはいえ、実際の事件からさほどたたない間にこのような小説が中国で書かれたということには深い感慨を覚える。

 趙海虹(ジャオ・ハイホン)「一九二三年の物語」は孫文による革命前夜、1920年代の上海が舞台。とはいえ、歴史SFとは少し違う。一人の発明家と男装の革命少女、そして発明家の妻となる踊り子の物語である。はっとするような美しい描写が印象的なSFファンタジーだ。語り手は現代の女性。彼女は曾祖母の残した曾祖父の遺物を開けて、その時代の空気を嗅ぐ。曾祖父が発明したのは「水夢機」。水に記憶しシャボン玉の泡と蒸気の霧の中で再生する情景、声……。そこに広がる万華鏡を覗くようなつかの間のイメージ。彼女は当時を想像する。その時発明家は官憲に追われる男装の少女を実験室の中にかくまったのだ。この実験室の描写がすばらしい。いくつもの手がありそこに薬品の入った容器をつかむ黄銅色の巨人。その頭の中で混ざり合い鼻から噴出される蒸気。これが水夢機なのだ。少女をそこにかくまった発明家は今度は後に妻となる踊り子に会いに行く。彼女は彼が何か隠し事をしたことに気づき涙する。そんな情景を想像する現代の女性は革命少女に素敵なヒロイン像を投射してあこがれる。物語の半分はサイエンス・ファンタジーであり、もう半分は思いのままに物語を紡ぐ現代女性の姿を描く。そこには過去から続く歴代の女性たちの生き方があり、それゆえのジェンダー的な観点がある。作者によれば、矢野徹「折り紙宇宙船の伝説」にインスパイアされた作品だそうだ。

 昼温(ジョウ・ウェン)「人生を盗んだ少女」は言語SF。というか、それが日本でもよくある他人の脳内世界にダイブするサイコダイバーものへと発展したような趣がある。主人公は大学院で神経言語学を学ぶ優秀な女子大生、程碧(チョン・ビー)。金持ちのお嬢さんばかりが進む私立高校に学費無償で入学したばかりに孤立し友だちもおらずいつも一人でいることに慣れきっていた。そんな彼女にセンパイと親しく話しかけてくる新入生がいる。彼女の名は雯(ウェン)。貧乏な家庭で育ったが程碧と同様に頭が良く受験勉強を頑張ってここに入って来たのだ。違いは程碧にとても馴れ馴れしく自信家で、自分は同時通訳者になって金儲けをするという夢を抱いていること。程碧は同時通訳者には特別な才能が必要であり、成長してから英語を学んだ彼女には無理じゃないかと思うのだが、好意を寄せてくれる初めての友人といえる存在にいろいろと協力することになる。その切り札となるのがミラーニューロンの研究から生まれたある装置。それを使えば言語によらず相手の考えていることと同期して思考が理解ができるのだ。だがそれには恐ろしい副作用があった……。途中からホラーめいた展開になるが、雯の個性が強烈で、それに振り回される程碧の戸惑いが印象に残る。ぞっとするような深い哀しみをたたえた物語だが、結末にはかすかな希望がある。

 江波(ジアン・ボー)「宇宙の果ての本屋」は知識とその継承をテーマにした遠未来の宇宙叙事詩である。何十億冊もの本を所蔵した本屋(図書館ではない)。初めは火星軌道にあったが太陽が爆発しそうになり、15光年離れた第二地球の宇宙空間へと移動する。でも本屋に来る客は数百年に1人いるかどうか。人々は高速インプットで知識を得られるからだ。だが本屋の女主人である娥皇(オーホアン)は父の教えのもとに「星の光が消えるまで」この本屋を維持しようとする。何万年も何十万年も。第二地球を去り、宇宙船団となった本屋艦隊はさらに様々な星をめぐり、異星人の本も集めて大きくなっていく。好戦的な種族に対しても非武装で乗り切る。娥皇には楕円というロボットの相棒もできた。そしてあるとき、地球人類の末裔を名乗るアンドロイドが本屋を探しにやって来る。人類文明を救うために本屋の知識が必要なのだと。本屋は知識のインプットだけではなく自ら学ぶことが活力をもたらすことを教え、楕円に新たな経験をさせるため彼を送り出すが、自分はここに残るという。いつか復活した人類がふたたび訪れるまで。淡々と描かれるがどこかもの哀しいこういう話は大好きだ。


矢野アロウ『ホライズン・ゲート 事象の狩人』 早川書房

 第11回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作。人類が宇宙に発展した遠い未来の物語である。
 太古の超文明が人工的に作ったと思われる超巨大ブラックホール「ダーク・エイジ」。その質量は標準太陽質量の15兆倍というからとてつもない巨大さだ(ちなみに銀河の中心にある巨大ブラックホールは400万倍、これまでで最も巨大な遠い銀河の中心にあるブラックホールが数百億倍だという)。宇宙連邦はそこに探査基地「ホライズン・ゲート」を作って調査拠点とした。事象の地平線の手前まで調査船を潜らせて他の宇宙へとつながるだろう「門(ゲート)」を、地平線から放射されるだろう情報を探ろうというのだ。だがすでに何百年もたつというのに大きな進展はない。深く潜ると時空の歪みが大きくなり、また「ネズミ」と呼ばれる謎の存在が襲ってくるからだ。
 本書のヒロインはそのネズミを撃つ抜群の腕前をもつ狙撃手のシンイー。彼女は砂漠の狩猟民で、右脳と左脳を切り離し、その右脳に「祖神」を宿したヒルギス人だ。百発百中の腕前は、彼女の自意識が存する左脳ではなく右脳の祖神ゲーイーの為すところである。彼女のパートナーとなって地平線近くまで潜るのはパメラ人の少年、イオ。パメラ人は脳が前後に分離しており、空間方向よりも時間方向の知覚が優勢で、ある程度の未来予知が可能なのだ。
 この二人がペアを組んで探査に潜るのだが、出会った当初は二人とも子どもだった。だが今ではイオがまだ少年なのにシンイーはその母親くらいの年齢になっている。シンイーが高い位置からネズミを狙い撃ちするのに対し、イオは重力井戸の深くまで潜って情報を得ようとするため、重力勾配のきついブラックホール内の相対論的効果によりイオの数分がシンイーの数年に相当してしまうからだ。ネズミを撃つにしても銃弾が実時間で飛ぶのに対し、当たったかどうかがわかるのは彼女の時間で何ヶ月も先になる。このあたりの描写がとても面白く、ブラックホールの相補性の中における魅力的なラブロマンスとなっている。
 物語はこの二人にAIのミス・トードがからみ(彼女もまた有能で魅力的)、シンイーの生まれ故郷の惑星や連邦の中でパメラ人の置かれている環境など様々な要素が回想を含めて描かれていく。そして後半、何度目かの探査で新たな発見と危機が二人に襲いかかる。そこから結末に向けては世界(宇宙)と人間の意識に関するSF的なアイデアが語られ、ネズミの真の姿が明らかとなる。ここで現れるネズミの姿が意表を突いていて面白い。結末は(そのリアリティレベルはともかく)魔法のようで気が利いており読んでほっこりするものだった。
 物語は面白かったが少しまとまりのない感じがあった。上に書いたような設定はストレートには描かれず小出しにされる。また様々な科学的アイデアが断片的に語られているが中途半端で全体像にはあまり貢献していない。特に事象の地平線におけるホログラフィック原理(とは書いていないが)や意識に関するペンローズの微小管理論、それに分離脳の扱い方はややトンデモに近くて危ういように思えた(それがダメだというわけじゃないが)。
 本書で最も重要なのは巨大ブラックホールでの相対論的時間差によるヒロインと少年の切ないロマンであり、コードウェイナー・スミスの「鼠と竜のゲーム」のような宇宙の謎の脅威(ネズミ)を狩る猫(ヒロイン)のかっこよさだろう。ヒロインの回想シーンやその他の枝葉末節はもっと整理した方が読みやすかったのではなかろうか。


間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』 早川書房

 第11回ハヤカワSFコンテストの特別賞受賞作。大変話題になった作品だが、やっと読み終えた。読んだ人の話を聞いてあまり自分には合わないタイプの話かもと思っていたのだが、そうではなかった。これは確かに心をうつ物語だった。
 百年後の日本。生まれつき体が弱く、「融合手術」を受けていつまでも25歳のころのままで老化しない機械の体(だと思うが金属製というわけでもなさそう)をもつようになった女性が、長い時を経て自分とすでに誰もいなくなった家族のことをとりとめもなく語る。前半はそういうミニマルな物語であり、そこで描かれる家族像と日常、彼女の目から見た人間関係には惹きつけられるものの、SFである必然性はないんじゃないかと思えた。
 主に描かれるのは壊れていく家族と、歪な人間関係、しかしそれを正面から捉えることのできないどこか虚ろな主人公の思いである。彼女の生まれた時に母は死に、兄弟はそれゆえに彼女を憎む。食べるのが苦痛で食べた物もすぐ吐きだしてしまい学校へも行けなくなった彼女を支えたのは父親だけ。だがその父親の愛情にもどうやら性的なものが含まれていたようだ。しかし彼女の感情もはっきりしない。融合手術を受けて肉体的な性行為は不可能だが、認知症になった父親をしっかりと介護し、嫌っているようにも思えない。
 どうやら彼女は自分が人間ではないという思いに囚われているようで、対人関係にはすべて何らかのフィルターがかかっているようでもある。融合手術を受けて彼女は「ちゃんと人間じゃなくなれた」と喜ぶのだ。
 そんな彼女が最も親しくなるのは一番下の姉の息子、甥っ子のシンちゃんである。ごく小さい時から仲良くなり、大きくなってからもまるで恋人のような関係となって(もちろん肉体関係があるわけではない)、歳を取ってからは二人でいっしょに暮らすようになる。それはシンちゃんが年老いて死ぬまで続く。だがここでもシンちゃんと主人公の思いの強さには非対称なものがある。それはあくまで主人公の視点から描かれているせいかも知れない。一見穏やかで平和な生活に見える生活だがその奥からはぞっとするような不穏さが浮かび上がってくる。
 そしてみんないなくなり、主人公はやることもなく脱線だらけの家族史を書こうと思い立ったのだ。
 だが後半でモードが変わる。ひとりになり家族史を書き上げた主人公は自然災害で荒廃した日本を九州から東北まで旅し、人の住めなくなる地球を捨てて宇宙へ脱出しようとしている人々と出会う。彼らはきわめて論理的な思考を持つ新人類ともいえる人々だった。彼らは主人公にいっしょに行かないかと誘うのだが……。
 ここで主人公に欠けていたものの大きさが明らかとなる。人間の幸せとか生きる意味とか、そういった大きな物語を考えて宇宙にまで行こうとする人々との対比。主人公に対してもそうだがそれは読者へと突き刺さる問いかけでもあるのだ。
 本書は始めから終わりまで主人公のモノローグで語られるのだが、その中で主人公の名前が常にハイフンや空白となっていることが気になった。主人公にも名前はあるし、他者からはその名で呼ばれているのに、主人公はなぜそれを空白とするのだろうか。はっきりとはわからないが、おそらくそれは他者から見た自分という存在が主人公の中では空白であり、それを表す言葉がないからだろう。自我がないということではない。彼女はボーカロイドが好きで将棋が好きで、食べることや寝ることはあまり好きではない、そういう自分の好き嫌いはちゃんとある。だがそんな緩やかな好き嫌い、うれしい悲しい以外の感情はあるとしてもはっきりしない。父親に対しても恋人だというシンちゃんに対してもおっとりしているというか強い感情の初露はなく、何かが欠落しているのだ。自我じゃないとしたら他者との関係性における自分ということだろうか。
 「すみません、よくわかりませんでした」
 やはりこの主人公はポストヒューマンなのであり、それを徹底して描いた本書ははっきりとSFだと言えるのだ。(最後はポストヒューマンによる自分探しの旅? といっちゃうとダサいからやめよう)


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