内 輪   第408回

大野万紀


 9月1日は防災の日。
 8月8日に日向灘でマグニチュード7.1の地震が発生、宮崎で震度6弱の揺れ、そして津波も発生しました。場所が場所だけに心配しましたが、その後気象庁から「南海トラフ地震臨時情報」が発表されました。テレビでその記者会見の中継を見ていましたが、「今回の地震は南海トラフ地震が発生したということでいいんですね」と、びっくりするような発言を2度もする記者がいてショックでした。気象庁の会見に来ていながら南海トラフ地震をそんなに軽く考えている記者がいるとは。確かに今度の地震で上がった発生確率はコンマ以下かも知れないが、30年以内に起こる確率が70~80%といわれているのだ。人ごとじゃないんだよ。
 というわけで梅田の定例会では水鏡子の書庫の耐震構造も話題に上る。書庫はきちんと耐震設計してあるそうだが、移動書庫の通路に横になって本を読んだりしているとのことなので、大地震があったら棚は大丈夫でも大量に本が落ちてくるよ。
 ちなみに阪神淡路大震災のとき、わが家は建物は無事で大きな被害もなかったのですが、部屋の中はぐちゃぐちゃ、規模は小さいけれど移動書庫にしていた部屋も書庫が崩れてしばらく手のつけられない状態でした。それでもう本は溜めまいと誓ったはずなのに、それから30年。今では元の木阿弥。何とかしなくちゃね。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。今月は昨年12月に出た本3冊。
 なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします


中村融編『宇宙探査SF傑作選 星、はるか遠く』 創元SF文庫

 初訳2編を含み、中村融が選んだ宇宙SFの埋もれた秀作9編が収録された独自のアンソロジーである。昔読んだけどもう内容を忘れている作品も多いが、今でも印象深く思い出せる傑作も含まれている。とても優れたアンソロジーだ。

 フレッド・セイバーヘーゲン「故郷への長い道」は1961年の作品だが本邦初訳。冥王星を越えた太陽系の辺境で、夫婦二人きりの採鉱船が漂流している謎の巨大な物体を発見する。それは2千年前に難破した旧帝国の宇宙船(の一部)だった。だがそれはほんのわずかずつだが地球に向かって移動していたのだ……。書かれた時代のせいかディテールには古めかしいところがあり、短い作品なので説明されないまま残る疑問もあるが、絶望的な状況を生き延び、世代を超えて未来への希望を持ち続ける人々という物語には心を打たれるものがある。

 マリオン・ジマー・ブラッドリー「星の民(たみ)」は1959年の作品。昔SFマガジンに訳されたものだが、訳者を変えた新訳である。訳者(安野玲)いわく「これは竹宮恵子だ!」。星間航行中に子どもを産むことはできない。ハイパードライブで赤ん坊は生きられないからだ。だが補給のため無人惑星に滞在中、船医のヘレンは父親が誰とも分からない子を産んでしまった。ヘレンは子どもとその星に残ることを決断する。宇宙船は去って行き、彼女は一人でその子、ロビンを育てていく。だがロビンはこの星に誰かがいる、話しかけてくると言うのだ。母と子(男の子)の物語である。これも現代風に考えると腑に落ちないところがあるのだが、情感に溢れ、女と男、母と子の問題にしっかりと向き合った物語である。

 コリン・キャップ「タズー惑星の地下鉄」。1965年にジョン・カーネルのオリジナル・アンソロジーに掲載され、昔のSFマガジンに翻訳があるが、編者自身による新訳である。編者が大好きな作品だと言うだけあって大変面白い。〈異端技術部隊〉シリーズの一作。異端技術部隊(Unorthodox Engineers)というのは地球軍の一部隊だが、規律あるまともなエンジニアではなく自由で突飛な思いつきのまま突っ走る(でも腕は良い)変わり者エンジニアたちの部隊である。もちろん偉いさんからは嫌われているが、彼らを買ってくれる上役もいる。
 今回彼らが命じられたのは、大昔に知的種族が文明を発達させていたが今は滅び、過酷な環境で人の住めない星となった惑星タズーを調査している考古学者たちへの支援任務である。頑丈な地上車もすぐに腐食し、壊れてしまうという環境で、たった3ヶ月のうちに安全な移動手段を構築せよというのだ。発掘した遺跡には古代の機械装置らしき謎めいたものもあるが、異端技術部隊ならそこから何か役に立つものを作り上げるかもしれない。そしてある遺跡の地下にまるで地下鉄のように見えるものが発見された。彼らはそれを復活させようとするのだが……。
 色々アイデアを思いつき無茶振りする隊長のフリッツ中尉、その部下で愚痴をこぼしながら着実に作業を進めるジャッコたち。技術用語がいっぱい出てきてまるでプロジェクトXか、ハードSFかと思えるほどだが、一番印象に残るのは(ジャッコのツッコミを除けば)この惑星のとんでもない環境(まるでコードウェイナー・スミスの「嵐の惑星」みたい)と滅びた異星文明のかもし出す独特の雰囲気である。それがとても魅力的だ。技術的側面についてはそんなわけにはいかんだろうと思うので、そこはまあ昔のSFである。構造がはっきりわかる機械的な装置ならともかく、遥か太古に滅びた異星人の装置が復活できるとは。でもそこが昔のSFの楽しいところなのだ。

 デイヴィッド・I・マッスン「地獄の口」も(ファンジンを除き)本邦初訳。ファンジンというのは故・殊能将之さんのサイトのことだった。マッスンといえば「旅人の憩い」だが、この1966年に発表されたごく短い短編もまた、凝縮された緊迫感と不条理感に満ちている。
 地球上だと思われるが何処とも知れない寒帯の荒野に深さ数十キロ(最大の海溝なみ。あり得ない!)の広大な窪地が開いている。組織された探検隊が向かい、まずは3人が果てしなく続く深い崖を降りて行くが、厳しい環境と威圧的な光景に一人は発狂し一人は失踪し、キャンプへ戻ってきたのは一人だけだった。その五年後の再チャレンジでは特殊な航空機が使われたが再び事故が起こる。そして三十年後には……。
 この窪地は人間を誘い、その精神を支配するのかも知れない。確かに「そこに山があるから登るのだ」と言って危険な登山にチャレンジする人たちもいる。設定を除けば実験的なところはなく、ごくストレートにリアリズムに徹して描かれた探検調査の物語だが、余分な人間描写のない切り詰められた文章はこの荒涼とした窪地を、その人間精神に突き刺さる危険と不安をくっきりと描き出している。

 マーガレット・セント・クレア「鉄壁(てっぺき)の砦(とりで)」は新訳。1955年の作品だが、ニューウェーブを先取りしたかのような不条理SFだ。
 どことも知れぬ荒涼とした砂漠の砦に派遣されたベイリス少佐は、砦の守備兵たちが誰もかもやる気が無く怠惰に過ごしていると感じる。砦の壁に破損箇所があったので司令官に報告するが、司令官は何もせずそのままにしておくようにと答える。敵に備える前線の砦がそんなことでいいのか。ベイリスは憤るが、本部から視察に来た視察官もそれで問題なしとのことだった。思いあまって部下に命じ、破損箇所を一カ所修理させたのだが、司令官はそんなことをしてはいけない、現状維持が重要でその変更は攻撃の意図ありと敵に知らせることになるのだと叱責する。しかし敵とはいったいどこにいるのだろう。その数日後、ベイリスは補修したところの石材が見たこともない物質に変わっているのに気がつく。司令官はこれは反撃かも知れないと言う。高まる不安。そしてベイリスは思い切った行動に出るのだが……。
 編者はディーノ・ブッツアーティ「タタール人の砂漠」を引き合いに出している。この作品は確かにSFだが、本書のタイトルとは異なり、外宇宙ではなく内宇宙に深く関わるSFなのだ。

 ハリー・ハリスン「異性の十字架」は純朴だが知的好奇心の旺盛な異星人の住む惑星が舞台。彼らとの交易を目的にたった一人滞在している無神論者の交易商人、ガースが、この惑星にキリスト教の布教に来た熱心な宣教師の神父と対立する物語である。ガースは原罪という概念のない清らかで素朴な異星人にはそのままでいてほしく、キリスト教の罪や救済の概念で彼らを混乱させたくないのだ。だが神父は新たな観念に興味津々な彼らに聖書の教えを説き、キリスト復活の奇跡についても語る。
 同じ地球人ながら神父の話とガースの話があまりにも異なるので彼らは混乱し、真実はどちらなのかと悩む。神が存在する証拠を、奇跡を求め、彼らは小さな丘に十字架を立てる……。
 今読むとあまりにもストレートな話であって、これが62年に発表された当時はタブー・ブレーキングな物語であったというのが信じられないくらいだろう。いや、でも今のアメリカを見ていると、こういう小説が再びタブー・ブレーキングな物語と見なされる兆しがあるようで恐ろしい。

 ゴードン・R・ディクスン「ジャン・デュプレ」は傑作だ。1970年発表の新しめな作品なのだが、人によっては異星でアラモ砦や悲壮感のあるヒロイックな西部劇をやっているだけだと言うかも知れない。確かにストーリーや感動の質にはそれに近いところがある。でも最後まで読めばこれがそれだけの話ではなく、今に通じる様々なテーマを含んだ作品であることがわかるだろう。
 実はこの作品には特別な思い入れがある。75年にKSFAで『ヒューゴー賞完全リスト』というファンジンを作った。受賞作だけでなく候補作まで紹介したものだが、この作品はぼくの担当だった。原書で読んでとても心を動かされたことを覚えている。
 人類が植民した惑星ウトワードにはクラハリというヒューマノイドの先住民がいた。彼らは都市をつくり蒸気機関を動かすまでの文明を持っていたが、人類とは協定を結んで基本的には平和裏に共存していた。だが彼らは大人になる前にジャングルで生死を賭けた生存競争をおこなう風習があり、ジャングルに入植した人々と度々紛争を起こしていた。
 レインジャー部隊のおれ、レヴェンスンはジャングルのパトロール中に大きな銃を持ったジャン・デュプレという名の男の子と出会う。父親が出かけている間、母親を守るため歩哨をしているのだという。彼は地球を知らずここで生まれ育った。クラハリの若者のような歩き方をし、自分のアイデンティティが人間よりクラハリにあるかのようなことを言って頑固な父親に叱られる。レヴェンスはその数年後7歳になった彼に会うが、ずいぶんしっかりした少年になっていた。彼はクラハリと話ができるという。あいつら、ぼくが一人前の男か知りたがっているんだと。
 そしてついにクラハリの若者集団によるジャングルの入植地への大規模な襲撃が起こる。それはほとんど戦争そのものだ。だが都市のクラハリとの協定により、外部からの介入は許されていない。入植者は自衛するか避難するしかないのだ。ジャン・デュプレのいる入植地も大部隊に包囲され激しい攻撃を受ける。レヴェンスンはクラハリに見つからないよう避難所に隠れて状況を見守るしかない。人々が殺されていく中、ジャン・デュプレは勇敢に戦う。とうとう一人となった彼の前にクラハリの集団の代表が現れ、儀礼を尽くして彼に呼びかけるのだが……。
 冷徹で圧倒的な戦闘描写の中、異文化間の衝突と共感、家族とハラスメント、そして何より強い意思と勇気についての物語である。

 キース・ローマー「総花的解決」は70年の作品。下っ端だが実はすご腕のスーパー外交官、レティーフを主人公とするユーモラスなスペースオペラ、〈レティーフ・シリーズ》の一作である。上司がみんな無能で、いらないことばかりやって問題を大きくするが、レティーフがその知恵で見事に解決するというパターンのシリーズである。
 今回はある辺境の惑星を巡って、以前から人類に敵対的なグローク人と、トラブルメーカーなスロックス人がそれぞれ小艦隊を派遣し、一触即発の状態にある。そこへ地球(テラ)の外交官を派遣して戦争勃発を防ぎ、かつ両者の緊張状態を維持するという政策が取られる(このあたりには熱い戦争は避けたいがぎりぎりの緊張を維持することが大国の利益になるという冷戦期の雰囲気がある)。大変危険な任務なので派遣するのは1人だけ。だが選ばれたのは気位ばかり高いがどうしようもなく無能で宇宙船の操縦もできない男だったので、部下のレティーフが同行することになったのだ。さっそく無能な上司は異星人たちを怒らせ、二人は両方の艦隊に包囲されて、惑星への不時着を余儀なくされる。そこは異星の花が咲く無人の草原だった。怒りの治まらぬ異星人たちは二人を捕まえようと艦隊を引き連れそこへやってくるのだが……。
 本作は酒井昭伸さんによる新訳で、訳者らしいノリノリの訳文が楽しい。正直を言うとぼくは昔からローマーのノリとは肌が合わず、言えばツッコミが足りないと感じていたのだが、本作はその辺の物足りなさは残るものの面白く読めた。何より花が平和をもたらす(いやそれ以上だが)というのが楽しい。原題がpeacemakers(対立や紛争の解決を支援する調停者、仲裁人)ではなくpiecemakers(壊れた物の修理に熟練した人)となっているのは読めばその通りだとわかる。

 ジェイムズ・ブリッシュ「表面張力」。以前から言っているようにこれはポストヒューマンSFの古典であり、大傑作である。とはいえ、1957年の作品(第一部が書かれたのは1942年。後に長編の一部となった)であり、今読むといくつか留保すべき点もある。
 まず当時からブリッシュは「ハードSF」作家と言われていて、この作品でも遺伝子工学の先駆的な扱いやタイトルに見られる流体の性質など確かに「ハードSF」的で、時代を考えればすごいと言えるが、あくまでSFであって科学的にどうこういえるものではない。少なくともこのサイズ感(人間がそのままプランクトンサイズになって異星の水たまりの水中で生き残る)はちょっとリアリティに乏しい(今ではウィルス化して宿主に寄生するとか無数の断片に分かれて分散処理するとか色々と変種が書かれているけれど)。せめて大きな魚か両生類のサイズならまだ説得力があるだろう。そして異星の生物がワムシやゾウリムシそのもので、中高生のころプランクトン採取に走りまわっていたぼくとしては微笑ましくなってしまう。おまけに知性があって話ができるんだからある意味とても素晴らしい。そして人間たち。現代のポストヒューマンSFではもはや人間の姿や人間的思考もあまり重要とは見なされないことが多いが、本作ではこのサイズになってもまるっきり人間そのものなのである。人間の意識を持ち、人間として活動する。発明をし道具を使い、自分たちの歴史や世界や星について思いを巡らす。その脳細胞はいったいどうなっているのだろう。
 背景には当時のSFの多くが信奉していた進歩主義的な世界観がある。人類は紆余曲折はあっても進歩していき、どんな苦境になっても負けず、科学技術を進め、世界を理解し、自然環境を支配して広がっていく。それは50年代、60年代の多くのSFにとって(もちろんそうじゃないSFもあったが)支配的だった。21世紀の今はそんなことを言うと何を脳天気なと言われるだろうが、ぼくにもまだそんな気分は多少とも残っている。
 物語に話を戻そう。タウ・ケチの惑星に不時着した宇宙船の乗組員たちは、その小さな大陸に無数にある淡水の水たまりで生きられるよう、微生物に遺伝子改造した人類を作り出し、播種した。やがて彼らは数を増し、原生の微生物たちとも共存、あるいは戦って生息域を広げていく。彼らには過去の人類の知識を記録した2枚の金属板が託されていたが、それは彼らがそれを解読し理解出来るようになるまでは謎のままとなっていた。彼らには代々それを研究し、あるいは自分たちで道具や武器を作り出す知性面のリーダーと、種族をまとめ統率し、彼らを食べようとする肉食系プランクトンと戦う行動面のリーダーがいて、協力して人々を指導していた。ある戦いの中で金属板の1枚は失われる。それでも何世代か後の彼らは、新たな新天地を求め、水たまりの外へ出ようとするのだ。水中を進む船を造り、表面張力を越えて水たまりの外へ。そこで彼らは伝説の空を、星を見る。そして……。
 物語は生き生きと描かれ、力強く、感動的である。今はまだ文明からはほど遠い彼らだが、その知的好奇心、何ごとにも挫けず未知を切り開いて進もうとする努力、やがてその先に来たるべき姿が想像できるというものだ。


森岡浩之『プライベートな星間戦争』 星海社

 遠い未来、遠い宇宙におけるポストヒューマンたちの戦いを描いた本格スペースオペラである。大変面白く、読み応えがあった。
 第一部、第二部、エピローグとあるが、第一部と第二部は主人公も世界も歴史的背景もまったく異なり、読後感も大きく違う。それが第二部の途中から融合し、エピローグでほのぼのとした楽しい気分で読み終われるという構成だ。
 イラスト付きで、冒頭に用語集があるが、文字色が背景に近いのでぼくの目にはほとんど読めない。まあわからない用語が飛び交う作品には慣れているので大きな問題はなかった。
 第一部「憎悪の天使」はいきなり宇宙空間から始まり、さっそく独特の用語があふれ出す。主人公は〈天使候補生〉エスク。エスクは天使集団「神の楯(たて)」に属する天使候補生で、惑星〈大地〉に次第に接近してくる〈悪魔〉との決戦に備え、仲間の天使候補生たちと共に模擬戦を行っている。彼は合格し、天使エスケルとなった。小惑星をくり抜いてできた〈天使城〉に戻り、家族の歓迎を受ける。姉たち、プラタネル、ヤニセル、セレネル。母ユリエル。みんな天使である。家族とはいえ天使たちは人工子宮で生まれるので本当の家族ではない。結束の高いひとつの戦闘ユニットとして存在しているのだ。
 天使たちの存在目的はただ一つ。悪魔と戦うこと。憎悪をかき立てて神の敵である悪魔を叩き潰し、大地を守ることだ。
 エスクには花を育てるという趣味があった。いつか大地に降りたってマリーゴールドの花を咲かせたいと思っている。母や姉たちへの愛情も、仲間たちへの友情もある。だが悪魔はそんな天使たちの体を乗っ取って襲ってくることもあるという。悪魔に汚染された疑いがあればユニットごと廃棄され殲滅されるのだ。それでも神の意志を最優先し、躊躇なく敵として憎悪を向けなくてはならない。エスクにはまだそこまでの覚悟ができているのか、自分でもわからなかった。だがすぐにそれを試される時が来る。
 この天使たちも人類の子孫であることは間違いなく、人間の姿をして人間のような思考をしているが、明らかに人間ではない。ポストヒューマンである。そんな天使の仕える神とは何なのか。また悪魔とは何なのか。宇宙での激しい戦闘と彼らの日常が描かれるが、そういう本質的な疑問は謎のままである。やがて本物の悪魔の本拠である巨大な〈魔ノ巣〉が到達し、エスクたちは壊滅的な戦闘に突入していく。
 第二部「孤独な半神」はがらりと変わり、主人公は平成の日本で生まれたススムという男性。彼は生身のころはぱっとしない生活を送っていたが、意識と人格のアップロードが可能になってそれに飛びついた。アップロードした先は巨大な量子コンピューターの作り出す仮想世界「AP」。
 多くの人々が人格アップロードをするようになり、APはどんどん発展していく。初め地球にあった量子コンピューター・マアナ(ハードウェアがマアナで、それを設計したソフトウェアはスカアル)は自己修復・自己増殖を繰返し、2号機は水星へ、3号機は月へ、そして4号機以後は宇宙空間に建設された。さらにその分岐した子孫は恒星間へと旅立っていく。物語の現在、ススムがいるのは水星の2号機から分岐し、恒星インティ軌道上にあるAPだ。スカアルとマアナ、それに自由意志をもつアップロードされた人格〈ソウル〉の集合体は全体として群体性情報生命〈半神〉と見なされるようになる。
 ススムはソウルの一人だが、APの中には他にコンピューターによって作られた多数の仮想人格がおり、その中にはソウルと特定の関係を結ぶ〈アクセ〉(ススムの〈姉〉もそうだ)や、システムとソウルの仲立ちをする〈リエゾン〉というインタフェースもある(ススムの場合は言葉を話す猫の姿をしている)。
 APの中では世界を自分の好きなように設定できる。これは現実のシステムとインタフェースを持ちながらも仮想世界の中で無限に生きることのできるポストヒューマンの世界だ。体感時間も自由に変更できるので、何百年たっても自分がホモ・サピエンスだったころの記憶や感情は残っている。そのせいか、ススムたちはほぼ生身だったころの思考形態を保っていて、そこには何百年も生きているポストヒューマンらしさはあまり感じられない。だが能力としてはまさに半神の力を持っているのである。
 そんなススムの日常の中、他のAPから移住者がやってくることになる(宇宙船ではなくレーザービームに乗って)。その歓迎式に姉と共に臨むススムだが、そこで恐ろしいことが起こる……。
 移住者と思われたのはススムのいるAPを乗っ取り破壊しようとするマルウェアだった。ススム一人はリエゾンの助けよってかろうじて逃れることができ、分岐用に作られた無人のマアナに転送された。このマアナでススムはたった一人の半神となったのだ。そしてススムの決断は……。
 ここに来て第二部は第一部とつながる。なるほどそう来るか、というところだ。いくつもの疑問が別の観点から見直され、この世界の全体の構造が明らかとなる。これは見事だ。
 そしてエピローグ「マムタの緑の丘」。第二部からまた気の遠くなるような時間が過ぎ去ったはずだが、緑溢れる惑星マムタの丘の上で登場人物たちが集まり、より高い次元での回想が語られる。ここでもいくつかの謎が解かれて真相が深まる。そしてみんなでバスケットを広げ、サンドイッチを食べるのだ。「蝸牛枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し」と。


新馬場新『十五光年より遠くない』 ガガガ文庫

 タイトルから宇宙ものかと思ったが、現代の日本を舞台にしたパニックSFだった。とても面白かった。
 主人公は元航空自衛隊のすご腕パイロット、星板陸(ほしいた・りく)。若くとても優秀な戦闘機乗りだったが、日本に飛来した某国の気球を撃墜命令を受けて排除したことがなぜか問題になり、自衛隊を追われて今は予備自衛官の身分で新たな就職先を探している。彼の子どものころからの夢は宇宙飛行士になること。高校を出て航空学生となり自衛隊員となったのも、宇宙へ行くためだった。
 2025年の夏、その彼が渋谷のハローワークへ向かう途中に出会ったのは、彼の中学時代の初恋の相手、浅野水星(あさの・マーキュリー)だった。二人のぎごちない恋愛は高校三年までつづいたが、陸は自衛隊の航空学校へ、水星は大学へ進むことになって自然と別れることになった。その浅野がここにいる。妊娠していて病院へ向かうところだった。彼女の隣にはお団子頭の高校生くらいの少女がいる。水星の妹、浅野金星だった。水星によると金星も将来宇宙飛行士を目指しているという。しかし金星はやたらと陸につっかかる。出産に危険があり管理入院しないといけないのに水星の夫である孔明(こうめい)が遅れているので苛立っているのだ。それだけではなく、どうやら金星はもともとこういう性格であるらしい。非常に頭が良く行動的だが自分本位で人との協調性に乏しく、反抗的で人を怒らせるようなことばかり言う。何だか自分に似ていると陸は思う。
 先を急ぐ彼女らと別れた陸は、今は人妻となった水星への遅れてきた後悔に心を悩ます。その時世界が暗くなった。大規模停電の発生。信号機も消えた。通信も途絶し、スマホもつながらなくなる。そして空には赤いオーロラが。巨大な太陽フレアの発生で地球が過去に経験のないほどの太陽風に覆われたのだ。もちろん太陽の異変は観測され巨大フレアの発生も事前に予測されていた。だが各国政府は警告に耳を貸さなかったのだ。当然日本政府も。
 赤いオーロラの夜が訪れ、渋谷はパニック状態だった。陸はさっきの場所に戻り応急に担架を作って金星とともに水星を病院へ運ぶ。だが金星は思わぬことを言う。危機はこれだけではない。東京に星が落ちてくるというのだ。太陽コロナの影響で制御を失ったアメリカの巨大軍事衛星が大気圏で分解することなく東京を直撃するのだと……。
 通信途絶の状況で今動けるのは陸と金星だけ。二人は大混乱の中を、水星とその赤ん坊を、名も知らない東京の人々を救うために動き始める。とりあえずの目的地は横須賀基地の自衛隊病院。そこで水星の子どもを救うための血液製剤を入手すること。物語の中盤は二人のロードノベルとなる。こんな状況でも他人に頼ろうとしない金星の無茶で高飛車な性格は変わらず陸は翻弄される。だがその金星も、彼らを助けてくれた軽トラックの運転手や老朽船の船長の言葉に、次第に心を開いていく。それまで効率を重視して無関係な他人を切り捨てるような態度だった金星が、赤の他人の人生も自分と無関係なわけではないと気づき、そしてそんな自分を嫌悪するところは心に響く。
 翌朝、ヘトヘトになった二人は陸の祖父の家へ寄り、じいちゃんと再会してひと息つく。そして横須賀基地へ。このとき水星の夫である孔明、政府要人の息子である彼が動いたことで、この異常事態にもずっと静観を決め込んでいた日本政府がすこしずつ態度を変えてきていた。そして基地に着いた二人は自衛隊の対策本部に招かれ、あと数時間に迫った人工衛星の東京落下にどう対処するかという難問に挑むことになる。金星は高校生ながら以前から海外の仲間とこの問題を追いかけてきた専門家として。そして陸は――。そう、今度は陸の活躍する番だ。映画「アルマゲドン」が大好きな陸の、命がけの戦いが始まる……。
 様々な人間関係が交差するが、主人公二人、彼らを取り巻く人々、そしてモブとして描かれる多くの人々、それが地震でも津波でも台風でもない未知の災害にあってどうするのか、確かにこういうことはあり得るだろうと思わせる。二人がSF小説やSF映画の大ファンという設定で様々な小ネタが出てくるが、それがイヤミになることはなくうまく物語に溶け込んでいる。ラノベのレーベルから出ているが、普段ラノベをあまり読まない読者(例えばぼくのような)にも手に取ってほしい、読み応えのある作品だった。


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