内 輪 第407回
大野万紀
パリオリンピック開幕。もはやオリンピックにほとんど興味がなくなり、見たい番組がみんなオリンピックに侵蝕されているのでうんざりです。暑い夏がますます暑くなる。
朝早くにマンションの火災報知器が鳴ってびっくり。近所の人たちもみんな出てきてあーだこーだと言っていたけど、どこにも火事の様子はありません。どうやら誤動作だろうということになって後日調査となりました。その後調査結果が出て、火災報知器のカバーが長い間に雨で腐食し、内部に侵入した雨水によって回路がショートしたとのこと。まあ築何十年だからそういうこともあるでしょう。
7月の梅田例会で、水鏡子がSFじゃないけどこれが面白かったと見せてくれたのが、馬伯庸『両京十五日』。出た時からずいぶん評判が高かったので気にはなっていたけど、お値段がお値段だけに買うのを躊躇していました。でも水鏡子が太鼓判を押すのなら買わないわけには行かない。こと冒険小説に関しては水鏡子の言葉は信用しています。購入してSNSにそのことをアップしたら、「これは本当に面白いよ」との声が多数。
で、その例会で水鏡子が確か50年代SF、60年代SFについての話の流れだったと思うけど、アーサー・C・クラークについて、クラークは『銀河帝国の崩壊』が一番面白い(傑作かどうかはともかく)との持論を展開。『都市と星』より『銀河帝国の崩壊』がずっと面白いというのは水鏡子の昔からの持論であって、それ自体は好みの問題だからいいのですが、そのいわば中二病的な幼稚さがクラークの本質だといわれると、はて?となります。
水鏡子によればクラークはステープルドン的な物語を志向していて、書こうとしていたがその域に至らず、『銀河帝国の崩壊』や『幼年期の終わり』がせいいっぱいだったということになります。ちなみに水鏡子はクラークの近未来ハードSF的な作品に関してはあまり評価していないようです。
クラークがステープルドンを尊敬していたのは事実で、そんな物語を指向していたというのも、少なくとも多くの遠未来SFについては事実でしょう。またクラークは昔からオカルトに興味があり、それが表現された作品も数多くあります。しかしそれをもってクラークの本質だとは思いません。クラークが優れたSF作家として世界中で評価されているのは、そういう遠い未来への視点を持ちながらもあくまでもリアルな科学技術を中心に描いているところに本質があると思うからです。
水鏡子にはきちんと文章にして書いて欲しいなあ。感覚だけじゃなくみんなにわかるようにね。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします。
昨年11月に出た大部の長編。やっと読了。内容的に読みにくかったわけではなく、面白くてとても読み応えがあったのだが、作者独特の漢字のルビが老眼には読みにくく、ルビも含めての造語なので頭に入りにくかったことが読むのに時間のかかった一番の原因だ。
アンソロジー『NOVA+ バベル』に掲載された中編の長編化である。舞台設定や登場する異星人(ポストヒューマン?)は異様だが、ひと言で言えば、災害から難民として逃れてきた一族が差別されながらも移住先で受け入れられ、親は加工業の職人となり、子どもは音楽家となって、その技能をもとに新たな災害に立ち向かうという、家族小説であり職人小説である。ただその家族や職能が普通でなく、何よりも世界が普通でないのだ。
作者が酉島伝法だから、読者はどんなに異様な世界や人々の生活が描かれていようとも、ファンタジーや幻想小説としてではなくSFとして読もうとするだろう。実際、はっきりと説明されてはいなくても、SFを読み慣れている読者にはここがどんな世界か想像がつくはずだ。ここは球の内部(実際には円柱に近いものかも知れない)にある世界(球地:たまつち)で、遠心力により地上には殻向きの力、裁定(さいてい)力が働いている。人々(落人:おちうど)はそこにいくつもの聚落(じゅらく)を作って暮らしている。球の中央には無重力の鞠森(まりもり)が浮かび、そこにも人が住んでいて貴重な薬を作っている。大地と鞠森の間は隕星(いんせい)が引く架籠(かご)で行き来できるのだ。
だが最も異様なのは太陽や月、星々といった天体である。それらは生物であり、空ではなく地上にいて、毎日この世界の黄道(こうどう)と呼ばれるルートを足で歩き続けているのだ。太陽は1つではなく、聚落ごとにいくつもあり、海から生まれる。そして聖人となった聚落の人間が太陽と一体化してその足となり、黄道を一周して歩き続けることになるのだ。月や星ははぐれもので、危険な存在だ。特に月は太陽の後ろを追いかけていき、太陽の力が衰えると追いついて吸収してしまう。それが蝕(しょく)と呼ばれる現象で、その地は太陽を失い、暗黒となって寒冷化してしまう。聚落にとっては大災害だ。次の太陽が生まれればいいが、そのようにして滅びた聚落もある。
第一部「解き手のジラァンゼ」の主人公、ジラァンゼの一族は、そのようにして滅びた霜(そう)という聚落から難民となって叙(じょ)という聚落にやってきた。彼らは不吉なよそ者として陰湿な差別を受けているが、ジラァンゼの父(といっても落人に性別はなく、単性生殖で子どもを産み、子どもはあっという間に大きくなる)リナニツェが突然腹に聖紋が現れて聖人となり、叙の太陽の足身聖(そくしんひじり)となったことからそれなりに尊敬を受けることになる(とはいえ差別の視線は相変わらず残っている)。
その聖人式(しょうにんしき)から始まる第一部は、ジラァンゼが煩悩蟹(ぼんのうがに)の解き手として工房で働き、次第に熟練していくさまを描く物語である。煩悩蟹というのは巨大なただの海産物ではなく、落人の煩悩を蓄えた存在であり、その解体は大変な危険を伴うものだ。ジラァンゼは初めおっかなびっくりだが、先輩たちのやり方を見つつ、やがて工房で押しも押されもせぬ存在となっていく。
落人たちには裁定主様という創造主に対する宗教的な感情があり、生きていく中で味わう様々な苦痛を苦徳(くどく)として尊重している。だがジラァンゼの先胞(さきがら)、人間でいえば兄にあたるヨドンツァはそんな一般的な信仰に懐疑的で、普通の人の目には見えない墜務者(おちむしゃ)の話を聞くことができ、球地の歴史についても違った認識を持っている。この世界の異端者であり、いわば科学者的存在であるヨドンツァは本書の中で独特な地位を占め、とりわけ魅力的な存在だ。世間一般の風潮に反しながらも家族には親切で、今は鞠森に住み皆のためによく効く薬を調合してくれる。そんな薬も苦痛を尊ぶべきとする信仰心の厚い連中からは使うべきでない忌まわしいものとされているのだが。
ジラァンゼに子どもが産まれる。最初の子、トバイノは見る見る大きく賢くなって、ジラァンゼと同じく煩悩蟹の解き手として働くようになる。さらにその後第二子、ヌフレツンが生まれたが、この子はまた違う個性を持っていた。トバイノ同様に煩悩蟹の解き手となることを期待されていたが、本人は音楽に興味があり、奏で手となることを夢見ていたのだ。奏で手というのは太陽に力を与えたり、聖人式の儀式で重要な音楽を奏でる演奏者である。トバイノはヌフレツンに賛成するが、ジラァンゼは反対し、親と同じ仕事に就くよう強要する。ヌフレツンが半ば諦めかけていたとき、ジラァンゼの体に変化が起こる。さらにトバイノにまで……。
第二部「奏で手のヌフレツン」の主人公はこのヌフレツンである。自らの意に反し煩悩蟹の解き手の見習いとして働いていたヌフレツンだが、ジラァンゼに異変が起こったとき、親代わりとなったトバイノによって奏で手への道を歩むことができるようになっていた。だがその重要な儀式において、取り返しの付かない失敗をしてしまう。そのためいったんは奏で手から離れて煩悩蟹の解き手をしていたのだが、今度はジラァンゼが足身聖となっている叙の太陽にも異変が発生した。このままでは叙の聚落も滅びかねない。ヌフレツンに決断の時が迫る。そして多くの人々の反発と協力を得ながら、ヌフレツンはかつての霜の聚落の跡に埋もれているという、虹と呼ばれる禁断の楽譜を入手しようと、冒険の旅に出るのだった。
様々な危機を乗り越え、クライマックスに流れる旋律と大合奏、そして人々の思いが結実するラストがとてもいい。現れる結末はこれまでの世界の常識とは異なるものとなる。落人たちの暮らしも変わっていくことになるのだろう。
最後に「起」という短い章がある。本書と同様な言葉で描かれているが、ここには本書の未来があり、よりSF的な世界、遙かな時空へと接続する道筋が描かれている。まさしくセンス・オブ・ワンダーがここにあるのだ。
昨年10月の刊行。定時制高校に通う様々な背景を持つ高校生たちが、熱心な教師の働きによって科学部を設立し、火星重力下でのクレーターの衝突生成実験で大きな成果を上げるという物語である。帯に「定時制高校を舞台にした今年一番熱い青春科学小説」とある通り、あくまでもリアルな物語であってSF的な要素はない。でもぼくが大好きな理科小説・科学小説であり、間違いなく傑作だといえる。ちなみにSFもこの物語の中では重要な要素の一つとなっているのだ。そして何と今年の高等学校読書感想文の課題図書に選ばれた作品でもある。現役の高校生たちがどのように読むのか、ちょっと気になる。
第一章から第七章までおよそ時系列に物語が進む。新宿の定時制高校に通う生徒たち、自分や家庭に問題を抱えているが個性あふれた生徒たちが、一人一人、理科と数学の新しい担任教師である藤竹のもとに集まって来る姿が描かれる。
21歳の柳田岳人。ボサボサの金髪に耳にはピアス。廃棄物回収の会社に勤めている彼は、方程式の解は難なく求めることができるのに小学生でもわかる文章題が解けない。文章を読むのが苦手で、教科書など読もうとすると吐き気がしてくるのだ。彼が文章を読めないのはディスレクシアという学習障害のせいだった。藤竹は問題ない、それは取り戻せると言い、教室に来て自分の授業に参加するよう勧める。そこで空がなぜ青いのかを実験して見せるというのだ。スポットライトにタバコの煙を使い、藤竹はレイリー散乱とミー散乱の実験をする。夜八時の教室に、確かに青空と白い雲が見えた。藤竹は岳人にぼくはこの学校に科学部を作ろうとしているんですと話す。いっしょに部活をしませんか、火星の夕焼けは青いんですよ、と。
越川アンジェラはささやかなフィリピン料理店を夫と経営している女性。日本に来てからずっと苦しい生活が続き中学へもほとんど行けなかった。娘の手が離れたことでまた勉強がしたいと思いこの定時制に来たが、小学校も満足に行っていないので高校の勉強にはついていけず、このままでは挫折しかねない。そんなアンジェラを藤竹は物理準備室に呼ぶ。そこには科学部の常連となった岳人がいて、そこらの食品を使って地震の実験をしようとしていた。アンジェラも興味をもってそれを見る。次に岳人はペットボトルで火山噴火の実験をしようとするが失敗。アンジェラはそのレシピを見て、米酢とすし酢の違いがあることを見つける。すし酢を使ったところ実験は成功。食品についてはアンジェラはプロなのだ。
教室で過呼吸を起こし、ほとんど保健室登校して過ごしている名取佳純。自律神経の異常から中学校で不登校になり、定時制に来たのだ。彼女は一人でSFを読むのが好きで、保健室のノートに『火星の人』や『星を継ぐもの』をもとにした日記を書いている。藤竹はそんな彼女に『火星の人』に興味があるなら、放課後物理準備室へ来ませんかと伝える。そこには金髪ピアスの男子と母親くらいの歳のおばさん、そして藤竹先生がいた。今日からは火星の夕焼けを再現する実験をするという。ペットボトルに酸化鉄の粉を入れ光を当てる。火星の夕焼けは青いというが、なかなかそうは見えない。
佳純は藤竹から火星探査機オポチュニティの撮影した写真を見せてもらい、その話を聞いて魅了される。約三ヶ月の運用期間だったはずの探査機が何と十四年間の火星の旅を続け、たった一人で写真を撮影し調査を行ったのだ。砂嵐でついに通信が途絶し、ミッションを終了した時にはNASAの人々はみな涙したという。その子が撮った写真の一枚には振り返った自分の背後、火星の荒野に延々と伸びる二本の轍が写っている。佳純は自分の腕に残ったリスカの跡を思い浮かべる。オポチュニティにとって轍を見ることは過去を思い出すだけでなく、もう少し前に進んでみようと思わせたに違いない。それが想定寿命の50倍を超えて生き続けた理由なのかも。佳純はそう思い科学部に加わる。
定時制の生徒には70歳の老人もいる。長嶺省造は中学を卒業して集団就職で東京に出てきた。様々な職種を経験したが、やがて独立して町工場の経営者となる。子どもたちも手が離れ工場を畳んで、これから悠々自適に過ごそうとした時、妻が重い病気にかかって入院する。本当は妻が行きたかった定時制高校に代わりに入学し、勉強したことを病室の妻に話すのが彼の日課だ。そんな省造を物理準備室へ呼んだ藤竹は、砂に鉄球をぶつけてクレーターを作る実験をしようとしているのだが、その発射装置が作れないかと、物造りのプロである省造に相談する。だが忙しいからとそれを断る省造。
年寄りで頑固で口うるさい省造は教室ではどうしても浮いており、そこには世代間の確執もある。それがついに爆発したとき、省造は生徒たちの前で自分の妻の人生を語り、教室の雰囲気は平穏を取り戻す。再び科学部に誘われた省造は藤竹に「食えんな、あんたは」と言って、発射機の図面に目を通す。
全日制に通う二年生の丹羽要はパソコンオタクでクラスに友だちはおらず、授業が終わると学校のコンピュータ室へパソコンをさわりに行く。彼は情報オリンピックの本戦に進んだくらいプログラムには詳しく、今年こそはと入賞を目指して毎日取り組んでいるのだ。だがそこに定時制の教師の藤竹だと名乗る見知らぬ男が現れ、この部屋を定時制科学部の実験に使わせてほしいという。科学部は学会で火星のクレーターを作る実験結果を発表しようとしており、高さを確保できるこの部屋を使いたいのだ。そんなことをされたらプログラムに集中できないと要は猛反対する。
そんな要に岳人が必死に頼みこみ自分たちの実験装置を見せる。それは高い天井から滑車をぶら下げそこに箱をつけた装置だった。これを落下させて火星の重力を実現し、その瞬間に箱の中でクレーターを作るというものだ。それを見て要の心も動く。彼はコンピュータ室に実験装置を作ることに同意するのだった。
今度は藤竹自身のことが語られる。これまで科学部の実験に色々と問題を抱えた生徒たちがまるで七人の侍のように集まってくるところが描かれてきた。それはもちろん心を動かす感動的な物語だが、いくぶん予定調和的なところもあり、岳人や佳純を除けば、彼らがどうして科学部に興味をもって部活をするようになったのかも曖昧なままだった。おそらくそれは藤竹というスーパー教師の個性に惚れ込んだからだと想像されるのだが、ここにきてその理由が藤竹の内面に入って暴かれる。彼の暗黒面(というと大げさだが)が露わになるのだ。定時制高校に科学部を作り生徒を引き込むこと。これは彼にとって「実験」だったのだ。これまでの藤竹の行動が生徒達を実験対象として見る冷徹な意思に基づくものだったことが明らかとなり、ある意味裏切られた感じがするだろう。
生徒たちは実験に興味を持ち、チームワークも生まれているが、彼らの本質は変わっておらず、そのチームワークにも危ういものがある。岳人のところにかつての不良仲間がやってきて完成しかけていた実験を台無しにするという事件があり、岳人が激高してそれまでの科学部の人間関係も壊れてぎくしゃくするようになる。藤竹の「実験」も失敗するかと思われたが、彼は部員にありのままを告白する。生徒たちは黙り込み、佳純はそんなのは実験とはいえないと批判する。そして岳人は「あんたの実験はどうでもいい。俺はただ俺たちの実験を続けたい。それだけだ」というのだ。そして再びクレーター実験は前に進み始める。
最終章ではいよいよ幕張で日本地球惑星科学連合大会の発表会が開かれる。もちろん予想は裏切られず、岳人や佳純らの緊張とわくわく感、そしてクライマックスが見事に描かれるのだが、これは決して予定調和というものではない。定時制高校の発表だからと下駄をはかされることもなく、純粋に研究内容が評価されたのだから当然なのである。生徒たちにとってはこれが終わりではない。彼らの前には新たな扉が開かれようとしている。藤竹は相変わらずのくせ者だが、省造じいさんがじいさんらしい持ち味を出していてその魅力の光る章でもある。
著者は神戸大理学部卒で東大の院で惑星科学を専攻。この話は実際にあった大阪の定時制高校の発表がベースとなったフィクションである。本書で描かれる火星の重力を地球で再現する装置もその生徒達が開発したものがもとになっているのだ。金がなくても時間がなくても、高校生でも大きな成果が上げられる。そのことに心からの拍手を送りたい。
昨年11月に出た劉慈欣の初期長編(2004年)で、それをアブリッジした短編版は『老神介護』にも収録されている。作者が蟻や恐竜が大好きなことは本書の訳者あとがきにも書かれているが、それでここまでの話を作り上げてしまうところはさすがだ。初期作品であり、もともとはジュヴィナイルとして書かれたものかも知れず、そういう意味では全体として楽しく面白く読めるものの、いささか雑で大ざっぱなところがある。いわゆるバカSFとしてニコニコしながら読むのが正しいのだろう。
白亜紀の終わりごろ、ゴンドワナ大陸とローラシア大陸に1万年にわたって恐竜と蟻が共存する文明が存在したというのが根本にあるアイデアである。これって夢があってとても楽しい。知的な恐竜といっても小型恐竜の話ではなく、ティラノサウルスやタルボサウルスといった大型恐竜が、肉食も草食もみんなそれなりに知性を発達させ、二つの大陸に恐竜帝国を築いていたというのだから、科学的にどうこうと突っ込む必要はない。彼らは言葉を話し、技術を発展させて道具も作っていたが何しろ手先が不器用なので限界があった。それがある時、恐竜が蟻(こっちも種類を特定せず蟻というだけで表されている存在である)に歯を掃除してもらい、お返しに食物を提供したことから、二つの種に協力・共存関係が生まれる。蟻には集団的な知性があり、細かい作業が得意だったが、機械的で創造性には欠ける。恐竜たちは人類に似て好奇心が豊かで想像力があり、進取の気風に富むが、気まぐれで乱暴、緻密なことは苦手である。そこを蟻文明が補完することで、二つの文明は協力し合って発展していった。
白亜紀の地球に巨大な都市が生まれ、交通機関が発達し、飛行機や船舶が大陸を結ぶ。平和なだけではなく恐竜同士、そしてついには蟻と恐竜の間でも戦争が起こったが、その後はまた再び平和な時代が続く。やがてコンピュータが発達し宇宙へも進出するほどになった。蟻たちは精密機械の製造やバイオ・医療の面で恐竜文明になくてはならない存在となっている。ゴンドワナとローラシアの恐竜の二大帝国の間では何度も戦争があり、世界大戦もあったが核兵器が実用化されてからは相互破壊が抑止力となって冷たい平和が続いていた。
しかし、ここに来て世界破滅の危機が訪れる。恐竜たちの将来を考えない無茶な活動により地球環境が汚染され、蟻文明の存続が脅かされるようになったのだ。蟻文明の代表は恐竜文明に対し、個体数の制限、核兵器の廃絶、環境保護の促進を求め、実行されないなら全面的なストライキを行うと宣言する。だが蟻を虫けらと蔑む恐竜たちはそれを拒否する。さらに恐竜の二国間の緊張も高まり、その上に恐竜たちが宇宙で発見した最終兵器というとんでもない危機も加わって世界は急速にカタストロフへと向かうのだった……。
本書は現実の人類社会を風刺した寓話のようにも読めるし、二つの異質な知性の共存と断絶の物語としても読める(その観点は後の『三体』へもつながっている)。とはいえ、何よりも本書の面白さは、もし白亜紀に恐竜たちの文明が存在していたらと想像力が広がっていくところにある。それがアイデアやディテールの乱暴さや疑問点を差し置いても、本書を楽しく読めるお話としているのだ。