内 輪   第405回

大野万紀


 5月のSFファン交流会はお休みでした。6月は6月22日(土)に「〈幻想と怪奇〉とショートショートの魅力」と題してZoom開催とのことです。
 SF関係とは違いますが、「浪速のモーツァルト」キダ・タローさんが亡くなられました。93歳ということで大往生だとはいえ、喪失感が大きいです。訃報の記事を読んだだけなのに頭の中で「アホの坂田」が鳴り響いて止まりません。キダ・タローさんも西宮の人だったんですね。謹んで故人のご冥福をお祈りいたします。

 今年は京フェスが合宿ありのオフラインで開催されるとのことです。ただし合宿所は「さわや」ではありません。梅田例会で聞いた話だと、今度の合宿所「たき川旅館」は初期の京フェスで合宿所になっていた所だとのこと。今のさわやは1泊2万円の普通の旅館になっているそうです。。ちなみに菊池さんが今度学会でいくギリシャのホテルは1泊1万数千円とかで、さわやより安い!

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
 なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします


正井編『大阪SFアンソロジー OSAKA2045』 社会評論社

 昨年8月末にVGプラスのKAGUYA BOOKSが発行し、社会評論社から発売された地域名を冠したSFアンソロジーの一冊である。ベテランと、かぐやSFコンテストの入選者を中心とした若手作家の10篇が収録されている。やはり万博をテーマやモチーフにした作品が目立つ。

 北野勇作「バンパクの思い出」は、いやあこれぞベテランの味わいですね。大阪の、バンパク(万博ではない)の思い出を語るおそらくは維新に投票しただろう老人の、少々、いやかなりボケの入ったグダグダ話。1970年の万博と2025年(に開かれるだろう)バンパクの記憶がごっちゃになり、そこへ怪獣や「シン」何とかや地盤沈下や立ち上がる夢洲の大混乱や知事や市長や、そんなものがみんなごった煮になっていて、いや笑わなしゃーない。ボケ老人の語り口がそのまま声となって聞こえてくる。でもこのごちゃごちゃこそが、かつて横山ノックを知事に選んだ大阪なのだ(と兵庫県民は親しみを込めつつ人ごとのように言うのだ)。最後の叫び声が最高。みんなで絶叫しよう! 「ミャクミャクさまああああ!」

 玖馬巌「みをつくしの人形遣いたち」はうって変わってひどく真面目でストレート。そしてとても前向きな作品である。著者はサイエンスコミュニケーターが専門ということで、それが素直に表現されているのだろう。舞台は2025年万博の跡地に建てられた「ゆめしまロボット・AI科学博物館」。主人公はそこでサイエンスコミュニケーターをしている若い女性のわたしだ。PCの画面に現れる3Dアニメーションのミオちゃんこと「みおつくし」は大規模言語モデルをベースにした研究支援用AIで、わたしの簡単な指示により自律的に会話できるわたしの同僚である。その本体は大阪湾の海中にあるデータセンターに存在しているのだ。ところがあるときインシデントが発生。見学に来ていた小学生の女の子がミオちゃんとの会話に腹を立てて泣き出してしまった。その原因ははっきりしていて、回線トラブルで女の子の過去データにアクセスできないままAIが適当に会話を進めてしまったせいだ。だがわたしは女の子やその父親との会話の中でAIと人間の関わり方についての疑問を持つようになる。そこから先輩や館長と話をし、文楽の人形遣いと人形の関係がヒントとなって、科学技術と人間の関わりに大きな希望を抱くことに……。文楽や澪標という大阪らしいモチーフが科学技術と関わるところはとても良いのだが、ちょっときれい事過ぎるようにも感じた。それはある種のSFプロトタイピングにも通じるところがある。

 青島もうじき「アリビーナに曰く」はまた全然違う傾向の小説で、1970年の大阪万博がモチーフではあるが、そこからあらぬ方向に幻想的な想像力をはためかせていく。独特な文体も蠱惑的で心地よい。70年万博といえば太陽の塔が描かれることが多いが、ここでの中心はエキスポタワーである(太陽の塔はエキスポタワーをじっと見つめているという話を聞いたことがある)。この70年万博は75年たっても終わっていない。いつまでも壊されては再建され持続している。自立し持続する万博。語り手のわたしはどうやらその新陳代謝を支える解体機械であるらしい。そのわたしの前に、月へ帰りたいという少女、アリビーナが現れる。かつてアメリカ館にあった月の石、ソ連館にあったスプートニク1号の予備機、それが象徴する宇宙……。アリビーナとわたしは増殖し移り変わり新陳代謝していく中での「かけがえのないもの」について語る。アリビーナという名はスプートニク2号に乗ったライカ犬の代わりとなる控えの犬の名前だったという。この作品で持続可能性というものは新陳代謝や解体・再建・代替への変化を含む生物的でとてもダイナミックなものとして描かれている。さらに世界そのものが分岐していく。アリビーナもライカの代替の存在だった。そんな移り変わる世界における「かけがえのなさ」とは、自己同一性、相手を認識する目線とはどのようなものなのだろうか。この作品のテーマはそこにあるように思える。月、太陽、重力、そして月の石とライカ犬。千里が丘や大屋根、そして太陽の塔とエキスポタワー。鉄骨、機械。そんなものが渾然となって渦を巻き、幻想的なイメージを結ぶ。確かに70年万博というのはある種の象徴であったと思う。

 玄月「チルドボックス」は芥川賞作家による2045年の日常と世代間の食い違いを描いたSF。靱公園(懐かしい。昔の職場の近くなのでよく散歩に行った)近くのマンションで、1970年の万博の年に生まれた老人と、2025年に生まれた孫のような青年が一緒に暮らしている。年寄りに金を使いたくない政府によって、身寄りの無い困窮老齢者を受け入れるとポイントがもらえる福祉制度が始まり、老人は一人暮らしの裕福な青年に養われることになったのだ。チルドボックスに配達される高級培養肉のデリバリーフードを青年が料理し、老人に食べさせる。何だかんだと言いながらも二人は仲良く暮らしており、老人は青年に昔話を聞かせる。青年も昔の日本に興味があるのだ。震災のこと、昭和天皇の崩御のこと、バブル景気のこと。結構気の合う二人だが、老人がわれわれにも理解出来る(世代的には当たり前だ)のに対し、青年は政治的には極めて保守的で、三島由紀夫にあこがれ「おれ、百年前に生まれて、命をかけてこの国を、天皇を守りたかった」と言って涙するのだ。でも今、どうしたらいいか彼にはわからない。その心情が心からのものであるだけに、物質的には豊かだがゆっくりと衰退していくこの国の日常生活の中で、見えない未来の中で、彼は心の行き場を失っているのだろう。とはいえ日常は続く。その当たり前さが男二人のボケては突っ込む暮らしをユーモラスに、心に残るものとしている。

 中山奈々「Think of All the Great Things」は2045年の十三に生きる人々を描いた10句からなるSF俳句だというが、感受性がないためかぼくにはよくわからなかった。「補助食のコオロギ分ける裸足かな」なんていう句は確かにSFかしらと思うけれど、他はSF的にも十三的にもあまりピンとこなかった。居酒屋や花火が出てくるのは十三らしいかも。なのでこれはパスさせてください。

 宗方涼「秋の夜長に赤福を供える」は枚方SF。ひらパーで有名な枚方パークでの菊人形展を支える祖父から孫まで三代のお仕事小説でもある。段々と廃れていく伝統文化。大阪の文楽を「エンターテインメントじゃない」「もう見に行かない」と言って補助金削減した市長がいましたな。枚方の菊人形も菊農家が減り、存続が厳しくなる。そうした中で主人公の一家は様々な努力を重ねて菊人形を守ろうとする。お笑いを呼んでイベントを開いたり、プロジェクトマッピングを試したり、でもなかなか活性化にはつながらない。そんな時、とうとう南海トラフ大地震が西日本を襲う。大阪は大変な被害を受けたが、内陸部にあって比較的被害が少なかった枚方は復興にあたって多くの避難民を受け入れ活気を取り戻す。ここで「菊の声が聞こえる」というSF的なアイデアが語られている。菊人形展も再開し、主人公である孫は菊農家を継ぐことになった。80年間に及ぶ三世代の物語を地に足の着いた筆致で描いた物語である。なお、何で枚方なのに赤福? と思ったら、それは祖父が買ってくる名古屋駅のお土産なのだった。

 牧野修「復讐は何も生まない」はいかにもな牧野節が炸裂するコミカルな痛快バイオレンスSFだ。舞台は南海トラフ地震で荒廃し廃墟となった夢洲。パワフルな女性二人が人型ロボットに乗った悪辣(だがアホ)な元カレと戦い復讐するというお話である。とにかく水曜日(ウェンズデイ)とダリアという二人のヒロインがカッコイイ。ひたすら漫才みたいな会話を続けつつ、訪れたのは無法地帯となった荒野(といっても夢洲)の中にポツンと建つ掘っ立て小屋のような酒場。そこにいた荒くれ男たち6人は元カレ(ピーター)に雇われているらしい。難癖をつけてくる男たちを二人はあっという間にツルハシや銃剣でぶち殺し、全滅させる。そんな中で平然と彼女らにグラスを回してくるバーテンダーもむちゃくちゃクールでカッコイイ。ついにピーターが現れる。根がヘタレなので人型作業ロボットに乗り込んで武装しており、減らず口をたたいてくるが、まあ彼女らの敵ではないわな。その哀れな末路も笑える。夢洲マッドマックスか北斗の拳(女性版)といったところか。痛快なアクションにはスカッとする。

 正井「みほちゃんを見に行く」でも緩やかに衰退していく近未来の大阪の町が描かれる。夢洲の荒野というわけではなく、高層ビル街はあるものの、町中の住宅地では住む人が次第に減り空き家が目立つようになる。今の地方都市の多くがそうであるように。百年ほど昔は日本一の大都市だった大阪はゆっくりとすり切れ、寂れていっているのだ。府外に住んでいる主人公のわたしは中学生のころから就職した今まで、母の姉で大阪市内に一人暮らしをしているみほちゃんを時々訪問している。祖母に様子を見て来てほしいと頼まれたからだ。みほちゃんの家にはたくさんの本があるが乱雑に積まれ、いい歳だが定職のないみほちゃんは塾講師をしたり派遣の事務員をしたり、時にはWEB記事のライターをしたりと、貧乏といえば貧乏だがそれなりに自立して自由気ままに暮らしているようだ。ただわたしの目からしても、彼女の暮らしぶりには一人暮らしの退廃が目立つ。脱ぎ捨てられたままの服、何に使うのかもわからない電化製品が放置され、部屋の隅には掃除されないほこりが溜まっている。みほちゃんの人生と大阪の衰退はどこか重なって見える。それでもみほちゃんは明るい。いかにも大阪のオバハンである。わたしの母は大阪のそんなところが嫌いだった。だから結婚すると府外へ引っ越していったのだ。この作品のもう一つのモチーフは鳥である。淀川の河川敷で、中之島で、そしてみほちゃんの家の向かいにある廃屋で。鳥たちは群れて飛び、ウンコしていく。鳥の声が、羽ばたきが聞こえるようだ。みほちゃんのような人はぼくの身近にもいる。もしかすると昔のSFファンには多いのかも知れない。自分も歳をとり、こういう話はひどく心に染みる。

 藤崎ほつま「かつて公園と呼ばれたサウダーヂ」はみほちゃんとは逆に過去へと遡る。亡くなった叔父の思い出をAIが紡ぎ出す仮想現実の中で体験していくのだが、ここで公園というのは長居公園のことで、70年代初め生まれの泉州人である叔父の私的な思い出を、プライベートな写真などをもとにしつつもAIが適当に物語をこじつけて作り上げていったものである。時代が変わるたびにアーカイブを検索するチリチリする感覚があり、また新たなシーンが展開する。このどこまでが事実でどこまでがAIが補填したものかはわからない。でも主人公にとってここには確かに叔父の生きた姿があり、声がある。イカ焼き、公園の猫、花見の喧噪、妻となる女性、祖父母の介護、震災で建てられた公園内の仮設住宅、ホームレスの排除、そんな時代の移り変わりと叔父の生活がしんみりと語られていく。そして終わりの方でかいま見ることのできる2045年現在の世界の、何とも味気なくつまらないことか。物語自体は市井に生きた一人の平凡な男性の一生を長居公園の思い出とともにたどっていくものなのだが、それをバーチャルリアリティの中での再現だと自覚しながら見ていくところにSF的というかメタな味があっていい。過去を懐かしむということが未来へのあきらめに通じていて、やっぱり近未来の大阪ってあんまり嬉しそうなところじゃないみたいだ。

 紅坂紫「アンダンテ」はそんな大阪への怒りに溢れた作品だ。作品中のブルーミング賞というのは明らかに2012年に橋下市長によって賞金が廃止された咲くやこの花賞を意識したものだろう。主人公たちはそんな文化の振興に背を向ける大阪を見限って出て行ったインディーズの3人組ミュージシャン。手動運転のピックアップ・トラックを運転して各地を回っている。ネット配信はせず、小さなライブハウスでの生演奏が中心だ。フィドルとチェロとアコーディオンでの演奏だというから、ちょっとトラッドっぽいのかも。そんな彼らが今、見捨てたはずの大阪へと戻って演奏しようとする。再びこの不毛の地に手作りの音楽を復活させ根付かせるために……。ここでも未来への希望はあるものの、現在から近い将来にかけての大阪の現実には絶望と怒りが溢れている。それは間違いなく今の大阪の政治状況とそれを支える多数の大阪市民たちへの怒りなのだ。終わりの方にある「リニアモーターカーより阪急電車を」というアジ文には心和むものがあった。京大の立て看みたいなセンスだ。


井上彼方編『京都SFアンソロジー ここに浮かぶ景色』 社会評論社

 『大阪SFアンソロジー』の姉妹編といえるが、編者の意図の違いによるものかかなり赴きが違う。大阪SFが北野勇作や牧野修のようなコテコテの例外はあっても、多くが衰退していく大都市への思いを込め、そこに生きる人々の日常をややノスタルジックにあるいは幻想的に描くのに較べ、京都SFは歴史と伝統と学生の街「京都」というありがちなイメージを一度棚上げにして、非常に幅広い題材から自由に描いているように思える。そのぶん、京都SFという共通なイメージは薄くなっている。いや、そやない、そんな風に相手の視線をずらして、いけずするのが京都風なのかもね。知らんけど。

 千葉集「京都は存在しない」は面白かった。1945年のある日、京都は巨大な円柱によって世界から切り離され、存在しなくなった。だがやがて人々は不在の京都について、まるで見て来たようなことを語るようになる。中には実際に京都を「視た」(リアルなイメージが降ってきた)人もいるようだが、そんな話をかき集めた空想の京都を、現実のように語るエッセイストも現れる。主人公の二人、この分野のベテランである売れっ子の新島と、かけだしの新人である田辺は、実は二人とも京都を「視た」ことはなく、いかにも本当らしくつじつま合わせをしただけのフィクションを書いているのだった。だがそれはとても細かく、リアルに描かれている(ほとんど現実の京都そのもののように)。これは現実とフィクションのあわいを狙い撃ちするかのようなメタな作品で、例えば実際の京都タワーを見たことがないはずの彼らがどうしてそれを空見することができるのか。作者がどっちも「視て」いるからだ、と言っちゃおしまいだけど、ネット上でファクトとフェイクが混在する現実はそれと大差ないのかも知れない。

 暴力と破滅の運び手「ピアニスト」では未来のコンピューター芸術が描かれる。それは手元に持った光るマフが人間の思いを読み取り、床に設置されたポリマーの〈仮相〉がそれに合わせて形を変え、石庭になったり、ケーキになったり、石像になったりするという展示だ。美術館でそのインスタレーションを見た主人公のカナデは作成者のキリと知り合う。カナデは親が開いた自宅の芸術サロンを受け継ぎ、海外からアーティストを招致してコンサートを開く仕事をしている。そのカナデの元に、ポーランドからピアニストのウツィアがやって来る。ウツィアもインスタレーションを見て、ぜひここでピアノとヴィオラの演奏をしたいという。彼女の〈仮相〉にはあるバレリーナのイメージがあった。カナデはそこに不穏なものを覚える。そして当日……。女性同士の様々な関係性が描かれているとは何となくわかるのだが、ウツィアの心情がぼくにはよくわからず、あまりピンと来ない話だった。でも冒頭のインスタレーションは面白そうで、ぜひ実際に体験してみたいと思う。それにしてもすごい作者名……。

 鈴木無音「聖地と呼ばれる町で」の舞台は京都と言っても日本海に臨む丹後地方の小さな町。そこは著名な映画監督が撮影したあるサスペンス映画の「聖地」となっている。主人公はそこで民宿を営むが、映画の内容から勝手な想像をしたファンが地元民には迷惑となるような書き込みをして炎上することもある。その映画監督の息子も新進の映画監督となり、たまたま縁があって主人公の民宿に毎年泊りに来るようになる。物語はその二人の交流を淡々と描きながら、変貌していく地方の風景や、フィクションの舞台に自分の思いを投影するファンたちと、その人気を町おこしに利用しながらも勝手な思い込みに困惑する地元民とのすれ違いを、映画を撮る側と撮られる側の関係にも重ねて記していく。主人公と仲良くなった監督は、それを元にドキュメンタリー映画を撮ろうと企画するのだが……。よくある「聖地」の問題を地元の視点から丹念に描き、そこにフィクションの作り手の姿勢も重ねていく。よく出来た話だけれど、うーん、不思議な要素は全然なくて、SFアンソロジーに入る話としてはどうなのかなとも思う。

 野咲タラ「おしゃべりな池」は戦前まで京都の南にあった歴史ある巨椋池の話。80歳を越えて一人で暮らしている主人公の祖父はその父親から聞いたという巨椋池の話をよく知っている。というか、池とそこにいた生き物たちの霊に取り憑かれているのかも知れない。普段は無口なのに、池の話を始めると人が変わったようにとても饒舌になるのだ。美術館で印象派の睡蓮(スイレン)の絵を見て蓮(ハス)池だと言う。それと同時に睡蓮の絵が動き出し、かつての池の様子を描き出す。主人公はそれを美術館の仕掛けだと思うが、そうではなくて巨椋池の言霊(コトダマ)の力のようだ。かつての池での暮らし、魚を捕ったり蓮を栽培して蓮根(レンコン)を取ったり、鳥やカワウソ、魚たちとの暮らしが目に映る。今は干拓されて農地となった巨大な池は、祖父やその地に関わりのあるものたちの言葉を通じて主人公に語りかけてくるのだが、主人公も驚くというよりそういうものだと受け入れていて、そんな池の記憶を自分の記憶と共に淡々と思いだしていくのだ。普通の日常の暮らしと幻想がシームレスに重なっている。池の泥の中から浮かび上がるあぶくが言霊となって、シャボン玉のように飛んでいくというイメージは美しく、印象的である。

 溝渕久美子「第二回京都西陣エクストリーム軒先駐車大会」は狭い西陣の町の軒下にいかにギリギリに駐車するかを競う(もちろんAIの自動運転ではなくマニュアルで)という、言ってみればそれだけの話なのだが、面白かった。まずアイデアが面白い。単に軒下ギリギリのミリ単位の駐車を競うというだけではなく(やっていることはそれだけなのだけれど)、それが京都という町に住む人々の日常的な歴史意識とつながり、京都の長い伝統となるようなものも始まりは人々の思いつきとそれを面白がる心にあるのだということが素直に納得させられる。町内会の集まりで、昔はエクストリーム駐車の技術があったという話が出てそれを競技化したら面白いという流れになる。今ではAI駐車で簡単にできるのだが、あえて手動で技を競おうというのだ。主人公の幼なじみやちょっと嫌味な車マニア(今でもすごい運転技術を誇っている)、ボケているが昔はすごかったという老人など、町内の普通の人たちがノリノリで大会を開催することになるのだ。主人公は始めちょっと醒めた目で見ていたが、エクストリーム軒先駐車は頭で考えるんじゃない、町を知り、自分の目で見るのだという老人の言葉から、それが京都という町そのものを見ることに通じると理解する。とはいえ、いかにもありそうな結末はほろ苦い。

 麦原遼「立看(タテカン)の儀」も京都の伝統を未来につなぐ話だ。これも面白かった。その伝統とはかつて京大に立ち並んでいた「立看」である。ただ「エクストリーム駐車」とはずいぶん雰囲気が異なる。いつの時代かもわからず、そもそも主人公たち、立看製作者の私と先輩とが本当に人間なのかどうかもわからない。過去の実際の記録は失われ、あらたに再構築された伝統だけが残されているのだ。京大跡地とあるのですでにこの京都に京大は存在しないのだろう。その跡地で年に一度保存会により観光客のための「立看の儀」が開催される。私と先輩は客から請け負ってそのための立看を製作する立看製作者である。ちゃんとベニヤ板を使い、エヴァ文字と呼ばれるような文字で言葉を書き、リヤカー(をつけたバイク)で会場まで運ぶ。だが先輩の過去への思いと私の思いは微妙にずれている。先輩はこのような形での伝統の再現にどこか疑問があるようだ。そして儀式が始まる……。どうやら立看だけではなく京大で年中行事のように繰り返されている当局と学生のドタバタ(という言い方は良くないが)も「再現」されているようだ。しかしここにあるのはもちろんぼくの知っている現実の立看「文化」ではない。その食い違いこそが「伝統」や「文化」というものを考えさせられるものだろう。「エクストリーム駐車」では生き生きと町に息づいていたものが、ここではその形骸となっている。作中に出てくる「立看墓場」のように。

 藤田雅矢「シダーローズの時間」は心がほっこりする「すこし・ふしぎ」な物語。京都府立植物園が舞台で、シダーローズというのはまるでバラの花のような形になるヒマラヤ杉の松ぼっくりのことだ。主人公のわたしはおばあちゃんに連れられて幼いころからこの植物園によく来ていた。中学生の時の宿題で植物園に写生に行き、そこで進駐軍がここにいたころの、過去の幻影を見る。おばあちゃんは「ここには時間が積み重なってるさかいな、そういうもんが見えることが、たまにあるんよ」という。高校生になって、シダーローズの螺旋がフィボナッチ数列をなすことを知り、それが生命や宇宙の、遠い銀河の渦巻きにまでつながっていることを知る。自分と同じように植物園でシダーローズを拾っている幼い子どもを見つけたが、その子は何も言わずにふっと消えてしまった。でもその子がくれたシダーローズはわたしの手の中にある。おばあちゃんは、それはヒマラヤ杉の童と違うかと言うが、わたしはきっと宇宙人やと言い張る。ささやかな日常の中に、悠久の時間と宇宙の広がりを見るこの物語には、科学のセンス・オブ・ワンダーがあり、それはもちろんぼくの好きなSFや理科小説に共通するものだ。そしてもう一つは京都の土地がもつ歴史の積み重ねである。長い京都の歴史の中でいえばごく最近のことであっても、京都府立植物園という限られた土地の中にすら、様々な変遷と記憶が記されているのである。

 織戸久貴「春と灰」は本がテーマのSFファンタジー。舞台は京都(といっても奈良に近い相楽郡)にある国立国会図書館関西館。この時代、独裁政権が東京の国会図書館を焼いたが、関西館では所蔵されていた古文書を解読して呪術的な戦闘ゴーレムを作り出しこれに対抗。だが戦闘ゴーレムは制御を離れて暴走し、図書館のあった一帯は禁足地となって封鎖された。主人公はその図書館に侵入してある小説を読もうとしている。腕利きのツアーガイドと共に禁足地に入った二人はそこでガーディアンの〈天使〉に倒された少年を発見する。少年は普通の人間ではなかった。未登録の本を持ち、その本からは圧倒的な力を有する戦闘ゴーレム〈移動図書館〉を呼び出すことができるのだった。三人は図書館に入り込み、本というものが持つ真の秘密を知る……。本を閉じたとき、それまで存在していた登場人物たちはどこへ行ってしまうのだろう、と。後半ややとっちらかった感じがするが、知る人ぞ知るような実在の地名が廃墟の中に点在するのは、なかなかにおもむき深いものがある。


高殿円『忘らるる物語』 角川書店

 昨年3月でに出た長編ファンタジー。中華風の異世界で、帝国に夫や一族を皆殺しにされた小国の姫が男たちへの復讐を心に誓いつつ世界を巡っていくという物語である。そこに強烈な異能を持つ女性だけの集団が関わり、ジェンダーとシスターフッドをテーマにした骨太で壮大な物語が展開していく。

 彼女の名は環璃(ワリ)、燦(サン)という名の帝国に支配される北の小国、北原の月端(げったん)国の王族の娘であり、若くして結婚し18歳にして次の王子となるべき子を産んだが、燦の軍隊が国を襲い、夫は殺され赤ん坊は連れ去られた。彼女も帝国に拉致され、帝国内を旅することになる。それは占いにより環璃が燦の次の帝の子を産む「皇后星」として選ばれたからだ。皇后星は帝候補である4人の藩王の国を順に巡り、それぞれの王と閨を共にすることが使命である。男子が生まれればその子が次の帝の子となり、彼女は皇后となるが、生まれなければ彼女は殺され、次の皇后星が選ばれる。位は高いが単に次の帝の子を生むための道具にすぎないのだ。
 ところが最初の藩国へ向かう途中、一行は山賊に襲われる。一人生き残った環璃が山賊の男に陵辱されようとした時、彼女を救ったのがチユギという名の、不思議な力を持つ女性だった。チユギは山賊の男たちをあっという間に塵に変えてしまう。その力はチユギの子宮に宿る「確たる神」――確神(ゲゲル)によるものだった。確神は男だけを殺す。強い力は男を一瞬で塵に変え、弱い力でも触れただけで男を弱らせ殺してしまう。それが胎内にいる男児でもだ。チユギたちは遠い火の山の裂け目のクニに住み、その民は果ての民と呼ばれる。その山に棲む菌類が彼女たちの体に寄生し、それが確神としてとてつもない力を発揮するのである。それが本書冒頭にある「男が女を犯せぬ国がある」という言葉につながっている。しかしそれは一方で結婚も恋人も子どもを持つことも諦めなくてはならない力なのだった。チユギは環璃にクニに来て仲間になるよう勧めるが、この力を持って兵士や男たちに復讐してやりたいと強く思いながらも環璃は今は誘いを断る。彼女は皇后となり、帝や側近を皆殺しにしたうえで自分自身が女帝となって権力を握り、新たな世界を作ることをもくろんでいたのだ。
 二人は別れ、環璃はまた皇后星としての歩みを始める。

 以後、物語はチユギたちと環璃のそれぞれの物語を並行して語っていく。環璃が訪れていく各藩国の物語がとても面白い。最初は権力に貪欲なだけの老王が支配する颱汗(タイ)藩国、王はひたすら彼女を求めたが、懐妊することなく終わる。次に訪れた鳥爬(ウーファー)藩国は美しい湖のある景勝地で、その王はなかなか彼女と会おうとしない。環璃は美しい離宮で燦の首都から派遣されて来たというおしゃべりな青年学士・圭真(けいしん)と出会う。彼と楽しく会話し美しい景色を眺めてのんびり過ごしていると、やっと藩王が現れる。彼は真面目そうで彼女とも普通に会話するが結局閨を共にすることはなかった。王はこれから湖で行われる何千人もの罪人を裁く大裁定に彼女を招くが、それはとてもおぞましいものだった……。次は胡周(コジョン)藩国。この国の王は若くてとても庶民的。身分の差なく試験で人々を抜擢する。ただこの国にはやるべきことが細かく決まった暦があって、みんなそれに従う風習があった。環璃はこの王とは閨を共にしたが、思いやりがあって控えめで、新婚のころを思い出すようだった。この国の人々は誰もがそれなりに自由で幸せそうに見えた。彼女もふとこのままでもいいのではないかと思う。しかしそこにチユギたちの同族の女が現れ、環璃の思いを嘲笑う。それは見えない支配に甘んじているだけだと。明るい国に暗い影がちらつく。ここでも環璃が身ごもることはなかった。彼女は次の国に向かう。

 チユギたちのパートでは、男たちの帝国と戦いながら胎内にカミを宿す女の国を作ろうとする彼女たちの活動が描かれる。新人を受け容れて教育し、燦帝国が送り込んでくる〈母なるものら〉と呼ばれる女だけの兵士とも闘う。男は正面から闘っても塵にされてしまうだけだから、子どもたちを人質にされ否応なく訓練された女だけの戦士を帝国は作り出したのだ。母の子を思う愛が女性にとっての致命的な弱点となる。そんなことを考えたのは帝の若い側近たちで構成される〈帝心中〉と呼ばれる朝廷の中枢機関である。彼らはみな若い男性で、旧態依然とした帝国を改革しようとする強い意志をもったエリートたちだ。
 一方でチユギたちも帝国の内部に浸透している。彼女たちもしたたかで、〈母なるものら〉すら自分たちの味方に取り込もうとしているのだ。そのためには手段を選ばない残忍さも見せる。

 環璃が最後に訪れた土兒九(ドルク)藩国は北蛮との戦争のさなかだった。環璃たちが着いた前線の街の城壁には多数の大砲が備え付けられていた。女子どもは別の街に別れて暮らし、ここは戦のための男だけの街だった。ここでの女の仕事をするのは閹人(えんじん)と呼ばれる去勢された男たちである。何日かたってようやく環璃の前に現れた土兒九の藩王と王子たちは、彼女を道具のように陵辱する。だが翌朝、城市は火に包まれていた。北蛮の兵士たちが街に侵入している。だが彼ら以外にも信じられないような力を発揮して土兒九の兵を殺戮していく者たちがいる。虐げられた閹人たちが報酬を払ってチユギたちを雇ったのだ。土兒九は滅び、環璃は「この世界の女王になってわたしを虐げた者たちを殺す」ことを誓う。環璃は報酬を受け取りにきたチユギにあなたたちの仲間になりたいと駆け寄る。
 環璃は再会したチユギたちとカミを分けたもうひとつの集落へ向かう。だがそこはすでに燦帝国の軍隊に包囲されていた。帝国軍は無数の大砲を使い、遠方から集落に砲撃を加えていたのだ。その中には環璃の見知った顔がいた。彼こそ〈帝心中〉の中心人物だった。環璃はチユギたちを助ける代わりに、自分一人が彼の前に進み出る。彼は彼女を皇后陛下と呼び、彼女を帝のいる帝都へと連れて行く。

 後半は帝都が舞台となり、前半の異国巡りやロードノベル的な魅力は減じるが、過去を記録し予言をする長寿の瑞兆人たちが現れ、物語は時間軸方向に発展する。そこには壮大で、ほとんどSFといっていいようなモチーフが見えてくるのだ。
 帝国の前に栄えた夜明という広大な王国があった。そこには貧富の差も性別による差もなかったという。だがその王国は千年前に一夜にして滅んだ。チユギはそのことを知っているという。そして滅んだ理由も……。
 子どもが産まれなかった皇后星として、環璃は処刑されることになる。処刑の日、環璃の前にチユギが現れ、そしてすさまじい大虐殺が展開される。
 それから500年。帝国は滅び、新たな国が興り、通貨が統一されて交易が盛んになり、蒸気機関が発明され、女性でも扱える小火器が普及し、男女の力の差は小さくなった。それでも世の中の仕組みは変わらない。富む者と貧しい者があり、戦争が繰り返される。不老不死の身となった環璃は売られてきた少年少女たちに、わたしは弱い者に暴力をふるう男が灰になるクニから来たと話す。忘れられず生き残る物語がある。それはあらゆるところにある。だから忘れないで、自分を。「忘らるる物語」を決して忘れないようにと……。

 本書はジェンダー問題、特に家父長制の下にある女性の解放が最大のテーマとなっていることは間違いないが、一方でこれは支配の物語であり、男と女というのもその一形態にすぎない。古よりの勝者と敗者、支配と被支配、その心と魂の物語なのである。真の敵はそのシステムなのだ。そしてそれは家父長制といったあからさまで目に見えるシステムから最後にはヒトそのものの獣性にまで話が広がっていく。
 だがそれはヒロインにも返ってくる。この物語そのものが強者の、敵を支配し復讐することのできる強者の物語でもあるのだ。ありきたりで普通の日常の幸せは無視される。また本書では「母の狂い」というように「母」というもののあり方にもマイナスイメージが投げかけられている。そういう両義的で複雑な問題に対して最後は「忘らるる物語」を忘れないことを強調して終わる。たった一つの冴えたやり方があるわけではない。だが決してそこに問題があることを忘れてはならないのだ。
 前半と後半で物語の雰囲気が大きく変わる。作者にも迷いがあったのかも知れない。前半には不条理への激しい怒りがあり、復讐のためには手段を選ばない強い思いがある。しかしそれが太古より続くシステムの問題であり、ヒトの本質的な獣性にまで関わるとなったとき、復讐や暴力だけでは何も変わらないとわかる。これまで嘲笑してきた庶民の微温的で限定的な自由と幸せに対しても向ける視線が変わってくる。それは大人になったということでもあり、おそらく正しい態度だといえるだろう。だがそれがある意味でこの物語の勢いを削いでいるとも言える。人間としての環璃が怒りのままに突き進み、例え最後は挫折し後悔することになるとしても権力を振るって世界を変えようとするところが見たかったように思う。


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