内 輪 第395回
大野万紀
7月のSFファン交流会はオンラインがなかったのでレポートはありません。8月は、日本SF大会の企画の1つとして、SF入門書で「SF再入門」と題して開催されるとのこと。次号のTHATTAではレポートできるかも知れません。
8月25日に発売のSFマガジン10月号は「SFをつくる新しい力」特集とのことですが、ぼくは「SFファンたちはどう生きるか――SFじいさんの昔話」というあからさまなタイトルで、70年代から90年代にかけての、インターネット以前のSFファン活動についてのエッセイを書きました。若者向けに昔話をするという内容なので、ちょっと気恥ずかしい。古い人は細かいところを突っ込まないでね。
その宮崎駿のアニメ映画「君たちはどう生きるか」を見てきました。傑作。ぼくにはとても心に響いて面白かった。賛否両論あると聞きますが、少なくとも映画館にいた人たちは笑うところで笑い、息を呑むところで息を呑んでいました。終わった後も「面白かった」という声が聞こえ、楽しんでいた人が多かったように思えます。わからないという意見があるのはわかります。でもわからなくても面白いものは面白いじゃないですか。凄いシーンには心を動かされるじゃないですか。そうじゃないのかな。
詳しい内容はまだ書かない方がいいと思うので、以下SNSにも書いた感想のみ。
ファンタジーとしてドキドキがあり、笑いがあり、何より画面が美しく動きが凄い。生き物が集合体で出てくる場面が多かった。おばあさんたちが集団でうごめくところからしてすでに異界だ。わらわらが可愛い! いんこ軍団がアホで可愛い! どこか懐かしい和風洋風の建物と部屋がとても良い!
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします。
2年ぶりの『NOVA』は「日本SF史上初!女性作家のみでおくる書き下ろしSFアンソロジー」と帯にあり、編者は序文で『走る赤 中国女性SF作家アンソロジー』を読んで日本でやったらどうなるかと思い企画したと書いている。もちろん雑誌の特集形式では昔からあったと編集後記で記しており、あくまで女性のみのSFアンソロジーとして日本初ということだろう(なお編集後記の「筒井康隆編の日本SFベスト集成に女性作家がいない」というのは間違いだが、これはツイッターで訂正されている)。
13編が収録されているが、作者名だけ見ると性別がわからない人もおり、それをあえて女性作家と明記するのはどうなのかという気がしないでもない。男性と思われていたティプトリーが女性だったというのは一つの事件だったのだから。
池澤春菜「あるいは脂肪でいっぱいの宇宙」。しかしデイヴィッドスンのタイトルはよくもじられるなあ。どんなにダイエットしても絶対痩せない女子だという主人公が、絶対痩せさせるというトレーナーたちと対決する。結果は主人公の圧勝(といっていいのか?)。そんな日常的な個人のドタバタと思えたものが「脂肪ちゃん」の登場からとんでもなくエスカレートする。それはもう人類全体の運命に及び、宇宙にまで発展するのだ。こういう無茶でおバカなエスカレーションは大好きだ。これぞまさにいわゆる「バカSF」の醍醐味だといえよう。
高山羽根子「セミの鳴く五月の部屋」は現代の日常の中に現実にあり得るかも知れない異質さが重なり合う。引っ越したばかりのマンションの部屋に突然訪ねてきて「五月にセミは鳴きますか」と聞いてくる人々。違った人たちが何人も訪れて同じ事を質問する。いぶかしく思った主人公が彼らに話を聞くと、どうやらあるゲームで街の中に隠されているキーワードを探していくとここに到達するらしい。主人公はそのゲームのNPCとして扱われているようなのだが、そんなことは知らないし、知ったこっちゃない。ただ視点を変えるだけで現実の見え方が変わってくる。SF的な意味でゲームの世界と現実世界が重なっているわけではなく、あくまで彼らが行っている現実のゲームが主人公の日常的な現実と干渉しているだけなのだが、この日常が互いに独立した複数のレイヤーからなり、それらが思いがけない相互作用をするという発想はすばらしく、リアルでしかも不気味である。とても面白かった。
芦沢央「ゲーマーのGlitch」もゲームがテーマ。RTA(リアルタイムアタック。裏技でもバグ技でも何でも駆使して、いかに短時間でゲームをクリアするかを競う)の大会が実況される。専門用語が飛び交い、人間わざとは思えないミリ秒単位のテクニックが披露され、偶然に左右される場面ではどちらを選ぶかの瞬時の決断力が要求される。見ている分には普通のeスポーツよりもっと超人的な技芸を見るようである。物語は3年連続優勝のチャンピオンと元世界チャンピオンの戦いを迫力満点の実況中継で描く。これが本当に臨場感があってすごい。SFとしては近未来が舞台で、脳に直結して情動操作できるヘッドセットが登場人物のPTSDを消去できるかというストーリーがあるのだが、正直あまり印象に残らない。それよりゲームの実況の方が本当にかっこいいのだ。
最果タヒ「さっき、誰かがぼくにさようならと言った」は琥珀に愛の言葉をかけると美しい結晶が出来るという、まさに詩的な設定がモチーフの物語だが、そこにAIがからんでくる。主人公の琥珀師「ぼく」がマイクを通じて「愛している」と言うと、それが疑似樹液に伝わり、美しく結晶して人工琥珀ができる。それは多くの人に買われて喜ばれているのだ。だがぼく自身は心のこもらない「愛している」の言葉に疑問をもち、美しいといって買う人々をバカだと思っている。そのぼくに、AIのインタビュアーが密着取材してぼくの心に辛辣な質問を繰り返す。始めはユーモラスにも聞こえるが、次第に外の世界の不安な要素が入り込んでくる。おそらくAIのインタビュアーはぼくの内部にいるのだろう。「愛している」と「人類死ね死ね」が同じ意味をもつその場所に……。タイトルが示すように、とても寂しく、孤独な心の物語である。
揚羽はな「シルエ」。事故に遭って脳死状態になった娘を毎日病院に見舞う夫と、彼女そっくりのアンドロイドを娘の代わりに小学校へ通わせる妻。このアンドロイドはシルエといって妻が開発に関わったものだ。夫婦の溝は深まるが、あるとき夫は公園で友だちと無邪気に遊んでいるシルエを見て、次第に心が惹かれていく。そしてシルエに「おとうさん」と呼びかけられたとき……。シルエは大切な人を亡くした痛みを和らげるグリーフコントロールを目的に開発されたアンドロイドである。いわば医療機器だ。それに対する夫と妻の異なる接し方。開発に関わった妻にはその割り切りがあるが、娘にこだわる夫には思い出の中の娘そのものに思える。やがて延命処置も限界を迎え、生命維持装置を止める時が来る。結末での夫婦の和解はハッピーエンドであると同時に、悲しいものである。
吉羽善「犬魂の箱」もロボットもの。とはいえ舞台は江戸時代を思わせる過去の時代。子供を守るという犬張子の姿をしたカラクリ、使機神(しきがみ)が主人公だ。へいはちと名付けられていた彼は、子供がもう大きくなって今は飾り物のようになっていたが、その子が病気になり「赤ん坊を助けて」と夢うつつで言ったのを聞いて、その赤ん坊を探しに家を出て行く。神社に捨てられていた赤ん坊を見つけ、通りかかった若い男に助けてもらう。男は赤子を長屋へ連れ帰り、長屋のみんなと共に育てることになる。シロと名前をつけられたへいはちも彼らといっしょに暮らす。使機神を作った工房も判明するが、なぜシロが本来の単純な機能以上の働きをするのか、誰もわからない。まさにこれまた大江戸シンギュラリティといったところだが、ストレートな人情ものとなっていて楽しく読める。
斧田小夜「デュ先生なら右心房にいる」は宇宙SFであり、ロバSFである。人類が宇宙に広がった遠い未来。人類は惑星に定住する定住型人間と超光速船で星々を巡る移動型人間に分かれていた。超光速が実現しているとはいえ、いったん超光速船に乗ると船内での数日が惑星での数十年となり、定住民とは生きる時間が違ってしまうのだ。そして宇宙での労働に適したよう改造された宇宙ロバ。餌や水を与えられなくても長期間働き、重機械を使って開発した後の開拓地の維持に適している。おまけに食用にもなる。デュ先生はそんな宇宙ロバ専門の医者である。偏屈な老人だが、ロバについては何でもわかり、人々に頼りにされている。大きな事件は起こらない。逃げ出した試験飼育中のロバを巡って人々が右往左往し、デュ先生がそれを解決するという話である。だが物語はそんな世界を舞台に、まるで現代の農村と都会の格差を描くように細かくリアルな社会を描き出していく。何よりもロバと、デュ先生が最高だ。
勝山海百合「ビスケット・エフェクト」では鹿に良く似た異星人が登場する。鹿せんべいならぬビスケットが地球人と異星人をつなぐ大きな役割を果たしているのだ。ファーストコンタクトものではあるが、5千年先の未来と現代が交互に描かれ、中心となるのは現代の高校生のさわやかな青春物語である。高校1年の朋有が中古のスーパーカブを手に入れ、山を越えて50キロ離れた東の海を目指す。そんな彼に、同級生の帰国子女、カワサキに乗っているというオーストラリア生まれの笹森が話しかけてくる。二人は宇宙へ行きたいという夢を語り合う。朋有は一人カブで海を目指す。その昔大きな津波でたくさんの人が亡くなったという海岸へ。そこで鹿の親子と出会い、持っていたビスケットを与えると子鹿がそれを拾い、そしてふっといなくなった。戻った朋有は笹森にそのことを話す。野生動物に餌をあげるのはよくないと彼女は言う。でも二人で食べるビスケットは美味しかった。甘酸っぱい高校生のささやかなラブストーリーがバタフライ・エフェクトとなって大きな物語を紡ぎ出す。見事なストーリーテリングである。
溝渕久美子「プレーリードッグタウンの奇跡」。ここまでがいわば動物シリーズ。本作は作者いわく齧歯類SFで、これまたファーストコンタクトもの。とはいえ異星人がコンタクトするのは人類ではなく、北アメリカの草原に集団で壮大な巣穴〈タウン〉を作って暮らすリス科のプレーリードッグ。語り手はそのプレーリードッグのあたしだ。複雑な情報を圧縮した形で鳴き声として話し、コミュニケートするというプレーリードッグ。ここでも様々な長い文章「歩いている大きな茶色いコヨーテ」などにルビが一言「キャン」とだけあって、そのことを示している。これはうまいやり方だ。あたしのいるタウンにUFOが着陸し、グレイ型の異星人がやってくる。彼はテレパシーであたしとコミュニケートできた。この星に住む人間以外の重要な動物を調査しているのだと言う。人間のことはもういい。なにしろここはエリア51の近くなのだ。彼はタウンのみんなともなじむ。そして別れの冬が来るまで……。心和む楽しい「齧歯類SF」である。
新川帆立「刑事第一審訴訟事件記録玲和五年(わ)第四二七号」。全編が起訴状や捜査報告、調書といった文書で構成されている。死刑執行が公開され傍聴が出来るというもう一つの日本、玲和の日本での事件だ。殺人罪で死刑を宣告され、自分は無実だとずっと主張し続けた容疑者が処刑される。その公開処刑に容疑者の母と、被害者の妹が同席していた。容疑者の母は息子の無罪を信じ、被害者の妹は兄を殺した容疑者を激しく憎んでいる。そんな二人が言い争いになり、母は彼女に手を上げてケガをさせてしまう。物語はその傷害事件の裁判を巡って描かれるのだが、裁判で有罪が確定した殺人事件の真実を追うのではなく、無罪を信じる母の執念が物語の中心となる。結末にはドキリとさせられるが、殺人事件の真実を知りたいと思う心ははぐらかされるので、何か宙ぶらりんな気持ちが残ってしまう。
菅浩江「異世界転生してみたら」はなろう系やアニメでおなじみの、突然異世界に転生した現代人がその能力を異世界で発揮するという物語だが、ベテランの菅浩江が楽しんで書くとこうなるのね。現代日本では冴えない暮らしを送っていたオタク女の主人公が突然「なんちゃって中世ヨーロッパ」の世界へ転生する。言葉はわかる。というか彼女の(転生者の)この世界でのチート能力は人々の言葉や所作がいきなりわかることだった。職業や階級の違いによってはほとんど言葉が通じないこの世界で、それは通訳として活躍できることを示している。自分でマリーと名乗った彼女は、商人言葉、上流階級言葉を駆使し、この世界で成り上がっていく。やがて他にも現代日本からこの世界へ転生した者がいることを知り、彼らと出会うのだが、彼らは通訳仕事に飽きて美少女絵を描いて商売している男オタクだった。彼女はここでオタクの本性を発揮し、このつまらない制約の多い世界をもっと楽しめるものにしようと計画する……。そういう超前向きな積極性こそがなんちゃって中世ヨーロッパにおける本当のチート能力じゃないのかなと思う。
斜線堂有紀「ヒュブリスの船」はこれまた想像するだにおぞましい、イメージ喚起力のある物語だ。瀬戸内海を行く定員8名の小さな観光船で殺人事件が起こる。冒頭で探偵役の医師が犯人を指摘するが、その瞬間、24時間前に時間が戻ってしまう。ただし乗客8人だけは以前の記憶を残したままで……。時間ループものである。2度目のループでは最初に殺された被害者が「俺を殺しやがったな」とぶち切れて犯人に襲いかかる。その次には……。元々の事件の犯人はわかっているので謎解きは重要ではない。船を下りて警察に行っても時間がくればまた元に戻される。乗客同士の殺し殺されがループのたびに繰り返されるのだが、乗客8人以外に記憶が残る者はいないので、このループの原因も結果も8人の行動にあるはずだと医師は考える。物語はどうやってループを抜け出すのかという方向に進むのだが……。8人の中には殺されて当然の悪人もいれば医師のように殺人は絶対の悪だと思う善人もいる。ごく普通の人間が大多数だが、ループが繰り返されるうちに全員に狂気が忍び寄り、精神が荒廃していくさまが描かれる。殺し殺されの順列組合せの中に正解があるはずだと。その膨大な組合せ。何という救いのない閉塞感、絶望感。
藍銅ツバメ「ぬっぺっぽうに愛をこめて」をこの後に読むとほっとする。よく考えればこれもちょっと恐ろしい話なのだが、愛情と可愛らしさがあるので救われる。小学5年生の加漣(かれん)は謎の行商人から父の病気を指摘され、それを治すには彼が持つ白いふわふわした生き物が必要だと言われる。それを愛情を込めて育て、大きくなったらその肉を父に食べさせればいいのだと。代金はいらず、最後にその内臓をもらうだけでいいと言うのだ。加漣はその白いモコモコにモコという名をつけ、家の虫かごで育て始める。やがてモコには手足が生え、友だちに見せるとそれはぬっぺっぽうという妖怪だと言う。よちよちと歩きとても可愛い。夏休み、加漣は父と川遊びに行くが父の病状が急変する。ついにモコを食べさせる時が来たのだ。そして……。結末はおよそ想像がつくのだが、決してイヤな結末ではない。ただ父の描き方には少し違和感が残った。
短篇集『わたしたちが光の速さで進めないなら』の作者の長編SFである。大災害による人類滅亡の危機とその後の復興を扱っているが、中心にあるのは、そんな世界に生き、様々な悩みや苦しみ、心のすれ違いや人間たちの愚かさに直面しつつも、明日を信じて前向きに歩き続けた女性たちの物語である。とても細やかで愛情に満ちた視点からそんな彼女たちの日々の営み、他の人々や災害への対応、生き残ろうとする努力、愛と孤独を描きながら、さらに人々を襲った災害そのもの、世界や人類全体の未来をもしっかりと科学的な態度で描いた本格SFの傑作である。
21世紀中頃、突然世界をダストと呼ばれる増殖する赤い塵が覆った。動植物を問わず、多くの生物に死をもたらす毒性のある謎の塵。人々は都市をドームで覆い、危機を乗り切ろうとしたが、人間同士の争いも激しく、孤立したドーム都市は一つ一つ崩壊していった。一方ある程度ダストに耐性がある者もおり、ドームの外で集団を作って放浪したり、小規模なコロニーを築いたりしていた。だがそんな生き残った人々の小さなコロニーも、食糧不足、資源の取り合い、疑心暗鬼から互いに争い合うのだった。
本書はそんな混迷の時代、マレーシアにあった隠されたコロニーにドーム都市から逃げ出したアマラとナオミの姉妹がたどり着くところから始まる。フリムビレッジと名付けられたそのコロニーはダストの濃度が低く、ダスト以前の自然が一部ではあるが残っていた。村はずれにある閉ざされた温室にはレイチェルという名の謎めいた植物学者がいて、ダストに抵抗性のある植物を研究しているのだという。彼女と心を通わせることのできるのはただ一人、村のリーダーであり、この村のインフラやロボット、ドローンなどを修理できるすご腕女性エンジニアのジスだけだ。彼女は仲間と近隣の廃墟へ出かけていっては部品や使えるものを探して来る。アマラとナオミは村に受け入れられ、アマラは作物栽培に、耐性の強いナオミは侵入者を寄せ付けないためのドローンを使ったパトロールにも参加するようになる。平和で平穏な日々が戻ったかのようだったが、そんな日々にも終わりが来る……。
本書ではそれと並行して、22世紀初めの韓国、ダスト生態研究センターで働く女性科学者、アヨンの物語が語られる。ダスト禍は21世紀の終わりに研究者たちの努力によって一応の終息をみた。世界は復興したが、まだまだ傷跡は多く残っている。そんな時、廃墟となった街でモスバナという東南アジア原産のツタ植物の変種が異常発生し、近隣住民が困っているという情報があり、アヨンが調査にでかけることになる。そこで見たのは青く光るモスバナ。それはアヨンの幼いころの思い出を引き起こすものだった。遺伝子解析からこのモスバナは人為的に遺伝子操作されたものだとわかる。ネットワークの情報から、それに関わると思われる人の存在が仄めかされ、アヨンはアジスアベバで開かれるダストのシンポジウムに参加するためエチオピアへ飛び、そこで年老いたナオミと出会うのだ……。
本書の後半で、アマラとナオミのその後、レイチェルとジスのその後、そしてアヨンの過去とが結びつき、ダスト禍とその終焉の真実が明らかとなる。それは一握りの天才による活躍や自然の気まぐれなどではなく、多くの人々のささやかで絶え間のない努力の結果だった。それがついに破滅に打ち勝ったのだ。そこで描かれるレイチェルの秘密、そしてサイボーグとなった彼女とジスの軋轢と熱いシスターフッドがとりわけ心に染み入る。
温かく繊細な文章で描かれる人々の物語。だがそういう小さな物語とダストの真相や科学技術に関わる大きな物語がバランス良く描かれ、良質の本格SFとなっているのだ。
金沢在住の中国人作家によるSF短篇集。SFマガジンなどに掲載された作品と書き下ろしを含む8編が収録され、他にあとがきとSFマガジン編集長溝口力丸による解説がついている。作者はアニメやSFへの造詣が深く、基本的に軸足はミステリにあるようだが、特定のジャンルへのこだわりは少ないように思える。ここでもハードSFから純文学的な作品まで、幅広いグラデーションが見られるが、テーマ的には創作や物語を語るということの意味、歴史、ソフトウェア、言語の仕組みといったことに集中しているようだ。
「サンクチュアリ」は書き下ろし短編でイギリスが舞台。小説を書けなくなった流行作家グリンネルのゴーストライターとなった売れないファンタジー作家(わたし)が主人公だ。グリンネルの長大なファンタジーシリーズはわたしの書くファンタジーとは異なり、いかにも通俗的で血みどろなシーンが多いものだったが、わたしにはお金が必要だったのだ。シリーズの続きを書くにあたって、わたしはなぜ彼が自分で続きを書けなくなったのか知ろうとする。そこで出てくるのが「最善主義」だというのだが、この作品では「ユーディーモニズム」という言葉も使われていて、ネットでは「幸福主義」と訳されている。こちらの方が作品内容に近いように思う。何にしろ、本作ではそれがカルト化し、脳科学と結びついて独特な発展をしており、それが彼が書けなくなった理由と深く関わっていたのだ。作者あとがきによれば、元々はグレッグ・イーガンのような短編を書こうとしたが違うものになってしまったとのこと。なるほど。
「物語の歌い手」。これも書き下ろしの短編でSF味は少ない歴史ファンタジーだが、ぼくには大変面白かった。中世南フランスの吟遊詩人がテーマ。主人公は身分の高い貴族の娘で、修道院にいたが病にかかり15歳の時に両親のいる城へ戻る。本が好きで城にある本を読みふけっていたが、あるとき城を訪れた学僧と吟遊詩人に出会い、その影響でラテン語ではない俗な言葉の詩にも興味を持ち、侍女と変奏して城を抜け出し酒場へ行く。そこで歌っていた南フランスで最高と称される吟遊詩人の歌を聴き、それに魅せられたのだった。よその町へ去って行った彼を追って、彼女は彼のために作った吟遊詩人の服を着て侍女と共に城を抜け出す。かくて二人は詩人を追って南フランスを旅し、貴族の館に招かれては物語を歌う生活を続ける。他の吟遊詩人との歌比べや、男と思われて奥方に誘われたり、様々な体験をするが、この物語にほのかな幻想味を与えているのは謎めいた女祭司と出会い、吟遊詩人の秘密結社に入会してその聖典の挿絵から物語を紡ぎ出すところだ。それはミューズの霊感を思わせる。中世の南フランス(アルビジョア十字軍の後の時代と思われる)の情景が感情豊かに、リアルに描かれ、教養があり勇気もある男装の主人公がとても魅力的である。
「三つの演奏会用練習曲」は作者がよくわからない「文学」に挑戦したという作品で、言語と寓話をテーマに人類学や偽史を用いた3つの物語が描かれている。1つは近世のノルウェーで辻言詩(ケニンガル)と呼ばれた古くから伝わる暗喩だらけの詩文についての物語。表面的には何を書いているかわからない言葉の羅列だが、それぞれの単語はそれを展開していくことにより深い意味を繰り込まれている(とされる)。祭の日にその優劣を決める詩会が開かれるのだが――。2つ目はシャーラダー(カシミール)の女王国に生まれた二人の王女の物語。派手な姉は母の後を継いで女王となりしばし国を繁栄させたが謎の失踪を遂げ、寡黙な妹が即位する。そして姉のことを歌った詩歌を残らず破棄させ禁じたのだった。とりわけ姉の魅力を歌った『麗姫百頌(カニヤーシャタカ)』を書いた詩人は極刑に処せられた。だがその治世も長くは続かない。そして残されたものは――。3つ目はインド洋にある(参考文献にはアンダマン諸島の名前が見られる)島の、見習い巫女の物語。巫女は島の外へ航海に出て、他の島に伝わる神歌を持ち帰ってくるのだ。それを島の神歌に加えて暗唱するのである。持ち帰った神歌には聞いたことも見たこともない言葉が含まれている。〈雪〉とは一体何だろう。自分たちはただ暗唱し伝えていくだけで、それを知ることは決してないのかも知れない――。
「開かれた世界(オープンワールド)から有限宇宙へ」はゲーム開発会社が舞台の近未来小説。人気の高いスマホゲームの保守担当だった主人公の私は、T大理学部天文学科出身(中退だが)の経歴を買われて、社運をかけた新作ゲームのプロジェクトに参加することになる。プロジェクトリーダーの天才的ゲームクリエイター宮沼が彼を指名したのだ。その役割は、新作ゲームの、昼夜が12時間ごとに突然入れ替わるという世界観(ただしゲーム的必然ではなく、スマホの処理能力的限界によって生じる)にゲーマーが納得するような理屈をひねり出して欲しいというものだった。私は何とかそんな世界の科学的設定を考えようとする。ライフゲームの周期解として、科学性を離れるがこの世界の神々が天上で行うゲームとして、ホワイトホールからの発光現象として、だがどれも宮沼の納得するものではなく、却下される。そして新しいアイデアを思いつき、これが最後と提出するのだが――。ゲーム内の世界設定はいかにもSF的である。ただ物語そのものはお仕事小説であり、いわばメタSFといえるかも知れない。作者は「日常のSF」と呼んでいるが、それもいいかもと思う。
「インディアン・ロープ・トリックとヴァジュラナーガ」は『異常論文』で既読。インド人の魔術師が笛を吹くとロープがするすると蛇のように空に向かって直立し、魔術師はそれを登って消えるというマジックを、かつて生息していた特別な蛇を使ったものではないかと、過去の文献を掘り起こしつつ検証した論文という体裁の架空論文である。論文としての体裁は整っており、ワンアイデアではあるが面白い。ただし、そのアイデアが本当に可能なのかという実証性に欠けているので、それ以上は何ともいえない。すでにその蛇が存在しないものであっても、生物学的、力学的な検討はできたのではないだろうか。また論文では魔術を2つの要素に分けているが、2つ目については検討されていないのも気になる。いや、架空論文だからこのままで問題ないんですけどね。
「ハインリヒ・バナールの文学的肖像」も『時のきざはし 現代中華SF傑作選』で既読。こちらも架空論文っぽい形式で、20世紀初頭からナチスの時代を生きたハインリヒ・バナールというオーストリアの架空の医者・オペラ作家・小説家の評伝である。とにかく偉そうで、自意識過剰で、自分には才能がないくせに有名な同時代の音楽家や作家をこき下ろし、誰にも相手にされないものの、人脈はけっこう豊富なのでとても面倒くさい人物なのだ。この作品がSFアンソロジーに収録されるのは、その彼がナチスの時代にドイツのSF作家となって活躍(?)するからだ。戦時中に戦意高揚の翼賛SFを書いた作家は日本にもアメリカにもいる。ドイツにいてもおかしくない。ただ、バナールのSFが戦意高揚に役立ったかといえば、とてもそうは思えない。いかにもつまらなそうな物語なのである。この評伝の著者は、何でこんなつまらない作家に注目し、こんなにぼろくそにけなすような評伝を書いたのだろうか。どちらかというとそっちの方に興味がある。
「ガーンズバック変換」は悪名高い実在の「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」をテーマにして、それを極端化し、未成年にはあらゆるデジタル画面を見えなくするフィルター付きの眼鏡(それがガーンズバックという名前)を強制させられた未来の香川県の女子高生が主人公である。なお物語とは別に、ぼくはこの設定には違和感がある。日本国がディストピア化して全国の未成年にそれが強制されているのならわかる。だがなぜ香川県だけ。実際の条例も抑圧的だが罰則はなく本作の内容とは異なっている。それでも香川県という実名を出す必要があるのだろうか。香川県民がこれを読んだ時あまりいい感じはしないと思う。「香川県民?」という周囲の目が「福島県民?」と呼応して、分断や差別を生むように思えたのだ。それはともかくとして、物語としてはシスターフッド溢れる青春小説であり、現代的なサイバーパンクSFであり、アニメ「電脳コイル」への優れたオマージュであり、抑圧に対する強い思いが描かれた小説である。主人公の美優は香川から大阪へ移住した幼なじみの梨々花を尋ねて一人で大阪へ向かう。電車の中ではガーンズバック眼鏡をつけている彼女を「香川県民?」と好奇な目で見る客がいる。美優が大阪へ来たのは、ガーンズバックのレプリカ(見た目はそっくりだがフィルター機能がない)をブラックマーケットで入手するためだ。梨々花が連れて行ったのは路地裏の怪しげな店で、眼鏡屋の老女は「1つでいいの?」という。友だちにも買っていったらというのだ。いやあまさにサイバーパンクであり「電脳コイル」だ。美優と梨々花は大阪の街を歩き、香川から来た先輩とカラオケに行き、レプリカ眼鏡でネットの世界を体験する。しかしネットの世界はネットの世界でまた別の抑圧が存在するのだった――。それでも、彼女たちは未来を生きる。そのシスターフッドは力強く、美しい。青春だなあ。
「色のない緑」はアンソロジー『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』で既読。これが2019年に作者が初めて書いたSFだというが、今読んでも傑作である。主人公はロンドンで機械翻訳された小説の文章に手を入れ、おかしな表現を脚色するという仕事をしている私、ジュディ。ある日、グラマースクール時代からの親友、エマからもう一人の親友、モニカが亡くなったという報せを受ける。自殺だという。モニカは天才的な計算言語学者で長大な論文を書き上げたばかりだったが、その論文が学会から却下されていたのだ。論文を却下したのは人間ではなくAIだという。どこが間違いだとAIは判断したのか。それは人間には分からない。論文審査のAIの判定基準は人間にはブラックボックスなのだ。エマは自身が人工知能の研究者で、テキストでパラメータを与えると最適な視覚効果をもつ仮想空間を生みだす〈パンテア〉システムの開発者である。エマには学会のやり方が納得できない。ジュディはエマとともにモニカの葬式に向かいつつ、彼女の自殺の真相を知ろうと動き始める。三人の学生時代と現在とが交互に語られ、モニカの死の真相を追っていく。物語はその過程で、人間とAIの違い、AIによって奪われる職業、人間が知的判断をAIに委ねてもいいのかといった、極めて現代的で現実的な問題に迫っていく。これらはまさに生成AIが現れた今問うべき問題だといっていい。〈パンテア〉なんて今の画像生成AIそのもののように見える。タイトルでもある「色のない緑」とは言語学者のチョムスキーが作った有名な文章で、文法的には正しいが意味のない(論理的に矛盾のある)文だ。しかし論理的に意味がなくても、人間にはそれで通じるものがあるのではと二人は考える。正しい文脈さえ与えれば、表面的には意味がないように見えても理解できる文になる。二人はチョムスキーの文が意味を持つような文脈、背景を考えるというゲームをする。この辺り「三つの演奏会用練習曲」に出てくる「辻言詩」と通じるものがあるように思える。試しにChatGPTにチョムスキーの文を与えてみたら、チョムスキーが考えた文法的に正しいが意味を持たない文だというようなつまらない答えしか返ってこなかった。エマやジュディよりも考えが浅く、頭が良くないですね。二人はモニカが購入した液体ハードディスクに目をつけるが――。フラットPC、コロナ禍を思わせるインフルエンザの流行、その他にも様々な現代SF的な要素がからみあい、知的な議論が繰り返され、そして最後のひと言でエモーショナルな高まりが深い余韻を残す。百合SFかどうかはぼくにはわからないが、三人の女性の深い絆と強い精神的な関係性が印象的な、人工知能ハード本格言語SFである。